[Critique] レビュー:「水と土の芸術祭 2018」大かま:メイン会場 (July, 2018)

 
1. New Lagoon (新たな潟)

 2018年7月14日、新潟市が主催する「水と土の芸術祭 2018」がオープンを迎えた。2009年以来、第四回目を数える本展は、新潟開港150周年に合わせて、「メガ・ブリッジ––つなぐ新潟、日本に世界に––」というテーマを掲げている。

 芸術祭の根幹を成す「水」と「土」のキーワードは、まず一つに新潟港が日本海側で随一の広域国際物流拠点としての機能を有すること、そして新潟市から日本海に注ぐ信濃川と阿賀野川の水域領域が、それぞれ日本3位、8位と上位にあり、合わせると日本海側で最も多い水量を誇ること、さらに、これらの水系によって生み出された日本海側最大の平野が越後平野であることに由来する。

 新潟という名称自体も、諸説あるものの、信濃川と阿賀野川が生み出した広大なデルタ地帯に生じたいくつもの「潟」、つまりラグーンの一つとしての名称に端を発しているようだ。新潟市の日本海側には下越の村上市まで続く70kmもの砂丘がある。これは、もともと河口から海に流れ出た土砂が海岸に堆積し、さらに大陸側から吹き込む季節風によって内陸側に飛ばされて生じた丘である。この丘がつまり新潟市の土地を形成し、水を堰き止めて潟や湿地の発生を手助けしたことで、これを干拓することで、人々は広域に及ぶ水田を作り出すことができた。

 こうして新潟市を包む豊かな自然は、農業・漁業・流通を支える好条件ではあるものの、反対に、自然をいかに制御するかという大きな課題も孕まれており、歴史的には、数多くのせめぎ合いを経て、人と自然の間にダイアローグが生まれてきた。「水」と「土」は自然の恵みでありながらも、時には人を脅かす災いとなることもある。

 付け加えるとすれば、「水と土の芸術祭」は、初回から「私たちはどこから来て、どこへ行くのか 〜 新潟の水と土から、過去と現在を見つめ、未来を考える 〜」という理念を元に設計されている。まとめてみると、1.水と土のセット、2.過去・現在から未来へ、そして、3.新潟と世界をブリッジすることが、絶対的ではないものの、キュレーション側の要望としてアーティストたちに課されていることになる。

 

2. ヒューマン・ヒストリー (Human History)

 メイン会場は「大かま」と呼ばれる「大きな」「かまぼこ」の形をした建物で、かつては水産物の荷捌き場として使われていたものが、2018年から多目的な公共施設に様変わりしている。

 会場に入るとまず目に飛び込んでくるのが、タイ王国チェンマイ出身のナウィン・ラワンチャイクンの巨大な絵画『四季の便り』である。


 Navin Rawanchaikul, “A Letter of Four Seasons”(2018) 筆者撮影

 ナウィンは自らをキャラクター化し作品内に登場させるボリウッドさながらの映画ビルボードやコミック、そしてFRPを使った立体作品などでタイにおけるポップ・アートの先駆者的な一面を持ちながら、消費社会を批評的に切り取るアプロプリエーションの表現も行う作家である。転機は2009年に訪れた。ナウィンはタイ族のほか、中華系、インド系移民の共存するチェンマイのワロロット市場に実父の生地屋を持つ。1947年にパンジャーブ地方はインドから分離されパキスタンの一部になるのだが、パキスタンはイスラム教国であるため、ヒンドゥー教の信者たちは国外への亡命を余儀なくされるケースが多かった。ナウィンの先祖も同様に、タイへの移民となったわけだ。

 そして2009年、ナウィンは先祖のルーツであるパキスタンのパンジャーブ地方を訪問し、『Places of Rebirth』という大作の絵画を制作した。そこでは、ナウィンの両親や先祖の肖像にはじまり、当時のパンジャーブ地方の様子や現在の状況がセピア色とカラーで描き分けられ、歴史と人物の系譜が圧縮されている。

 この頃からナウィンはコミッション・ワークを主とし、固有の土地・歴史・人物のエピソードを事細かく取材し、時間をかけて編集し、平面に視覚的な文法を用いて再構成してから、チェンマイのアトリエに抱える10人程度のペインティング・スタッフに描かせている。

 今回の『四季の便り』も例に漏れず、まず漁業の水揚げ場であった大かまを中心とした自然と人の循環に注目し、去年から春夏秋冬の4度にわたって新潟市の漁師、造り酒屋、商店街の面々を取材し、絵画とドキュメンタリー形式の映像作品にまとめあげている。これを真っ向から受け入れるとすると、本作は、新潟市を生きる個別の人物像にフォーカスした肖像画に収まってしまうのだが、より突き詰めると、ここには、永き時を経て、新潟の自然と渡り合うことで生まれた社会の身体があぶり出されている。

 Navin Rawanchaikul, “A Letter of Four Seasons”(2018)の「夏」の部分 筆者撮影

 ナウィンが注目するのは日本の特殊な地方の文化ではなく、自然や四季によって浮かび上がる普遍的な身体性である。水と土から生まれる一連の生活は、見た目や様式などの違いはあっても、根本的には差異よりも近似しているところが多く、新潟に限らず世界のどのスポットにも想像の域を広げることができる。ナウィンの作品は、自然界の抽象が進んだ都市生活ではなかなか接点を持つことができない、自然との関わりを再認識させてくれるきっかけとなっている。

 次に取り上げたいのは、2017年のヴェネチア・ビエンナーレの日本館を飾った岩崎貴宏の無題の作品である。岩崎は題材に歴史的建造物や壮大なモチーフを選び、それを巷に溢れる素材やその場で手に入るものを駆使して、スケール感を落として再現する作家である。

 岩崎貴宏『untitled』(2018) 筆者撮影

 今回は、大かまの屋内から水揚げ場にわたってスライド扉を開いたままの状態で、敷居を持たない開けた空間が設けられている。岩崎は、その床が内側から水揚げ場に向かって緩やかにスロープしていることを発見し、ホースから少量の水を流して信濃川の河口の風景を演出して、その上に、漁業で使う木箱を工作機械で細く切り出したものを素材に用いて、極小スケールの河川に架かる橋を作り出している。橋の両側には、鉄塔がそびえ立っているのだが、その素材たるや、木箱の内側に残されたエビのヒゲを採用しているという。床面のところどころには、透明に近い白色のコーキング剤が盛られ、それによって水の流れがコントロールされ、川の流れの特徴がよりリアルに表現されている。

 岩崎貴宏『untitled』(2018) 筆者撮影

 岩崎は大かまの会場を自然と人間がつながる場と考え、信濃川に注ぎ込む水流と、人が土地に手を加え、それと渡り合おうとするダイアローグの瞬間を描き出している。時にホースから流れる水はコーキングの盛り土を乗り越え、新たな河川を作り出しているし、橋を眺めてみれば、ところどころ激流によって破壊され落橋した様子も見受けられることから、自然の豊かさに伴う天災のことが念頭に置かれているだろう。広島出身の岩崎が話すところによると、展示が始まる少し前に発生した西日本豪雨のことを思っていたという。


 岩崎貴宏『untitled』(2018) 筆者撮影

 大かまの屋内から外部に向かって作品を眺めていると、手前からちょろちょろと流れる水道水が、同様のスケールモデルの橋脚のあいだをすり抜け、いずれ水揚げ場に寄せる海水の面と融合するところで、突如として大海に注ぐ大河のように思えてきて、鑑賞者の目のほうが極大と極小の世界の間で錯乱し、橋の模型が大がかりな建造物に見えてくる。カメラのファインダーを覗き込めば、その感覚はよりいっそう高まってくる。その時、作品をきっかけとして、鑑賞者のふところに実像と虚像が共存し、自然に対して普段はなかなか感じることのない、不思議な、それでいて直接的な経験が訪れる。

 続いて、2015年ヴェネチア・ビエンナーレの日本館の代表であったアーティスト塩田千春による今回初出の作品『どこへ向かって』を見てみる。作家が用いる代表的な素材である「糸」は、歴史的、社会的、そして文化的にも女性のジェンダーを象徴しながら、脆さの中にも、束となれば強靭な主体性を持たせるだけでなく、人と人とのつながりを端的に連想させる至適な素材である。純白の糸が無数の結び目やつなぎ目を支え合って朧げに浮かび上がらせる100艘の船は、新潟港に直接的にリンクしながらも、自然光が降り注ぐ天井のスリットに向かって浮遊していることから、霊的なものを感じさせ、どこへ向かうのかという、未来への旅立ちを物語っている。

 塩田千春『どこへ向かって』(2018) 筆者撮影

 塩田千春『どこへ向かって』(2018) 筆者撮影

 以上に挙げた三作品は、縦軸の切り口とも言えるだろうか、人の個体の歴史つまり人生をあぶり出す三つの視点だった。スケール感の変化によるパースペクティヴの崩壊によって、サイト・スペシフィックに、そして現在的に、過去に起こったであろう自然と人間のせめぎ合いに対しての想像力を働かせる岩崎貴宏の作品。四季を通して、新潟の水と土を抽象し商業化してきた人々の固有な人物像やエピソードを編集し、今、新潟市に例に挙げながら人々の生活に普遍的に循環するライフサイクルを描き出したナウィン・ラワンチャイクンの作品。そして、塩田千春は人の営みを映し出す象徴的な造形によって、過去・現在から未来への旅立ちを連想させる普遍性の高いナラティヴを描き出していた。

 
3. フォー・エレメンツ (Four Elements)

 前項では、人間と自然の摂理をめぐる、歴史的観照を主眼とする三人のアーティストの作品に触れてきた。次に紹介するのは、新潟市という枠組みを超越し、鑑賞者それぞれに関与する形で身体性を浮き彫りにするダイナミックな作品群である。ここではあらかじめ、土、風、水、火の四大元素をキーワードとして念頭に置いておきたい。四大元素は、サイエンスが盛んになった近代初期にあっても、宇宙を形作るエッセンス――火が空を統べ、水と土が地上を形作り、風が両者を媒介する――と考えられていたように、人との付き合いは長い。

 早速作品を見てみよう。伊藤公象の『地表の襞 eros&thanatosの迫間』は、まさに土である。石川県出身で作歴50年を越える作家は、今までに用いてきた様々な土や陶に加えて、新潟という土地へのオマージュもあってか、新潟市の土や能登半島に特有の珪藻土を採用している。作家はこうした土に接して、総数7,500に及ぶピースを焼き、床面に直径12mの円形の境界を設定し、採集場所や組成の異なる土のグループをストライプ状になるように配置し、その円形を埋めている。中央には襞となる幅6cmのスリットがわずかばかりだが顔を覗かせている。

 伊藤公象『地表の襞 eros&thanatosの迫間』(2018) 筆者撮影

 中央にスリットを確認することができる。 筆者撮影

 全体を俯瞰してみると、土の多様なテクスチャと色彩の配置によって、場合によってはグラデーションに見えたり、切り立った断層のように見えたりもする。中央のスリットを境に左右を見比べてみる。すると、向かって左側つまり海側を構成するピースは、乾燥でヒビが入ったような荒々しい土そのものの姿を連想させている一方、右側つまり建物側のピースは、スラブ状にされた陶土を丸めて潰したような有機的な曲線を描いている。その荒々しさと原土そのものといった様相から、いわば前者が自然そのままの無機質な「土」である。そして後者は、雑然とした配置ではあるが、オーガニックな曲線と肌理の整った表面が、人の介入を感じさせることから、これが「陶」となる。

 「土」のグループ。 筆者撮影

 「陶」のグループ。 筆者撮影

 中央で混じることのないこれらのグループは、同じ円形に共存しながらせめぎ合う自然の無機質と人間の有機質との関係を象徴している。個別のピースが点としてあり、それらの同種が連なって線となり、線たちが隣り合って面となり、その面の直上で自然と人間のダイアローグが生まれ、ダイナミックなボリュームが発生する。このボリュームとは、自然と人との間の暴力的な関係律としての生と死の迫間を意味していると同時に、生への衝動(eros) から死(thanatos)の循環に象徴される原始的な創世の図としても捉えることができる。すなわち、この両義的なボリュームだけを抽出するために、そして純粋な継起をあるがまま表現するために、最もシンプルな幾何学的な形状である円が現れてくるのである。

 続いて大西康明の『untitled』を見てみたい。大西はポリ素材など合成樹脂を加工したうえで、デザインつまり配置の妙によって、空間を活性化するアーティストだ。単なるポリエチレン・シートであっても、ヒートガンで表面を熱することで微妙な泡状の凹凸が現れ、もともとフラットで奥行きが無かった素材の表情を豊かにし、立体的な造形を可能にしてくれる。

作家は、大かまの現場に滞在し、時間をかけてヒートガンをポリエチレン・シートに当て続けたという。こうしてできたシートは、会場の空間の中で何重にも天井から吊るされ、私たちの縦方向への意識を掻き立てる。

 大西康明『untitled』(2018) 筆者撮影

 このシートは、もしや羽衣とはこういうものかと思わせるほど薄く、軽い。ほんの微風が吹いても、または空間に佇んでいてシートに触れるか触れないかの瞬間に、それは大きく揺らいで逃げ去ってゆく。そして、シートの絶妙なテクスチャに生じる半透明さが、その向こう側をかすかに想像させるには充分であり、鑑賞者は、奥行きに対しての想像力も働かされることになる。

 筆者撮影

 作家が好んで使う石油由来の素材、金属、化学物質の採用については、一見、水や土といった自然物の対極として捉えられてしまうきらいもあるだろう。しかし、どのような生成のプロセスを経ていようとも、こうした素材は自然に元来存在していたものを人間が抽象し、ターゲットとする特徴を引き出すべく結晶化されたのであり、遠回りではあるが同根のものと考えられる。そして、石油系のポリエチレンなどプラスチック素材は、可塑性(Plasticity = プラスティシティ)という特性を備えていることから、そのまま名称に引用されている。

 大西康明『untitled』(2018) 筆者撮影

 可塑性なるものは、何か別のものに移り変わる可能性を備えているということが本質である。ゆえに、鑑賞者が、空間に単なるポテンシャルとして佇んでいる作品に関与することによって、その空間がはじめて活性化され、縦方向への意識が生まれ、そして、シートの向こう側の想像や距離といった身体を中心とする場が一気に立ち現れてくるのである。ここで追記しておきたいキーワードは、もちろん「風」であった。

 次に松井紫朗の作品を見てみたい、というより歩いてみたい。『Soft Circuit』と『Fish Loop』と名付けられた本作に対してキーワードを選ぶとすれば「水」ということになる。松井はシリコンラバーやナイロン素材をまるで絵筆でも扱うかのように自由自在に操り、展示場となる空間や建造物に対してリアル・スケールで有機的な作品をインストールする作家である。今回は、大かまの水揚げ場から内陸側に向かって、入り口や窓といった開閉部の四つをチューブ状の立体が繋ぎ止めている。水揚げ場のドックには、海面から突き出したチューブが場所と魚類との関係を描きだし、合わせて大かま側の大作との連携を強めている。

 松井紫朗『Soft Circuit』(2018) 筆者撮影

 作品はいわば体験型だ。鑑賞者は入り口側から作品の内部に入って歩き進んでゆく。チューブの内部には、左右や上下の境界は見当たらず平衡感覚を失いそうになるばかりか、青色のナイロン壁をにじませる外界の自然光は、半透明の素材によって拡散され、遍く光は方向感覚さえも狂わせるようである。おまけに反密閉型の内部の空気は暖められ、身体中にじとっと汗が浮き出てくることも合わせて、鑑賞者は作品をきっかけとして、自らの身体を意識するようになるだろう。

 松井紫朗『Soft Circuit』(2018) 筆者撮影

 ところで、20世紀のモダニストたちにとって、内側と外側の関係性は、常に重大な課題であった。フランス革命が破壊したサロン文化を皮切りに、アートの真正をめぐる存在論的な問いかけが突き詰めた透明化や白紙化の動きは、立体を扱うアーティストたちにとっては、素材や工程、そして展示環境に対する意識へと拡がっていき、いずれ社会や政治といった領域にまで染み出していった。例えば、ホワイトキューブに代表される展示場やコレクション性、アーカイヴ性というものは、モダニズム的理想主義が生み出した制度であり、主体と客体との間に距離を生み出し、内部の不透明化を招き、したがって非人間化が進んでいくことのメタファーであった。NYの1970年代など、時代によっては、アーティストたちが暮らしていた環境で広く議論されていた社会問題とリンクして、より批評性の強いメッセージが表現されていたこともある。

 松井紫朗『Soft Circuit』(2018) 筆者撮影

 その上で、松井の作品が、展示場の内側と外側をつなぎ、そして作品に内在するものを一切隠蔽しないというスタンスに立脚していることは、単なるインタラクティヴ性や触れられるアートという「つかみ」よりも重要なポイントである。そして、水流や原子生命体の営みを連想させるような作品の有機的な形状は、垂直と平面で構成された冷たいキューブ状の展示会場に向けてコントラストを描いて対象化しながら、本来の空間の生成とは、人が実際に働きかけることで切り取られる可能的なものであることを経験的に教えてくれていた。

 最後に、四大元素の「火」を司る遠藤利克の『Trieb –– 地中の火』に触れてみたい。作家は以前、第一回目の「水と土の芸術祭」に参加した際に水を扱ったこともあり、今回は火を題材にチョイスしたとのことだ。

 大かまのメイン会場の最奥まで歩いてゆくと、コンクリートの床を突き破って無造作に掘られた、直径およそ3m、深さ2mの穴が目の前に現れる。穴の最深部の中央には、勢いよく炎が燃え盛っている。床面を覆っていたコンクリートの建材は、穴の周りにありのままの姿で放置されていて、あたかも地中の熱量が土砂とコンクリートを押し上げたかのような姿をしている。

 遠藤利克『Trieb –– 地中の火』(2018) 筆者撮影

 さて、この火の使用については、かなりの苦労話があるようだ。本作の火は穴の根底から真上に向かって燃えている。その仕組みを簡単に解説してみると、まず、大かまの外部にはプロパン・ガスのボンベが設置されている。ここから建物内の床の溝に沿わせたパイプラインを通じてガスが穴の底に向かって誘引され、そこでガス・バーナーによって燃焼されている。問題は室内で火を使うことにある。およそ3ヶ月以上に及ぶ展覧会の会期中に屋内で火を扱うことは、消防法に抵触する部分が多く、極めて困難であるばかりか、通常であれば不可能と考えられてきた。筆者も国内外通じて、前例を思いつくことができない。しかし遠藤はさまざまな手続きと課題を乗り越えて、作品を成立させた。それだけ熱のこもった作品なのである。

 遠藤利克『Trieb –– 地中の火』(2018) 筆者撮影

 この炎を眺めていると、立ち上る熱気によって周囲の景色が視覚的に捻じ曲げられ陽炎となり、私たちはその魅惑的なゆらぎの虜となる。たちまち、今度は顔面の頬のあたりからじわりと浸透してくる赤外線のような熱気に、身を退けることになる。足元を見れば、つま先のすぐ向こうには、奈落が顔を覗かせ、誘惑している。改めてここで浮き彫りにされるのは、私たち鑑賞者の身体とその脆弱さであり、それであっても火に近づきたくなるような不思議な感覚なのである。

 遠藤利克『Trieb –– 地中の火』(2018) 筆者撮影

 作品タイトルに含まれるTriebとは、ドイツ語で熱望・切望を意味する単語である。熱望と切望は、望む仕方のスタンスにおいて、前者が積極的でフィジカルなものであるのに対して、後者はおよそ罪の意識に近い信心深さを伴ったスピリチュアルなものであろう。遠藤がこうした両義性を同時に包み込む単語をチョイスしたことには注目すべきだ。人類は「火」という強力なパワーを見つけ、恐れ、近づき、傷つき、そしてまた願い、トライ&エラーを繰り返してやっとコントロールできるようになり、ついに文明を進歩させてきた。この場において、遠藤は人類が文明を発展させる端緒となった「火」を提示して、人と火の抜き差しならない関係を描き出しながら、私たちの中に原初的な畏敬の念に近い感覚を呼び覚まそうとしている。

 振り返ってみるならば、「水と土の芸術祭 2018」のメイン会場では、ナウィン・ラワンチャイクン、岩崎貴宏、そして、塩田千春の表現を通じて、私たちは人と自然を結ぶ歴史的・社会身体的なパースペクティヴによって過去・現在・未来の縦軸の関係を想像することができた。そして四大元素を手がかりに、「土」の伊藤公象、「風」の大西康明、「水」の松井紫朗、「火」の遠藤利克らの表現を巡ることで、私たちの身体性が浮き彫りにされる瞬間を直に体験してきた。

 総じて、ここに挙げたいくつかの作品は、新潟市という枠組みや展示会場を取り巻く制度を超越したところにあるという意味で小気味よかった。そして、こうして直接肉体に訴えてくる作品を前にすれば、鑑賞者は一度立ち止まって、現代の展覧会に氾濫しがちな説明文や予定調和な結論の導きを、そうやすやすとは受け付けない自律した判断力を養うきっかけを与えてくれるという意味で、「水と土の芸術祭 2018」へ足を運ぶことは、決してマイナスにはならないだろう。

「水と土の芸術祭」は2018年10月8日(月・祝)まで万代島多目的広場を中心に新潟市全域で開催中。