[Nov. ’17] リヨン・ビエンナーレ 2017「フローティング・ワールズ」—-第一会場MAC-Lyon(リヨン現代美術館)のレビュー—-

1991年以来、今回で第14回目を迎えたリオン・ビエンナーレ。その初期から、ディレクターのティエリー・ラスパイユは、ゲスト・キュレーターに全体を包括するキーワードを掲げることを推奨してきた。

今回のキュレーターであり、メッスのポンピドゥ・センターのディレクターであるエマ・レヴィーンは、2015年にルドルフ・ルーゴフが掲げた「La Vie Moderne(モダン・ライフ)」をフォローする形で「モダン」を中心に置いた。

レヴィーンが掲げるテーマは「フローティング・ワールズ(浮遊する世界)」。彼女はグローバリゼーションが蔓延し、流動性が速度を増すなかで、その「流動性(liquidity)」に注目し、詩人ボードリヤールによる「モダニティ」の捉え方を引用している。「モダニティとは、はかなく、つかの間の偶然のもので、芸術を構成する片方のものである。そしてもう片方とは、永遠で、不動のものである。」

フローティング・ワールズの作品は、モダニティのメジャーな作品であるマラルメの「The Book: Spirituality Instrument」にインスパイアされ、ルイジ・パレイゾンの「アートとは、無限のものが集められて出来上がったフォルムをオープンにしていくことだ」という考え方や、ウンベルト・エーコの「The Open Works」(1965年)が分析しているように、「アート作品とはランダムにいくつかのアクシデントを引き起こすことに開けたイベントのフィールドである」という言葉をほのめかしつつ、意図的にオープンな状態にある。

今回のビエンナーレは、ポンピドゥ・センターの40周年記念展の野心的な構成にも反映されていたように、大気のように常に変化しながら、そして自らを更新しながら拡大を続けるランドスケープのように広がっている。リヨン・ビエンナーレは、ローヌ川とソーヌ川が流れる「水からせりあがった」街において、水の遍在性により形作られたアイデンティティを持つ地域の中心に降り立った。それは、群島のようなトポロジーを形成して、ローヌ川と支流によって表現された想像的な領域を再活性化する。とある会場では、本来のホワイト・キューブですら変容を余儀なくされ、元来のありかたは崩れさり、有機体あるいは星座へと姿を変えていく。

会期は2017年9月20日~2018年1月7日までと、アメリカやヨーロッパの芸術の祭典としては、比較的遅い時期に開催されている。ビエンナーレの会場は、市内の3か所に分かれている。リヨン中心街のLe Dome-place Antonin Poncet、北部のMAC Lyon(Musee d’Arte Contemporain=現代美術館)、そしてソーヌ川添いの巨大な倉庫を現代アートセンターに改築したLa Sucriereである。

レビューに入る前に、これから訪れる方や、次回の訪問を計画される方々に向けて、事前情報を提供させていただきたい。まず、リヨンに着いても、ビエンナーレの雰囲気あるいはバナーやポスターといった告知が一切見当たらない。本当に開催中なのだろうかと心配になるに違いない。すぐにスマホを取り出して、リヨン・ビエンナーレのウェブサイトへ飛んでみる。確かに、開催中であることは間違いなさそうだ。しかし、このウェブサイトであるが、非常に情報を探すのが難しく、ユーザー・「アン」フレンドリーである。しかも、たとえ情報にたどり着けたとしても、情報が間違っていることがある。限られた日程で訪れる旅行者にとっては非常に重要なことだが、会期中の会館時間や閉館日の情報にアクセスすることが不可能である。こういう時代であるから、Googleの情報を頼りにするくらいしかないのであるが、発信源たるビエンナーレ主催者自体が情報を出していないため、それもあいまいにならざるを得ないのだ。

リヨンは、カトリック教徒が大半のフランスのなかでもさらにカトリックの影響力が強く、土曜日・日曜日といえば完全休業がほとんどである。したがって、ビエンナーレ本部も休みであるため、現地の観光案内やリヨン市のウェブを見ても、リヨン・ビエンナーレは土・日は閉館日だとされている。現地のホテルの人間も、土・日はビエンナーレは休みですと自信を持って述べていた。今回は土・日の旅程しか取れなかったため、ほぼ諦めてリヨン美術館や観光スポットを見学して時間をつぶしていたが、もしかしたらと思い、念のため会場に行ってみると、通常通り10時~18時まで営業しているではないか。安堵のなかに軽い憤りを覚えるとともに、限られた時間内に早く見なくてはと切迫した感覚を抱いた。

ウェブサイトのほかに頼りになるとすればポケットガイドになるわけだが、これを入手するにも、土日休業のビエンナーレ本部もしくは実際の会場において、となるわけだ。運よく会場の一つであるリヨン現代美術館にてポケットガイドを手に入れてはみたものの、フランス語のみである。このご時世、ポケットガイドについては、少なくとも英語とのバイリンガルで制作するのが定石であると思われるが、リヨン・ビエンナーレでは採用していない。

Musee d’Arte Contemporain

まず、MAC Lyon(リヨン現代美術館)を訪れた。先述した主催者の意図を考察するに、この現代美術館こそが「ホワイト・キューブ」であろう。本来のありかたが崩れ去り、有機体や星座のようなものに変化していくという。

全てではないがアーティストをリストアップすると、ここ数年の制作では、毛利悠子、デヴィッド・チュードル、リヴァーネ・ノイエンシュワーダー、ヘクター・サモラ、ヨッヘン、ゲルツ、ヤン・マンキュスカ、ダヴィデ・バルーラ、ハオ・ジンファン&ワン・リンジー、クリストドゥロス・パナイヤトウ、ヨリンデ・フォークト、島袋、ジル・マジッド、フェルナンド・オルテガ、イカロ・ゾルバーなどの作品を見ることができる。少し古いところでは、ロバート・バリー(1984)、マーセル・ブロータス(1969)、塩見允枝子(1965)、ナム・ジュン・パイク(1971)、ジョルジュ・ブレヒト、テリー・ライリー(1964)、リジア・パぺ(ポップコーン(1995)と、ハウス(2000))、ブルース・コナー(1966-2008)、ルーチョ・フォンタナ(1963)、エルネスト・ネト(2007)、ジャン・アルプ(1959)、アルベルト・ブッリ(1964)、ラース・フレデリクソン(1968)といった面々である。

乱暴に総括すると、展示内容は前半の印象は、キネティック・アート、サウンド・アート、ヴィデオ・アート、機械的なインスタレーションなど、メディア・アート寄りの構成が多いが、途中からオーソドックスな形式の平面作品や、展示空間全体に及ぶ大掛かりなインスタレーションなども多く見られた。

こうした作品の特性として、作品が作り出す意識の領域はホワイト・キューブの隅々まで及び、その都度ペリメータを変化させていくため、空間は慣習的な背景ではなく、空間全体が作品を構成する決定的な部分として活性化され、アクティブな形で観者に対して関りをもってくる。したがって、ビエンナーレのモダニティが目指す、オープンで、流動的で、広がり続ける領域という意味ではメディア・アートやインスタレーションの親和性は高いことは明瞭だ。

しかし平面ではどうだろう。ふつう企画のテーマがモダニティと聞けば、そしてインスピレーションがことごとく20世紀の初期から中期におよぶものであれば、展示内容は回顧展の意味合いが強くなり、現代の最先端のアートの祭典としての牽引力が失われはしないだろうかと考えてしまうかもしれない。つまり、アナクロニズムに甘んじはしないだろうかと。そして平面作品こそ、モダニティがはじめに脱構築をした代表的な形式の一つであったはずだ。

本稿では、メディア・アートやインスタレーションではなく、あえて、モダニティにおいて通例なメディウムである平面作品にフォーカスしてみたい。2017年において再解釈された「モダニティ」が、いかに平面作品のなかで現在的なスタンスを提示し得ているかを、そして、その在り方がアクチュアリティであるかを、もしくは失敗し、単なるノスタルジーと当時のアウラの復権の劇場として現前するのかを考察してみたい。

古いところの定番は早々と書き終えておくとして、ルーチョ・フォンタナやエドゥアルダ・エミリア・マイノの作品は、本来であればキャンバスが張られていて何かしらのタブローを見せつけるものであるが、これらの作品はキャンバスに穴が開けられているため、フォーマリズム的な言説に晒せば、絵画のイリュージョンを否定した物質性とリテラリズム、そして文字通りオープンなあり方が価値観の転換の可能性に向けられており、したがってテーマに一致していると言えるが、けっして現在的とは言い難い。

Lucio Fontana, “Concetto spaziale, La fine di Dio,” 1963


Eduarda Emilia Maino dite Dadamaino, “Volume,” 1959

 

次に、ベルリン出身のヨリンデ・フォークトの平面作品を見てみたい。『The Shift I-VII, WV 2016-107 to 114(2017)』と『The Blue Shift, WV 2017-136 to 17(2017)』は、キュレーターが「カリグラフィ」と扱っているように、メディウムはそれに見合うようなインクやオイル・パステルを中心に、部分的に金箔などコラージュが施された作品である。視覚的にはアジアン・テイストともとれる浮遊感に満ちた淡いレイヤーの重なりと、屏風のように、ランドスケープ的なイリュージョンが見立てによって最小に抑えた作品である。

このように分析すれば、本作は単なる平面作品であるが、実際には、カリグラフィというよりライティング(記述)の位置づけだ。というのも、刻み込まれた内容が楽譜として機能し、ミュージシャンによって演奏されることを目的としているからだ。確かにタイトルを見ても、その表記方法が楽譜のそれを思い起こさせるのは、筆者だけであろうか。「記述」としての立ち位置が、制作の実践が生み出す効果と音符としての機能性との関係性に緊張感をもたらしている。

ステートメントを読むと、フォークトが描く線の、地上が起伏するような動きや起動、筆致の座標は、独特のアルゴリズムや天体の回転や動きなど様々な要素を含んだ参照の視覚的な翻訳であるという。それは、世の中の混沌としたもので満たされていている。

まとめるとすれば、フォークトの作品は二つの形式において、浮遊し、そして開かれている。まず一つ目の絵画的な表象形式としては、書き込まれたマーキングやフォルムは文字通り重力感覚を失って浮遊しながら、西洋の絵画的な空間のシステムに把捉されることなく、絵画とカリグラフィの間で揺れ動いている。そして楽譜の形式としては、記されたものは、アルゴリズムや音符として記されたものは、直接的には解読不能のものとして観者に突き付けられており、その真相は観者を突き抜けて別の可能性に――パフォーマーの登場を待ち焦がれながら――開かれている。


Jorinde Voigt, “The Shift I-VII, WV 2016-107 to 114”,(2017)


Jorinde Voigt, “The Blue Shift, WV 2017-136 to 17”,(2017)

 

続いて、キプロス出身のパナイヤトゥの『コモン・ディノミネーター』という平面作品を見てみよう。本作は7枚連続の大判のアルミ板(縦2.8m x 横1.8m)に描かれたパステルカラーの淡い空気とも雲とも思われるぼんやりした作品である。コモン・ディノミネーターとは、共通項あるいは公約数という意味である。異なる色面を並び方だけで構成したモチーフのない絵は、確かにモダニズム的な想像力に晒せば、特定の文脈や美学的解釈にからめとられないという意味で公約数になりうるかもしれない。しかし、それであれば究極的には白紙(タブラ・ラサ)のほうが公約数になりやすいはずだ。それもあっての、「グレーテスト・コモン・ディノミネーター」(「最大」公約数)ではなく、公約数なのであろう。

もう少し踏み込んでみよう。これらはパルプ・ペインティングと呼ばれており、表面には植物繊維つまり紙のパルプがテクスチャを作りだしている。じつはその「絵具」であり、異なる色相を演出しているものは、廃止され溶かされたリアルな紙幣を溶解したものである。つまり表面全体が、紙幣のパルプそのままが絵画的に再構成されていることになる。パナイヤトゥの作品は、アート作品や貨幣などの恣意的に措定された価値にその主眼をおかれている。もはやアート作品は金銭的に評価されず、価値はいかようにして決められるのかという問いにシフトしている。作品は、我々が熱心に信じる、もろくも、あらゆる社会の頼みの綱である貿易と商業の関係性をあぶりだしているといえる。

すなわちパナイヤトゥの作品は、一方で、感覚的な色彩と遍在する大気のような抽象性において、絵画的な伝統や文脈を参照点にはしていないことが、消去法的ではあるが、反対にあらゆる可能性のポテンシャルを持つことを意味するため、一つの「共通項」であり、オープンなしぐさの表明である。そして他方で、世界の「共通項」たる貨幣を原材料を用いながら、元素的には同様であるはずのものが、形式が変わるととたんに価値の体系が変容するという、貨幣やアート作品のはかない根源的な本質を私たちに突き付けている。


Christodoulos Panayiotou, “Common Denominator” (2017)

 

最後に、ブラジル出身のリヴァーネ・ノイエンシュワーダーの平面作品『Bataille(バタイユ=戦い)』を見てみたい。バタイユと聞いて、まずジョルジュ・バタイユを想起した読者も多いかと思う。しかし、ここでアーティストは「戦い」あるいは闘争という意味で用いている。

本作は、ブラジル北東部のノルデスチ地方に伝わる「レペンテ」という詩の伝統と、1950年代に詩人アゴスティーノ・ド・カンポスが初めて実践した「コンクリート・ポエトリー」—-構文や表現法といった制約から言葉は解放され、詩は「感性豊かなオブジェ」とされ、さらにシチュアショニストたちが、都市環境を破戒と政治的なプロテストの劇場に変容させていく際に用いた用語—-を織り交ぜた平面インスタレーションである。

彼はブラジルからリヨンにおよぶ様々なプロテストのバナーやプラカードから、反乱の、自由の、抵抗の、ユートピアの、そして正義のスローガンを引用して、その言葉の意味を模索している。これらはマス・プロテストの文脈から外れるように古典語の辞書の言葉に翻訳され、ファッション・ブランドのような洋服の織ネームに乗せ換えられている。プロテストの用語が古典語に置き換えられることで、表現が直接的なメッセージへと限定されてしまうプロテストの文言に、間接的で詩的な芸術的感性が込められているという。こうした織ネームは、観者が作品上に縫い付けることもできるし、持ち帰って自前の洋服に縫い付けることもできる。つまり、政治的ポエトリーのメッセージ発信者として活動できるのである。

次々と織ネームが縫い付けられていくため、作品はビエンナーレのオープン時から目まぐるしく変化していく。オープンから二か月でこの状態であるから、2018年1月の閉会までの間に、どこまで変化するかは計り知れない。その意味でオープン・エンデッドであり、同時に流動性という意味で「モダニティ」な作品ということになる。しかし、プロテストの標語が古典語に翻訳されているということは、仮に発信者が織ネームを洋服に縫い付けてメッセージを発信したとしても、発信者と受信者の両者共々が意味を理解できず、コミュニケーションの地平は宙づりにされることになる。

しかし、そもそもモダニティと、反乱や自由、正義のプロテストが、タイトルの『バタイユ(戦い)』の熱量の下、いかに接点を持つことができるのだろうか。モダニティ概念の実践において、一つの具体的なスタンスとしてフランス語のアヴァンギャルド(前衛)が存在するわけだが、前衛であることはすなわち過去の因習的かつ閉鎖的な制度や言説を破壊し刷新することを意味していた。とりわけ伝統的にフランスでは、アヴァンギャルドは革命やリベラリズムとの相性が良い。革命と闘争は近代のアクティヴズムの同意語である。しかし同時に20世紀は戦いにまみれた時代であり、モダニティに所与の流動性は、絶え間ないレジーム・シフトを実現させながらも多くの怨恨を残してきた。

本作品の「翻訳された」プロテストのメッセージが、あたかもファッション・アイテムとしての流通手段をとっていることが、トレンドとしてのアクティヴズムの危険性を示唆している部分もあると解釈すれば、いよいよ作品が広がりを見せ、一つの骨頂として、現代における「モダニティ」の道程を照らし出してくれそうである。

Rivane Neuenschwander, “Bataille”, 2017

Other details

 

主催者の意図としては、リヨン現代美術館のホワイト・キューブは本来的な背景ではなく、有機体や星座のようなものへ変容することを提案していた。たしかに、エルネスト・ネトやデヴィッド・チュードルらの作品は空間いっぱいに広がりホワイト・キューブを活性化していると言えるかもしれない。しかし、それでいてもホワイト・キューブ自体はあくまでも境界・臨界・パーティションとしてしか存在していない。したがって、むしろ筆者は、ホワイト・キューブが本来の役割として単なるポディウムや背景、箱のように退行してゆくことでアート作品を注視することを促進してくれるという意味で、本会場では、インスタレーション、キネティック・アート、サウンド・アート、そして何よりも平面作品がいきいきと観者にかかわっていたと述べておきたい。

最後に、コンステレーション(星座的付置)は、ヴァルター・ベンヤミンのことばとして理解するとすれば、いくつかの要素がそれぞれ独立的に存立しながらも、巨視的に見れば、果てしない距離や断絶を超越して、ある一定のパターンとして共同的にまったく別の意味を生み出すようなものである。これについては、次の会場であるラ・シュクリエール(La Sucriere)の展示を踏まえて考察していきたい。