インド北東部紀行(第一話)「アラカン山脈を越えて、インドへ」

「2019年12月25日 クリスマス」
 
 クリスマスの朝。7時起床。というより、終夜にわたり緊張であまりよく寝られなかった。
 
 そのせいか空腹に耐えかねて、7Fのレストランに直行した次第だ。朝日がレストランから見下ろす眼下の街並みに差し込んでいた。
 

 僕はレストランの入り口で卵二つ入りのスクランブルエッグを注文した。レストランに入ると、僕以外にすでに数人の客が朝食を摂っていた。そして席に座ってから、ビルマ料理のヒヨコ豆のスープや野菜炒め、果物などを皿に取った。さすが一泊3000円もするから、カレーミョウにあるMoeホテルのビュッフェ形式の朝食はなかなかのもので、バランス良く栄養を摂取できた。
 

 部屋に戻ってから水勢が強い熱いシャワーを浴びて、8:30にホテルをチェックアウトした。帰りの12月29日の夜の一泊分も、ついでに予約しておいた。
 
 なにせ、外で待っている運転手のチットコーは昨夜になって突然、インドへの入国ができないと言い出したから、帰りの予定がガタ崩れしたのだ。僕らは前夜、ホテルのロビーに響き渡る口論を展開していた。
 
 そんなこともあって、僕らは重苦しい空気の中で出発しなければならなかった。重いスーツケースをボーイに渡して、自分のリュックのみ背負ってから、外に出た。
 
 朝のひんやりとした空気を吸い込んだ時、久しぶりに東京の冬を思い出した。
 
 チットコーはすでにホテル前の駐車場に来ていた。90年代のToyotaカルディナ。よく走る車だ。


 
 僕は簡単にチットコーを一瞥して、助手席に乗り込んだ。ドアを閉める前に、ポケットから出した1000チャットをボーイに手渡した。
 
 今朝のカレーミョウには朝靄がかかっていた。カメラ映りは良かったが、心中では初めてのインドに対しての不安と微妙に重なっていた。
 

 タムーまでの道のりは平坦で、これまでの道路と比べると格段に走行がしやすそうだったが、それもつかの間、また別の障害と遭遇することになった。
 
 鉄骨の骨組みに木板を載せただけの、極めて不安定な鉄橋である。カレーミョウからタムーへのおよそ3時間の道程は、ミャンマーとインド国境にそびえ立つ山脈の東側を通過するため、チンドウィン川に流れ込む多くの細流をまたぐことになるのだ。
 

 橋を越えると、チットコーは一気にスピードを上げる。ふと左を見ると、南北に延々と続く山脈が見えた。アラカン山脈。あの山脈の向こうには、3万人の死者を出したインパール作戦の退却ルートの一つである「白骨街道」がある。
 

 カルディナが国道を疾走していくと、また短い鉄橋が目の前に現れてきた。第一印象からとても古いことが伺える。2018年にタイ北部のパイからメーホーンソンへの道中で見た鉄橋の構造とかなり近似している。その鉄橋は泰緬鉄道を成す部分として日本軍が建造したものだった。
 

 僕はチットコーに、どういう橋か聞いてみると、彼は「この橋はとても古い。日本軍が作ったものだ」と説明した。僕は正直、戦時中にビルマの戦いに従事していた日本軍の師団の中でもチンドウィン川流域を行軍していた部隊にそれほどの余裕があったとは到底思えなかった。
 
 どちらにしても、この橋ときたら元々が戦車用なのか、やたらと床の部分の作りが鉄筋むき出して荒く、木片を仮に並べて平面を作っているだけだから、非常に揺れがひどく、走行には極限まで徐行する必要があった。その度に、カルディナの車内が激しく揺れる。この車はすでにインパネの接続部が外れてぐらついていて、表示されているインジケーターが合っているかは定かでは無い。つまり何十万キロ使われているのかは不明だ。
 
 しかしミャンマーでは、80年代、90年代の車はもちろん現役で、誰もが憧れるのが日本車なのだ。商業ではライトエースのような軽トラより一回り大きい車が好まれている。お下がりの観光バスもよく目にする。
 

 
 さて、この鉄橋の数ときたら、きっと50は下らないだろう。しかし調べてみると、それどころでは無い。第二次世界大戦の時代に建造された73基の鉄橋があるという。確かにイギリス軍か日本軍のいずれか、もしくはその両者が建てたもののようだ。
 
 僕らは平地を飛ばし、長閑な農村をいくつも通過した。橋が近づけば深くブレーキを踏んで、その全てを踏破した。
 

 
カレーミョウを発って2.5時間、車はタムーの街に到着し、ショップの並びから中央通りだと思われる道を進み、Google Mapが指し示す国境の入り口に到着した。ゲートは、India Myanmar Friendship Gateを冠している。
 

 
 しかし、ゲートは一部開かれた部分を残して鉄柵で塞がれていて、往来する人はいないし、近くには何をするでもない人達ですら疎らだった。あたりにはゴミが散乱していて、明らかに渡航しそうな荷物を持った人影もないので、妙に思えた。
 
 チットコーが近くに座っている男性に尋ねると、どうやら別の場所に来てしまったらしい。僕らは車に再び乗り込んで、商店が並ぶ道を1kmほど戻った。
 
 その時、僕らの横を一台のスクーターが横切り、荷台に載せられた生きたままの豚の姿が目に入った。ミャンマーでは今までもそういう場面はきっとあったに違いないが特に気にはならなかった。しかし今は、何かの暗示かと思い過ぎてしまった。
 

 信号を右折すると、とたんに人気と車の往来が減り、雰囲気が変わったことが感じられた。少し進むと、左右を森に囲まれた下り坂に小さな小屋が見えてきた。遠くには黄色い鉄橋のようなものが見える。
 

 チットコーがおもむろに車を停めて、小屋に向かうと、窓口のあたりで誰かと話しているようだ。彼は戻ってきて、広く開いたサイドウインドウ越しに、ここで合っていると言った。
 
 僕はパスポートを持って車から離れた。小屋に向かうと、制服を着た担当者がパスポートを要求し、用紙の記入を求めてきた。制服にはImmigrationと彫られた胸章が見えたので、なるほど役人は一人だが、ここが出入国管理事務所なのだとわかった。
 
 僕は用紙を渡してから、指示された通り小さな丸いカメラに向き直ると、彼は頷いてパスポートにスタンプを押した。
 
 すると役人は「50ドル札はくずせるか?」と聞いてきたので、最初何のことかわからなかったが、ジャスチャーからすると何かの為にお釣りが必要なようなので、僕は「ちょっと待ってて」と言ってから、車のリュックの奥にしまってある小袋からドル札を探してみたが、1ドル紙幣が数枚と、あとは100ドル札や20ドル札が一枚しかなく、悪いができそうにないと伝えた。彼はOKと言った。
 
 僕らは車に乗り込み、いよいよインド側に向けて峡谷を越境する。ガタガタと音を立てて車は進み、ちょうど真ん中で鉄橋の色が黄色から白に変わる時、国境を越えたことになった。
 

 インド側は物々しい雰囲気だった。橋を渡ったところには英国のランドローバーを模したようなデザインのMahindra社の軍色に染められたピックアップ・トラックが置かれていて、周りには兵士達がAK-47を抱えてジロジロ見つめてくる。
 
 僕らは笑みを浮かべて頷いて、素通りした。インド側の出入国管理事務所は巨大な施設で、周りには軍のロジスティクス用の建物も見えた。車で進入するゲートまで行くと、優しそうな軍人が笑顔で迎えてくれて、少し気が楽になった。
 

 丘を上ってゆくと、頂上が開けて平地になり、広大なスペースの奥の方に、僕らは車を停めた。
 
 降りると、小銃を背負った二人の兵士が近寄ってきて、英語で事情を尋ねてきた。インド訛りがすぐにわかったが、ほとんど英語が通じないミャンマーと比べると、コミュニケーションに関しては、インドは幸先が良さそうな予感がした。
 
 出国は自分一人だけです。日本人です、と伝えると、中年の兵士は「ジャパン」と復唱して、建物の入り口を指差して、あそこに行くようにと言い渡された。
 

 僕はチットコーからスーツケースとリュックを受け取って、建物に向かって歩いた。
 
 
「いざ、インドへ」
 
 「いつ帰ってくる?」チットコーは言った。
 
 もう3ヶ月も前から旅程を彼に何回か共有していた。出発前に日本から、マンダレーに到着した後も旅程を伝え、そして昨夜の口論でも伝えているので、いい加減にして欲しいと心の中で返答していた。
 
 「29日の正午にここに戻る。必ず車で待っていてくれ。君が突然インドに来られなくなって、僕は困っている。君にはわかるかい? これがどれだけ不安にさせる出来事かを。」
 
 「OK、OK。29日のお昼、ここにいる。」
 
 僕は頷いてチットコーと握手をして、建物に入った。
 
 入るとすぐ左横に軍人が座っていて、パスポートを見せるように指示された。渡してから、ビザのページはどこかと言われて、後ろの方にあると伝えた。日本からインドを観光するにはビザが必要だ。一般的な方法のフライトを利用した渡航では到着してから発行できるビザ・オン・アライバルもできるらしいが、僕のように陸路で国境を越えるとなると、事前に東京のインド大使館でビザを入手する必要がある。
 
 軍人は該当するページを見つけると内容を見て頷いて、顔をあげて奥に向かって顎で指示した。
 
 「向こうのArrival(入国)に並ぶように。」
 
 僕は奥のカウンターへ向かった。周りには誰一人いない。カウンターには役人が一人座っているだけだ。彼にパスポートを渡して、しばらくすると入国の手続きが完了した。
 
 次に荷物チェックのベルトコンベヤーが待っている。ここにもスマホ画面を眺める担当者が一人いるだけで、僕が近づくと機材にスイッチを入れた。
 
 手持ちの小さなバッグには水や軽いスナックが入っていたので、僕はインドへ持ち込めるものか聞いてみると、彼は首をクイッと左上に上げた。僕はよくわからず、もう一度聞いてみたら、同じ仕草をされた。
 
 バチン、とコンベヤーの向こう側に荷物が落ちた音がしたので、僕はそのまま進んで荷物を受け取った。
 
 最後に税関のカウンターがあった。ここにも担当者の初老の役人が一人いるだけだった。コピー劣化の激しいペライチの紙に必要事項を記入し、ノートを手渡され、日付と時間と名前を記入し、一番右にサインをした。今日は僕以外には一人二人しか入国していなかった。誰もが暇なわけだ。
 
 というわけで無事に入国できた。初めてのインド。僕ら裏に回ると、ガラス窓の張り紙を見て、モレーの街までのシャトルがあることを知った。事前に調べたところでは、ここ管理局からモレーの街までは未舗装の泥道を1kmほど歩かなくてはならない。
 
 僕は建物の裏から出て、駐車場を横目にスーツケースを転がしながら、チットコーの車のそばにまだ例の兵士達がいたので、遠くから「シャトルはどこから乗るの?」と叫んでみた。
 
 すると兵士達はこっちこっちと手招きするので、柵の隙間から進入し、再びチットコーのいる場所へ戻った。兵士達はどこかへ電話をしている。それから、少し待つようにと言われた。
 
 その間、僕はチットコーの車からバナナを取り出して食べて、そのほか小分けになったビスケットをいくつかチットコーからもらった。僕はすでにミャンマーを出国し、インド国内にいるのにも関わらず、ミャンマーの荷物を手にしたり持ち込んだりして、本当は禁じられているはずだが、兵士たちは穏やかなままで、特に何も言わなかった。彼らとの雑談は続き、それによると、たまに日本人がこのルートで入国するらしい。
 
 時計を見ると、12:15だった。すると後方の遠くから車が接近してくるのが音でわかった。
 
 80年代のSuzukiのライトバンだった。
 
 運転手は浅黒い肌のインド人だが、いわゆるアーリア系ではないようだ。あまり英語はうまくない。僕はチットコーに別れを告げて、ライトバンに乗り込むと、車はまた国境の鉄橋まで戻って、素通りして逆方面に進んだ。
 

 SLOWとかSTOPとかペンキで書かれた、数枚の鉄柵のバリケードをくぐり抜けて、いくつかの教会を通過した。
 

 
 ほとんどが木造にモルタルを塗っただけのような質素な造りで、クリスマスの飾り付けも控えめだった。
 
 その中で、一際目立つ教会は、新造したばかりのようだった。僕はインド側に入ってもまだミャンマーのSIMカードが効くのを知って、Google Mapを開いてみると、あたりは無数の教会の記号が確認できた。
 

 運転手に、インドのこの地域はキリスト教徒が多いかと尋ねると、そうだ、と言った。
 
 5分もすると、街並みと家屋の密集の感じが全くミャンマーと違うことが明らかだった。ミャンマーでは当たり前の白粉である「タナカ」を塗った女性や、ロンジーを穿いた男性は一切いなかった。
 
 周囲には赤を含んだ黄土色の土埃が舞っていて、地面と壁がその色に染まっている。TVや映画などで得た勝手な印象だろうが、あたりいっぱいの砂塵と埃っぽさが、まさにインドに来たことを実感させた。
 

 大通りに出た。遠くにゲートが見える。周りは狭い間口の雑貨屋や食事処が多い。奥のゲートは、さっきミャンマー側で見たIndia Myanmar Friendship Gateの反対側に違いない。緊張していたからか、あれから随分の時間が経過した気がした。
 
 運転手は車を停めると、ここがモレーですよ、と知らせてくれた。
 

 「これからどこに行くの?」と訊いてきた。
 
 僕はインパールまで行きたいんだと伝えると、僕の兄弟が運転手で、ちょうどインパールに行くからちょっと待っててと言われた。インドの勝手がわからない僕は、これはトラップなのか良い機会なのか、不安を覚えて、いくらになるか訊いて、それ次第だと伝えた。
 
 運転手の兄弟が来た。彼は兄弟という割に、とてもアーリア系のいわゆる典型的なインド人の顔をしていた。本当に兄弟なのだろうか。
 
 その兄弟というのはゴパールという名で、英語はもっとできた。提示された金額は1000ルピー。僕は何時間の道程か尋ねると、3時間だという。日本円で1500円程度だ。安く感じたが、800ルピーなら支払おうと値切ってみた。
 
 すると彼らはヒンディー語か何かでぺちゃくちゃと話だして、やはり1000ルピーでないと無理だという。理由は、今日はクリスマスでお客がいないので、行くならあなた一人だけになるから、割が合わなくなってしまうという。
 
 僕はそれでは仕方ないと伝えて、その代わり、両替とSIMカードを買うことを手伝ってくれること、そしてインパール市内の宿まで行くようにと伝えた。僕らは合意に至った。
 
 大きなスーツケースを肩に抱えると、ゴパールは車から離れて裏道を歩いてゆく。本当に大丈夫だろうかと内心不安はあったが、悪い人間では無さそうだと思えたので着いていった。
 

 100mも行くと、後部をジャッキで持ち上げられた後輪の左側の無い、とてつもなく古いSuzukiのライトバンが細い道の脇に停めてあった。
 
 ゴパールはスーツケースとライトバンに載せてから、後部に予備のタイヤを装着した。ライトバンのタイヤはすでに細いのに拍車をかけて、予備タイヤはさらに細い。これで大丈夫なのだろうか。急に1000ルピーが高く感じられてきた。
 

 ゴパールは、「あなたは前の座席に座ってください」と言った。
 
 それから彼は向かい側にある小さな家の入り口のあたりでずだ袋を数えたり移動したりしている何人かと話をして、とても重そうな白い袋を5つほど、ゆっくりとライトバンの後部座席に載せていた。僕はこれは何かと尋ねると、砂糖だという。
 
 ゴパールは次に僕を両替屋に連れていった。銀行ではなく、小さな商店を営む中年の寡黙な男が両替商だという。ミャンマーと全く勝手が違うから、またここでも頭を高速で回転させる必要があり、僕は全力で彼の印象を読み取って、店内の様子や背後の様子などを目に焼き付けながら、いくつかの質問をして、信ぴょう性を高めていった。
 
 やはり日本円は取り扱っていないということなので、ミャンマー・チャットをインド・ルピーに両替することにした。こういう場所だから、両替手数料が高かったり、為替レートが不利だったりするのは致し方ないだろうと腹を括った。
 
 しかしなんと、モバイルで確認した現在の為替レートよりも、割が良い状態で両替をしてくれるという嬉しい驚きが舞い降りてきた。僕は即答で、およそ1万円分くらいの7000ルピーを手に入れた。
 

 近くのモバイル系のショップはクリスマスで休みだったので、インパール市内の方が安いし、あとで探そうということになった。
 
 車に戻ると、いよいよ僕らは出発することになった。時計は13時を示している。車は掘っ建て小屋のようなガタつきのある不安定な走り心地で、先が思いやられる。
 
 ゴパールは、ご飯を食べたいので、ちょっと休ませてもらうよと言った。モレーの中心街の大通りで車を停めると、ゴパールはじゃあここでと言うので、僕は緊張からかそんなに腹は減ってなかったが、せっかくなのでインドの初の食事を試してみようと思った。
 

 中に入ると、座るや否や、ステンレスの大皿に大量に載った米が出てきた。ゴパールが店主となにやら話していて、あなたはチキンでいいかと訊かれたので、チキンならありがたいと伝えた。
 
 すぐに6個ほどの小さい器が出てきて、カレーや菜っ葉のようなものとか、スープのようなものとか、色々と大沢の周りに並べられた。
 

 ゴパールは手で食べていたが、僕はスプーンを頼んだ。一口食べて、これは美味しいと僕は驚いた。スパイスのフレッシュな香りが立ち、旨味と辛味が濃いめの味付けの素材を引き立てている。ご飯が進む。これが本場のカレーかと感動した。
 
 食事を終えると、ゴパールは二人で180ルピー(280円)だから良いと言った。僕が礼を言うと、彼は顎をクイッと下から左上に持ち上げた。入国の際に見たのと、同じ仕草だった。なるほど、これはOKとか、イエスとか、そういう肯定のジェスチャーなのだろう。しかし、心の中では、どうせ運賃の1000ルピーが最後に割り増しになるのだろうと勘ぐっていた。
 
 モレーの町外れが近づいてきた。車が行き交うたびに、一層土埃が舞い上がるのがわかる。そして、車といえばMahindraのボレロか、Suzukiのライトバンが90%を占めていたと確信できるほど、それらの割合が高かった。
 
 前方に急坂が見えてくる、いよいよ、モレーからインパールまで延びる険しい山々のルートに飛び込むことになる。と、思った瞬間、ゴパールは車を左の道路脇に寄せて停めた。
 

 「タイヤを直してもらうから、ちょっと待ってて。」
 
 確かに予備タイヤでは心許ないのは正直なところだ。インドに入ってからミャンマーよりも悪路だと言う印象が既に植えつけられていたから、安全を考えると、彼の判断に従うことにした。
 
 僕は車内の助手席にしばらく座っていた。国境から比べて、気温が下がっていて、湿気も無いから、日陰は心地良かった。
 
 10分、20分、刻々と時が過ぎてゆく。僕は時計を見て、もう13時45分であることを知った。正午に入国してからすでに二時間近くが経っている。これから3時間の山道となれば、インパールに着いたら陽が落ちた頃になる。
 
 しびれを切らして、僕は車外に出て、タイヤの修理屋に向かって道路を渡った。ゴパールは溝が無くなり、くたびれたタイヤの状態を見定めようとする修理工の仕事をじっと見ていた。チューブを取り出して空気漏れの穴を探している。まさか自転車のパンク修理じゃあるまいし、パッチを貼って直そうと言うのだろうか。しかし、どうもそうらしい。母の生家が自転車店で、祖父がその作業をしている様子が鮮明に脳裏に浮かんだ。
 

 日本帝国陸軍の第15軍第15師団のインパール侵攻を困難にさせたアラカン山脈の山々にこれから立ち向かうというのに、こんなペラペラなタイヤに全てを委ねるという事実に、僕はその作業を見ていられなくなった。
 
 ゴパールの注意を惹いて、僕は自分の時計を指差すと、彼は理解したのか、頷いた。そして僕は先に車へ戻った。あたり一面は土埃の赤褐色に染まっていて、ギラギラと突き刺す太陽が、その彩度を高めていた。
 
 車に戻ってから10分もするとゴパールが戻ってきて、リアハッチを開けてガチャリと音をさせると、次に車体がぐらぐらと揺れたので、きっと彼はジャッキで車を持ち上げたのだろう。僕は車から降りて、タイヤ交換を見届けた。レンチに体重をかけてボルトを締めたことを視認した。
 
 13時10分、やっとライトバンは山脈の急勾配の坂を登り始めた。
 
 僕は「16時には着くんだよね」と念を押した。
 
 すでに13時を過ぎているよとゴパールに伝えた。すると彼は、今まだ12時過ぎだから大丈夫、着くよと言った。
 
 僕はハッとして時計を見て、ミャンマーとインドでは一時間の時差があることを思い出した。僕はSuunto Ambit3の時刻を一時間戻した。
 
 ライトバンは山道をぐいぐいと登ってゆく。マニュアル車はこういう時、ローギアの恩恵を得ることができるから、基本的な排気量やトルクは低くても、走行能力は運転技術で補完することができる。
 

 それにしても重ステといい、手動のサイドウインドウといい、80年代に父親が乗っていたトヨタのコルサを思い出させる。何よりも当時の車のサスペンションは現代のものと比べて構造が異なるから、質が悪く、地面のプロファイルをそのまま臀部が読み取るようだった。
 
 そして舗装の具合と言ったら、日本の舗装路とは比較しては申し訳ないほど低品質だから、二つ合わせて、それはもう酷い揺れだったことは想像されたし。もちろん、ゴパールの話を聞いていると、仕事として、二日に一度、モレーとインパールを往復して重い貨物を運搬しているというので、Suzukiのライトバンもとてつもなく疲弊している様子だった。
 

 山道を30分も行くと、小さい村を通り過ぎた。村は山嶺に張り付くように斜面に沿っている。一番高く、目立つ場所には教会があって、派手な文字で「メリークリスマス、ハッピーニューイヤー」と表示されたデコレーションが目立った。
 

 ほどなく、一つ目のチェックポイントがやってきた。モレーはインド東北四州のマニプール州に属していて、インド本土からすると民族紛争が絶えない地域ではある。しかし、国境沿いの検問は、ゴパールに聞いたところによると、ミャンマーやバングラデシュからの不法移民を取り締まる目的があるらしい。
 

 車が検問にゆっくり進むと、奥にバリケードが見えてきた。カメラを構えようとすると、ゴパールに制止された。
 
 ここは撮影禁止だ。両脇に小屋のような役所が並び、兵士たちは険しい表情を浮かべていて、物々しい雰囲気がある。もちろん全員が古びたAK-47のグリップを握っている。
 
 車に寄ってきた兵士に向かって、サイドウインドウを下ろしたゴパールが話した。
 
 ここで、モレーの街の小さな雑貨店で複製したパスポートのコピーがここで役に立つようだ。僕は言われる通り、車を降りた。すると兵士は書類をチェックして、バリケードの向こう側の建物に行くように僕に指示した。
 
 歩いてゆくと、右側の崖に突き出した見張り塔の麓から顔面を覆いつくす目あき帽を被った兵士が立ち上がってこちらへ向かって歩いてきた。自動小銃を抱えている。
 
 どこへ行くのだと聞かれて、僕は奥の建物に行くように言われた旨を伝えた。OKと言われて、再び僕は前進した。
 
 それからは特に問題なく、指定された建物に近づくとドアは開かれていて、中に女性の将校がドアに対してデスクに横向きに向かっていて、コピーを渡してと手を差し伸べてきた。
 
 書類を渡してから、しばらくその将校がパスポートとビザを確認し、メモを取っているのを眺めていた。将校はコピーを受け取って、行って良いと手で合図をしたので、僕は車に戻り、ゴパールと車を先へと進ませた。
 
 チェックポイントは、山の頂に設置されていた。稜線を行くと、見渡す限り、延々と山脈が続いている。その姿は日本のアルプスを彷彿とさせる雄大さがあった。近景を眺めやると、その植生はミャンマーとは明らかに違うことがわかる。最も特徴的なのは、竹林が見えるようになってきたことだろう。
 
 中央に竹の芯とも言えるような親木があり、そこに昆虫の薄羽のような形の葉か実のようなものが見える。その周りに下生えのごとく、細かい熊笹のような細身の竹が鬱蒼と生えている。
 
 山嶺の裏側に回ると、左手に17 Assam Riflesという部隊の名称が大きく表示されたゲートが見えて、部隊のインシグニアも確認できた。奥を見やると、さらに小高くなった場所にバラックや電波塔が見えた。おそらくここは元々日本軍が大戦中に作った野営地の跡地を利用した基地なのだろう。
 

 僕らは少し山道を下ってから、また次の峠道に差し掛かっていた。道路のコンディションは悪化した。大きな穴がカーブを開ける位置に必ずと言っていいほど待ち構えている。ミャンマーとインドはモンスーン気候の国々であるから、6月・7月の雨季になると、日本からは想像できないほどの連日の豪雨に見舞われる。日本軍の進軍と退却を阻み、インパール作戦をはじめとする一連のビルマ戦を極めて困難にしたのも、この雨季が大きな要因の一つでもある。
 
 話を戻すと、雨季になると大量の水が地中に染み込んで、舗装の土台の裏側に潜り込んでしまう。すると、土台が不安定になり、部分的に舗装面が緩くなったり、浮き上がったりするから、そこを車が通ってブレーキなど圧力が加わると、舗装面が崩れてしまうわけだ。
 
 しかし、モレーからインパールはミャンマーとの交易ルートの重要な動脈でもあるから、毎年、乾季になると道路工事を行っている。実際に道を進めば、幾度も道路工事に出くわした。
 
 今日はクリスマスなので、この地方にキリスト教徒が多いという理由も重なって作業が止まっている現場が多かったが、場合によっては、新たに道を拡げるために、一から道をショベルカーで掘り起こしている現場にも出くわした。ゴパール曰く、来年つまり2020年にはハイウェイという形で生まれ変わるという。雨季の問題があるなか、本当に実現するだろうか。
 

 このショベルカーやブルドーザーであるが、走行する車なんぞ気にもしていない。車が通れる残されたルートは極めて細く、不安定な泥道の上に、浮いた大きい粒の砂利が散らばっていて、ひどく車体を揺らして、走行スピードに大きくブレーキをかけた。
 
 1時間ほど行くと、またチェックポイントが現れた。今度は坂の中腹の広がった場所にいくつかのバリケードが展開されていて、上り車線と下り車線の両側に役所が設けてあった。止まっている車両を見ると、商業車と自家用車が区分けされているように思える。
 

 僕らは車を降りると、ゴパールが「あなたはここにいて」と言った。
 
 そう言い残して彼は崖の方にせり出した小さい小屋に向かって歩いていき、カウンター越しに兵士と話していた。車から崖の方を眺めやると、とても見晴らしが良く、遠方の山々の全てが見渡せるようだった。すぐ横の広場にはいくつかのプラスチックのチープな椅子が置いてあって、そこに兵士たち数人が座ってタバコを吸って寛いでいた。
 
 ゴパールは僕を呼びつけると、「例のコピーを出して」と言った。
 
 「二枚ともさっきの検問で、役人が回収してしまったよ。」
 
 ゴパールは驚いた様子で、兵士にその説明をしていた。兵士は仕方ないなと言った面持ちで、パスポートの情報を細かくノートに取って、それから手持ちのスマホでパスポートの写真を撮っていた。
 
 それからゴパールと兵士との話は続いた。僕はやけに長いなと思って待っていると、兵士はゴパールに何やら丸いものがいくつも入ったビニール袋を渡した。ゴパールは頷いて、スマホの画面を見ながら、兵士と何かを確認していた。それから兵士が財布から2枚ほど紙幣を取り出してゴパールに渡した。見たところ200ルピーのようだった。
 
 ゴパールはさぁ行こうと言い、僕らは車に乗車した。彼がその袋を後部座席に置いたので、僕はそれは何?と聞いてみた。
 
 「リンゴだよ。兵士の家族に届けて欲しいって。インパールのちょっと手前に家がある。」
 
 僕は、運び屋はこうして仕事を取るのかと理解した。
 
 時計は14:37を指していた。まだインドのSimが無いから、GPSの限られた情報しか得られないが、Google Map上では、まだインパールまでの道のりの1/3しか来ていないようだった。
 
 それから先はチェックポイントは無かったが、行けども行けども、上がったり下がったりの繰り返しで、穴ぼこだらけの道と、工事現場を縫うようにして、車はゆっくり進んだ。
 

 しかし見えてくる景色は素晴らしいものがあり、ライトバンの窓ガラスの傷と汚れが視界を曇らせてはいても、充分な美しさを届けてくれた。極めて難しかったが、僕はNikon D810を構えて、フロントのウインドシールド越しに構わずシャッターを切っていた。
 

 そして助手席側の視界が開けると、サイドウインドウをぐるぐると下ろして、遠景を撮ることを繰り返した。しかしその度に酷い揺れとの格闘で、どこまでうまく撮れたかは定かでは無い。
 
 ゴパールが運転席の小物入れから何かを取り出して、僕に向かって差し出した。
 
 「噛むかい?」
 
 それは、ミャンマーの運転手チットコーがいつも噛んでいるベテルの葉っぱを包んだ噛みタバコだった。チットコーが言っていた通り、インド側にも存在した。
 

 僕はネット情報で、ベテルの噛みタバコは歯を痛める問題が深刻化している記事を読んでいたので一瞬躊躇ったが、せっかくなので、インドのものを試してみようと思った。
 
 手に取って葉を開いて見ると、ミャンマーのそれとは少し異なり、特有の白い粉まみれにはなっていなかった。中に入っている木の実か木の破片みたいな固形物と金属の破片のようなもの、そしてタバコの葉っぱとハーブのようなものは入っていた。
 
 ゴパールはタバコの葉を捨てる派らしく、口に含む前に、手でタバコを取り除いていた。僕はそのまま口に含み、噛み始めた。脳が冴える感覚が到来する。
 
 僕らはそれから30分ほどベテルを噛み続けて、たまにサイドウインドウを下げて唾を外に吐いた。外気は乾燥していて、強い日差しが叩きつけてはいるが、高地特有の涼しげな風がとても気持ちよく、僕らは窓を大きく開けて進むことにした。
 
 しかし、たまにその最中、前方にダンプカーが走っていたり、対向車が砂埃を巻き上げて走っているのを確認するや否や、恐るべき勢いで砂塵が入ってきてしまう。僕らはそれを避けるため、そういう状況がやってくると、ぐるぐると取ってを回して窓ガラスを上まで持ち上げた。だんだん息がぴったり合ってきて、滑稽に思えた。
 
 そうしているうちに、さっきから下り坂が増えてきた。もはやほとんど上り坂には出くわしていない。左右の木々の隙間から見える遠くの山々の稜線が明らかに我々よりもはるか上の方に見えている。標高が下がってきたということは、やっと山道の終わりが近いということかもしれない。
 

 想像は的中し、山脈を抜ける合図は、とても経験的に記憶に残りそうな、直線的で、広さのある、そして舗装の行き届いた道路として眼前に見えてきた。ついにライトバンにもスピードが戻ってきた。他の車両とシンクロして一気に下りきる。前方にはさらに奥へと続くバイパスのような街道が見えている。左右の奥には建物が見えてきて、文明の存在を感じさせた。
 
 時計は15:30を指していた。僕はカメラを構えたが、すぐにゴパールにまたもや制止された。
 
 警察のチェックポイントだから撮影は禁止だという。検問ということではなく、徐行で進行することになっているようだ。それにしても、インド人達は警察や軍隊に対して怯えているように思えた。それだけモディ首相の圧力が市井にまで響いているということなのだろう。
 
 僕らは問題なく通過した。それから少しすると、沿道で野菜や果物を売る女性達が目に入ってくると、そこでゴパールは再び車を停めた。僕は車中に留まり、10分ほど待つと、ゴパールはビニール袋を下げて戻ってきた。またリンゴだという。例の兵士に依頼されたらしい。僕は少し嫌気がさしはじめていた。
 

 ここからインパールまでは一直線の道だ。古びたトラックや農業用のトラクター、トゥクトゥク、マヒンドラの乗り合いのピックアップ・トラックなどが街道をゆっくりペースで進んでいる。それは、1日の仕事を終えた農民達の姿だった。
 

 バイパスの左側には広大な田園風景が広がっていた。遠くには山々が見えて、その手前にはいくつもの野焼きの煙が立ち上っている。風向きは南。それぞれの煙の筋が同じ方向に向かって尾を引く様子は美しかった。
 
 これらは全て、コメの田んぼだ。秋の収穫を終えて、また来年の田植えの時期まで土地を休ませる。沿道近くの田畑では、女性達が刈り取ったコメを大きなザルに乗せて、空中にひょいと浮かせるようにして、コメの籾殻を飛ばしていた。黄昏の橙色に染まる女性達の頬の赤らみに、人の生活の温かさを直感し、家族への恋しさを募らせた。
 

 僕は窓を開けて、野焼きと舞い上がった土の混じった匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。昭和の時代の匂いがした。インパールは日本だ。夕暮れ近くの晩秋の田園風景を描くとしたら、日本画のパレットを用いることができるだろう。僕は束の間の安らぎを味わった。
 

 しかし、その歓びはすぐにかき消された。16:10、インパール手前の田舎町に差し掛かると、ゴパールはまた車を停めた。僕は車中に残ったが、橋の手前の本来は停められない場所だったようで、行き交う人々の交通を妨げていたから、彼らの不機嫌な表情は僕に向けられてしまった。
 
 ここでも10分以上待たされた。もはや日没を過ぎ、空には紫色の色面が広がっている状態だから、車道はすでにヘッドライトで満ち始めていた。
 
 ゴパールは今度は野菜を持って帰ってきた。これも例の兵士の家族のためだという。僕はさすがにしびれを切らした。
 
 「いい加減、インパールに向かって欲しい。もう16時を過ぎているだろう。約束だともう到着している頃だ。」
 
 ゴパールは平然とした様子で、「もうあと20分だよ、すぐだよ」と言った。
 
 僕は何も言い返さなかったが、場の雰囲気は理解してくれただろう。
 
 さらに進むと、16:30には辺りは暗闇が拡がっていた。ミャンマーと一時間の時差があるが、ここ東北部はインド本土からかなり東に位置するため、時間帯的にはミャンマーと同等のはずだった。つまり夜の帳が下りるのが早い。
 

 その時、ゴパールが車のスピードを下げて、町外れの、家がポツポツとしか無い左右の沿道をキョロキョロとし始めた。それから1kmほどもそのような行動を繰り返し、右奥に見えてきた民家を見て、ついに彼はまた車を停めて、車外に出て、そちらへ向かった。
 
 僕は黙っていたが、5分ほどして彼が戻ってきた。そしてこう言った。
 
 「ここじゃなくて、行き過ぎてしまった。ちょっと戻るよ。」
 
 そして彼は電話をかけた。例の兵士に電話して、場所を確定させているらしかった。僕はさすがに承服しかねて、ゴパールに言い放った。
 
 「戻るなんてダメだよ。インパールはもうすぐでしょう。予定の時間から随分遅れているし。」
 
 「ちょっと戻れば家がある。すぐに終わる。」
 
 「いや、ダメだよ。そもそも、僕と砂糖を運ぶことだけが仕事だったじゃないか。君が僕以外の仕事を受けるなんて一つも言っていなかったじゃないか。」
 
 「でも軍人に言われている。」
 
 「それは君の時間にやってくれ。僕は君を大金で雇っていて、いち早く宿に着かなくてはならないんだ。」
 
 そしてゴパールは嫌々承諾し、車は予定通りインパールに向けて前進した。
 
 17時。インパール市内の交通量の激しい交差点に到着した。僕はあらかじめ入手していたAirBnBのホストの電話番号をゴパールに伝えて、電話してもらった。すると、ホストが迎えに来てくれるという。
 

 5分もするとホストがスクーターで現れて、道が複雑だから彼の後をついていくことになった。
 
 そこから5分も真っ暗闇の住宅街を進むと、今回の宿泊地に到着した。予定よりも1時間半も遅かった。商店街は今日の営業を終えて、simも買えないかもしれない。
 
 荷物をライトバンから取り出して、僕はゴパールと今回の仕事の総括をした。自分以外の仕事を道中で取って、そのために3回も停まり、余計な時間を費やして、そのために遅れてしまったねと。ゴパールは平気な顔で、今日は仕事が少ないから仕方ないと開き直っていた。僕は1000ルピーを支払って、彼に別れを告げた。
 
 AirBnBの敷地は広かった。僕が泊まる建物は離れにあって、大きなアパートの2F部分を丸々使えることになっている。キングベッドを備えた寝室が2つ、中央に広いリビングがある。トイレ、バスルームも二つ備わっている。ミャンマーからチットコーと車で来て泊まる予定であったためだ。
 

 

 ホストの名はInao(イナオ)。英語の堪能な好青年だった。肌の色は黒いが、インド人とは異なる顔立ちだった。彼は部屋の使いかたを簡単に教えてくれて、その後、荷ほどきをしながら、色々と雑談をした。イナオは、疲れただろうし、せっかくなので自分の父と叔父とお茶にしないかと言ってきた。
 
 僕は疲労もあったが、simを買い、そして宿について安心したからか空腹が襲ってきていたので、あまり乗り気では無かったが、それはありがたいと伝えた。
 
 二階の屋根付きのバルコニーにはダイニング用のテーブルがあって、そこでイナオの父と叔父に挨拶をした。お茶は緑茶だった。そうか、アッサム地方も近いし、英国領だったため、インパールもお茶は有名に違いない。
 
 二人は、早速、僕がインパールまで来た理由を聞いた。日本人の足跡を辿っていて、戦時中の様々な作戦の中でも最も有名なインパールとはどんな場所が実際に自分の目で見てみたかったと伝えた。
 
 彼らはよく理解してくれて、日本人のことは記録や伝承として残っているし、政府との取り組みで博物館も新設されたと言っていた。それからコヒマやウクルルといった、別の戦場についても教えてくれた。もちろんコヒマのことは多少勉強していて、今回の旅では次に訪れる場所だ。
 
 しかしウクルルという場所は聞いたことがなかった。携帯で調べようとしたが、もちろん電波が無いので、僕はイナオに ポータブルWi-Fiを借りた。そして男娼もたけなわになった頃、そろそろということになってお茶のセッションを終て、僕とイナオは街へ行くことになった。
 
 スクーターで行こうということになり、僕はイナオの白いスクーターにまたがった。まずは雑貨店へ。店の初老の主人は初め、simのことで身分証明書が云々とかインド人でないとダメだと言っていたようで、一週間だけだし、使い捨てのものは無いかと探してもらった。
 
 店の主人と妻だと思われる女性はしばらく話していて、vodafoneのsimの6Gデータ付きのを240ルピーで譲ってくれた。それからお客が食べていたヨーグルトのような乳製品を10ルピーで買って食べてみた。酸っぱさのある、優しい味だった。
 
 次にスクーターは、食事に向かう。イナオが連れて行ってくれたのは、サッカーファンが集まるお洒落なカフェだった。地元の物を好むと伝えていなかったから、こういう店を紹介してくれたのだろう。
 
 僕はビーフバーガーとフレンチフライを注文した。こういう店にしては珍しく、ビールを置いていなかったから、仕方なくブラックティーを頼んだ。バーガーはほどなく提供されて、なかなかの味に驚いた。値段もイナオのお茶も全部含めて200ルピーととても安い。
 
 店を出る前に、僕らはセルフィを撮った。
 

 最後に、イナオにビールでも飲まないかと誘ってみると、じゃあ買いに行こうということになった。しかし訪れた店はスーパーやバーではなく、表通りから離れた暗がりにある、テイクアウトの飲食店のような店だったから、少し妙に思えた。
 
 イナオが辺りの様子を伺っているので、どうしたのと訊ねてみると、マニプール県ではお酒が禁じられているから、表立っては買えないから、裏口で買うのだと言った。まさか酒が禁止されているとは。
 
 ということで地元のビールは存在しないので、僕らはミャンマービールを座席下の格納庫に仕込んで、帰宅した。
これから一緒に飲むのかと思ったら、じゃあ今晩はこれくらいで、疲れを取ってくれとイナオが言った。僕は少し拍子抜けしたが、了解と伝えて、明日のことを話した。
 
 「明日は一日タクシーで回るといいよ。インパール戦争博物館とか墓地とか、いろいろ回るんでしょ?」
 
 「ええ、そのつもりです。さっきの店の張り紙にあったくらいの値段ですよね?」
 
 「うん。丸一日で2400ルピー。冷房が聞いたセダンのタクシーだよ。」
 
 生活費の相場からするとかなり高く感じたが、それしか選択肢は無さそうなので、僕はタクシーを呼んでもらうことにした。
 
 「明日の予定は行きたい場所を調べるので、後でWhatsAppで連絡してもいいですか?」
 
 「もちろん。そうしよう。じゃあグッドナイト。」
 
 僕らはそう言って別れた。
 
 僕は部屋に戻り、ビールの500ml缶を開けて一気に喉に流し込んだ。格別の味だった。
 
 今日1日を思い起こすと、今朝ミャンマーのカレーミョウにいたことがとても昔のように思えた。とにかくインドに入ることができて、目的地のインパールに到着できた。
 
 僕はビールの苦味が身体に染み渡る感覚を大事に堪能しながら、微睡んでいくのを素直に受け入れた。
 
 
 (つづく)