[June ’17] イアン・チェン – Emissariesについて

AIを駆使した自己生成的な映像作品でセンセーショナルにアート界の表舞台に躍り出たイアン・チェンが、2015年以来三部作として制作してきた『Emissaries(使者)』がついに完成を迎え、現在、ニューヨークのMoMA PS1にて9月25日まで展示されている。


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会場では、展覧会が始まった4月から2ヶ月ごとに三部作が順を追って展示され、メインフロアの壁を覆う10フィート高のプロジェクションには、AIが複数の設定をもとにゲームのエンジンを利用して自動的にシミュレーションを行い、「極小のランドスケープのポートレート」を映像としてアウトプットする仕組みになっている。タイトルに起用されている”Emissary”というのは、その世界を生きるエージェント=キャラクターを指し、シミュレーション世界内の住人であり主体である。

三部作は、三つの互いに独立した物語が隔世的に存在するエージェントに委ねられ、それぞれが現在進行的に、意識の発達、過去、未来の三つの時代設定において生成し、それぞれの物語の重要な瞬間のモデルが描かれていく。

それぞれの物語の中で、Emissary=使者は、旧い現実とこれから起きる奇妙な現実の間にとらわれながら、あらかじめ決定論に基づいたナラティブのゴールを目指して行動するが、その間に、逸れたり、遅らせられたり、邪魔されたりする。非・物語、つまりシミュレーションのエージェントが介入し、使者をイラつかせるのだ。

 

自身のHPに掲載されているアーティスト・ステートメントからは、チェンが作品制作にサプライズとも呼べる要素を狙って、プログラミングの設定を二項対立のモデルに落とし込んでいることが読み取れる。つまり、物語を予定調和的に決定づける物語設定と、反対にその物語を攻撃し続けるような、シミュレーションのダイナミクスをぶつけることである。[1] 物語は、伝統的な決定論から自由になり、シミュレーション自体も、内世界のフィクションを意識し、向きあい、対応することで、シミュレーション側の世界でいかに行動するかが決まるのである。チェンは、「ストーリーがエージェントを形作り、エージェントが世界を形作り、そして再び世界が他を形作る。私はこのナラティブのエージェントをエミッサリー(使者)と呼んでいる。」

2015年に制作された第一部「「Squat of Gods」(神の排泄物)では、二つのスクリーンが表示されていて、左の画面には人類に意識が生まれる前の状態で生きており、存在に関わる危機と直面し対応している。もう片方、右側の画面には、一人のEmissary=使者に焦点が当てられ、彼(彼女)が意識を生じさせるまでの探求を追った物語が設定されている。アーティストの言葉を使えば、一つはビデオゲームでもう一つはスマートな(高尚な)物語となる。


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ここでチェンは、初めにAIにBicameral(二元的な)マインドを設定し、前意識にある人間がストレスフルな状況に立つと、その個体は、親や権力者や神といった上位概念の言葉を幻聴し、服従することをさせている。やがてより発達した文明にあっては、意識が浮上し、隠喩的な言語を発明し物語制作という実践をオルタナティヴなエージェントとして用意することになる。

続く2016年の第二部『 Emissary Forks at Perfection(使者は完全を目指し分岐する)』では、人の意識が、現在を基礎としながらも、感情を過去と未来に向けて投棄し、例えば、恐怖がこうした時間軸に向けて引き延ばされると不安神経症に陥ることに触れている。そこではForkingという方法論が導入され、意識が何かしらの確執と向き合うとき、それは枝のように分岐して自己を複製し、片方が不安に駆られて行動ができないとき、もう片方はよりリスキーではあるがより自由に解決策を模索することができる状況がシミュレートされている。

具体的には、数千年未来の話とされている。火山はAIにマネージされた、ダーウィンの進化論に基づいた豊かなプレイグラウンドと化している。人類がかつて存在したであろう世界の事後検証にあたり、AIはこの不可知の世界に21世紀の人類の一人を復活させ、一匹の柴犬を神の使者として送り、ストレス下の人間の最後の一面を抽出しようと試みるシミュレーションである。

そこでは、隔世遺伝の人間と、決定論に基づいた意識を得るまでのストーリーとの摩擦があり、お互いがお互いに対して不安定化もしくは変異させる恐れが存在する。そして、作品内では、復活させられた人間や柴犬は、まさにおぞましい姿のミュータントに変容してしまうのである。


©MoMA

 

チェンは、「現実というものは、それを信じることをやめても存在するもの」であるとフィリップ・K・ディックを引用し、反対に、シミュレーションは物語が消失しても、止まることがないものであると言う。[2]チェンは、私たちは日常的に天気予報や選挙結果のシミュレーション、宇宙の原因やギャンブルの予測など、人間にとっては、理路整然と物語化するには要素が複雑すぎるという。翻って言えば、シミュレーションを当たり前のものとして消費する私たちにとっては、チェンの作品は、本来であれば不可知であり信憑性の薄い、つまり一回性やいまここ性のない対象の不在をあぶり出し、人間はそこに物語性を差し込むことで、不条理を解決したり、かろうじて「あえて」信じえたりする「欲望」を可能にしていると言えないだろうか。

ここでチェンが実践しているのは、「象徴的同一化の想像的シミュレーション」[3](東浩紀)であろう。私たちはポストモダン的な視覚的無意識が発現されている瞬間に立ち会っている。それはベンヤミンが認めた事柄で、AIたる新たなメディウムを目前にし、私たちの知覚は深化され、「不鮮明に見えていたものを単に鮮明なものにするのではなく、むしろ物質のまったく新しい構造をあらわにする。」これはクラウスの写真論に有名なインデックス性にも近似した概念である。新たなデバイスは、私たちに新たな—-あるいは知りたくなかった—-リアリティを現前させた。チェンの作品を通じて、神の視線を得た私たちスペクテーターは、AIによってシミュレートされる生のむき出しな暴力性、前意識の人間と動物性の表裏一体性、さらには管理の審級とも呼ぶべきサイバネティクス=操舵手の存在を想起させている。

2017年の三部作の最後「Emissary Sunsets the Self」では、チェンは人間の進化、人類の意識、混沌状況への対応といったタイムレスな問いかけへの思索を締めくくるという。神の声(第一部)、神の使い(第二部)ときて、第三部はドローン(生殖)の概念を用いて、AI自らに生命体との関わりの権利が与えられ、生命体の感覚的な体験を享受し、生命体の神経野をコントロールし、様々なレイヤーで生命を体験できるように設計されている。

 

ここでフランスの格言「君臨すれども統治せず」が思い起こされる。チェンは、映画マトリックスでいう建築家(アーキテクト)として君臨するが、主体となる統治者は統治せず、隷属され、弄ばれるのみである。AIをマザーコンピュータのように管理人に据えることもあれば、イエス・キリストのように、生命体と関わりをもつこともあるのだ。チェンは、自らのシミュレーションの機構に、「大きな物語」(大文字の他者)に代わるプログラムを、つまり歴史性の塗り替えという意味でのポストモダンな物語を、シミュレーションによって完全に再現できると盲信している—-よく言えば生真面目に行っている。

そのため、チェンの作品の表象を直視してみれば、イメージそのものは淡白で装飾をなるべく削ぎ落とされたような、普遍性にも似た感覚を抱くだろう。それは、ある特定の一人称視点のゲームの連想をできるだけ拒絶し、これまで私たちが目にしてきたゲームという商業(もしくは軍事)デバイスに対する社会・政治学的に批評をすることや、シミュレーションが作り出すかもしれない「社会」はもとより、人種、宗教、歴史性といったノイズを介入させない。

そういう意味では、明らかにイアン・チェンはフォーマリスティックな—-表現主義的でモダニストな—-アーティストであり、純粋にプログラミングやシミュレーションのコンピュータ言語をツールとして、メディウムとして用いている。しかし、まるで抽象表現主義の高尚なマニフェストが瓦解していくのと似たように、チェンの作品においても、モチーフの設定に極めて恣意的な操作が見られてしまうのだ。

チェンは、とあるインタビューで、世界設定の背景のインスピレーションにはスタジオ・ジブリの宮崎駿のアンビギュアスで打ちひしがれたような背景を採用していると述べている。そして、宮崎が描く、善悪といった二項対立ではない世界を望んでいると。そして私たちは、チェンがトリロジー第二部のEmissary=使者に柴犬を採用しているのを見て、なぜ日本といった極めて固有な要素が現前するのか、と直感的に違和感を覚えたはずである。

すると「おぞましい他者」が垣間見えてくる。突然、ピュアに見えたシミュレーションとAI、そして作者の所在が汚染され、地政学や表象文化論のカテゴリーが侵入してくる。そこに現れるおぞましい他者とは、私たち日本人である。80年代生まれでニンテンドーやアニメを見て育ってきた世代のチェンの中には、すでに当然のこととして当時の日本のサブカルチャーやゲームはプリミティブなものとして先天的に備わっているのではないだろうか。それは、私たち日本人の大文字の歴史から独り立ちをし、コンテクストから分断された状態で消費・再生成され、今、改めて自己生成された表象として私たちに再度降り注いでいるのだ。この不気味な感覚こそが、チェンが隔世的にエージェントを分断しつつ、大きな物語で三部作を繋ぎとめようとする操作の片鱗が体験されている瞬間であるとするならば、作品は急にリアリティを増してくる。いずれにせよ、こうして、フォーマルなフレームワークにモチーフのほころびが生じる瞬間、作家性の痕跡の賞賛と共に、私たちは表象文化論・地政学なテキストに遡行し、とたんにイアン・チェンの、アジアン・アメリカンたるアーティストとしての存在論的な言説がどうしても顔を覗かせてきてしまうのである。


[1] http://iancheng.com/ はじめのページの5.を意訳。
[2] http://iancheng.com/ はじめのページの2.より。
[3] 東浩紀『情報環境論集』pp.268-270, 2007.