第二会場は、ラ・シュクリエールという名のアーツセンターである。もともとソーヌ川沿いに1930年に建造された砂糖の巨大倉庫であったものが再開発でコンバートされ、アート展やイベントなどを実施するアーツセンターに生まれ変わっている。リヨン・ビエンナーレでは、2003年からメイン会場として使われている。
敷地面積は7000m²。館内の床はもともとのコンクリート打ちっぱなしで、壁部も倉庫のありのままの姿をさらけ出している。経年による佇まいと、館内にまんべんなく行き渡る落とされた照明とが、廃墟然とした姿を強く印象付けている。中央部分は巨大な吹き抜けとなっており、本来ならば野外展示に適するような大作でも充分収容・閲覧できる環境である。二階と三階には、四辺の壁に沿うように6メートル幅ほどのプラットフォームが備え付けられており、そのまま展示スペースとして有効に使われている。さらにそれぞれの階には、長方形の建物の左右の両端にセットバックするかたちで独立した棟があり、個別の展示場として利用されている。
会場で目立っていた主だった作家と作品タイトルは下記の通りである。
Bruce Conner(ブルース・コナー)『Crossroads』(1976)
Hans Haacke(ハンス・ハーケ)『Wide White Flow』(1967–2017)
Hans Haacke(ハンス・ハーケ)『Together』(1969–2017)
Lara Almarcegui(ララ・アルマルセグイ)『Machefer』(2017)
Marco Godinho(マルコ・ゴディーニョ)『Forever Immigrant』(2017)
Damian Ortega(ダミアン・オルテガ)『Hollow/ Stuffed』(2012)
Susanna Fritscher(スザンナ・フリッチャー)『Flugel, Klingen』(2017)
Doug Aitken(ダグ・エイケン)『Sonic Fountain II』(2013–2017)
Tomas Saraceno(トマス・サラセーノ)『Hyperweb of the Present』(2017)
Philippe Quesne(フィリップ・ケジェンヌ)『Caverne』(2017)
Dominique Blais(ドミニク・ブレイ)『Empyree』(2016)。『Untitled (Les cives)』(2015)
Daniel Steegman Mangrane(ダニエル・スティーグマン・マングラネ)『A Transparent Leaf Instead of the Mouth』(2016–2017)
Berger&Berger(バーガー&バーガー)『No tears for the creatures of the night』(2017)
島袋『Cuban Samba Remix』(2016)
Julien Creuzet(ジュリアン・クルーゼ)『Ricochets, les galets que nous sommes finiront par couler (Epilogue)』(2017)
リヨンという土地と空間の歴史をあぶりだす
砂糖の倉庫であったラ・シュクリエールには、ソーヌ川に沿う形で建物の最南端の位置に三棟のサイロが存在する。円筒形で天井高くそびえたつ空間を現代美術が使わない手はない。この空間を利用しているのは、スザーナ・フリッチャー、ダグ・エイケン、そしてトマス・サラセーノの三人であった。ダグ・エイケンの『Sonic Fountain II』は2013に発表された作品であるため、あえてここでは触れない。
Susanna Fritscher(スザンナ・フリッチャー)『Flugel, Klingen(翼、音)』
オーストリア出身でフランスを制作の拠点とするスザーナ・フリッチャーのインスタレーションは、作品を受け入れる建築空間を所与の条件とし、場に密着し、その特徴を抽出・拡張するようにデザインされている。作品を通じてあぶり出される空間の全体を捉えるには、観者は自らの五感を研ぎ澄ますことが必須の条件となる。現に彼女の作品はそのように要求するかのようだ。例えば2014年の近作『Promanade Blanche/ Weisse Reise』では、彼女は作品にガラスやアクリル・フィルム、プレキシガラスといった透明なマテリアルを用いて空間に満ちた光の強度や雰囲気を調節し、その変化を身体的にフィジカルに体験させ、観者はいつのまにか作品に没入している。
リヨン・ビエンナーレに向けて、フリッチャーはサイロの一つを使い、工業的なスケールの大掛かりな装置を用いて、音の反響を利用した流動的かつ間接的なやりかたで、主題となる空間の本質を開示するような作品を制作している。このインスタレーションでは、回転するプロペラの動きとそのスピード、そして観者の動きによって異なる音のピッチが生み出されていく。観者が歩を進めたり顔の角度を変えたりするたびに、ドップラー効果も相まって、耳に聞こえてくる音のピッチに変化が訪れ、その音の痕跡をつなぎ合わせるかたちで、しだいに立体的に建築空間が描き出されていく。その印象は、あたかもオリジナルの建築空間—-サイロそのもの—-のすぐそばで、触知することができないが、同様の物質性と空間的位相を備えた形而上のレプリカのようなものが漸次生み出されてゆくかのようなのである。作家曰く「私たちは空間の寸法そのものを聞いているのです。サイロの空間にもともとある、本質的な音響の、振動の流れと拡張のプロパティを通じて。」

© biennale de lyon
ラ・シュクリエールのサイロは、きわめてフォーマリスティックな条件によって、作品=装置のスケール、そしてそれが発する音響による反射的な情報を介して、想像的な空間把捉によってヴァーチャルに、しかしアクチュアルな空間として私たちの目の前によみがえる。
例えば、ラ・シュクリエールの建物の特性を描き出すのに最も適した構造がサイロだとする。そのユニークな形状は、アプローチの仕方によっては、何かしら穀物やミネラルなど粉末状のものの倉庫だったという局所的な歴史を解として導き出してくれるかもしれない。しかし、それは建物の構造上の特殊な要素を理解しつなぎ合わせるという帰納的な方法をもってしか可能ではない。明らかにホワイト・キューブとしてのMACと対照的な位置づけのラ・シュクリエールをあぶり出すことは、いったいいかなることなのか。その関係項となるものを探るべく、少し巨視的な視野へとレンズを引き、その焦点を、ラ・シュクリエールとその近隣地域へと広げてみたい。
Lara Almarcegui(ララ・アルマルセグイ)『Machefer』(2017)
1857年に金属工場として建設されたHalle Girard (Lyon 2)は、もともと、ソーヌ川とローヌ川の間の半島地域(プレスキル)において、ソーヌ川沿いのシュクリエールから200mのみ東に移動した反対側、つまりローヌ川沿いに位置していた。アルマセグイは、この工場が解体されたときのコンクリートの残骸を集め、積み上げて圧倒的なボリュームに仕上げて作品としている。地理的、都市的あるいは建築的な局所性を深く洞察し、再構成するスタイルはアルマセグイの着眼点の典型である。

筆者撮影
ちなみに半島の南部、つまりシュクリエールから、コープ・ヒルメンブラウによる近年話題の自然史博物館をはじめとする、ソーヌ川とローヌ川が出会うコンフルアンス(合流)地域はすべて再開発の対象となっている。2003年以来、ラ・シュクリエールのある西側つまりソーヌ川方面は、ランボー港(Port Rambaud)のパブリックへの公開を象徴的なスタートとして、地域全体が新たに生まれ変わろうとしているのだ。

筆者撮影:コープ・ヒルメンブラウによるコンフルアンス美術館
ところで、クリンカーとは石炭を燃焼した際の廃棄物(おもに石炭灰)を混合したセメントであるが、1990年代までのリヨンの再開発には、よく使われていた材料である。アルマセグイは、リヨンの工業時代のアイデンティティである金属工場の残骸と、この地域特有の廃棄物の再利用方法を合わせた「二つの」ローカリティを並列的に配置し、この地域を立体的に描き出している。アルマセグイは、自治体ほか各種団体が選定する現代アートの発表の場、とりわけ再開発による未来を焦点とするこうした中核的なサイトにおいてこそ、局所的な歴史性を称賛する。作家曰く、「多くの建築家やアーティストは、どこも同じであると述べますが、私はそれとは違うことをしていて、たとえ200mしか離れていなかろうが、すべてのサイトは異なることを表明しているのです。」
アルマセグイの方法論は、その土地の歴史が一度その構造から暴露される状況、つまり解体と収集という手続きを経由している。解体は、時として再生を促すための、いわば「起爆剤」として機能する。現に私たちにとって、スクラッチ・アンド・ビルドの概念はしっくりくるわけだし、実際のものでなくとも心構えとして解体を意識しておくことは、逆説的ではあるが進歩主義の志向性につながるだろう。それは、遠からずとも、美術史ではメメントモリという言葉で繰り返し語られてきたはずだ。
破壊と再生のレトリック
Bruce Conner(ブルース・コナー)『クロスロード』(1976)
2016年のMoMAの回顧展「It’s All True」でも圧倒的な存在感で観者を魅了していた作品であり、世界的にギャラリーや企画展でも繰り返し放映されている、傑作と名高い映像作品である。制作年は1976年。内容は1946年7月25日にビキニ環礁で行われた二発の核爆弾の爆破実験「オペレーション・クロスロード」を超スローモーションで36分の尺に編集した作品だ。元のフィルムは研究目的で実験場の周囲に配備された乗組員不在の航空機、高高度航空機、そしてボートなどに搭載された500台のカメラが撮ったものである。極めてオリジナルのリアリズムを最大限に表現できるようナラティブを緻密に組み込まれ編集された映像は、パトリック・グリーソンとテリー・ライリーの音楽によって、いっそうダイナミズムを高めている。
冒頭のセクションでは、本物か定かではないが、映像には鳥の鳴き声、波の寄せる音、人の話し声、そして遠景のジープのエンジン音など、当時の現場の様子を想像させるような音が聞こえている。しだいにコナーは、意図的に光と音の異なる伝達スピードの法則に干渉して、爆発が発生すると同時に爆発音が聞こえるように効果音を付け、作品に修辞学を用いた美学的シミュレーションを施し、よりインパクトを感じられるように演出している。

© Kottke
超スローモーションの効果は、爆発が起こる瞬間から発揮され、観る者を虜にする。人智を凌駕するほどの巨大なスケールのものが有機的にそしてきめ細やかに拡張していく様子は、音楽の効果も加わって、破壊であるはずなのに美しく、崇高さえも感じさせる。制作された当時の状況を踏まえれば、作品には政治性と冷戦の論争を引き起こさせるような要素が強いだろう。しかし、ここではコナーの作品は破壊の象徴的なイメージのレイヤーとして切り取られ、他の作品との空間的・美学的な緊張感のうちにコンセプトを浮き上がらせるものとして、「星座的」に配置されていると考えたほうがよいだろう。例えば、爆発と瓦礫はリニアな歴史性の下に連想されアルマセグイの作品を際立たせるし、海面上の水爆実験の波紋は、ハンス・ハーケの『Wide White Flow』(1967)の押し寄せる波とシンクロしていく。

それでは美学的な形式としての破壊のイメージを後にして、破壊の歴史性とその暗い部分に照準を合わせるとすれば、同じラ・シュクリエール会場では、Chim↑Pomによる『Black of Death』が思い起こされる。これは2008年、東京でサバイバルすることで頭脳派に進化したカラスを対象に、ゲリラ的にカラスの鳴き声を拡声器で発して、バイクなどで移動し、多数のカラスを集結させた様子を撮影した映像作品で、カラスの仲間意識の本能を利用したものだった。表現としてはユーモアを感じさせるような、人間の怖いもの見たさをくすぐる演出でもあるが、静観すると、その向こう側にある不気味さと、深く社会に刻まれた様々なナラティブが滲み出てくる。ビエンナーレではこのほか、2013年に福島原発のサイトで、解放はされたが無人と成り果てた福島の町の上空に、現地で廃棄された家畜をエサに繁殖したカラスの群れを集め、被災地の対象地域の外におびき出した様子を撮影した作品も公開されている。


人間が動植物へと、その場を開け渡すモーメント
できれば拙筆の「第5回ミュンスター彫刻プロジェクトの解題」も参考いただきたいが、近年、パフォーマンス・アートにおけるパラダイム・シフトが次第に顕著になっており、もはや企画の意図と目的の説明責任から逃れることができない人間の位置に、動植物が代替されることがある。彼らはリニアな歴史のロジックに絡め取られることがない。例えばChim↑Pomは、局所的な土地に染み込んだ記憶や事情を深く洞察し描き出すために、それぞれの現場において最適な生物を用いている。パフォーマーは人である必要はなく、ネズミやカラスなど、基本的に人間が残した遺産をエサにたくましく増殖でき、しかもその発端となる人間を反省的に照らし出せるものだ。
Philippe Quesne(フィリップ・ケジェンヌ)『Caverne』(2017)
劇場などのプロのパフォーマーを抱えるフランスの企業Vavarium Studioの創設者でもあるフィリップ・ケジェンヌは、様々なテーマに応じて、そのプレイヤーを人間のみならず擬人化させたモグラまでを、柔軟にそして批評的に用いることで知られている。『Caverne』はとりわけ現代の人工的・非人工的な暗闇の空間をモチーフとしている。災害時の避難所、太古の昔から続くプリミティヴな巣穴、アミューズメント・パークの廃墟、世界滅亡後の緊急避難場所、どの大都市にも存在する地下空間など、原始的なもの、現代的なもの、そして終末論的な状況が一挙に括られている。

今回の出展作品は、芸術監督ケジェンヌによるビデオ作品「Welcome to Caveland!(洞窟世界へようこそ)」のために夢想され、ゴミ袋と同じ材質の真っ黒なビニールで作られた巨大な洞窟を、展示スペースにそのまま置き去りにされる形を取っている。ゴミ袋の中には、空気を送る扇風機と音響を発するサウンド・システムのみが組み込まれていて、ビデオ作品に登場するモグラの着ぐるみを着たプロフェッショナルなパフォーマーは不在である。その空間のセットアップ自体が、広大で、アニミズム的で、全体が呼吸する一つの集合的な身体ともいうべき有機的な環境である。ここでは、とたんに自らのスケールが収縮させられた来場者自身がパフォーマーなのである。彼らはモグラに見立てられ、暗黒の生態系を生きる様子が第三者のメタな視線に対して浮かび上がり、そして全体は活発な演劇へと変化を遂げてゆく。ケジェンヌはアーティスト・ステートメントでこう述べている。「人の姿を消すには、別のことにフォーカスする必要があります:物質、光、動き、空間だ。なぜなら、パフォーマンスを行うことは、可能な空間を新たに作り出すことを伴うからです。」

気ままに動き、その都度、場を活性化する来場者はコリオグラフィ(振付)の対象にはなり得ない。その予測不可能性こそが作品の存立にあたって重要なエッセンスとなる。演技指導を受けた—-あるいは台本やスタイルなしに無意識的に動くように、というだけのことでも、指示には違いないことをインストラクトされていれば—-パフォーマーのポジションが完全なる他者に乗っ取られる時、作品は一つの生態系へと昇華してゆく。
Daniel Steegman Mangrane(ダニエル・スティーグマン・マングラネ)『A Transparent Leaf Instead of the Mouth』(2016–2017)
時にはVRなど先端技術を駆使したガジェットを用いて、時には亜・建築的な構築物を生み出し、時にはパフォーマンスのための彫刻的な環境をプロデュースするマングラネは、常に観者の「動き」と、それを支える「環境」に積極的に関わっている。ステートメントにおいてマングラネは、「展覧会のインテリアとエクステリアを併合することが、アートのはじめの義務の一つです。美術館の空間は、外界から守られ絶縁された芸術品や工芸品の集積場ではなく、私たちとオブジェとリアリティとの関係性を再設定する場なのです」と語っている。
アーティストの意識は、作品が生み出す場をきっかけにして、私たちが世界と関わるときのおなじみの制度的な制約や設定を問い詰めることを促している。極小で、もはや不可視に近いものを凝視することが引き連れてくる、内と外との境界線の抹消と、パースペクティヴの変化だ。
今回、マングラネは熱帯の生き物を使って、厳密にモダニストな彫刻空間の形式をとって、生態動物園(Vivarium)を作り上げた。作品の彫刻的な成り立ちに触れてみる。背丈以上もある有機的に湾曲した表面を持つ形状は、フィンランドのデザイナー、アルバ―・アルトが1936年にデザインしたサヴォイ壺にインスパイアされた透明のアラベスクである。同じく、静的な工業製品の表面に表された動きのある表面のうねりを想起させる。生態動物園の中では、ほとんど動かない葉っぱのような昆虫が、自らをカモフラージュして背景に溶け込みながら、私たちに「動き」の発見と、その知覚の仕方を、静かに示してくれているようだ。



ガラス壁の透明性は、植物のなかで昆虫がカモフラージュするのと似て、観者のまなざしが留まることを阻止する。観者の視線は作品の表象を貫き、ガラスの壁を突き破って、内側の生態系の中の微細な動きを注視するため、同時に自発的に身体も動いて、周囲を歩き回ってしまう。そこで観者のまなざしは無機質(非生物)から生物へと遡行し、そしてまた生物からもう一つの異なる生物=観者の身体へと移行するがゆえに、作品が促していた動的なムーヴメントを生み出すこととなる。
マングラネは、私たちのまなざしを先導し、歩みを手引きし、私たちの感覚を活発にしながら、私たちの世界の把握に亀裂をもたらすことを恐れずに、もう一つのオルタナティブな道を、私たちの生命そのものへの道を指し示している。
Tomas Saraceno(トマス・サラセーノ)『Hyperweb of the Present』(2017)
トマス・サラセーノといえば、2012年にNYのメトロポリタン美術館の屋上に作られた高さ6階建ての『Cloud City』をはじめとする巨大なスケールの宙に浮いたインタラクティヴなインスタレーション作品が有名だ。彼の作品は、環境を理解し住処とする新しくサステナブルな方法を模索し、そのリサーチの結果を感知可能な宇宙や、クモ恐怖症、そして空中で住めるかもしれない未来の発端に充てている。
サラセーノはいつも実験的にコミュニティの概念を模索している。現代社会の心を奪う問題—-人口増加、大気汚染、温暖化—-に対する潜在的な解決策として、膨らませたり、住むことができたりする風船やプラットフォームなど実験的なフォルムを提案している。ビエンナーレでは、彼は自身の作品『コズミック・ダスト(宇宙ゴミ)』の再解釈に挑む。
『Hyperweb of the Present』は、1908年にドイツの数学者ヘルマン・ミンコフスキーが発表した「空間とは、そして時間とは、単なる影へと消滅する運命にあるものであり、二つの結合した状態のみが独立した現実を保持し得る」という一声から始まるミンコフスキー時空の超曲面(hypersurface)概念を、現在的にアート的にアプロプリエートしたものだ。ミンコフスキーは三次元に加えて四次元の時間の融合を唱え、その四つの融合を「世界」と呼んだ。ミンコフスキーは概念を図式化して光円錐(Light Cone Diagram)を作成していたのだが、今回サラセーノは、この図式の構造に合わせて、自らの作品を制作している。

例の三棟のサイロの一つを暗闇に満たしたサラセーノは、ミンコフスキーの図式と同様に、二つの光円錐を投影し、中心に蜘蛛の巣を浮かび上がらせている。一つの光は外殻となるフレームの上にハイブリッドの蜘蛛の巣と、この地域特有の生きたアラクネア属のクモ—-主体—-を照らし出し、もう一つの光源は、巨大なマゼラン星雲を映し出すサラセーノの別の映像作品『163,000 light years』を投影している。マゼラン星雲から地球との距離は163,000光年である。その光が、蜘蛛の巣を薄いブルーの色相に染めている。生きた雲は蜘蛛の巣を振動させ、その振動に合わせて、近隣の現場で録音された同様の蜘蛛の音がBGMとしてスピーカーから流れている。


『Hyperweb of the Present』は、存在論的・物理的な条件で、「いま、ここ」を象徴している。ミンコフスキーは、現在の瞬間や現実は、宇宙のなかで二つの光円錐—-一つが過去のもので、もう一つが未来のもの—-が出会う粒子の一つである。微視的な方法で、主体であるクモは、私たちの代わりとなる想像の網膜でこの粒子=「世界」を見つめ、過去と未来の合流点をキャッチしている。
アーティスト・ステートメントで、彼はこう述べる。「毎年、40,000トンの宇宙ゴミが地球に降ってきていて、、まるで星屑のように、私たちはそれを吸い込んでいます。黒い物質の塊。ダークエネルギー。蜘蛛の呼吸を超越して、我々が夜空に眺める天の川は、ゴミの集まりにすぎないのです! 原子、元素、化学を集めた、宇宙のウェブ。。こうしたゴミの一部は、いまも上空にあり、私たちは夜空のきらめきとして見つめています。。黄道帯の光、、宇宙の蜘蛛の巣に蒸着されているのです。」
バナルなものと神聖なもの
社会の普遍性を写実すること、環境や制度を熟視することは、これまでいくつかの例をもって、巨視的な方法や微視的な方法論、あるいは人ではなく自然のプレイヤーたちの力を借りながら実行されてきた。こうした作品に見られる、リニアな歴史や美術の言説から遠ざかるように構造そのものを内破させるような指向性は間違いなくモダンなスタンスである。ここから先は、少し主役を人間に戻しながら、私たちが空想しロマンチズムを覚える神話や、日常や社会といったスケールに焦点を移していきたい。
Dominique Blais(ドミニク・ブレイ)『Phases of the moon(Full moon cycle)』(2014–2017),『Empyree』(2016)
ドミニク・ブレイは、長年にわたって、私たちの環境にあるヴィジュアルとサウンドの要素のコネクションを探す制作を献身的に行ってきた。
「私は、見えないものを可視化することに興味があります。例えば、流れとか。アプローチは、非物質とエネルギーの問いであることが多いです。」
彼にとって「不可視を可視化する」対象は、材料の物理的性質であろうと、北極や南極で記録された電磁気の流れであろうと、さまざまな時間や音の流れであろうと、人類にとってテクノロジーの援助なくして知覚できないものである。ビエンナーレでは、少し離れた二か所にわたるインスタレーションで、異なる光の性質を用いて、一方で記憶の想像的空間をモデリングし、他方で光が日常と神聖さの関係とその不在を暴いている。
はじめの作品『Phases of the moon(Full moon cycle)』は、月の描写である。ブライは毎日、特殊なデバイスを使ってガラス球に封じ込めた月の満ち欠けの姿をビエンナーレ会場に郵送してくる。初めの球は9月6日に表象化されたもので、最後のそれは10月5日に到着する。全て球や梱包された箱のフォーマットは同じで、違うのは郵便切手だけだ。つまりこの1ヶ月で、リアルタイムに月は満ち欠けの周期を一回こなすことになる。月の姿という、肉眼ではなかなか把捉が難しいものを、日替わりに姿を変える象徴的な媒体をきっかけとすることで、会場にいながら、私たちは夜空を思い、月夜と季節の移り変わりを想像することができる。それは、単にカレンダーの暦をたよりに月齢を概念的に追いながらリニアな時間軸に置き換えて理解することとは異なり、球体に込められた明度や透明感といったものの美学的判断によって、私たち自らが自然との関わりで直感的に知っているに違いない魔法的なものを蘇らせてくれる。

例えば歴史的な世界では、十五夜は単に新月(朔)から数えて15日目の夜に満月が訪れることを意味するが、私たちがイメージに抱く重要性は、より魔法的でノン・リニアなものである。私たちにとって十五夜は、とりわけ中秋の名月は、秋の訪れを知らせる澄み渡った夜空、秋の収穫の前触れ、そして厳かな月光がそっと煌めかせる神事の営みなど、文化における重大な事柄を意味していたはずだ。
次の作品『Empyree』では、ブレイは日常と神聖をポエティックに表現している。No.1からNo.4までの4つの作品は、大量生産された装飾用のチープな材料で作られている。それらは量販店やディスカウントストアで目にするさまざまな色相とテクスチャのあるプラスチックのモザイク・シートであり、今回は素材感と玉虫色を発する光沢のクオリティから選ばれた。ブレイはこれらのシートをアルミのフレームにはめこみ平面作品にして、伝統的な絵画が自然光を想起させるべくイリュージョンを表現していることを嗤うかのように、本作も極端に光を意識し、むしろ光だけを抽象している。作品の表情は、観者が来場したときの時間帯や季節、作品の前を移動する動きにより目まぐるしく変化し、色合いや反射の仕方も同様に変化する。作品タイトルは古代ギリシアの「最高天」から来ており、純粋な光に満ちた理想の場所とされる。タイトルは、些末な材料と作品が指示する高尚なモチーフとの間に強いコントラストを形成し、場に緊張感を与えている。


ブレイはこうしたインスタレーションや平面作品のなかに可視と不可視のものを繋げるほんのわずかなリンクを探し出し、私たちが想像しうる場所と記憶をぎりぎりのラインで呼び覚ましながら、私たちの期待を逆撫でし、なおかつ感覚に訴えて、新たなパースペクティヴを切り開いてくれている。
社会的な側面:ノマドとクレオール化
現代の欧州、とりわけフランスにおいては、社会的な問題が人々の生活に深い傷を残している。移民、追放、宗教、アイデンティティの問題など、様々な歴史的・政治的な過去の遺産が多くの人々を分断し、経済的にそして精神的に困窮させている。
Marco Godinho(マルコ・ゴディーニョ)『Forever Immigrant』(2017)
ゴディーニョはこうした分断を、オープンで普遍的な位置付けを保つことができる文学、哲学、詩歌などを通じて、ノマド(遊牧民)的な考え方で超克しようと考える。彼の言う「 Nomad Worlds(遊牧民的世界)」は、複数的で、いつも開けていて、あらゆるものに興味を示し、有機的な思考を備え、世界の残余物をうまく使いながら、一箇所にとどまることなく、再生を繰り返し、批評性と詩的な感覚を抱きながら、常に脈打つように、あらゆる脅迫や権力に屈することがない。移動し、学び、ともに生き、言語を常に新ため、故郷から孤立し、一刻一刻を新しい呼吸でもって再構築し、そしてもう一度息をする。文化のリミックスである。そして、クリエイティヴな活動こそ、絶対不変の自由である。
ビエンナーレに合わせて、ゴディーニョは数年前のインスタレーションを再制作し、ラ・シュクリエールの建物の外側から内側に至るまでを「Forever Immigrant(永遠に移民)」と彫られたスタンプで埋め尽くし、雲のような有機体を描き出している。スタンプとインクパッドで記されたものは、役人が使うもののように、何前回も繰り返される。印字は並列されたり重ね合わせられたりして、合流したり融合したりしている。見方によっては、全体を塊として見ることや、文字が視認できる部分の集合として見ることもでき、まさにそうしたマクロとミクロの視点の変化こそ、政治と人の現実—-内側と外側の分断や、個人が集団に溶け込むこと、そして自発的であろうと、あるいはよくあるケースのように必然に駆られて、移民が個人の恒久的な状態にならざるを得ないといった状況—-をリアルに表現していると言える。まさにアートの姿をとったノマド・ワールドの表現である。さらにラ・シュクリエールの会場の外には、『無題(transparent flags=透明な旗)』という、透明感のある薄い合繊の生地でできた12枚の旗に、欧州連合の12の星が掲げられていて、過去の経済とイデオロギーに縛られた連合の危うさと儚さが浮き彫りにされている。



フランス特有の問題として移民と植民地の関係に焦点を当てた作品では、Julien Creuzet(ジュリアン・クルーゼ)の『Ricochets, les galets que nous sommes finiront par couler (Epilogue)』(2017)も注目に値する。カリブのフランス領マルティニーク出身の文学者・批評家であるエドゥアール・グリッサンの『群島』や『クレオール化』の概念をフォローしながら、クルーゼは、コレクティヴで主観的にウエスト・インディーズの歴史的な状況をもう一度アプロプリエーションし、閉塞した文化的な状況の解放し、そして多重の中心を持たせながら、いくつもの意味にとれる詩的な回路(サーキット)を制作している。
ビエンナーレに際して、クルーゼは詩的だが政治色の濃い作品を用意した。現在使えるテクノロジーと社会でよく目にするツールを駆使しながら、彼はわざと両義的な作品:ヴィジュアルなものとサウンドのコラージュで、一般の歴史やポップカルチャーの記号を参照した批評性のある表現をしている。「床には様々なフォルムへの道筋があります。ボートのカバーはクロームメッキの樹木や電解装置で結晶化され、宙に浮かぶように見えますね。飛行機の翼は楽園からの花のブーケをサポートしているのです。作品タイトルはこれらの要約です。しかし本当のタイトルは、作品に付属する詩なのです。」

リヨン・ビエンナーレについて
エドゥアール・グリッサンは名著『全-世界論』において、自らの命題をこう伝えている。「諸処のシステムやイデオロギーが挫折したところで、個々の場所での拒絶や闘いはあくまでも放棄することなく、不断の分裂と混合、多言語主義、クレオール化の諸主題の無限の反復によって、想像界を遠くまで押し広げよう。」
リヨン・ビエンナーレは、フランスが抱える諸問題の解決方法を散文的な手法で提示することができる、唯一の象徴的なイベントである。とりわけラ・シュクリエールが居を構えるコンフルアンス(合流)地域は、解体と再開発、すなわち破壊と再生に未来的な使命を託された極めて重要なサイトである。ラ・シュクリエールにキュレーションされた作品群は、綺羅星のごとく往年のアヴァンギャルドの再現にはじまり、現在的な、しかもなるべく個々のリンクや脈絡が抑えられたフォーマリスティックなあり方で、私たちの純粋な判断力に向けられていた。
それらが描き出していたものは、局所的な土地と空間の記憶、破壊と再生の肯定的な解釈、人と動物の転位、制度と環境の問いかけ、日常と神話の表裏一体性、そして社会における独立的な主体の呼びかけであった。ただし、仮に来場者が熟視する機会を与えられず、真っ向から作品に向き合ったとしても、それはそれで60年代のコンセプチュアル・アートの美術史の文脈を捉えることができるため得るものは大きいかもしれない。翻って言えば、一階に設置されたハンス・ハーケなど伝説的な作品たちは、私たち一般社会の「中間的な」窓—-つまりソーシャル・メディア—-に切り取られるとき、発信者がそれなりの文化度を表明できそして承認されうるポジティヴな回路として捉えることができる。なぜなら、スマートフォンで撮ったりソーシャル・メディアにシェアできたりするあらゆるテクニカル・イメージは、伝統的なイメージを永遠に再生可能であるからだ。
究極的に言えば、ラ・シュクリエールで展開されたキュレーションは、その使命と土地の記憶と特徴を、そのまま妥当(アプロプリエート)な方法論へと転化した結果によるものだ。リヨンの二つの川に挟まれたプレクシス地域と、再開発の対象であるコンフルアンス地域、そしてその他対岸のサイトなどは、そっくりそのまま「群島(アルキペラーゴ)」を模したような配置であり、それぞれが独立して活発でありながら集合としても息をしているような、自らを再構成する機会に開かれたスタンスを体現している。
すなわち、リヨンの存在論的な志向性は、ダイレクトにリヨン・ビエンナーレのディレクションに反映されている。2年に一度の祭典でありつつも案内や告知の薄さ、お祭り騒ぎが見当たらないことなど、リヨンのローカリティの実際の生活者の温度を生々しく再現している。ラ・シュクリエールとMAC(リヨン現代美術館)の関係性に絡めていえば、複数のアーティストが複数の異なるコンセプトの作品を、異なる場所に、しかもそれぞれが独立的な表現方法で観者と向き合っている状況は、ひたひたと忍び寄ってくるリニアな歴史と解釈学に対しての防御力を高めることに寄与しているだろう。
それはまさに、ヴァルター・ベンヤミンの星座的布置(コンステレーション)の概念を実感できる場である。おさらいをするならば、星座的布置とは、いくつかの要素がそれぞれ独立的に存立しながらも、巨視的に見れば、果てしない距離や断絶を超越して、ある一定のパターンとして共同的にまったく別の意味を生み出すようなものである。
過去を背負い、背負うふりをして、過去との文脈を断ち切り超克することで、未来を描き出すこと。遊牧民的なあり方で、過去の遺産を使えるところは使い、しかし執着せずに、いつでも自ら孤立してでも活動することができる流動性(liquidity)、浮遊性(floating)。第14回リヨン・ビエンナーレは、そういった純粋なアヴァンギャルドなモダニティがふさわしい、野心的かつインパクトのある企画だったのではないだろうか。
最後に、もう一度、エドゥアール・グリッサンの言葉で締めくくりたい。「クレオール化は予測不能であり、様々な本質(エッセンス)やアイデンティティの絶対性の内に凝縮したり、停留したり、登録されたりするものではない。現存(エタン)は持続しつつ変化するものであることを認めることは、何らかの絶対に近づくことではない。変化あるいは代替あるいは交換において持続するもの、それはおそらく第一に変化しようとする意志ないしは勇気である。」