2017年のミュンスター彫刻プロジェクトは、公共空間における社会的、空間的な分断を無くすことができるのではないかという神話を継続できそうな中産階級の町で行われた。ユイグの作品は、いわば現在のパブリック・スペースを利用したアートのあり方に通底した、観者は解放された経験のモデルを再構築できるという宣言へのチャレンジである。ユイグは、新たに展示用にガラス張りの建造物を築くのではなく、もはや使われていない廃墟となったアイス・スケート/ホッケーのリンクを利用している。
『After ALife Ahead』は彫刻の歴史においては相性が悪そうな要素をプログラミングによってつなぎ合わせている:スミッソン的なランド・アート、ジャック・バーナムとの対話で生まれたハーケのシステム理論の彫刻、60年代のビュランの制度批評である。しかし、スミッソンとの関係性についてコメントしながら、ユイグは言う。「私の興味は、展覧会という枠組みから逃避し、単にスケールにおいてランドスケープに合流するためだけにオブジェを作ることではなく、もっと時間的な意味で行うことです。私の作品は、まさに出会いの場所の間、象徴の間、企業の間、つまり都市と自然の『間において(in-between)』にあります。」
©artnews
したがって、ユイグの作品を60年代の動向と区別させているのは時代的な距離だけでなく、テクノロジーにより調停されたスペクタクルへの彫刻の避けられない服従のモーメントにおいて、こうした昔の戦略を現在に求められる弁証法的な反-物語性に再配置していることなのである。もしユイグが仮にスミッソンたちのように、ランド・アートをもって制度によるコントロールから離脱しようと試みたとしても、結局、空間的な、素材的な、そして一時的に境界線を変化させる不可避な制度的な共同の展示状況を前景化させるだろう。ハーケのアプローチと異なり、ユイグのディストピアで社会的・生物的・物理間的に相互接続した展示は、神話や生態学的な危機への啓発の回復が最もよく演じられるような、テクノロジーによって調停されたステージとして現れる。まさにこの認識—-総合的なスペクタクルの外に位置する批評的で合理的な空間は保つことができない—-こそが、60年代のマルクス主義者の先人たちの合理性から逸脱するユイグの認識論を定義づけている。
ユイグは続ける。「私たちは、スペクタクルは運命論で、先天的に疎外的なものであるという固定観念を捨て去る必要があります。スペクタクルはフォーマットであり、何かをするときの方法論・・・つまりアーティストがスペクタクルやエンタテインメントは悪しきものだと拒絶するポジション、これは現実逃避です。しかし、スペクタクルを組み込んで『私はエンターテイナーでもある』というポジションにいることでもありません。要は、スペクタクルをフォーマットとして捉えて、必要性があれば使うだけのことです。」
ユイグの膨大な生物学的なシステムと、驚くべき本物の動物たち(蜂だけでなく、孔雀のキメラや魚、藻類)は、こうした動植物によって、伝統的な彫刻の概念を問いただし続ける:最も顕著な例は、ドクメンタ13に出展された2011-12の「無題」であり、二匹のイビザンハウンドと蜂の巣箱を使った魅惑的な展示である。
©FAZ
戦後に動物を用いてきたハーケのようなアーティストは生物機構の科学的な調査を行なったり、ジャニス・コウネリスのように自然と文化の和解へのメランコリックな欲望の回帰を行なったりしてきた。しかしユイグは彼独自の変わった動物のやりくりで、主体性や空間、システムの間の規制を緩和し、主体の記憶のキャパシティがスペクタクルによって破壊された暴力性を記録するだけでなく、主体が剥奪された未来に向けた表象を変容させることによって、いかにメランコリックなまなざしが再びそうした暴力性を復活させるかを描き出している。「動物は、生殖と、必然と、偶然な形式による不可測な行動によって断定されていることが、私にとっては興味深いのです。」しかし、彼が人間のパフォーマーを動物のそれに代替した判断は、ジョン・ケージの遺産と比較した読解をされてしまう。彼の言う偶然な形式による不可測な行動とは、ジョン・ケージが自らのユートピア思想において、人間の主体性の合理性には、偶然による解放を対応させていたことに対する悪意に満ちた曲解のように読み取れる。もちろん同様に、セーガル、ハーシュホーン、そしてフィリップ・パレーノなどによる人間のパフォーマーを使った作品にたいする皮肉のようでもある。
もしユイグがケージの脱主体性のポリティクスを批評しているのならば、彼は同じく、より複雑であるが、あまり知られていない前-構造主義の哲学の系譜を蘇生してもいる。20世紀はじめの10年に形成された傾向は、構造主義の言語学や、自然科学から得られた重要性に基づいた形式的な文学理論から派生し、新たに発生した記号論を補完するものだった。件の人物は、モーリス・メーテルリンク(1862 ? 1949)、ダーシ―・トムソン(1860 ? 1948)、ヤコブ・フォン・ウエクスクル(1864 ? 1944)の三人である。ウエクスクルは特にジル・ドゥルーズやジョルジョ・アガンベンといった、ユイグの知的地図において現代最も重要な哲学者の二人に影響を与えている。
©Ola Rindal
ユイグによる、パフォーマーを人間ではなく動物に代替する行為は、自然やシステム、そして政権力の歴史に突き付ける、形態・有機生命体・構造の記号学を開いている。こうした唯物主義的な構造主義のモデルが60年代のフランス思想の中心を成す言語学的、構造主義的記号学に対する大切な相手役だったことは疑いがないが、ユイグの作品における彼らの援用は、私たちに一つの疑問を残す。いったいどのような主体性であれば—-もしあれば—-完全に過剰規定されコントロールされた自然環境が、乗り越えられない人間行動の限界として、まだ可能なのかと。ゆえに、作品の際立って分離主義的な一時性は、『After ALife Ahead』というタイトルに顕著であるように、人間の主体性の完全な宙づりを示唆している:ユイグが、当然のように、しかし諦めて言うところのコンテンポラリーの条件の「食人症」なのである。
©artnews