Bangkok Art Biennale 2018: MAI, “A Possible Island?”

第一回バンコク・アート・ビエンナーレ 第7稿 Bangkok Art and Culture Center (BACC)にて

 2018年10月に第一回目のスタートを切ったバンコク・アート・ビエンナーレ2018ではあったが、メイン会場の一つであるBACC(バンコク・アーツ・カルチャー・センター)の最上階はオープンしたにも関わらず、当初設営中だったため鑑賞することが叶わなかった。

 今回のビエンナーレ再訪では件の最上階を訪れて、そこで展示されているMAI(マリーナ・アブラモビッチ・インスティテュート)にキュレーションされたパフォーマンス・アートを見てみたい。

 この会場にはサブタイトル「A Possible Island?」が付けられ、ビエンナーレのテーマ「Beyond Bliss」への一つのアンサーを提示している。下記、斜線部はMAIのステートメントの要約である。
 
 「Beyond Bliss」は私たちを取り巻く現代の「時間」の質を参照している。言及されるカテゴリーは、社会問題や政情不安、気候変動、病気、移民問題、公害、非人間化、フェイク・ニュース、それから静かさ、逃避、避難地の模索にまで及ぶ。
 
 私たちの「時間」の質の特色とは、明らかにとめどない情報の流れにある。画像や映像などイメージやニュースは、分析や理解するのに必要な猶予もないまま、瞬時にして新しい情報に置き換えられている。
 
 この時間の無さは、ある種の症状である。孤独への恐怖、社会の居場所の恐怖、あるいは既存のやり方ではない思考をすることの恐怖など、様々な恐怖の症状である。

 「A Possible Island?」は、来場者たちがパフォーマンス・アートを見ることで、呼吸し、自らと調停し、こうした問題に向き合って、回答にたどり着くことができるかもしれない場を提供する試みである。 
 
 
 
 
1. Lin Htet (Myanmar), “Our Glorious Past Our Glorious Present Our Glorious Future” (2018)
 
 
 ミャンマーの旧首都ヤンゴン出身のリン・フテットは、現在進行中のロヒンギャ難民の問題を手がかりに、世界中で起こっている移民問題に向けて自らの身体を用いてメッセージを送り続けるパフォーマンス作品を発表している。
 
 パフォーマンスが演じられる場は、有刺鉄線を張り巡らされた角材や木板の廃材で無造作にフレーミングされたボックス形状の内側に残されたわずかな空間だ。作家はこの中に入り、三週間に亘ってただただ立ち尽くし、仏教のMetta(慈)を思念として送り続ける。毎日、BACCの営業時間の午前10時から午後9時まで、作家は微動だにしない。
 

筆者撮影

 
 作家はロヒンギャ問題の内側に、1948年のミャンマーの独立以来続く、国内のアイデンティティの所在、アイデンティティに関わる政治、異なるコミュニティ間の暴力、国主導の人種差別や民族の迫害などを見ているという。長期間に亘り立ち尽くす行為は、こうしたミャンマーの状況に対して毅然とした態度を示すハンガー・ストライキとしてのパフォーマンスである。
 
筆者撮影

 
 しかし、そのジェスチャーはアート・センターといった美術制度の内部においてパフォームされる瞬間に、脱技術的かつ非・演劇的な、極めて現在的なパフォーマンス・アートの一つに生まれ変わっている。脱技術的であることは、作家が自身の身体に一切の動きを持たせていないことと、摂食や排泄をはじめとする生理的・社会的な行為に従事しないため私たち観者の脳内にナラティブが生まれにくいことに認めることができる。
 
 そして、非・演劇的であることは、このパフォーマンスが第一にコレオグラフィを持たないこと、空間的には有刺鉄線のバリケードを挟んで作家と来場者が隔離されていること、そして作家の視線が来場者ではなくドキュメンテーション用のビデオ・カメラもしくはそれが不在の時には宙空に向けられ、したがって来場者との主・客のポジション––客席とステージの関係性––が否定され、インタラクションが避けられていることが決定づけている。
 
筆者撮影

 
 そして来場者との非接触性は、作家がパフォーマンス中に送り続けている(と主張する)「慈」の思念により、それがまさに不可視なものであるために、さらに強調される。このように見てみると、リン・フレットのパフォーマンス作品に確認される非・演劇性と脱技術性そして非接触性は、対象を持たないことになり、それゆえ逆説的に作品の自律性を高めていると言えるだろう。
 
 
 
 
2. Vandana, “I The Flame” (2018)
 
 
 会場を先に進むと、純白の小ぶりなデスク、テーブル、椅子が設置されたコーナーが見えてくる。ここでインド出身の女性アーティスト、ヴァンダナは、自身の意識と思考の境界線を追求するパフォーマンスを実施している。
 
筆者撮影

 
 作家はロウソクの炎を見つめ続けながら、ひと時もそれから目をそらすことなく、ゆっくりと歩いたり、椅子に座ったり、床にしゃがんだりして、単なる認識と集中、思考と非思考のあいだを行き来する。ロウソクの炎を見つめながら並行して何か別の行為を行うことはチャレンジングであり、集中が切れがちになってしまう。このことは、いかに私たちが普段の日常において行う当たり前の行為を無意識的に行動していて、その都度集中が途切れているということを示唆している。
 
 たとえパフォーマンスの計画を立てたヴァンダナ自身であっても、ろうそくの炎に集める意識を切らすことなく、基本的な動作を行うことに非常に時間がかかってしまう。して、その多くのシチュエーションで彼女は動作を意識をしてしまい、視線が炎から外れてしまうことがある。こうして思考が意識上に浮かび上がって、視線が炎から外れてしまったとしたら、作家は新しいロウソクを用意し、またはじめからやりなおす。
 
筆者撮影

 
 また、意識が前景化して危うく視線が外れそうになるとき、作家は声を出して、”I am looking at the flame(私は炎を見ている)”と言い、自らをリマインドする。
 
 作品の着想にはヒンドゥーの教えが強い影響を与えているようだ。教典によれば、内なる自我と魂が炎の姿をとって身体と融合・一致することが説かれている。炎を見据えながら同時に別の動作を意識することなく、非思考の状態で行うことが目標として設定され、そのほぼ不可能な境地の実現に向けて、ヴァンダナはひたすらパフォーマンスを続けるのである。
 
筆者撮影

 
 ここで注目すべきなのが、本作においても、作家自身の意識や思考といった内向きのエッセンスが作品の成り立ちに対して非常に大きな部分を占めていることである。パフォーマンス中に作家がポジションを変えたり、新しいロウソクに火を灯したりする行為のきっかけは、意識と思考のせめぎ合いによるものである。ただし、こうした現象はアーティスト自身に内在化されているため、会場にいる私たち観者にとっては不可視である。そのため、パフォーマンス自体は私たちから退行してゆき、対象を持たず、独立的に、ただそこにある、ということになるだろう。
 
 
 
 
3. Taweesak Molsawat, “The Gardener” (2018)
 
 
 バンコクを制作活動の拠点とするタウィーサック・モルサワットのパフォーマンスの場を訪れてみると、ホワイトキューブの二面を切り取ったコーナーの壁から床までがプラスチックの造花で埋め尽くされ、その隙間には乾いた砂か泥のようなものがビニール袋に入った状態でいくつも吊り下げられている。
 
筆者撮影

 
 作家は三週間に亘り、毎朝10時半にスタートして、会場からおよそ21km離れた自宅から会場のBACCまで歩いてやってくる。その両手にはプラスチックの造花がトレイに乗せられていて、さらに本物の土の入ったビニール袋が手から下げられている。日替わりで変わってゆくルートは、できるだけ交通量の多い、バンコクの都市を体現するような道程が選択される。その様子はFacebook Liveにてライブ中継され、その一部始終は展示場のスクリーンにも映し出されている。
 
©︎2018 Marina Abramovic Institute

 
 会場にたどり着くと、タウィーサックは造花で満ちた床に正座して、持参した造花を奉るように丁寧に自らを中心として円形に横たえて、本物の土の入ったビニール袋をその周りに置いてゆく。
 
 この、ほとんど儀式的と言えるパフォーマンスは、現代のタイにおける精神性とライフスタイルの変容を象徴しているという。作家はタイの文化と精神性は個人から共同体に至るまで、真性のものから非人間的なレプリカへと移り変わっていると述べる。ゆえに本物の土を、自然の残された郊外から都市部に歩いて持ってくる行為は、タイの原風景の農村のイメージから無機質で疎外感の強い大都市までの変化をスピーディに辿り、リアルタイムで人間性をあぶり出すことを試みたパフォーマンスだと言える。
 
筆者撮影

 
 興味深い点は、このパフォーマンス作品のライヴ性のあり方であろう。会場ではアーティスト不在のまま、現在バンコクのどこかで進行している「であろう」パフォーマンスがスクリーン上に映し出されている。来場者にとっては、これがライブ映像であるのか録画であるのかは、技術的な装置の周知––Facebook Liveでライブ・ストリーミング中であること––を信用するほかに手段がない。ただし作家が行うパフォーマンスが、ルートは違えど内容は毎日同様であることが、こうしたタイムラグをも容認させることを手伝っているだろう。
 
 それであっても、タウィーサックがBCAAに到着し行うパフォーマンスは、単に正座をして儀式的なポスチャーで花と土をお供えするものでしかなく、極彩色な花とオールオーバーな配置によるバロック的な造形によって、ここで読みとられるメッセージ性は、作家の意図するものとは合致しないリスクが伴う。
 
筆者撮影

 
 ストリートを現場として終日に及ぶ長時間のパフォーマンスは積極的な対象(観者)を持たない。この様子は、会場を訪れた来場者たちには映像のアーカイヴのような見え方でしか届いてこない。しかも、会場で実際に行われるパフォーマンスでさえ、来場者とインタラクトせず独立的に執り行われるため、単なる献花の儀式へと作品の姿が変容してしまうのである。仮に、作家がこの実存の変容こそが、真性のものからレプリカへと頽落してしまうものをシンボリックに表現しているとしたら、パフォーマンスの面白みが一気に増してくる。
 
 
 
 
4. Yiannis Pappas, “Telephus” (2018)
 
 
 続いて展示場最奥の二作品を見てみたい。一つ目はベルリンを拠点として制作活動を行うギリシア人のイアニス・パッパスのパフォーマンス『テレファス』である。テレファスというのはトロイ戦争を描いたホメロス著「イリアド」に登場するアキレスが相対した戦士である。
 
筆者撮影

 
 伝承によると、テレファスはアキレスの槍によって負傷し、傷が治らないため神託を得たところ、曰く「傷を与えた者ものが傷を治せる」ということで、アガメムノンの息子をさらってアキレスとの交渉を行い、槍の破片や錆を傷につけたところ、ついに傷が治ったという。ギリシアでは、ミスを犯したら最後まで責任を持つとか、そういう意味の慣用句として使われている。
 
 パッパスのパフォーマンスは175時間にも及ぶ。完全なホワイト・キューブの空間は床まで白く塗られ、三連の蛍光灯の冷たい光に照らし出され、中央にクロームメッキ処理されたテーブルを備えているため、間違いなく無菌状態の手術室に見えてくる。中央のテーブルの上にはギプスのように内側が空洞の白い物体が山積みになっていて、部屋のコーナーには、その破片のようなものが整然と寄せ集められている。
 
筆者撮影

 
 ここで作家は石膏を用いて、自らの身体の部位を固定してゆく。手、腕、足、両足、時には頭部ですら全て石膏で固めてゆく行為はいわば献身であり、動きや呼吸の制限によって、より強く自らを自覚することになる。来場者は白く塗られたフロアには入らず、手前から作家の自傷的とも言える行為をただ傍観するのみである。
 
©︎2018 Marina Abramovic Institute

 
 慣例的な彫刻家にとって石膏は普段見慣れた素材の一つであろうが、ここでは十中八九、医学的用途を連想させるだろう。作家は、パフォーマンスの後に残る自らの身体の彫刻的な痕跡を集め、展示する。つまりテレファスの預言のように、傷を与えた者が、同時に傷を癒すものへと転回してゆく。それは現代の(医学の発達した)文明がオートマチックに規定する不特定の「身体」をとりまく生政治のドメインを、時間と空間を兼ねた彫刻的な方法によって擬似的に具現化していると言えるだろう。
 
 パッパスの表現のメソッドは、自らの身体とその周囲のスペースを物理的そして象徴的な上演の場とし、そこで引き起こすアクションが、集合的な社会や歴史の代表者として批評的なアングルを持ち得ることを意識的に表現している。つまり、パッパスのパフォーマンスは、来場者が彼自身のスペースを侵食することない従来の主・客の演劇的な関係性を保ちながら、その対象は抽象的な社会的身体でもある。この場では数人の来場者が対象者の代表を担いながら、作家の行為が包括するものはさらに拡張された大文字の身体ということになるだろう。
 
©︎2018 Marina Aramovic Institute

 
 ここで自らの身体を一つの代表として用いながら、パッパスは石膏のギプスで自らを窒息状態にしたり、パフォーマンスの動作に生じる制限を可視化したりして、現代の集合的な窒息状態を考えさせる契機を与えている。そしてギプスを切除する行為は、逆説的に、窒息状態からの解放すなわち身体が治癒されたことを示し、生政治に頻発する、同語反復的な社会運営のグランド・デザインを暗喩していると言えないだろうか。
 
 
 
 
5. Despina Zacharopoulou, “Protreptic” (2018)
 
 
 最後のパフォーマンスはロンドンを制作拠点にするギリシア人アーティスト、デスピナ・ザカロポルーの『Protreptic』という作品だ。英単語の意味を解題してみると、「誰かに変化を促す勧告」ということになる。
 
 パフォーマンスが行われるのは四辺が閉じられたホワイトキューブであるが、その入り口には使い古したラテックス・グローブの山と、その横には来場者とアーティストの間で結ばれる契約書が積み上げられている。いわばレクチャー・パフォーマンスとカテゴライズできる本作は、まず来場者が契約書に合意し署名した上で、室内に入場しパフォーマンスに参加することになる。
 
筆者撮影

 
 
筆者撮影

 
 契約書の大まかな内容は以下の通りである。
 ・パフォーマー(アーティスト)は、ラテックス・グローブを装着した来場者に体を触られることを許可する。
 ・パフォーマーは、不快を覚えた際、安全確保の言葉「Wall」を声に出して言うことに合意する。
 ・来場者はラテックス・グローブを装着した後、パフォーマーの体を触ることに合意する。
 ・来場者はパフォーマーの発する「Wall」という安全確保の言葉を尊重し、その言葉が発せられたらすぐにパフォーマーとのインタラクションを止めることに合意する。
 ・来場者はパフォーマーの安全と健康を尊重することに合意する。
 ・来場者はパフォーマーの作品にヌードが含まれていることに合意し、本作「 Protreptic」の上演はアート活動のためのみであると同意する。
 ・来場者はパフォーマンスが上演される室内に完全なる自己責任において入場する。
 ・来場者はパフォーマンス中に撮影または動画を撮られることに合意する。
 ・来場者は、パフォーマンスに係るすべての写真・映像・契約書(本書)のコピーライトはパフォーマーに帰属することを合意する。
 ・来場者は、パフォーマー、MAI(マリーナ・アブラモビッチ・インスティテュート)、バンコク・アート・ビエンナーレ事務局ほか、バンコク・アート・ビエンナーレ2018に関わる全ての人物や組織に対してクレームや法的手続きを行わないことに合意する。
 
 以上のような内容の、いかにも現代的なリスク回避のための契約書を交わした後で、来場者はラテックス・グローブをはめて入場する。注目したいのは、文書には他のレクチャー・パフォーマンスにありがちな多くの課題やタスクは見られず、単にアーティストの体に「触れること」のみが勧告されていることだ。
 
 さて、入場してみる。室内には中央に美術作品輸送のための木箱(クレート)が横たえられていて、その上にアーティストが寝そべっていたり、足を組んでいたり、ゆったりとした動きでポジションを変えてゆく。手前にはビデオカメラが用意されていて、来場者は自らの行為を少なからず意識しながら、アーティストの動きを近くで眺めてみたり、ときには触ってみたりする。
 
©︎2018 Marina Abramovic Institute

 
 ただしタイ人だと思わしき来場者はアーティストから距離を取り、遠目から眺めているだけで、木箱に触ることすらないのがほとんどである。世界各地の異なる場所において、来場者達がこうした現代の契約や規約が記された法的な文書を持たされ、促され、「勧告」される行為そのものに、その地域の文化、距離感、政治的なスタンス、そして主権の在り処など様々なプロフィールが滲み出てくるのである。
 
©︎2018 Marina Abramovic Institute

 
 デスピナのパフォーマンスを通じて、2014年から続く軍事政権下のタイ王国にあって、法的なものに対する人々の従順さや人と人の間の微妙な距離感を垣間見ることができていることはデファクトな事実であり、とりわけバンコクにおいて発表されていることには意義があるだろう。本作のレクチャー形式の真髄は、パブリックの空間、法的文書、著作権など権利の問題、安全性など、社会をとりまく日常の社会政治的な風景を、もう一度はじめから思索するのを私たちに促しているのである。
 
 
 
 
まとめとして
 
 
 1960年代末に上梓されたマイケル・フリードの「Art and Objecthood」以来、私たちは当時のミニマリズム・アートに発見された、還元的でありながらも漏出してしまう主・客の演劇的な存立を否定的に捉える批評的基準を設けてきた。それはアートとコマーシャリズムの分断を図り、アートの自律性を担保するための一つのあり方を提案していたと言えよう。
 
 しかし、この批評の切り口は往々にして抽象的にならざるを得ず、ゆえに普遍的な決定項を持ちうることはなかった。ただし「演劇的」という用語の発端となったパフォーマンス・アートにおいては、すぐに採用・応用され、商業的なシアター・アーツから自らを引き剥がすための言説として活躍してきた。したがって、パフォーマンス・アートにおいては、コンセプトやメッセージよりも先に、パフォーマーと対象との関係性とパフォーマンスが行われる場が目下の課題となる。
 
 同時にパフォーマンス・アートでは、それが目指す商業性からの独立やアートとしての自律性に相反する、美術制度からの記録の要請のジレンマにおいて、アーカイヴを巡る議論が重要な関心事となってくる。
 
 ミャンマー出身のリン・フテットは同国の現在的な政治問題の文脈を背景に敷いて、あえてノン・パフォーマンスという方法論の上に、仏教的思念が発せられているとすることでナラティブを完結させ、ミャンマーにおけるアイデンティティの不可能性を表現している。そして、アーティストが見つめる先には記録メディアあるいは宙空にあるランダムな一点があった。
 
 インドのヴァンダナは、パフォーマンスを行う支持体としての身体や、空間を占める物質としての身体にはあえて重きを置かず、身体には歩く、座る、ロウソクを手に持つ、といった単純な動作しか与えていない。反対に彼女の内面の領域では、意識と思考が激しくぶつかり合い、ロウソクを無意識的に見つめようとする集中と、行動を起こす際に意識上に現れる思考との間に緊張感を持たせている。たとえその目的がヒンドゥーの教えに沿った魂と思考の融合であったとしても、実際にこうした内面の操作が記録不可能であることは、パフォーマンス・アートの実態の不確実性を強調したものであると捉えることができる。
 
 タイのタウィーサック・モルサワットのパフォーマンスは、バンコクの郊外の土と都市部の造花とを、それぞれ自然物と人工物の代表としてジャクスタポーズし、その緊張感の中に原風景(人間性)と都市生活(非人間性)を描き出す作品だった。ここで来場者は二つの要素によって、パフォーマンスから引き離される。
 
 一方で、毎日アーティストが郊外の自宅から持ってくる土と造花が蓄積してゆくと、会場に築かれた「庭園」が彫刻やインスタレーションに似た造形的なヴィジュアルを持ってしまうこと。そして他方、パフォーマンスの99%がBACC外の不特定な場––ノン・スペシフィック・サイト––で行われるため来場者は見ることができず、存在論的には、パフォーマンスは上演されていないということ。こうした綻びを唯一つなぎ合わせるのが記録メディアであるが、このような重大な役割が与えられていることが議論されるべきだろう。
 
 ギリシアのイアニス・パッパスは、手術室を連想させる空間で、石膏で自らの身体を拘束し、固まれば切り取って彫刻として積み上げるという複層的なパフォーマンスを行っていた。石膏の硬化の物理的な束縛によって機能不全となる身体は、その瞬間に、社会に隷属することになる。ギプスは、生を永らえさせる目標に寄与し、傷の治癒という名目で身体を束縛する。ギプスは身体の自由を奪い、場合によっては皮膚呼吸を抑制するため、命を落とすリスクにもなりかねないからだ。
 
 ここでギプスそのものが、元来それが治そうとしていた「傷」そのものに入れ替わってしまう。したがって、ギプス=「傷」を切除して自由になることが、治癒への道となる。ここで例の預言––傷を与えた者ものが傷を治せる––が活きてくる。テレファスの逸話は、現代の社会運営が同語反復的に生を管理していることを示唆している。切り抜かれたギプスは不特定の身体の痕跡となり、傷と治癒に生じるパラドキシカルな関係をメタフォリカルに強調し、会場の来場者たちを飛び越えて社会の身体へと意識を拡張させていた。
 
 同じくギリシア出身のデスピナ・ザカロポルーのパフォーマンスは、レクチャー・パフォーマンスの一種として、社会的な身体を表現する作品だった。契約書に書かれた条項に同意することで来場者はパフォーマーを触る権利を得るが、来場者それぞれの性格や社会的な意識の持ちようによってインタラクションの仕方が変化してくる。来場者の脳裏では、おそらく普段の社会生活の中で無意識的に設定されている公共空間での他者との距離感や権利関係の諸条件がめまぐるしく再訪され、再考され、そして再構築されている。
 
 アーティストが設定した安全確保の言葉が「Wall」であることも興味深い。これはアーティストを触ることを可能にするラテックス・グローブの延長にあると考えられる「壁」である。仮に、NoとかHelpを使ったとすると、パフォーマーと来場者の間に加害者と被害者といった対立項が生じてしまうが、観念上の「壁」であれば、ニュートラルに解決できる。壁の考え方は、パフォーマンスが行われている場を、個人と個人のミクロな社会と捉えることを促している。すると、とたんに作品は社会の縮図として現前してくるだろう。その時、本作をパフォーマンス・アートとして唯一決定づけてくれるのは、意外にも、作品の道具や機材を収納する美術運搬用の木箱であるのだ。
 
(つづく)