東南アジア紀行 <インドシナ編>その1 —-Round ‘bout West by Southwest w/ Tuan Andrew Nguyen—-

「ベトナム:人と生物のあいだに」

 

本当は、ベトナムのことはあまり知らなかった。

いくつかのハリウッド映画で触った程度で、それらはたいがい政府と世論のあいだで錯綜する一人のアメリカ人の心情が演出された舞台でしかなかった。ケン・バーンズのドキュメンタリー「The Vietnam War」は、まだ見る機会を得ていない。

1月8日。僕はキャセイ・パシフィック航空の午前の便で成田から機上の人となり、香港に降り立った。成田からの便では機内食が出たので特に腹が減っていたわけではないが、僕は久しぶりのアジアに心が浮き足立っていて、カフェやビストロやピッツァ・レストランといった国際空港にありがちな店には見向きもせず、何か香港らしいものをと思い、フードコートのような場所で軽く雲呑麺と青島ビールを注文して、その欲求を満たした。もちろん香港ドルは持ち合わせていないためクレジットカードで支払った。たぶん1,000円くらいだったと思う。

僕はゲートが見下ろせるカウンターに腰掛けて、借りてきたWi-Fiのポータブル・ルーターをONにしてGoogleで調べてみた。香港市内に何店舗もチェーン店を展開する、わりと有名な雲呑麺の店のようだ。ついでにソーシャル・メディアのアプリを開こうともしたが、オンライン状態になったことを知られたくなかったから、思いとどまった。

香港で1時間時計を戻した。

それから乗り継ぎの便に乗ると雲の様子が変わった気がした。純白で、厚くて、弾力のありそうな、まるで綿飴のような雲海の上をゆっくりと揺られてゆく。

それからどれくらい経ったか、はるか遠方の雲の上端がみるみる夕焼けで赤く染まっていくのをぼんやり眺めていて、少しのあいだ自分が微睡んでいたのを知った。機長からのPAでもう1時間時計を戻し、着陸態勢に入った。

ホーチミン市が近づいている。まだ高度は相当あると疑わなかったが、雲が晴れると、地表かと思えた暗いものよりもさらに暗いものが有機的なラインを描いて横からスライドしてきた。ホーチミン市の東側の海岸線だろう。ほどなくその海岸線が暗き海を凌駕し黒色に染めていくと、かえってオレンジ色の光があちこちに目立ちはじめ、それらがやがて集合してはまた散り散りに砕けてゆく。想像するに農村部と農地が繰り返し訪れ、そしてまた去っていくのだ。

しだいに高度を下げてゆくと、疑うべくもない膨大な数のオレンジの線や塊が縦横無尽に走る大都市が現れた。旧サイゴン、現ホーチミン市である。

搭乗便から一歩外へ降りたときには、午後6時半だった。日本は午後8時半だ。

入国審査の時、軍服姿の審査官から嫌な緊張感を受けた。帰りの便の航空券を呈示せよと要求されたものだから一瞬戸惑ったが、すぐにスマフォを起動させ、通信はOFFではあったがどうにか端末にダウンロードしてあった旅程を見せ、1/22にシンガポールから日本へ帰国する旨を説明した。

 

後から気づいたことではあるが、ホーチミンの市井は生活感に溢れ自由奔放そのものなのに、社会主義国家である体質上、制度との接点には常に異様な緊張感がつきまとっている。

話を少し戻すと、入国審査のゲートを通過したのがちょうどシフトの交代時間だったようで、突然、軍服の審査官たち全員が一斉に作業を止めると、起立し制帽をしっかりと被り、正面を向いて深く一礼をし、回れ右をした。すると奥から次のシフトを担当する軍服を着た審査官たちが等間隔で行進してくる。審査官たちは定位置で立ち止まり、お互いに敬礼をして入れ替わった。およそ数分に及ぶ手続きだった。

僕は入国を済ませ、手荷物を受け取り、ATMで現金500万ベトナム・ドンを引き出した。日本円に換算して24,000円くらいだ。単位がインフレ状態でゼロがやたらと多いから、なんとなく金持ちになった気分になるが、やがて単に計算が面倒であると感じるようになった。

すでに夜が訪れた外に出ると、例えば夏の出張でNYから日本に帰国した時の外気に感じるような、身体にまとわりつく熱気と湿気を感じた。しかし寒い日本を後にした今、汗がにじんでくる感覚はむしろ心地よかった。

歩き始めた瞬間、正規だか白だか全く不明な何人ものタクシー運転手たちに英語で話しかけられた。僕は事前に香港でGoogleで下調べをしていた正規のタクシー会社2社VinasunとMai Linhのみを探すことにするが、記事で読んでいた見た目のタクシーなど見つからない。しばらく歩くしかないのだろうと覚悟したとき、一人の運転手がMai Linhの名刺を見せつけてきて、自分は本物だと名乗った。

市内のホテルまでいくらかと聞くと15万ドン(700円くらい)というので、下調べのレートとほぼ変わらない。信じてついていくことにした。

しかし、道を挟んですぐの駐車場に行くと、彼のは全くもってMai Linhの彩色がされていない。少し戸惑ったが、約束の金額しか払わないことを念押して、あまり気にせず乗り込むことにした。

運転手は片言ではあるが英単語を探す努力していた。会話の感じは柔らかい。車内で運転手は、いかに日本の企業がベトナムにとって重要であるか、そしていかにメイド・イン・ジャパンの製品を望んでいるかということを話していた。運転手はトヨタ車に乗っていたが、記憶が確かであれば新車でも日本よりは半額かそれ以下の価格で買えたはずだ。もちろん彼らにとってはとても高価な買い物だ。しかし日本車であれば丈夫で壊れることがないため、焼却までの期間が長く、なんとか仕事との兼ね合いで乗り切れるという。

クラクションが頻繁に聞こえてくる。窓の外に目を向けると、街灯は決して明るくない。白色ではなくオレンジだ。なんとなく昔の田舎の風景を思い出す。目を凝らすまでもなく、とてつもない数のスクーターが縦横無尽に行き交っている様子が視界に飛び込んで来た。二人乗りはもちろん、三人乗りも当たり前だ。三人乗って、その真ん中に挟み込むように幼児を立たせて飛ばしているスクーターもいる。僕は思わず微笑んでしまい、アジアに来た、そう実感した。

様々な色彩のネオンや激しい彩度の広告、そしてHappy New Yearのイルミネーションが視界を満たしてくる頃には、特にスマフォでマップを開いていたわけではないが、市内の中心にやってきた感じがした。

するとタクシーはひときわ賑わう通りに差し掛かった。窓の外にはTシャツとショーツ姿の多くの白人たちの姿が見える。

Bui Vien通りという歓楽街だ。どうやら宿泊予定のThien Tu Hotelは、この通りにあるらしい。近くまで来ているはずだが、どうにも通りの喧騒にもまれ、タクシーはホテルを見つけるのに同じ道を何度か行ったり来たりしなければならなかった。やがて住所の付番が見つかると、運転手はきっとこの奥だというので、僕はお礼を言ってタクシーを降りた。

すぐにあちこちから声をかけられた。人によってはカタコトの日本語で話しかけてくるが、ノーサンキューでやり過ごした。どうしてすぐに日本人だとわかるのだろう。口髭、顎髭はもちろん、髪はボサボサだし、スーツケースではなくバックパックを背負った軽装なのに。

僕は暗い裏路地へ入って行き、やっとホテルを探し当てた。リアカーに積まれた果物や野菜、炒った食物や、その横に座る数人の老婆の姿が見えた。ホテルに入ると途端に近代的になり、明るい照明と空調に包まれた。

僕はチェックインを済ませ、Wi-fiのパスワードを受け取り、エレベーターで4階に上がった。

部屋は広い。クイーンサイズのベッドとダブルベッドが並んでいる。熱気がこもっていたので冷房を入れた。どこかから重低音が聞こえてくる。この腹に響くもの、懐かしい音だ。クラブでかかっているダンス・ミュージックのベースやキックの音だろう。歓楽街だから、きっとすぐそばにある。

長旅の疲労はともかく、早速アジアの喧騒に踏み入って迷い込んでみたい、そう思った。すぐにバックパックを下ろして、いいかげんだがGoogleで近くの Phoのヌードルが食べられる店を探した。歩いて5分ほどのところにフォー・クイン(Pho Quynh)という名店があるらしい。

フロントを横切って表へ出ると、改めてさまざまな匂いを嗅いだ。人の生活臭、スクーターのオイル、排気ガス、道端で調理される食べ物、そのすぐ横で腐敗するもの、そういったあらゆる断片に、時の介在を見た。

顔を上げると、バー、クラブ、まがい物を販売する雑貨店、マッサージ、Phoの店、スクーターのタクシー、その他怪しげや店などその全てに勧誘された。歩道をゆけば5mも進まないうちにその対応を迫られる。だから僕は車道を歩くことにした。

この街には、交通ルールがあってないようなものだ。アメリカの影響なのか、一応右側通行にはなっているが、スクーターはいつでも我が物顔で逆走してくるし、二段階左折などは到底あり得ない。とりあえずクラクションを鳴らして自らの存在をアピールして、あとは突っ込むにかぎる。いくらぶつかりそうになっても、やわらかな身のこなしと鮮やかなハンドルさばきで、誰もがうまく避けて通っている。

いつもなら、たとえ日本と逆側通行の国に行っても、慣れるまでは車が迫ってくる方向に意識的に気を配って安全を確保できるものだが、ベトナムでは無駄なのだと体感した。だから諦めとは別物の潔さにも似た気持ちで、身を委ねてしまったほうが気が楽だ。

フォーの店に辿り着くと、意外と満席に近かったが、店員は何食わぬ顔で、地元の人ではない若いアジア系のカップルの真横に僕を相席させた。メニューを手渡されるが、店員がそこに立ったまま数秒も経たないうちに焦ったそうにしているということは、瞬時に注文しろということなのだろう。そこで、333(バーバーバー)ビールと、牛肉のスライスと肉団子が入った店定番のフォーを注文した。合わせて9万ドン、日本円に換算すると、およそ430円だった。

フォーはあっという間に提供された。味付けは極めてあっさりとしているが、うっすらと魚介系のダシに新鮮な具材が生かされていて、美味い。別の皿に臭み取りに使う大量のバジルとライムが提供されるので、それをむしってはフォーの中に投入する。

この味、評判だけのことはある。東京でフォーの店を営むとすれば、これでは飽き足らず、間違いなく何か足したくなるだろう。そういう余計なものは必要ないとでも言うかのような、何か健全さのようなものを感じとった。

テーブルの上には、それぞれ先端を紙に包まれた箸とスプーンが立ててある。スプーンは浅いものだから、スープを飲むのはなかなか難しい、というか幾度も口に運ばなければならないから、じつに面倒である。後から加えたチリソースも相まって、温かいスープを飲んでいると外気の熱気に加えて次第に身体も火照ってくる。

汗がじわりじわりと玉粒のように出てくるから、とにかくビールが進む。こういう時は、ぐいぐいと飲めるアジアのライトなビールにかぎる。2本目は何を飲んだのだったか。タイガーやシンハーもあったが、自分のことだから地元のものにしたはずだ。そうだ、サイゴン・スペシャルだった。これは初めて飲んだビールだった。

いくらか疲れを感じた。カップルがいなくなった席には、また別の二人が座ろうとしていた。ちょうどタイミングも良さそうだから、会計を済ませて店を出ることにした。

僕は、何から何まで新鮮に映るホーチミンの夜景と人々の活力を全身に浴びながら、とぼとぼとホテルまでの帰り道をなるべくゆっくり歩いた。多分いろんな勧誘もあったのだろうが、あまり耳には入ってこなかった。

道中、そういえばホテルには朝食はついていないことを思い出した。その時ちょうど何とかというミニマートが視界に入ってきた。そこでMeijiのヨーグルト、野菜ジュース、二種類のタンジェリン(小さいみかん)、東南アジアといえば懐かしの栄養ココアドリンク「ミロ」、そしてビールを念のために買った。酒のせいか頭が少しぼうっとして、いくらだったか覚えていない。

何事もなく部屋に戻ると、外の喧騒と比べて圧倒的な静けさが訪れた。しかし程なくすると、まだ例の重低音がかなりの音量で響き渡っていて、壁がミシミシと細かく振動していた。

シャワーは朝でいい。いつものようにスマフォで目覚ましをセットして、娘の画像を見て、ついでにいくつかのSNSアプリを開いてみた。そこから先は、視界が狭まっていくような感触だった。

・・・・

「好きなタイミングでなんでも自由に行動できるのは幸せなことですよね。」

「そう思います。」

「休日はともかく、平日にそれができる環境は居心地がいいです。」

「ストレス社会にあって、環境に恵まれているのは何よりです。」

「反対に他のなんでもないことが際立ってしまいますけど。」

「僕はこのままでいいのだろうかと自問することがよくあります。」

「息つく暇もなく同じことの繰り返しよりは、もしかすると恵まれた悩みかもですよ。」

「そうかもしれないですね。でもその他にも、何というのかな。」

「何ですか。」

「なぜか罪悪感みたいなものが、つきまとうんです。」

 

・・・・

1月9日。

ふと目覚めると、カーテンの隙間の様子から、まだ外は暗いことがわかった。あれから1ヶ月近く経つが、未だに眠りが浅い。僕はよく寝られないことに敏感になっているから、時刻を見るとかえって気にしてしまうだろうから、時計は見ないことにした。しかし結局、そう判断したことが自意識を目覚めさせ、つまり身体も目覚めさせた。

諦めて、ベッドから体を起こした。

薄暗い窓の外を眺めると、昨夜気づくことができなかった景色が目に入ってきた。様々な形と素材が思い思いに重なり合ってパッチワークのように構成された屋根の群だった。

少し寒気を感じた。調子に乗って部屋の空調の温度を20℃に設定してしまっていた。いや、東京の自宅を出発した前夜から、風邪の引き始めに特有の浮遊感と、痰が若干黄色っぽさを帯びてきていたのだった。そのときだけ、病は気からということを都合よく自分に言い聞かせて、悪寒のことは忘れようとした。

熱めのシャワーを浴びて、昨夜買った朝食を腹に詰め込んだ。なんとなく早くここから出たかった。一つの不安要素といえば、つい2ヶ月前まで棚の肥やしになっていたNikon D810というフルサイズの一眼レフをしっかり使いこなせるかということだった。こうも暑いのに、レンズ含めて重量2kgもあるカメラを首から下げてホーチミンを歩き回ることが少し案じられた。

午前8時。外へ一歩踏み出すと、全方位から巨大な騒音に囲まれた。

繰り返されるクラクションの音、叫びにも似た人の声、エンジン音、自動車やバイクのタイヤの摩擦音、ホーチミンの一日はとうにクライマックスを迎えていた。

道を渡るのはなかなかコツがいる。信号がない交差点が多いからどうしようもないが、あったとしても車とスクーターはどうせ信号無視だから、歩行者は、いかに自分の存在をアピールしながら平静を装い、自信を持って道を渡るかが問われる。よく迫り来る車とスクーターのスピードを観察し、タイミングを測って渡る。少しでもパニックを起こすと、運転する側からしても歩行者がどちらに動くかわからなくなり、逆に危険だ。

クラクションを鳴らし続けるドライバーたちは、明らかにアグレッシブに他人と渡り合っているようなのだが、誰一人として怒っている者はいない。

僕はまずベンタイン市場に行って、何か朝ごはんでも探してみようと思った。

その時、スクーター・タクシーの勧誘があった。初老のやせ細った浅黒い肌の男性で、日本語で話しかけてくる。また日本人だと気づかれた。僕は英語と日本語を混ぜて、どこか知らない街に来たら、自分の足で歩いて散策するタチなんだ、なぜならその方がスポットの位置関係と地元の人間の生活に触れることができ、結局手っ取り早くその街を知ることができるから、と伝えた。

彼は1ブロックの区間をスクーターで歩道を走りながらついて来た。なにやらノートブックを開くと、ほらご覧と言う。日本人の観光客の文章がいくつも並んでいる。ここに書いてあるチェンというのが、私です、私は良いガイドです、一時間でいいからと説得を始めた。ノートのコメントを読んでみると確かに悪いことは書いていない。

僕は仕方なく、念のため一時間いくらか聞いてみた。すると、一時間なら、スクーターで飛ばして、ご飯、ベトナム・コーヒー、アメリカマーケット、中華街、色々行けるよ、ベンタイン市場は高いよと返して来た。40万ドン、日本円で2,000円くらいのようだ。

ベンタイン市場は観光客向けだから高い、そしてそのことは日本人が書いたノートにも綴られていたから、説得力があった。

チェンのスクーターはHONDAの旧式だったが、彼は頑丈で壊れない日本のバイクを大事に使い倒していた。スクーターの後部に座ると、いきなり反転して、逆走を始めた。

これは過激なライドになるだろうと、僕は片手でチェンさんの肩に捕まっただけで、直感的にスマフォに手を伸ばして、すぐにスマフォのビデオ撮影を開始した。

道には数百に及ぶスクーターがひしめき合っていた。スクーターで逆走する者もあれば、突然右折や左折をして突っ込んでくる者もいるし、その中に自転車や歩行者も加わってくるから、まさに混沌という単語を物質化するとこうなるのではないかと思った。

だが同時に、もう少し俯瞰してみると、スクーターの群れは、まるである種の巨大な野鳥の群のように有機的に粗密を繰り返して、一体となって移動しているようにも思えてくる。すると、クラクションの音は鳥の鳴き声のようにも錯覚してしまうから面白い。そしてついに、混沌と秩序とはイコールの関係にあると理解できた。

彼らが備えている優れた動体視力、広い視野、バランス感覚、距離感、そして静謐としたマインドというものには野性的なものがある。いや、野性ではなく、人本来の能力なのだ。安全安心を追求し、インフラやテクノロジーで生活圏をくまなく埋め尽くして来た僕ら日本人が、いつの間にかとうの昔に失ってしまったものが、ここにはある。

もちろん、この時僕はチェンを雇って良かったと思っていた。

朝ご飯とコーヒーは、チェンの知り合いの店でいただいた。観光地ではないから、地元の人たちしかいなくて、チェンも顔見知りたちと話をしていて、羨ましかった薄くスライスしたポークチョップを甘辛いソースでローストしたものの上に、焦がしたニンニクとワケギのようなネギ系の薬味が乗っている。肉の下には、珍しく短粒のご飯が敷き詰められていた。シンプルで美味い朝食だった。

スクーターでアメリカ・マーケットへ移動して、ベトナム戦争時のARMY NAVYの放出品の店に立ち寄ってみることにした。そこには正真正銘のアメリカのGIが残して行った大量のZIPPOライターがショウ・ウインドウに所狭しと積み上げられていて、一つ3,000円くらいだったから、航空機での移動時に困らないように中には一切オイルが残っていないことを確かめてから、陸軍航空隊(US ARMY AIR FORCES)のパイロット・ウイングがついたものと、海軍(US NAVY)の錨が溶接してあるもの二つを入手した。

最後に中華街に行き、ティエンハウ廟という中華風の仏教寺院を参拝、それからコーヒーの卸売の小さな店でベトナム北部のラオスに近いあたりで採れる珍しいアラビカ種のコーヒー豆を買ってみた。しかし、まだ旅は始まったばかりであることをすっかり忘れ、気を抜いていたら1.5kgも買わされることになった。

貧しい卸業者が憐れに思えたのは確かだ。しかもそう思っていた自分が恥ずかしい。そして、いつもの自己嫌悪の的である日本人としてのプライドのようなものが今回も働いて、結局NOと言うことができず、笑顔を作って全て引き取った。

結局いつもこうなのだ。僕はチェンのスクーターの後ろで揺られながら、気持ちが冷めていくのを感じていた。

それから今朝チェンが声をかけてきた場所まで連れ戻してもらうと、すでに3時間近く経っていた。チェンは3時間ですねと言った。スクーターの方が早いし、色々見られて良かったでしょ、楽しかったならチップをくださいね、と満面の笑みで迫って来た。

僕はすまないと述べて、3時間分のみ支払った。チェンは少し拍子抜けした様子だったが、僕がカメラを構えると全く隙のない満面の笑みを作ってくれた。僕はシャッターを押した。

やはり僕と付き合うと、ろくなことがないのだろうなと自責の念に心が潰れた。

 

・・・・

 

食欲がなかったから、昼食は抜いた。午後、僕はホーチミン市内を横断するサイゴン川南岸の再開発地域にいた。

宿泊先のThien Tuホテルの外に出ると、何人ものスクーター・タクシーに声をかけられた。老年の者が多い。日本語だったり英語だったりと様々だ。結局、チェンも数多のタクシー・ドライバーの一人なのだ。

今度ばかりは距離があるから、車のタクシーを、正真正銘のペイントが施されたMai Linhタクシーを見つけて乗り込んだ。

サイゴン川南岸は、もともと南北統一前の政治家や官僚、それより時を遡って植民地時代のプランテーション・オーナーの豪邸が立ち並んでいた地域だ。統一政府後、社会主義国家になってからは、こうした不動産は様々な用途に転用され、いまでは高級ホテルやレストラン、バーなど、NYで言えばブルックリンにあたるヒップな地域に生まれ変わっている。

 

ここにThe Factory Contemporary Arts Centerというアートセンターがある。話を聞くと、資産家が私的財産を投じて創設し運営する大規模なギャラリーである。カフェとレストランが併設されているため、時間を過ごしやすい。

午後2時。僕はタクシーを降りた。灼熱という単語が頭に浮かんだ。湿気はあまり感じない。そのため真っ白に照りつける太陽光がジリジリと肌を焦がしていく。

ギャラリーに逃げ込むようにして、僕はフロントデスクでトゥアン・アンドリュー・グエン(Tuan Andrew Nguyen)と待ち合わせをしている旨を伝えた。まだ到着していないというので、ちょうど展示中の彼の作品を見て待つことにした。およそ15分の映像作品と、会場を埋め尽くしたインスタレーションをじっくり見て、念のため一眼レフで撮影もしておいた。

作品鑑賞を終えるとスタッフが近づいて来て、トゥアンは外のカフェでホーチミン新聞の取材を受けているから、僕に同席してくださいと述べた。

外へ出ると、少し陽光が柔らかくなっていた。ドアを出て左側のカフェの方を振り向くと、ラウンドテーブルに男女の二人が腰掛けていた。男性は後ろ向きだったが、大きな体躯とアメリカ英語が聞こえてきたので、間違いなくトゥアンだと思い、声をかけた。

近づいてくる僕に気づいたのか、彼もHisashi?と声をかけた。

僕は自己紹介をして、彼らの斜向かいの席に座った。

トゥアンは僕に向かって、メールでは何度かやりとりしたけど、やっと会えたね、ところで「サンシャワー」展の展示そのものはどう思った、と尋ねてきた。

そう、彼の作品は、2017年の秋に六本木の森アーツセンターと国立新美術館で併催されていた件の展覧会で見ていた。

そこで僕は、私立と国立二つの美術館での共催には制度的に大きなハードルがあったろうし、訪れる客層も異なるから、そういう意味ではしっかりと変化をつけながらもうまくバランスが取れた企画だったと思うと伝えた。

「詰め込みすぎだよね。」トゥアンは言った。

「東京の都心の建造物の事情ではなかなか欧米のようにはいかないですよね。

僕はそう返した。

隣の新聞記者は若い女性で、まだ大学を出たてのようだ。シンガポール生まれで現地の大学を出たという。シングリッシュの異名をとるシンガポール訛りが全く聞こえてこないのは、きっとかなり意識しているからに違いない。まだそういう年頃なのだ。

彼女は話を遮るように僕の英語を聞いて、あなたもアメリカにいたのと聞いてきたから、大学時代とその後数年間、アメリカで美術関係の仕事をしていたと伝えた。どこの大学かと続けて聞くので、ペンシルバニア大学だと伝えると、私も受験したけど落ちたわと残念そうに言っていた。なぜかこの話には終わりがなく、しばらく続いた。

僕は人文だから落ちこぼれですよ、ウォートン(ビジネス・スクール)ではないから、と断りを入れておいた。僕はアーティストに会いにきたのに、なぜこんなくだらない話をしているのかと、少し不本意だった。

トゥアンが気を回して、現在展示中の作品について説明を再開した。出国前に何度か交わしたメールの中で、サンシャワーの作品は現在発表中の同コンセプトの作品群のほんの一部であることも知っていたから、うまく文脈に乗ることができた。

ファクトリー・アーツ・センターで展示中のトゥアンの個展『Empty Forest』は、ベトナムで絶滅危惧種とされている希少生物たちの声明を、映像、彫刻、写真で体現した大掛かりなジオラマだ。

ベトナムでは未だに古来の医学に精神的な信仰が寄せられていて、セイザンコウ、ジャワ・サイ、シャンハイ・ハナ・スッポン、サオラといった、もともとほぼ神格化され丁重に扱われていた希少生物が乱獲によって窮地に立たされてしまっている。トゥアンは、この現象に垣間見られる、人の迷信への傾倒と消費欲との複雑な表裏一体性をあぶり出そうとしている。

「私が注目しているのは、ベトナムが昔からなんらかの形で中華系の迷信や神話を迷いなく受け入れていることなんだ。」

「それはフランスの入植者たちが持ち込んできたエキゾチズムの対象の一つだったのでしょうか。」

「それもあるかもしれないけど、単純な歴史観に基づいて洞察できることなんだ。ベトナムではフランス植民地時代や戦前戦後の社会主義の思想的な地盤よりも、もっと昔から中華系の影響が染み付いていて、なぜかそれは普遍性を帯びている。」

「それはどういうものに見られるのですか。」

「最も明らかなのは、やはり伝統的な薬学かな。例えば、サイのツノ、鹿のツノ、セイザンコウの鱗、スッポンの甲羅などは、ガンや不治の病が治るとか、長寿になるとか、なんの裏付けもない魔術的な信仰の対象として、昔から中国とベトナムで珍重されているんだ。」

「どうやって使うのですか。」

「いやもう煎じて飲むとか、食べるとか、とにかく体内に入れるんだ。」

「効き目がないのに、ですね。」

「まったくのプラセボだよ。でも需要と供給の密接な関係ができあがってしまっている以上、もはや効果云々の議論ではないんだ。」

「ビジネスとして成立してしまっていると。」

「そう。密猟者たちは動物たちが絶滅の危機に瀕しているとは意識していなくて、とにかく高く売れる珍しい動物だから、見つけたら必ず狩るといあう意気込みでフィールドに出ているだろうね。」

「病気持ちの、しかも裕福な人たちが買うんですか。」

「もちろん。でもそれだけじゃない。旧来の医学を信仰している裕福な患者たちはともかく、今は中国マネーをはじめとして、ベトナムの富裕層の間で、ある種の富の象徴として消費されている傾向があるんだ。」

「レアな動物そのものの所有欲、ですか。」

「展示している立体作品、いくつか見ただろ。鷹とか鹿とかサイとかのコンクリート成形に色々くっつけてあるやつ。あのベースに使われているコンクリの置物は、サイゴンの北部にあるKuchiのあたりで作られているんだ。工場があってね、そこでこういう神話的な動物の置物が大量生産されている。私はそういう工場に転がっている制作途中のものや不良品をもらってきて使っている。だから一応、ファウンド・オブジェと呼んでいるけどね。」

「コンクリの置物の工場の様子は作品にも写されていましたね。」

「ベトナムでは郊外に一戸建てを構えるとき、持ち主たちはたいがいこういう置物を装飾として庭園に設置するんだ。」

「有機体と無機質、というかオリジナルとコピーが混在しているのですね。興味深いです。縁起の良いものを周りに置くという意味では日本もそうですけど、なんとなくアジア全体で宗教の経典や神話のようなおとぎ話のキャラクターの権化として動物がよく出てきますよね。」

「そうだね。たぶん他のアジアでは神格化される動物や希少性のある生き物は大切に保護されると思う。そこには自然への畏敬の念とか、もしかすると単純に人類以外の生き物への正義感のようなものが作用しているのかもしれない。すると生き物の存在は絵画の題材や彫像のようなモニュメントの形で社会に残るから、自然はなんとか生きていけるだろう。しかし、ベトナムは、オリジナルもコピーも両方とも最後の最後まで消費されてしまうんだ。」

「そこにトゥアンさんは、人の欲望の表出のあり方の複雑さとか、独特の緊張感を見ているのですね。だから個展のタイトルEmpty Forestとは、いずれ森からオリジナルが消えて行くということなんですね。」

「ベトナムはね、天然資源の宝庫なんだ。世界でも有数の、新種の生命体が次々と発見される場所。確か二週間に一回は何か新種が見つかっているはずだ。でも反対に、ベトナムは絶滅危惧種が次々と本当に絶滅してしまう残念な場所でもある。おかしなことに、Vinh Groupという大手が$60,000でゴリラを、そしてもっと高価なトラなど多種の動物を購入して動物園を開園した。完全に管理したらしいが、動物たちは次々と死んでいってしまった。」

「なんと。」

「知っているかい、ベトナム戦争の頃のほうが、動物たちは絶滅に瀕する心配もなく、平和に生きていたって。人間たちがジャングルで殺し合っている間に、動物たちは何事もなく暮らしていた。今だって北朝鮮のDMZ(非武装地帯)には珍しい鶴が平和に生息しているだろ。」

「確かに北朝鮮のDMZは野鳥の写真家の間でも有名なスポットらしいですね。いやぁ、なかなか複雑な心境になりますね。」

「複雑だよ。今回の映像作品はレアな動物の狩猟現場を取材しなければいけなかったから、それはもう複雑な心境だった。」

「実際に密猟者たちを取材したのですね。」

「そう。まず2011年の新聞で、ベトナムで最後のジャワ・サイが密猟者の銃弾に斃れたという記事があったんだ。そこから時系列に密漁に関するあらゆる記事を収集して読み漁って手がかりをつかんだ。」

「密猟者たちへのアプローチはとても危険な匂いがしますね。大丈夫なんですか。」

「これが意外だったんだ。ベトナムの文化についての取材と説明すると、彼らはわりと素直に応じてくれたよ。そこで収録してきたフッテージを編集して、その上で擬人化した動物たちが対話をしているという設定だ。」

「トゥアンさんのコンセプトは、つまるところ、動物たちが乱獲の状況に対して反発しているということなのでしょうか。」

トゥアンは右手でテーブルの上のグラスを上下に撫でる仕草をした。

「Hisashi、ビールをもう一杯どうだい?」

僕は手元の空っぽになったグラスに目をやった。

「ええ、いただきます。タイガーを。」

本当はベトナムのビールがよかったのだが、メニューになかったから仕方ない。そう、さっき僕が着席した時、トゥアンはビールを飲んでいたから、僕も勧められてそうしていた。新聞記者は水を飲んでいた。僕らはいつの間にか飲み終えて、二杯目を追加することになると、今度は新聞記者もビールをチョイスした。

僕は額から滴る汗を何度も吹きながら、メモを取り続けていた。単に外気温が原因だったかもしれないし、もしかしたら風邪のせいで熱があったからかもしれない。トゥアンもグレーのVネックTシャツの所々に汗ジミが浮き出ていた。

トゥアンはテーブルに両肘を乗せて少し前傾になり、小声で囁いた。

「本当はね、これは動物たちの革命であると思っている。」

「革命。」

「声を抑えてくれ。その言葉は社会主義国家ベトナムでは禁句なんだ。政府以外、使っちゃいけない。もちろん新聞ほかメディアもダメだ。」

僕は完全に虚を突かれた。

「映像作品で、音声だけだが擬人化された動物たちが会話をしていただろ。内容は極めて暗喩にとどめているが、まるで虐げられた人たちが人権を訴えるようなセリフだったはずだ。まぁ、そういうことだよ。」

「そうか、二階に展示されているセイザンコウたちも旗を掲げていますね。旗の内容は毛皮の模様でしたね。」

「説明させてくれ。本当はあの旗には、よくデモで使われる定型句をパロディ化したテキストを書いておいたんだ。でも公の場で発表することになると、そのままにすれば間違いなく告発されて逮捕される。だからやめるしかなかった。」

「そこまで厳しいのですか。アート業界のように多様性に富んだところで、いったい誰が告発するのですか。」

「Hisashi、そろそろいい時間になってしまったね。」

トゥアンは話を切り上げて、席を立ってアートスペースの出入り口の方向へ歩いていった。僕はあっけにとられて新聞記者のほうに顔を向けた。彼女は両眉と両肩を上に釣り上げるジェスチャーで、ノーアイデアとでも言いたげだった。

女性記者がもう会社に戻らないといけない時間と言うので、聞きたいことは全て聞けたのですかと僕が尋ねると、あなたが来る前に聞いたからいいですよと答えた。僕はまた迷惑をかけてしまったかもしれないと感じて、深く息を吐いてテーブルを見つめた。

 

・・・・

「あぁ、彼女は帰ったんだね。」

ふと顔を見上げると、トゥアンが戻ってきて席についた。彼の向こうに差し込んで来るオレンジ色の西日が、目に眩しかった。

「さて、ビールでも飲みに行こうか。地元で独自のクラフト・ビールを作っているブルワリー併設のタップルームがあるんだ。」

「地ビール、飲みたかったんですよ。」

自分の表情がぱっと晴れたことが、どことなくわかった。それは間違いなくトゥアンにも伝わったと思ったから、とたんに恥ずかしくなった。

「ラッシュアワーに差し掛かる前に、早めに出発しよう。さっき守衛に聞いたらヘルメットを貸してくれるとさ。だから私のスクーターで市内に出よう。サイゴンに来たら、スクーターの体験はしておいたほうがいいぞ。」

「スクーター、いいですね。朝からすごい喧騒で起こされましたから、望むところです。」

午前中、すでにチェンのスクーター・タクシーで市内を見物していたことはトゥアンには伝えられなかった。チェンにチップを渡さなかったことへの、後ろめたい気持ちが先行していた。

「見ろよこれ、ジャパニーズだぜ。母さんが20年前に使っていたものだよ。古いけどね、まだまだ乗れるからもらったんだ。」

僕はスクーターの後部にまたがった。トゥアンの上半身は、ここ二日で見たベトナム人の誰よりも筋骨隆々としていて、およそベトナム人とは思えなかった。身長だって185cmはあるだろう。彼は確かアメリカ育ちのはずだ。食生活と社会インフラで、人の造りはこうも変わるのだなと実感した。

「何かスポーツでもやっているんですか。」

スクーターの後ろで僕は西日を左頬に感じながら、サイゴン川にかかる大橋に差し掛かったあたりで尋ねた。

「柔術をやっているよ。」

「格闘技ですか!」

「そう、マインドがクリアになるからね。体を動かすことは好きなんだ。」

僕にとってのロードバイクと似ているかもしれないと思った。

さっき車線が何レーンもある巨大な橋でサイゴン川を渡ってから、再び川を渡った。

「別の川ですか?」

「同じサイゴン川だよ。この川は市内で幾度も湾曲してるんだ。ひねくれ者だよ。」

目的地に着く頃には陽が沈んでいたから、酒場でビールを飲み始めるにはちょうど良い。そうは言うが、よく明るいうちからビールを飲んでいたっけ。今は、少なくとも良い思い出でしかない。

ぼんやり考え事をしていたから、スクーターが止まってトゥアンに着いたよと言われたときに、僕ははっとして車体の右側に降りてしまった。

その時、右足のふくらはぎに激痛が走った。何か極端に熱いものに触れた痛みだ。じゅっと音がしたのではないかと錯覚するくらい、右ふくらはぎの皮膚は体毛ごと焦げていた。慣れないものだから、スクーターのマフラーに触れてしまったのだ。旧式だからマフラーはむき出しだった。そして僕はショーツ姿だった。

激しい痛みに堪えながらも、しかしトゥアンには何も告げずに、平静を装ってスマフォで店構えの写真を撮影してから、入口付近のテーブル席に座った。Pasteur Street Brewery(パステュア・ストリート・ブルワリー)というサイゴンではよく知られた小規模の醸造所で、連れてきてもらったのは、新しく誕生したタップルームだった。

しかし僕は怪我のことに腐心して、内心、まだ旅が始まって二日目でこれかと不安になった。

IBU(国際苦味単位)はそこまで高くないが、店オリジナルのJasmine IPAを注文した。15万ドン(700円)くらいだった。確かにかすかにジャスミンっぽい香りがする。ビターホップを詰め込みすぎず、アロマホップをうまく調和させた良作だと思った。アルコール度も6.5%とちょうど良い。

アメリカはクラフトビールが大流行りして醸造所が増えすぎているとか、ホップを二段階に投入したダブルとかトリプルのインペリアルIPAとか、極端になってきているなど、トゥアンと軽くビールを評した後、僕はトイレに立って個室にこもり、怪我の具合を確かめてみた。さっきよりも水ぶくれが肥大していて、触ると破裂した。中から血液が混じった血小板が吹き出した。患部は10cm四方はある。仕方なくトイレットペーパーで幹部を押すように拭いた。もう一度トイレットペーパーを手に巻き取ってから、今度は鼻をかんだ。鼻水は黄色かった。最悪だ。

僕はヒップポケットの財布を取り出して、カード入れに挿してある成田山新勝寺の厄除御守を手で触れて、目を瞑った。それから席に戻った。

「大丈夫かい。」

「ええ、じつは風邪を引いていて鼻が詰まるんです。」

「東京は真冬だものね。」

「僕はしないですけど、誰もがマスクをしていますよ。」

「見たことあるよ。同じような白いマスクをして、みんな黒いスーツで通勤電車にぎゅうぎゅう詰めになって。」

「一つのことに集中するたちですね。それが片付かないと次には行かないというか、無責任だと思われるというか。極端に生真面目な感じがします。ホーチミン市とは正反対な感じです。それにしても、みんなよくよけられますね。」

僕は笑いながらそう返した。

「サイゴンでは、一つのことに集中してはいけないんだ。視野を広げて、全体を俯瞰する。すべては流れの中にあるから、何か一つのことが発生すると次に何が起こるかという連鎖反応が自然とわかるようになる。ま、なんとかなるんだよ。」

トゥアンは必ずホーチミンではなく、サイゴンという。きっとこだわりなんだ。

ここでは、人はそれぞれが小さくも独立した存在なのではないかと思った。ふと、小乗仏教という言葉が脳裏に浮かんだ。ベトナムは歴史のいたずらもあり、すでにコスモポリスなのだ。いまさら多様性を掲げようとする日本とは根本が異なる。もはや大きな乗り物に全員を乗せようとすることに無理がある。

トゥアンはそれから少し間をおいて、僕の目を見て言った。

「逆に、この流れに逆らうことは難しい。わかってくれ、時間がかかるんだ。」

僕がさっき質問した告発のトピックに、トゥアンが戻ってきてくれたと直感した。

「ベトナム政府は恐ろしいほどよく見てるんだぜ。報道はされていないだろうから知らないだろうが、サンシャワー展でスキャンダルがあったんだ。」

「もちろん知らないです。」

「そうか、いいだろう。待て、Hisashi、君があの展示について本当に感じたことを先に言ってくれ。正直なオピニオンを。」

さっき述べたことが真意ではないと心を見透かされた気がしてどきっとしたが、彼の表情は真剣だった。

「本当に、私立と国立でよくあれだけバランスのとれた大々的な展覧会を作り上げたと思います。アーティストたちや関係者の努力の賜物だと。しかし、ASEAN各国の政治的な平等性の確保が求められているにしても、東南アジアを一つにまとめすぎている感じがしました。それぞれの国の現在的な事情は違うし、地政学的に歩んできた歴史は異なるのに、日々の生活とか、革命とか、発展とか、アイデンティティとか、瞑想とか、参加諸国を横串にする9つのトピックに縛られ過ぎていたのではないかと。」

「オーケー。よくわかった。」

そう言うと、トゥアンは歩み寄ってくるウエイターに対して、さっきとは違うやつで、店おすすめのビールを二杯と伝えて、僕のほうはホップ感のあるやつにして欲しいと念を押してくれた。

「ここではアーティストの名前は出さないが、サンシャワー展に展示されていたとあるベトナム人の作家の作品が、ベトナム政府の検閲に引っかかったんだ。」

「なんと。」

「しかも東京で。つまり、ベトナム大使館からの直接的な干渉だったんだ。政治問題化したくなかったのだろう、チーフキュレーターのMs.Kataokaはすぐに対処したんだ。」

僕は、もしかしたら国際交流基金や文科省のみならず、ベトナムを重要なビジネスの相手国と考える外務省や経済産業省なども動いたのではないかと勘ぐっていた。

「何が問題だったかって、Ms.Kataokaの手法さ。そのアーティストの作品は様々なピースから構成されるものだから、彼女はアーティストに対して、問題になっている箇所だけを外して編集させて欲しいと言ったんだ。」

僕はすぐにその先の話を読むことができた。これはアーティストとキュレーターの間にはよくある問題だから。

「もちろんそのアーティストはNoと言ったよ。問題の部分だけ外すくらいなら、作品のすべてを展示から撤去してほしいと。当然だろ。政治に屈してたまるか。」

「でもダメだったんですね。」

「チーフキュレーターは、結局、アーティストに無断で、部分的に編集して、そのまま展示を続けたんだ。日本では記事にはなっていないかもしれないが、海外のアート・メディアはこの件に関して酷評しているよ。」

僕はそのすべてに同意していた。僕のように肩書きを持たない野の者は言いたい放題なのだが、キュレーターシップこそ、アーティストとその表現に密接に寄り添うべきだと思った。そして表現に納得がいかない場合には厳しく批評するなど、作品主体で考えてもらいたい。

「報道されていないとはいえ、とてもありがちな話です。聞かせてくれて感謝しています。」

「日本には良いアーティストがたくさんいるから、頑張ってほしいよ。田中功起とかね。彼とはロサンゼルスでよく会っていたよ。しばらく住んでいたからね。ちょっと話が飛んでしまったが、私が言いたいのは、ベトナム政府のことなんだ。」

トゥアンはぐいっとビールグラスを傾けると、一息ついてから言った。

「海外の、しかもアートの世界に政府が大使館を通じて干渉するってこと、尋常じゃないぞ。そして、それがここでは普通なんだ。これが社会主義の大きな流れだと。盲信だろ。」

「はい、まさかと思いました。外国で、本国の思想的な影響力が及び、そしてすんなり通ってしまうのは表現の自由に抵触し、違憲な気もします。日本政府がいけないです。」

「ベトナムの国民はまだ目覚めていないと思う。例えば、かなり珍しいことだが、ダナンの市長に民主主義者が就いたことがある。しかし、とてもタイミングよく彼は体調を崩しガンになって失脚した。噂では毒を盛られたらしい。」

「偶然にしてはできすぎているということですね。」

「ベトナムは世界でもワースト数カ国に数えられるほど人権が与えられていない国だから、平気でこういうことが起きるんだ。他にもある。基本的に一つの中国をフォローしているベトナムにとって、台湾は中国の一部だ。2010年、台湾の鉄鋼業者が廃棄物を海に流出した結果、大量の魚が死んでしまい、ベトナムの漁業関係者を悩ませた。昔では考えられなかったが、ついにベトナムでプロテストが発生したんだ。それまでは中国のように、イデオロギーに始まり、ビジネスから文化からすべてにおいて大きな影響を受けている宗主国には何も言えなかった。やっと、という思いがした。それは良い。しかし、その活動を支持する女性が、魚の絵の入ったマスクをして、私の主催するアーティストラン・スペースSan Artのクリティーク・セッションを聴講していた時、突然警察に会場から連れ出され逮捕されたんだ。」

日本では考えられないことに、僕は言葉を失っていた。

「ベトナムはそういうところなのさ。政治家や官僚は腐っている。それでも私は、ここベトナムで反発することに意義があると思っている。」

その眼には凛とした輝きがあった。

「こうして話を聞かせてもらっていると、ベトナムで希少な生き物が乱獲され絶滅の危機に瀕していることと、世界で指折りの人権が保障されない国であることは、とても根源的な生命一般に対する考え方を切り口にすると、表裏一体の問題ですね。だから、トゥアンさんの展示のタイトルEmpty Forest=空っぽの森、というのがベトナム社会の表現にもつながってくる。」

「そう、このままだとベトナムの自然界は次第に空っぽになっていくんだ。」

「動物たちは、いずれ郊外の工場で大量生産される置物に置き換えられていく・・・」

「2016年に発表されて以来、いま、アート業界では、アントロポセン(Anthropocene、人新世)が話題だよね。」

「地質学の分野で、最近の人類の活動が地球に大きく影響しているってやつですよね。アート業界でも話題なんですね。」

「人類は2000年かけて60億人まで人口を伸ばしてきたが、2017年までの10年間で人口は75億人まで爆発的に増えている。このまま行くと、2050年には90億人に達すると言われている。人口は爆発し、地球は消費され、ホーキング博士も言うように、人類に残された時間はあと100年くらいなものだ。」

僕は、これからいっそう世界各国の内向き化が進んでいくなか、消費についてはグローバリゼーションの波が止まっていない事実を考えていた。

「ソーシャル・メディアへの没入やブロック・チェーンが浸透すれば、誰もが同じトレンドを追い求めるから、消費される商品はますます一極集中しますよね。」

「そうなんだ。ずいぶん昔の話だが、映画101匹ワンちゃんが公開されたとき、歴史上最もダルメシアンが死亡したと言われている。」

日本でも昔シベリアン・ハスキーが流行ったときに、数年後にはそれらの野良犬が増えて社会問題になったことを思い出した。現在の猫ブームも終わりが訪れれば同様の結末を迎えるのだろう。

「日本人は流行に弱いんです。今年は戌年ですから、色々心配ですよ。」

「ここも同じだよ。日本よりも極端かもしれない。十二支はベトナムでも大きな影響力があって、ドラゴン・イヤー(辰年)には、出産率が一気に上がったんだ。誰もが、ドラゴンの子供を欲しがる。中華思想では、想像の動物ドラゴンは天子の動物だからね。」

自然と人との関係を、去年東京の事務所でこうやって深く考え、毎日のように語り合っていたことが脳裏に蘇ってきた。

僕は自然との向き合い方に理想像を抱いていたから、軽い気持ちでペットを飼い始めたり、自然の摂理の中で自分が見たいものだけを選別したりして消費するというスタンスに見え隠れする人のエゴこそが暴力だと信じて疑わなかった。

だから、いつも強い口調だった。それこそがエゴであったと一時は自らを責めたものだが、今は迷いはない。

「トゥアンさん、自然と人、手を取り合っての革命ですね。」

「その言葉には注意してくれと言ったろ。私の仕事は、つまり風水に頼ったり、希少動物を食してみたりするなど魔術的な中国の医学の構造に象徴される、迷信とその根も葉もない消費の不気味な癒着関係を用いて、今のベトナムの政治と社会を、風刺ではないやり方で表現することなんだ。」

トゥアンは一気にビールを飲み干した。僕も彼に続いた。腹の底から勇気が湧いてくるような気がした。

「君はなぜベトナムに来たんだ。」

「父が美術評論家で、もう二十年以上前に東南アジアのアートを初めて日本に紹介した数少ない評論家の一人なのです。90年代初頭です。その父の足跡を辿ろうと思って。」

「いいね。じゃあ他も回れるといいね。」

「はい、今回はタイランド湾を周遊するつもりです。」

「ダイナミックだな。そういえば歳はいくつ?」

「40です。」

「Born in 1976?」

「77。」

「私とほとんど同じだ。1976年だから。家族は?」

「いろいろあって、去年離婚しました。」

「アイム・ソーリー。キッズ?」

「4歳の娘が一人。」

「40で自由の身か。ワオ。」

トゥアンは目を宙に泳がせるような仕草をした。

「トゥアンさんは?」

「サイゴンで妻と暮らしているよ。ちょうどついこの間、子供が生まれたんだ。でもあまり会えていないけどね。」

「それはおめでたい!」

「はじめてのことだから、いろいろわからなくてさ。」

僕は娘が生まれた瞬間からのことが走馬灯のように思い出されていた。が、なかなか断片的にしか出てこない。その瞬間、自分がどれだけ子育てに関われたのかわからなくなり、正直不安になった。

「奥さんはアメリカの方ですか?」

「ベトナム人だよ。」

「トゥアンさんはカリフォルニア育ちでしたよね。どうやって行き着いたのですか。」

「生まれはサイゴンなんだが、ベトナム戦争後の混乱で、幼かった私は両親と共に難民として南太平洋の海上でアメリカ国籍の船に救出され、アメリカへ送られたんだ。」

「なんと。波乱に満ちた半生ですね。」

「まだ半生も来てないと思ってるぞ。」

「確かに。失礼しました。」

トゥアンは冗談だよとジェスチャーを作った。

「人生、いろいろあるな。君だってまだこれからだろう。」

「そのつもりです。」

僕は去年の秋から年末までのことを思い出しながら、悲しみと幸せと、苦しみと喜びと、他にもいくつもの感情を抱いていたことを、いまは抱くことができていたと思い直せていることが何よりも嬉しかった。そして、あの思い出は自分の胸に大切に留めておこうと心に誓った。

「またサイゴンに来いよ。今度は友人としてさ。」

「イエス。戻って来ますよ、必ず。」

僕らは固く握手した。

それからトゥアンは、Cuc Gach Quanというベトナムの伝統料理の有名店まで僕をスクーター送っていってくれた。僕はここで夕食を摂ることになった。

「この店はなんでもおすすめだよ。ソフトシェル・クラブとか。写真がついてるから、メニューで気になるものを食べるといい。値段もリーズナブルだから、なんでも挑戦してみな。あ、そうだ。ウォッカのジュース割は、とりあえず飲んでみなよ。後悔はしないと思う。」

僕はトゥアンに礼を言い、もう一度握手をしてから、軽快に走り去るスクーターを見送った。彼は妻子の元へ帰って行った。そんな時期もあった。

僕はカミソリを入れていないザラザラの頬から顎髭を右手で撫で下ろし、首回りが伸びきったTシャツの肩の位置を戻してから、シックな装いの店に入った。

もう誰も、何名様ですか、とは聞いてこない。

そのとおり、僕は独りだ。心はさっぱりしている。

すると自然と笑みがこぼれた。

(続く)

 

図版:1〜8、筆者撮影