第一回バンコク・アート・ビエンナーレ 第3稿 10月18日 チャオプラヤ川: マンダリン・オリエンタル・ホテル & イースト・アジアティック・カンパニー
バンコクの公共交通機関は、お世辞にも発達しているとは言えない。BTS(スカイトレイン)とMRT(地下鉄)は街の中心部を十文字に往来するだけで、交わる駅の乗り換えも距離があり不便なだけでなく、駅についても目的地までの距離が1km以上あることが多い。ましてや画廊巡りや趣味の良いショップを探すとなると、商業地区から離れていることが多いため、はじめからGrabやタクシー、それからモト・タクシーを使うことになる。
なお、Grabを呼んだとしても迎えに来るのが通常のタクシーであることも多く、その場合にアプリで支払い方法をしっかり確認しておかないと下車時とクレジットカードで二回支払ってしまうこともあるので注意したい。
さて、バンコク・アート・ビエンナーレにとって今回最重要とも言えるチャオプラヤ川に面した歴史的なサイトに向かってみることにする。
しかし、前述から理解できるとおり、こうしたサイトを観光するにも、まずその地域への移動がチャレンジとなる。筆者はGoogle Mapに従ってワンマンバスに飛び乗った際、マップが示すルートとは180度異なる場所へ連れていかれたことがあるため、世界のGoogleといえどもバンコクでは通用しないことを体験済みである。
チャオプラヤ川周辺の移動は何と言っても水上バスが便利だ。運賃は安いわりに安定した船であるが、ダイヤがあって無いようなものだし、急行と鈍行が入り乱れるので、乗るべき船はしっかりと自分の目で確かめておきたい。なにせ乗船所の係員は英語がままならないことがほとんどであり、タイの人々はたいがい笑顔で「OK, OK」と言って、解決せずともその場をやりくりしてしまう癖があるようだ。
今回も、幾度もの前夜祭の一つで、20世紀初頭に栄えた中国の貿易商が保有する倉庫や歴史的建造物を改築したショッピング・コンプレックス「Lhong 1919」に向かう際、水上バスの係員が親切に行き方を教えてくれたものの、降り立った駅から反対側へ向かう橋が長期間の工事で使えない状態になっていたため、結局タクシーに乗り直して遠回りせざるを得なかった。
OP Placeを後にして、チャオプラヤ川に向けて歩いてゆく。途中、比較的有名なイスラム系の家庭料理を出す店があったので、そこで昼食にした。
1. Aurele Ricard (France), “Lost Dog Ma Long”(2018)
チャオプラヤ川に面するマンダリン・オリエンタル・ホテルの前まで来ると、フランスのオーレル・リシャール(Aurele Ricard)の巨大な「Lost Dog Ma Long」に出迎えられる。これは過去10年にわたって各地の展覧会やグラン・パレ、上海のエキスポなどに登場している、いわばお決まりの作品である。ブル・テリアは人間によって作られたハイブリッドな犬種であることをモチーフの核として、作家はそれを巨大な黄金の彫刻に仕上げるなどポップアートをダダ風にアレンジして、急激に近代化した人間の役割の終焉を風刺的に表現している。

ただし作品の表象は極めてわかりやすく、オーソドックスなアート作品としての造形美とモニュメンタル性を兼備しているので、深読みをしないオーディエンスにも受けが良いだろう。今回もマンダリン・オリエンタルというハイソサエティの集う場所に設置されていることが作品の両極性に緊張感を与えている。
ホテルの向かいには、East Asiatic Company跡地の建物が展示場となっている。イタリアの建築家によってベネチア様式で建造された歴史的建造物は、19世紀後半にデンマークで造船や貿易などを手がけていた企業のアジア支部として築かれた。そのオーナー、実業家ハンス・ニルス・アンデルセンは向かいのマンダリン・オリエンタルの前身を買収し、シャムで最古の高級ホテルを建造した人物である。

2. Patipat Chaiwitesh (Thailand), “2562++”(2018)
会場に入ると、まず二階へと階段を登ることになる。そこで、はじめに目を惹いたのはタイの若手アーティスト、パティパット・チャイウィテシ(Patipat Chaiwitesh)の「2562++」だった。パティパットは元々フランスに留学中にテキスタイル・デザインで頭角を現したデザイナーだが、最近はファウンド・オブジェクトを別のオブジェや機械と合成して異なるペースペクティヴを紡ぎ出す作品を発表している。

今回の作品のタイトルは、タイ暦2562年つまり2019年とその後を指している。アーティストに聞いてみたところ、現在タイでは、”Chao Phraya For All”というスローガンの下、2019年を一つの目標に観光を目的とした大規模なチャオプラヤ川の再開発が進行していて、そのため水質汚染と生態系の破壊が深刻な問題になっているという。各地で反対の声が上がる中、政府は開発の手を緩めるつもりはないようだ。
パティパットは彼の得意とする形成外科手術の手法で、チャオプラヤ川の生き物と汚染物質やゴミをハイブリッドし、ショーケースに陳列している。中には今回のビエンナーレのメインのスポンサーのゴミを用いた作品もあるが、あえて隠さない態度には信念を感じることができる。

3. Kawita Vatanajyankur (Thailand), “Dye”(2018)
広間を進んでいくと、マゼンタやグリーンなどヴィヴィッドな色彩の映像を映し出すスクリーンがいくつか並べられたビデオ・インスタレーションが見えてくる。タイの若手のメディア・アーティスト、カウィタ・ヴァタナジャンクール(Kawita Vatanajyankur)
の「Dye」である。マリーナ・アブラモヴィッチに影響を受けているという彼女は、パフォーマンスを通じて、自らの身体と精神を極限の状態に追い込み、自らを傷つけながら、男性社会における女性のジェンダーを生々しく描き出す。

作家は、自らの身体をキッチン用品や家財道具に見立て、それらが機能する様子と女性性を重ね合わせている。今回のビエンナーレに出展された作品は、自らをスピンドルに見立てて体に糸が紡がれていく様子にはじまり、次に自らを編み針に見立てて、高所から落ちるアクションで糸が編まれていくのを表現している。

4. Kata Sangkhae (Thailand), “Composition Hands”(2018)
建物の中をチャオプラヤ川側に向かって奥に進むと、さらに奥の別棟へと続く連絡通路に出た。この場所は左右が中庭の吹き抜けに挟まれているため、自然光がとても清々しい。
ここには、バンコク大学美術学部の教授カタ・サンケー(Kata Sangkhae)の「Composition Hands」が展示されている。真っ赤に染められた写実的な両腕がハートマークを作っているが、それらはタイ軍の爆薬箱が積み上げられた上に載せられ、幸せと悲しみの両方をナレーションしている。作家は、社会が移り変わる時代にあって、抑圧に対する市民の闘争を描いているという。メッセージを伝えるための手法としては、いささか造形的すぎるきらいがあるが、大学で教鞭を執るには、これくらいがふさわしいのかもしれない。

5. Elmgreen & Dragset (Germany), “Zero”(2018)
ついにチャオプラヤ川にたどり着くと、直立した大ぶりのオブジェが、川と筆者のあいだにそびえ立っていた。ドイツのアーティスト・デュオ、エルムグリーン&ドラッグセット(Elmgreen & Dragset)の「Zero」と題された作品だ。

彼らは現代社会が進んでいる方向性を揶揄するかのごとく、消費社会に見え隠れする矛盾やおかしさを絶妙なウィットでもって表現するアーティストである。プラダのブティックをテキサス州の無人地帯のど真ん中にオープンして、ファッション・ブランドの本質の奇妙さを描いてみたり、高級ブティックが並ぶ繁華街の地面から都会生活を脱そうとするキャンピングカーが飛び出したりと、連想できる解釈が幅の広い作品が多い。
今回は、数字0の形をしたプールの縁に飛び込み台と手すりが取り付けられていて、それが直立している。造形的には、2016年に彼らがロックフェラー・センターで発表した「Van Gogh’s Ear」と酷似している。

ニューヨークでは、観光スポットでありエリート・ビジネスマンが行き交うロックフェラー・センターにあって、ゴッホという誰もが作品の価値を知る作家の悲劇的な晩年のエピソードをモチーフに、そうした作品を収集する富豪たちのプール・サイドのライフスタイルを並列していた。
今回の「Zero」が「Van Gogh’s Ear」と異なるのは、後者には底部があるのに対し、前者は底部がなく、背景を借景としてフレーミングする構造になっていることである。そして、そのフレームによって切り取られるものは、チャオプラヤ川の対岸に並ぶペニンシュラ・ホテルや、次々と立ち上がる高級コンドミニアムだ。もちろんプール完備である。タイでは勝ち組と負け組の格差が非常に深刻である。

作品タイトル「Zero」が意味するところが、単にプールの縁の形状であるのか、背景に浮かぶ富の象徴の無意味さなのか、チャオプラヤ川を悩ます原因の再開発の不毛さなのか、解釈は読者に任せたい。それ以外の解釈もあるだろうが、解釈する必要すらない。なぜなら、解釈というものはそもそも西欧的な言説の下、知的欲求が強引に引き出してくるものでもあるから。
ただし、アーティストたちが思い、感じたことがある。そして彼らは制作の衝動に駆られ、美的表現によってパブリックなサイトに公開する。これは、教科書や政策綱領のような一方通行なメッセージとは異なり、極めてデモクラティックでオープンマインドな行為である。タイの国民が今回のビエンナーレを一つのきっかけとして、自らの声を上げることができるようになるのを切に願うばかりである。
(続く)