[Sept. ’17] 縮小装置のアート:身体拡張のアート

—-札幌国際芸術祭2017 札幌の森美術館にて—-

藤田陽介『CELL』

サウンドアートは、必ず環境芸術である。作品を視覚的ではなく聴覚的にとらえるためには、サウンドが聴覚に認識されるための音響作用を必要とするからだ。それは、美術館の壁、木々、スピーカー、イヤフォンなど、音の発生源と鼓膜のあいだをつなげるあらゆる媒介を必要とする。

札幌国際芸術祭2017で発表されている藤田陽介の『CELL』は、音を発生させるガジェットを張り子のボディで覆ったサウンド・インスタレーションである。藤田は電源が必要な作品を、あえて山深い彫刻の森に設置している。直径1mほどの白いドームの中には、アメリカミズアブの幼虫が数百匹いて、餌をむさぼり繁殖している。そのゴソゴソという音を拡張し、プレキシガラスに備え付けのイヤフォンからライブで流し、同時にプレキシガラスはイヤフォンを触ったり置いたりする音を拾い・スピーカーから流すという循環が生まれ、したがって生物、環境、人との関係を見つめることができるという作品である。

 

作品の着想にあたって、藤田は札幌芸術の森で夜中に聞いたエゾシカの声が、自らが暮らす山梨県の山で聞き慣れたシカの声よりもひと回り大きく戦慄を覚えた体験をもとに、「こわい」と思う感覚のなかに充実感があると述べている。作品のタイトルであり小部屋や細胞を意味するCellには、恐怖から身を守る文化の壁、つまりシェルターという外的な防御壁と、恐怖そのものを主体ではなく体内に潜む細胞による生物学的な反応へと転嫁する、いわば二重の防御が働いている。

注目すべきなのは、生物、環境、人の関係を再認識させるというリベラルなコンセプトに反して、サウンド・インスタレーション自体が閉じられているということだ。どういうことか。環境芸術の一つであるサウンドアートは、つねに一方でアウラが漏れ出してゆく状況に陥りがちで、他方でドキュメンテーションまたはアーカイヴの難しさが付きまとっている。いや、これらは表裏一体の課題である。サウンドアートは、その環境依存特性のため、インスタレーションの場所や条件が変わるたびに、その都度アウラを発生させる。反対に、その一回性をアーカイヴするには、別の記録メディアによる包括的な—-全方位的に環境まるごとアコースティック付き—-ドキュメンテーションか、もはや別のヴィデオ作品としてとらえ、映像とサウンドを別のファイルで埋め込む手法など、きわめて恣意的かつ重大な判断を迫られたあげく、結局作品の真のアーカイヴにはほど遠く、かつアウラは消え去ってしまうことになる。

こうしたパラドックスの対策として、藤田は開かれたコンセプトとは反対に、作品を二つの方法で、環境にあらがうかたちでアウラを「閉じこめて」いる。はじめに、藤田は自らの個別的な「こわい」体験を基にした作家のシグニチャが刻まれた造形と、そのアウトプットが現在進行形で生み出されていることによってアウラの発現を保証している。事実として、藤田はアーティストステートメントで、「人間は人間の都合で芸術祭をやる。僕は僕の都合でアメリカ・ミズアブという生物をここに持ち込み、繁殖させ、飼育している」と述べたうえで、「私たちの生物としての本能に働きかけ、他者の生との共振を誘うであろう新しい音楽が、今ここで紡がれて」いると結び、アウラを確保しているかのようだ。

筆者撮影

 

次に形式的には、藤田は作品をデザインのカテゴリーに「閉じ込めて」いると考えられる。生物、環境、人をつなげるリベラルなコンセプトは、できれば命令的でないほうが良い。還元主義による観者の解放とまでは言わずとも、すべてのからくりやプロセスを開示し、見る者による個別的な判断を誘引すべきである。反対に言うと、藤田は、誰もが初めて耳にするであろうアメリカ・ミズアブという単語で見る者を突き放し、機構を不透明化し、プロセスを封印し、最終的なアウトプットのみでコンセプトを提案している。単一目的に向けてメッセージが「閉じ込め」られた視覚・聴覚に訴えるものは広告でありデザインの領域である。フリードリッヒ・キットラーは、新たなメディア機械によって転換されたメッセージは、そこに新たな認識世界の可能性があるのではないかと想定させる、と述べていた。閉じられたガジェットに潜む生物の胎動の音を耳にしたとき、私たちの及ばぬ自然界の大きな力がありそうだと想像するのは難くない。

こうした「閉じられ」の中に、サウンドアートがすでに環境芸術に内在しているという問題に絡めとられないための手掛かりが見いだせるのだ。しかし、「CELL」において、私たちは生物が餌を食す音をイヤフォンで聞くことができるが、ガジェットを操作している音は同時に聞くことができない。サウンドが現在的に紡がれる一回性は、ドームの中にいる虫たちの音であり、備え付けのイヤフォンの内部でもあり、主体から遠ざけられたスピーカーでもあり、外在的な森の中で起きている。すなわち、ここでいう「音楽」とは、生物、環境、人が分断され排除されつつ紡がれたハーモニーであるため、作品は単体として自ら内向きに存立していると言うことができないだろうか。

EYEの『ドッカイドー(・海・)』

工芸館には、ボアダムズのEYEによる『ドッカイドー』が設営されている。後述するが、設営というからには作品のサイズはそれなりのものだ。入口へ向かうと、スタッフから「中はとても暗いため、できればご用意させていただいているサングラスを15分ほど着用して目を慣らしていただいてから入室ください」と注意勧告される。筆者は待つことなく、スリッパを履き、そのまま入室した。

 

中は完全なる漆黒の闇だ。床も部屋の隅も何も見えてこない。背後のスタッフから、もっと奥へどうぞと督促されるが、なにせまったく見えないのだから、足がすくんでしまい、両手を前に突き出して、すり足でじりじりと漸進することしかできなかった。それからおそらく数分が経っても、まだ何も見えない。就寝前に部屋の電気を消してベッドまで歩くのとはわけが違う。ここまで暗い部屋にいることは普段ほぼあり得ないのだ。さらに数分が経過したであろう。遠くにぼんやりと薄いグリーンの祭壇のようなものが見えたように思える。恐る恐るすり寄ってみると、確かに物体である。何かペデスタルのような方形の物体の表面にセロファンのようなものが貼ってあり、そのうえに夜光塗料が塗ってあるのではないかと推測できた。

どうやら少しずつ、目が慣れてきたようだが、決定的に光量が不足している。もう10分以上、暗闇に立ちすくんでいる。振り返ると、来た方向の奥に、ほんのかすかに見える色彩とのコントラストで、人影のシルエットのような形象が見えたように思えた。しかし、それは動かない。そこに近づこうとしたが、床に何か異質な柔らかい素材のものが敷いてあり、一瞬戸惑ったが、踏みつけながら歩を進めてみた。それから1.5mほど手前に立ってみたが、まだ人影は動かない。彫刻なのだろうか、人なのだろうかと、心中に不安が広がっていくのがわかった。すると突然、その人影が声を発した。人だったのだ。同じく部屋に入っていた、来場者の一人だった。

すると今度は、その人の向こう側に、ついさっきかすかに見えていた色彩が、より立体的に見えるようになっていくことに気が付いた。人間がそこにいるかもしれないと不安に陥ったことで、一点に集中した結果、その周辺環境の変化を見逃していた。願わくば、いったいどのタイミングで環境の全体を視認できるようになっていたのか、切り替わる可視・不可視のボーダーを知ることができれば・・・。しかし、いずれにせよ来場者の向こう側には巨大な空間が広がっていることがやっと知りえた瞬間には違いなかった。内部空間は、巨大なオープンスペースである。目視できるあらゆるものに、点描(ドット)が打ってある。はかなく、それでいて雄大で、静かなる大海原。そう、『ドッカイドー(・海・)』は、その名のとおり光の海であった。この作品の中でしばらく瞑想をしたい衝動に駆られる。

 

ブックレットによれば、床一面のドットは、EYEがみずから一点一点描いたものだという。ふと目を落とせば、はじめ単なる慣例として履かされたと思っていたスリッパも点描されているではないか。EYEは作品についてこう述べている。「作家本人が消滅し、オーディエンス側が一つのエネルギー体になる、祝祭的なもの。作品は自らの中で自己生成される。」

EYEの作品は、観者に多くを要求している。個々人は、個別のデュレーションと個別の手続きで、恐怖、不安、洞察、発見、世界の把捉、そして美的没入までに至るすべてのプロセスを、独立的に実践する必要がある。しかも、「私」という主体は、通常であれば支配下に置いていて、命令に対して従順な生物学的な「私の肉体」が、そうやすやすと使いこなせないというジレンマに直面するだろう。主体である私は、これは作品なのだから何か見るべき対象があるはずだという前提に翻弄され続ける。胸中では、現代社会において当然のプリミティヴな要件を満たしたいという単純な欲求に対するフラストレーションがざわついている。思考は、見えないものを見たい、見えるはずだ、見えたかもしれない、だが確証は持てないというアクションとリアクションを繰り返し、一つ一つ解決すべきチャレンジとひたすら向き合っている。それは、暗闇のなかで、観者と作品の関係性が断ち切られているような感覚である。

『ドッカイドー』は存在しているが、観者を必要とはしない。逆説的に言えば、『ドッカイドー』は、私たちに向けて存在しているのではない。それは自律している。作品そのものが環境や自然の一部ともいうべきありかた、つまりただそこに、あるがままにある、ものでしかないのだ。

かつてマイケル・フリードがミニマリスト彫刻を「演劇的である」と酷評した際、いかに作品が自律的に存立していることが、そしてオブジェクト性そのものが問われていると説いていた。演劇的な作品とは、美術館や公共の場、自然やアースワーク的なサイト・スペシフィシティを問わず、空間の中に作品が置かれている状態に、主・客の前提が見込まれ、観者が参加することによってやっと成立するような作品である。ミニマルな作品は、象徴を引き連れてきてしまうような表象や造形性を還元主義的に剥ぎ取り、構造とプロセスを開示することに成功したためアートを伝統的な制度から解放したと自らを称賛したが、フリードからすれば、たとえ表象が無に帰していても、慣習的なアートと観者の関係が前提とされている以上、作品は解放されてはいない。

では、いかに自律性は担保されるのか。フリードは演劇性に対して「没入(アブソープション)」の概念を導入する。通常、エデゥアルド・マネの作品の多くは当時のパリの現実を浮き彫りにしたため、リアリスティックな描画であると評価されている。つまり、社会学的なアプローチである。しかし、フリードはマネの被写体の多くが観者のまなざしと交錯しておらず、作品内の自らの行為に没頭していることに注目している。つまり、対象はただ佇んでいる。作品は、観者と観られるものという慣例的な関係性から退き、単なるオブジェクトとして自律することになる。反対に言えば、こうした作品は観る者と観られるものするという関係でのみ存立していることになる。

『ドッカイドー』は観ることができない作品として現れる。私たちはタイトルとナビゲーションに従って作品があるとされるサイトを訪れただけなのだ。だが、しだいに眼が慣れることで作品との接点を得ることができる。すると、はじめ自律的なオブジェクトとしてあったものが、次に私たち観者による内容把捉のまなざしに触れることになり、作品内容や造形性などモダニスティックな条件が頭をもたげてくる。その時、ドットで埋め尽くされた大海原のような巨大な空間を目の当たりにして、私たちはアーティストがアウトプットした創造力と造形力を個別的に判断している。EYEは、アーティスト・ステートメントにおいて「極限において作家本人が消滅し、オーディエンス側が一つのエネルギーになるような、祝祭的とも言える空間を出現させる」と述べている。だがタイトルの『ドッカイドー』の響きは、ステートメントとは裏腹に、作者のかすかな思惑が「ドット」x「北海道」と韻を踏みながら、間違いなく特定のイメージを駆り立てているだろう。

一見すれば、マネの時代の作品を例に挙げれば、EYEの作品は画家に向けてまなざしを送っているモデルたちと同様に、外在するコンテクストや私たちがすでに備えているリテラシーに寄り添っていることになり、演劇的であると言えるだろう。観者は目が慣れてきた瞬間に客体である作品を凝視し、美しい点描の海原に没入している。客体が自らに没入しているのではなく、主体が客体に向けて没入している。しかし注目すべきは、EYEが、作品がオブジェクト性から演劇性に様変わりする瞬間を、私たちの身体性を通じて、あえて生理的なものから社会的なプロセスへと飛躍させることで、直に体験させていることなのである。

アートと異なり、デザインという機制には、素材や構造やプロセスを隠し通すアジェンダが隠されている。藤田陽介の『CELL』は、その隠蔽性によってデザインの領域にありながら、それでいて観者のまなざしを寄せ付けないという意味では環境依存ではなく自律的である。反対に、EYEの『ドッカイドー』は、作品の不在から現前にいたるしずかな運動をきっかけにして、オブジェクト性から演劇性、没入性に至るまで、すべての批評的な視座を通過儀礼としてこなすオールマイティなアートである。まさにアヴァンギャルドな、形式、素材、プロセスすべてを公開・透明化するアティテュードである。

もしかすると、最終的に『ドッカイドー』はモダニズムの言説に足をすくわれて、単純に作家性の発露であるという批評に対しては脆弱であるかもしれない。しかし、仮に私たちがモダニズムの至上命題である「芸術のための芸術」や自律性の美学を一瞬でも克服することができるのであれば、EYEの作品は美術史や作品本位の美術批評の言説から外して考えるべきだろう。それはそれとして単に佇みながらも、作品は作品のためにあるのではなく、反省的なありかたで、私たちを身体的に追い詰めながら、私たちを解放している。『ドッカイドー』は、私たちをアートの真理に気づかせてくれる手続きであったと同時に、私たちの身体を拡張させ、経験的に作品をかぎりなく内的なものとして「自己生成」させて、私たちを「作家」の位置に押し上げてくれたのかもしれない。