[Dec. ’17]【論考】坂本龍一 with 高谷史郎|設置音楽2 IS YOUR TIME —-二つの“YOUR”に寄せて—-

2017年春にワタリウム美術館で開催された「async 設置音楽展」からおよそ半年。坂本龍一はサウンドとヴィジュアルをコラボレーションさせて展示空間に設置する方法論を設置音楽と呼び、今回、初台のICCインターコミュニケーション・センターにおいて、セカンド・カミングを果たした。本稿では、坂本龍一と高谷史郎が東日本大震災を被災したグランドピアノをきっかけとしながらも、いかに美的表現によって開かれた自然の律動を感じさせ、また、人と自然との純粋な共生系を想像させうる「大聖堂」を築き上げているかを考えてみたい。なお、本企画展は2018年3月11日(日)まで開催中である。


筆者撮影

 

展示場をくまなく暗闇に染め上げた空間には、入り口側手前から奥に向かって、四方をワイヤーケーブルに囲われ床から天井までのあいだの約3mの位置に持ち上げられたLEDスクリーンとスピーカーのセットが、左右に5基ずつ設置されている。会場全体では、入り口を入ってすぐ両脇の壁に2基、対面となる展示場の最奥の壁にも同じ型のスピーカーが2基、中央左寄りの床にレトロなラジオ型が1基、奥のグランドピアノの下に2基の、計17基のスピーカーが備え付けられている。お互い向き合うように左右に設置された5対のスピーカーと手前と奥の2対のスピーカー、そしてラジオ型のスピーカーは5.1chサラウンド・システムを編成し、『async』の音を響かせている。それは、ホワイトノイズのような音、ハウリングのような音、ソナー音のようなもの、自然界の枝葉や、風、水流の音など、電子音と自然音の境界を行ったり来たりするような極めて抽象的な音の連鎖である。

展示場の最奥では、天井から降り注ぐスポットライトが一台のグランドピアノをぼんやりと照らし出している。ピアノの下のスピーカーは、途切れ途切れに弾かれるピアノの音をリアルタイムに拡張して響かせている。

このピアノは東日本大震災を被災している。坂本は、津波で被災した宮城県名取市の宮城県農業高等学校のピアノに出会い、引き取った。落ちて鳴らなくなった鍵盤、大きくずれたままの調律、塩水に浸かった哀れな姿に、坂本は音楽の死を感じたという。しかし坂本はあえて修復はせずに、ピアノは自然によって調律されたのだと考え、音楽の再生を試みた。

ピアノには楽譜も演奏家も不在だ。ピアノの鍵盤の頭上には張り出し棚が備え付けられていて、そこから一本一本、鍵盤の上に金属の棒が下りてきている。それらはシステムと連動し、信号が送られると、金属棒が鍵盤を押し付け、調律されていないピアノが不安定な音を鳴らす。ピアノ線が切れている時には、鍵盤は押されて軋む音のみを発している。システムは世界各地の地震のデータを収集し、リアルタイムでアーティストたちが設定したルールに合わせて数値化し、どの鍵盤を—-音階、どれくらいの音の長さで—-音符、どれくらいの強弱で打つかなどの指示へと抽象化している。

そして、漆黒の空間の左右の壁に沿って高い位置に持ち上げられたLEDモニタでは、音響のデータはシステムと連動し、非同期的にLEDの発光信号に置き換えられて、白地に黒や、黒地に白といった光の粒のイメージへと可視化されている。その印象は、ランダムなデジタル・ノイズのようだったり、雲のようなものだったり、ブラウン管テレビの砂嵐のようだったりと多様な表情を見せてはいるが、イメージのバリエーションは比較的ミニマルだと言える。これらのモニタは独立的に明度を増したり減らしたりしているようで、ピアノが奏でる音とも非シンクロ的であるため、背景に張り付けられた『async』の音楽の介在が立体感を作りながらも、それぞれが不気味な存在感を高めている。調律されることなく、震災の傷跡が生々しい自然の物体と化したピアノが発する音は、ふだん私たちが聞き慣れた整然とした音階とは異質の印象を与えていて、むしろ、いまこの瞬間の儚さと破壊や死との距離感の近さを直感させる魔力を備えている。

筆者撮影

 

もちろんのこと、ライブや5.1チャンネルとの親和性が高いのだから当然のように思われるかもしれないが、端的にいえば本作は別の意味でシアトリカルだ。地震研究の専門家のおかげで、ピアノの演奏とモニタの稼働のきっかけとなるものは、不可視かつ不感知なものではあるが、ヴァーチャルにとどまらず実際に起きているアクチュアルな地震とされている。しかし、リアルタイムでアクチュアルなものであっても、展覧会に外在する世界において発生している地震のデータは—-すなわち大地鳴動の抽象化—-は自律しており、観者の居場所から著しく遠ざかっている。

すると、こうした作品のシアトリカル=自律的な性格にあって、展示空間でアンビエントに流れる『async』のポジションが気にならないだろうか。少し遡るが、坂本龍一と高谷史郎は21世紀への転換期に、20世紀のまとめとした位置づけと音響空間の創造といったコンセプトを内包したオペラ『LIFE』(1999)、そしてインスタレーションとしての『LIFE – fluid, invisible, inaudible…』(2007)を展開してきた。作品の内容は割愛させていただくが、これらは純粋に20世紀の音楽的・芸術的なハイライトを二人のアーティストのフィルターを通じて再構築した、歴史の編集力と主体性が光った作品だったといえる。

注目すべきは、作品の後半が歴史的なまとめから空間的なものへと変化することだ。’87年から坂本はアルバム『ネオ・ジオ』で、エレクトリック音楽に沖縄やバリの伝統音楽などヴァナキュラーな要素をミックスして話題をさらったわけだが、『LIFE』では民族音楽など土着的ではあるが人工的なものに加えて、自然の音も多く採用され、リニアな歴史のまとめ=終焉とともに、今度は地球そのものをある種の他者として捉える動きがあった。インスタレーションではヴィジュアルの装置が追加されたこともあり、「fluid, invisible, inaudible…」が指し示すように、流動的で、不可視で、不可聴なものへと志向の対象が広がり、よりオープンで自然=他者への開かれを予期できるものであった。

すなわち、坂本は『async』を自らの「声」として、自然という他者との関係律にめがけて、自然とのダイアローグの場を作り上げているように思われる。こうしてみると、今回のインスタレーションのタイトルの“YOUR”は、自然という他者性に向けて、(IT) IS YOUR TIME(あなたの番)と呼びかけているように思えてこないだろうか。これが、一つ目の“YOUR”である。

自然とピアノ(モノ)の関係

展覧会の冊子に掲載された「展覧会に寄せて」において、坂本は東日本震災を被ったピアノについて、「もとはモノだったものが、人によって変形され、時間とともに、あるいは巨大な自然の力によってまたモノに還っていく」と述べている。坂本は続けて、「都市もそうだ。都市の素材も鉄、ガラス、コンクリートなど、もとはみな自然のモノ。それらを人は惑星各地から集積し、あたかも彫刻のように形を与えていく。しかしそれも時間の経過とともに、モノに還っていく。自分が住んでいるマンハッタンを見ていて、以前からそう思えて仕方なかった。これは単なる個人の妄想ではないんだと最近は思うようになった」と話す。つまり今回のピアノは、坂本にとっての都市や現代社会と、自然=他者との関係性を描き出す支持体と捉えることができる。

坂本は東日本大震災の被災地に赴き、変わり果てたピアノと遭遇し、そして「音楽」の終焉を感じたという。ここでいう「音楽」とは、近代の十二音技法にはじまる音楽理論にはびこった形式的・権威的な人工物の結晶にほかならない。ピアノは近代の偶像崇拝の決定的な象徴の一つである。

どういうことか。ピアノはもともと自然界から「前景に抽出された(Pro-duced)」ものだ。ギリシア語のテクネ―(techne)はアートという意味だが、大工のようなもので、例えば木があったとしたら、そうした形のないものをフォルム(form)に変えていくことを意味する。木にピアノの概念をin-formする—-情報化=形づける—-とき、木という自然のモノは人工物へと変貌を遂げ、音という、元は純粋で流動的なものが、音階という、音楽史や調律といった支配的な制度に隷属したものへと様変わりしてしまう。こうした抽象のすべては、文化と呼ばれる。

すなわちピアノは、文化の、そして近代の象徴である。近代とは、人間をして世界を抽象させ、把捉可能な領域に据え置くことの総称といえる。抽象能力は、イメージを基礎とした想像力が原動力だ。イメージは極めてクリティカルな表象だ。イメージは、空間と時間など「外にあるもの」を、抽象して把捉可能なものとする役割を持つ。こうして空間と時間から表象を抽象し、再び空間と時間にめがけて投影するスペシフィックな能力が、想像力と呼ばれる。この能力こそ、イメージの作成と解読するための前提とされる。つまり現象を記号化して、それを平面のシンボルによって表し、読み取ることである。

イメージは世界と人間との仲介役である。しかし、イメージが手助けになる瞬間に、それは人間と世界の間で姿を変えてしまう。イメージは世界のマップだったり世界の表象であったりするはずが、スクリーンに様変わりしてしまうのだ。イメージがスクリーンへと変化すれば、人間とその生活は、自らが作ったスクリーンの機能の一部へと退行してしまう。人間はイメージを解読することを辞め、暗号がかけられたまま、イメージを「外にある」世界へと投影し、それが再び、ある光景の文脈や、事物の状態を表すイメージの「ようなもの」になる。こうしたイメージからスクリーンへの「転回」のことを、「偶像崇拝(idolatry)」のはじまりと呼ぼう。

このプロセスは、私たちの五感の拡張たるピアノが自然を抽象し、イメージとして—-音響や楽曲として—-再構成し、それをもう一度自然に向けて投射する装置であったはずが、文化の偶像と化し、私たちから自然との関りを剥奪してしまったことを示唆していないだろうか。

ピアノを含むすべての楽器は、リニアな歴史に飼いならされ、整えられ、そして想像力や音感を「定型化」して拡張する装置として世界に広く普及してきた。ピアノは、自然に潜在的にある音を整え、不自然なかたちの音階として形作り(in-form)、文化を紡ぎだす。楽器など装置は人間の能力の延長であり、拡張である。それらは自然の摂理をごまかし、自然の法則を戦略的に搾取することによって、自然の状況に苛まれる人間の暗闇に光を当て、人間を解放させ、人間を自然の恐怖から逃避させる。しかし、こうした文化がイメージからスクリーンへと—-つまり表現から商品へと—-偶像化してゆけば、人は新たに自然を想像し、抽象し、投影することをやめ、自らのスクリーン—-例えば、広告、SNS、話題、流行etc.—-の無限のループの迷い人になってしまわないだろうか。坂本がピアノをきっかけとして、自然のモノが人工物となり再び自然に還ってゆくことに潔さのようなものを感じたとしたら、私たちは『IS YOUR TIME』を通じて、近代の遺産にまみれた現代社会に抱く印象に似たものを感じられたのではないだろうか。

シアター—-参加が生み出す“YOUR”

『IS YOUR TIME』には、もう一つの“YOUR”が存在していると考えられる。 私たちは、いかにして自然と向き合うべきなのか。繰り返しになるが、世界は端的に人間がアクセスできるものではなく、それゆえに人は世界を抽象し、イメージを生み出し、世界を把捉してきた。

例えば、12月8日にICCで行われた内覧会では、写真の撮影が許可されていた。主催者側としては、当然インスタグラムなどSNSによる来場者の呼び込みが期待できる。スマートフォンから拡散されるテクニカルな画像は、私たちの現実を分裂させ再構成し、コレクティヴに世界的なイメージのシナリオを作り出し、場合によっては実際に体験せずとも似たようなことは経験できることもあるだろう。しかし、『IS YOUR TIME』に限っていえば、会場の広大さに加えて明度や音響の遍在といった展示の構造上、全体を抽象して、単なるスクリーンにフラット化して発信することは難しい。

同じくICCで展示された2007年のインスタレーションの『LIFE』※と比べてみれば、『IS YOUR TIME』は、展示場のほとんどを占める中央部分に空っぽの空間が広がっている。展示の要素となるピアノ、スピーカーとモニタなどは壁に沿う形で、空間の心理的境界線を設定するかのように、来場者をとり囲んでいる。とりわけ左右の壁に並ぶ5対のスピーカーは、お互いに向き合っているため擬人的な存在感を増してきて、非同期的なところがかえって対話をしているかのように思わせる。こうした要素を切り取ってみれば、本作には、先に述べた美学的に言うところのシアトリカル=自律的な様相が一変し、むしろ来場者たちを主体とするステージあるいはシアターとしての場が立ち上がってくる。

筆者撮影

 

オペラとインスタレーションの形式をとった一連の『LIFE』に寄せて、2010年にNTT出版から刊行された『LIFE – TEXT』に載録されている、坂本龍一x高谷史郎x浅田彰の三者対談(「DOCUMENT LIFE」朝日新聞社(1999)の再録)によれば、坂本はローリー・アンダーソンの70年代以降の「シアター・ピース」に注目していたところがあるという。当時アンダーソンは、映像、センサー、改造したバイオリンなどを使い、多元的なパフォーマンスを行っている。坂本にとっても、オペラとは19世紀型の近代のフォーマットではなく、マルチメディア・パフォーマンスとして、音楽、詩の朗読、映像が多元的に組み合わさった共生系として捉えることを意味していた。

このことは、坂本が本作においてもスクリーンほか表層的なものには回収されない、シアターとしてのあり方で開けた状態に保とうとしていることを充分想像させてくれる。懸念されるとすれば、本作が東日本大震災の自然力への畏敬の念に端を発していること、そして会期が3月11日までという偶然にしては良くできすぎたシナリオも相まって、つまり、もしかすると、本作は3.11の歴史的なポイントに向けられた記念碑的な立ち位置を免れない可能性がある。

70年代以降のランドアートを引き合いに出してみると、サイトスペシフィックな作品がまず向き合わなければならないのは、サイトにおけるモニュメント性である。モニュメントとは、例えばバチカンのサン・ピエトロ大聖堂にあるミケランジェロの『Pieta』のように彫像か碑の形態をとり、潜在的で、象徴的なものに代表されるが、決定的なのは、そのほとんどが現場と直接的にリンクしていることである。つまり、モニュメントは、文字通り「記念」であり、歴史上のモーメントへの回顧をうながす接点だ。

だが坂本は、スペシフィックなロケーションに癒着する単なる記念碑的なモニュメントに陥る危うさを回避し、むしろはるかに超越して、自然すべてを網羅する、大聖堂(カテドラル)を築き上げたのではないだろうか。大聖堂とは、地母神崇拝を基礎とする原始的な信仰に沿うように、自然に繰り返し実践されている再生復活を象徴する、森の姿を抽象して築かれたものである。坂本は、左右に5対のスピーカーとモニタのセットを石柱のように「林立」させ、奥の祭壇に当たる箇所に、自然への回帰を果たしたグランドピアノを設置している。大聖堂は、都市部の生活において、より多くの人々の多様な民族性や価値観を平等に束ねることができる共生の空間として存在した。そこでは、人々は救済を乞いながらも、自然が物を破壊する絶対的な力によって、日常の精神の一体性が破壊されることをも欲していた。なぜならこうした一人一人の精神の外殻が壊されれば、人々の間に深い共同性が実現され、自然との律動と重なることができるからである。1  坂本のグランドピアノが自然の破壊力の一つである地震のデータを世界中から集積し、ここICCの大聖堂で音として響かせることにはこうした意義がある。

少し遡るが、インスタレーションの『LIFE』にて、ローリー・アンダーソンは『THE DREAM BEFORE』と題された詩で、下記のように綴っていることが強く思い起こされる。「天使は過去に遡り、以前に壊れてしまったものを修復して元通りにもどしたいと思っている。でも、たえず天国から嵐が吹き荒れて。その嵐のおかけでいつも天使は未来へと吹き飛ばされてしまう。この嵐のことは。この嵐は。進歩と呼ばれているのさ。」こうした進歩的な共同性は、同じ展示作品で、ベルナルド・ベルトルッチが『Salvation』という詩で「救いなどないことを発見することこそが救いなのだ」と述べていたことにも同期してゆく。

こうした自然の抽象に満ちたシアターとしての大聖堂において、人間が参加し自然と対話する際の“YOUR”は、今度は自然から人へと向けられている。グランドピアノが奏でる地震の代替音は、それぞれが世界の片隅から、私たちのいるシアターに参加者として集まってきている。私たちはそこで物理的な音を感知するだけではなく、自然の律動を想像し、遥か遠方に思いを馳せて、世界と渡り合い、そして自然と私たちの対話のあいだに真の音楽を感覚できる場を描き出している。リニアな歴史観ではなく、様々に姿を変え遍在するノン・リニアなものを、多様性を容認すること。自然をあるがままに受け入れ、それをよしとすること。これが、現代のアクティヴィズムの本質ではないだろうか。

思えば今年2017年は、ロシア革命(十月革命)から100周年にあたる節目の年である。現在の参加型アートの原点とも言えるのは、1910年の未来派によるパフォーマンス作品『Futurist Serata』であった。そこでは、ステージの演者は単なる一つの要素でしか過ぎず、会場からのイメージ投影やライブ・ペインティング、来場者の参加によって有機的にパフォーマンスが進行するという、相互参加的で開かれたものだった。

このトレンドはロシア革命でも踏襲された。踏襲されたというよりは、すでに当時は、政治的な記事・詩・論争術といった常套手段は効力が薄いという共同理解があったため、参加によるパフォーマンスこそが政治を主導できると信じられていたのだ。したがってロシア革命直後の数年にわたって、いかに革命を「生きられた記憶」として存続させるかという命題に対して、ボリシェヴィキはいくつもの企画を用意し、そこに革命を知らない世代がパフォーマーとして革命志士の役割を演じる「再現」(Re-Enactment)が誕生したのである。こうした参加性は、シアターからパレード、そしてパジェントなどへと移り変わりアクティヴィズムの代表格を担ってゆく。

とりわけ近代やブルジョアに対する革命の精神を代表するものの中でも、指揮者無しのオーケストラは衝撃的だったと言われる。1920年にロシア・アヴァンギャルドのアブラーモフが行った『Hooter Symphonies』は、近代の音楽文化の象徴である12音階を破壊するための第一のアクションに、ブルジョア音楽の代名詞であるピアノの破壊に踏み切った。坂本龍一が自然の中に見出した破壊されたままのピアノと、彼が現代の都市空間に抱く違和感のようなものが、およそ100年前の時代の精神とリンクして、いま、私たちの目の前で、リアルタイムに革命を起こしているのかもしれないと思うと、ことのほかロマンチックである。

1.酒井健『ゴシックとは何か』pp.34 ~ 44, 2000.
※『LIFE』(2007):広く暗いスペースに1200mm x 1200mmのアクリルの水槽3×3個が吊られている。それぞれの水槽には8個の超音波発振器が装備され、コンピュータ制御によって霧を発生させる。空に浮かぶ雲のように姿を変える霧と水の上に、上方から映像が投影される。観者は空の雲を眺めるように映像を眺める。