インド北東部紀行(第五話)「禁酒の町インパールの隠れ居酒屋」

 
  「12月28日 コヒマから、ナガランド・ステート・バス体験」
 
 インパールへの悪路を行くバスの中で出会った登山部の一団は、それまで空きの多かったバスを一気に埋め尽くした。彼らはジュク・バレーへの登山口のバス停から乗ってきた。
 

 
 雪山登山にも使えそうな装備、つまりアルパイン・ウェアの格好と、ダックテープで穴を塞いたその使用感からして、彼らはかなり熟練した登山家たちのようだ。顔つきはと言えば、インド系の人は少なからずいたが、ほとんどはモンゴロイドだった。
 

 
 バスには荷物の格納庫がないため、仕方なく僕はスーツケースをバスの通路に置いていた。もちろん、それは人の導線をブロックしていたから、登山部の人々はスーツケースを跨いで行かなくてはならないが、泥がべっとり付いた登山靴は必ずスーツケースのどこかを踏んでしまっていた。
 

 
 隣に座った青年は厚手のダウンコートを着ていて、かなりの圧迫感を覚えた。しかし彼はとても温和な笑顔をしていて、僕らはいつの間にか言葉を交わすようになった。
 
 ジュク・バレーでは昨夜雪が降り、テントの中も寒くてなかなか厳しかったという話が出た。
 
 彼らはインパールの登山チームに所属していて、登山やハイキングには、よくチームで行っているという。日本の登山ルートも聞いたことがあって、いつか登ってみたいと言っていた。それだけでなくても日本にはいつか行ってみたいという願いがあるようだ。
 
 途中のMonゲートでは、また休憩時間となった。
 

 
 運転手の横にいた助手の青年が英語を上手に使い、「あなたはパスポートのチェックがある」と教えてくれた。
 
 おそらくまだ二十代前半の彼は、これまた日本人そっくりで、色の黒さと彫りが深めのシャープな顔つきが、EXILEのメンバーでもおかしくないくらいの顔つきをしていた。
 
 彼は丁寧に僕を連れて道沿いの建物の横にある階段をずんずんと登っていき、一番上の開けた場所にある小さな役所に案内してくれた。
 

 
 その役人は僕に向かってベラベラと何かわからない言葉を話しかけてきた。僕がきょとんとして、日本人であるとかインパールに行くとか基本的なことを英語で伝えると、役人はわかったという感じで、パスポートにスタンプを押していた。
 
 振り返ると、今度は例の青年が僕に向かって笑顔で何か色々と話していた。僕は静止してしまい、再び英語で返答すると、彼は困惑した様子で、英語でこう言った。
 
 「ナガミーズ、OK?」
 
 どうやら僕が役人と話していた時に、役人がナガミーズで話しかけたらしく、それに返答していた僕を後ろから見ていて、ナガミーズで答えたのだと勘違いしたらしい。
 
 「そんなにナガ人に見られるなら、話したいですよ」と、僕は笑いながら本心を伝えた。頑張れば学ぶことができる言語なのだろうか。果たして東京でナガミーズを教えられる講師は存在するのだろうか。。
 
 それから、青年は飯を食べにいくというので、僕も登ってきた階段を降りて、道沿いまで戻ることにした。
 
 しかし、僕はまだインドの鄙びた街道沿いで昼食を摂るリスクを取ることができず、見た目はそのまま「ドリトス」なスナックのマサラ味と、果汁30%くらいの甘いオレンジ・ジュースを全部で50円くらいで買って歩きながら食べた。コーンのスナックは味気なかった。
 

 
 バスに戻ると、ちょうど他の乗客、つまり山岳部の連中も次々と戻ってきているところだった。一人一人、丁寧に僕のスーツケースをブーツの裏でこすって、泥をつけてゆく。
 
 隣の青年はスクワッシュを袋いっぱいに買ってきた。そういえば、スクワッシュといえばアメリカやヨーロッパではよく料理に使われている、瓜のようなものだった。念の為、何か訊いたら、「スクワッシュはスクワッシュだよ」と言われてしまった。
 
 時たま、山間の悪路にあっても、僕のiPhoneにメッセージの通知が届いていた。
 
 インパールで待っているInaoからだった。ナガランドからインパールへ今日戻ることは伝えていたが、さらなるお願いとして、今夜の安宿を手配してもらっていたのだった。
 
 値段はいくらくらいが良いとか、シャワー・・ではなく、例の水道の蛇口と水桶のセット(Water Basin)が装備されている宿が良いとか、そういうやり取りだった。最後は1500ルピーで、水道完備のホテルを見つけてくれていた。
 
 ほぼ快晴と言って良いくらいの好天に恵まれたせいか、インパールからコヒマへの道のりよりも、帰りのほうが楽に感じられた。それとも単に下り坂が多いからだろうか。
 

 
 その後、トイレ休憩や、なんの理由だかわからない休憩をいくつも挟んだ。その度に、僕はインパールで待っているInaoにちょっと遅れが生じているとレポートしていた。
 
 Monゲートからすでにマニプール県に入って、山道の下り坂を順調に進んでしばらくすると、前方に何台もの車が停められているのが見えた。
 

 
 運転手が車を停めて、後部座席との境にあるガラス窓を横にスライドさせ、後ろを振り返って何かを言っている。音の感じから、ヒンドゥー語ではなくナガミーズで何か言ったようだ。
 
 その横の助手、つまり先ほどの青年は僕にアイコンタクトをしてから、英語で「あなたは下車しなくていいから」と言った。
 
 他の乗客は全員下車して、道沿いに並ばされた。僕はたった独り、ポツンとバスに取り残された。
 
 下車した登山チームの先、道の向こうを見ると、他の車やバスの乗客も並ばされている。
 

 
 その目の前を、AK-47を構えた軍人たちが通り過ぎながら、一人一人身分証明書をチェックしている。ナガランド とマニプールの県境には、ローカルの市民たちも検問を受けるということか。
 
 一人の兵士がバスに乗り込んできた。僕の方を見た。一瞬、なぜ僕だけバスの中にいるのか考えている様子だ。僕も何か言われるのだろうかと心の準備をしていたから、兵士の目を見たまま動かなかった。たった数秒の沈黙が長く感じた。
 
 それから兵士はゆっくり動き出して、バスの後部のほうに向かって行ったりきたりして、僕のスーツケースを汚していった。兵士は何も言葉を発さずに、バスから降りていった。
 
 登山チームの面々と青年、そして運転手がバスに戻ってきた。それから先、バスはスムーズにインパール市内に入った。
 
 バスは、インパールのバス停、というか運行会社であるナガランド交通が目的地とした空き地に到着した。300ルピー弱だった。
 

 
 表へ出ると、暖かかった。いや、むしろ暑いくらいだ。バスが到着した時、時計の針はすでに午後2時を指していたから真昼間の暑さがインパールを包み込んでいた。
 
 登山チームのリーダー格の中年男性が話しかけてきて、「行き先は決まっているのか」と尋ねてきた。僕は友人が迎えに来てくれることになっていると伝えて、Google Mapを見ながら、今いる場所の名前を探したが、地図上ではいったいどう伝えて良いのかわからず、WhatsAppを使って電話をした。
 
 早速Inaoに場所を教えようかと思ったが、ナガランド 交通のバス停と伝えてもわからないようだったので、見かねた登山部のリーダーが電話を代わってくれて、居場所を伝えてくれた。
 
 僕はリーダーに謝意を伝えて、それから隣に座っていたスクワッシュの青年と、EXILE青年の二人に別れを告げた。
 
 
「インパールの女性マーケット」
 
 空き地の向こうから、スクーターでやってきた。Inaoだった。
 
 寒く山深いナガランドから帰ってきて、なんとなくほっとした気分だった。大きなスーツケースを転がしていた僕はタクシーを拾った方が良いかと思って、その旨を伝えたが、彼はスクーターの前のところに嵌ると思うと言った。
 
 ぱっと見、まず無理だろうと思ったが、Inaoはスーツケースを横向きに寝かせて足の置き場所を無視して隙間の全てを使って押し込んだ。なんとか嵌ってはいたが、スクーターには重すぎる感じだし、足の置き場もなかった。なおかつ、僕が後部に乗ることになるのだ。
 
 スクーターはひいひい言いながらゆっくり進み始めた。バス停の空き地ではひどくグラついていたので、かなり心許なかったが、一度舗装道路に出ると、スクーターは順調にスピードを上げて安定した。スクーターでスーツケースを運びながら人が二人も乗るなんて普通なら考えにくい。しかし挑戦してみたらできてしまった。
 

 
 スクーターはインパールの戦没者墓地を横切り、右折して1kmも行くと、道の左側に寄って停車した。ここだと言われて見上げると、Fair Havens Homestayと書かれたサインが見えた。
 
 スクーターにがっちり嵌ってしたスーツケースを引っ張り出してから、建物の横側にある廊下を進んだ。
 
 フロントデスクといえば、建物の外から内側に入るところに置いてある机がフロントという見立てになっていて、ホテルと呼ぶにはあまりにもお粗末な設備だった。泊まる部屋は4階だったので先が思いやられたが、ホテルのスタッフとInaoが、重いスーツケースを運んでくれたので助かった。
 

 
 一泊1500ルピー(2300円)だし、入口があんな感じだったので期待はしていなかったが、部屋に案内されると、相当大きな部屋であることや、立派な図書棚があることに満足した。
 

 
 それからInaoと少しナガランドの話をした。Inaoは今夜Airbnbに泊まるフランス人の客達をアテンドしないといけないので、そろそろ行くよと言った。
 
 僕は礼を言ってから、明日はミャンマーに戻るから、もし今夜時間があればメシでもどうかとオファーしておいた。
 
 僕は給湯器にスイッチを入れて10分ほど待ち、冷めることを想定して熱湯をバケツに溜めてから、簡単にお湯を浴びた。硬水のためか、それとも水温が低いからか、シャンプーや石鹸の泡立ちは悪かった。
 
 それにしても、コヒマでは身体を洗っていなかったから、髪から落ちる水は泥水のような色をしていて、いかにインパールの埃っぽさと、ナガランドのベッドや台所の灰が強烈かということがわかる。
 
 三日ぶりの清潔感を味わうことができて、リラックスできたからか、僕は久しぶりに深呼吸をした。
 
 インパールに戻ってきたため、僕は再びハイスピードの電波を手に入れていた。背中の硬いソファに座って、15分ほどSNSや調べ物に没頭した。
 
 そういえばお土産を一切買っていない。そこで、インパール最大の市場、イマ・マーケットに行くことにした。現地ではIma Keithelと呼ばれている。じつはImaとは女性のことを指していて、市場に出店している全員が女性であるというユニークな市場だ。
 
 コヒマとは違い、もはやブーツを履く必要はないので、僕はサンダルに履き替えた。
 
 午後3:15、外に出ると、ほのかに夕方の雰囲気を感じ取った。陽射しの傾き方や、車やスクーターにまたがる人々の往来の様子からだ。
 

 
 僕はインド版のトゥクトゥクであるリキシャを拾って、イマ・マーケットへ向かった。
 
 市場の近辺に差し掛かると、道が極端に混んだ。
 
 数分の間、ビクとも動かないので、僕は50ルピーを支払ってリキシャから降りた。人を掻き分けてでも、歩いた方が断然早い。
 

 
 イマ市場は、まさにインドらしい赤やピンクやオレンジといった強烈な暖色に満ちていた。女性達はインパールやナガランドのキリスト教徒よりも、ヒンドゥー教特有のサリーを纏った姿が多い。やっとインドらしくなってきたと言ったら失礼だろうか。
 

 
 とりわけ生地や染めの技術を一つの切り口として旅をしている者からすれば、インド北東部で生地を探さないわけにはいかない。
 
 早速、いくつかのビルにまたがるイマ・マーケットを足早に歩いて、野菜や魚など食料品が集まるビルを通り越して、ついに生地や縫製など衣類関係のビルに足を踏み入れた。

 
 中にはいくつもの通路があって、幅2mほどの店が通路の両側に隙間なく並んでいる。店の種類は概ね通路毎に異なっていて、様々なベンダーの中には、シンプルなウールやカシミアなどに強い通路もあれば、シルク、綿のスカーフや反物を売る通路もある。
 
 今まで見たことのない類のものも多かったが、一度ナガランドで見て触れてしまったからか、僕は山岳民族が紡ぎ出す生地に自然と惹き寄せられていった。
 
 そこでナガランドの生地でも様々な用途を物色した。市場の中にひしめき合う商店からは、寄ってらっしゃい、見てらっしゃいが連呼される。もっと時間を使って品物を見たい気持ちよりも、何か買えという絶え間ない声掛けから逃げたい気持ちが優った。
 
 最後になんとなくマイペースなお店を見つけて、やっとじっくり見られた。なぜマイペースだと思ったかというと、この店は端っこの方に位置していて、お客が少ないからか、あまり声をかけない様子だったからだ。しかし商品はナガランドでみた少数民族のテキスタイルも取り揃えていたから、セレクトはしっかりしている。
 
 この店でじっくりと商品を見て、最後は、娘へと母へスカーフやショールを購入した。
 

 
 用事を終えると、腹が減ってきた。再びリキシャを探して市場の道沿いにひっきりなしにやってくるリキシャを捕まえた。運転手に行き先を聞かれる時、たいがいボイコットされるから、あらかじめInaoから教えてもらっていた場所を伝えると、3台目くらいで OKと承諾された。リキシャにはすでに2人のインド人女性が乗っていた。
 

 
 ぼんやりしながら黄昏時のインパールの市井に言いようのない豊かさを感じながら、リキシャがカングラ宮の前を横切った時、僕は思い出した。
 
 数日前、僕はこの敷地内にある立派な菩提樹の巨木から、まだ熟れきっていない種を入手していた。雨季の前にならないと種子は地面に落ちないからだ。
 

 
 発芽するかどうかは東京に戻ってから検証することになるが、菩提樹と僕の旅は密接な関係にある。
 
 2018年1月から東南アジアへ旅を重ねるにつれ、タイで菩提樹に出会い、それからミャンマーとインドでも種を集めてきた。そのルートはブッダガヤへと西進している。ブッダガヤには、シッダールタが悟りを開いたまさにその菩提樹が数千年の時を刻んでいる。
 
 気がつくと、リキシャは、ISBTバス停の前までもう目と鼻の先まで来ていた。リキシャはどこでも降りることができるが、さっき調べていたところでは、旅行者は、バス停のようなランドマークを伝えたほうが伝わるようだ。
 
 僕は50ルピーを支払ってからリキシャを降りた。ヒンドゥーの女性たちは先に降りていた。
 
 ホテルに入る前に、ホテルより手前に見えたテキスタイル屋が気になったので、入ってみることにした。入店すると、日本の地方都市にいそうな初老の男性が奥から出てきて、僕に向かって何やら不明な言語を話した。ナガミーズだろう。
 
 僕は英語でナガランドのショールを探していると返答すると、その男性は不思議そうに奥へ入って行った。3分ほどすると、彼はとてもしっかりした厚めのウールの生地を持ってきた。
 
 広げてみると、黒と赤の地の上に緑と白と黄色の刺繍が入っていて、コヒマの一日を思い出させた。晴れたインパールの午後、西日が店のフロントガラスから差し込んできた。雨風の酷いコヒマで、風邪を引いたままの不安が募り、早々に引き上げてきた。今は、もう一日居たかったと思える。僕はナガランドのショールを買った。
 

 
 ホテルの部屋に戻ると、ドアをノックする音が聞こえて、Inaoともう一人の男性が入ってきた。彼の叔父だという。僕はナガランドのショールを見せた。二人から感嘆の声が漏れた。
 
 付け焼き刃の知識ではあったが、僕はコヒマでナガ族の話をしていると、腹が鳴った。そういえばイマ・マーケットを出る時に、帰ってから夕食にしようと思っていたが、あれから1時間が経過していた。
 
 僕は、Inaoと叔父に、地元の料理を教えて欲しいと頼んだ。きっと彼がホストとして迎える旅行者は食に関してチャレンジャーではない可能性があったから、僕はローカルの食事であればどんなものでも試してみたい人だということをしっかり伝えた。
 
 しばらく二人はマニプール語で話をしていて、首を傾げたり、頷いたりした。それから、ちょっと考えると言って、また後で連絡をするよと言い残して、彼らはホテルの部屋から出て行った。
 
 
「禁酒の町インパールの居酒屋」
 
 僕は窓から見える夕焼けを眺めた。オレンジと赤紫に染まる西の空が美しかった。
 

 
 砂埃が窓枠に積もっているのを見て、窓を閉めて室内に戻った。部屋が暗かったので電気を点けた。
 
 明日ミャンマーに帰る準備のために、Facebookメッセンジャーでチットコーに予定通り正午に国境にいて欲しい内容を送っておいた。
 
 その時、WhatsAppにInaoから電話が入った。雑踏の音で聞こえづらかったが、道を挟んで向こう側に渡ってから、東側に歩いてきてくれと言う。少なくともそう聞こえたと思ったので、僕は貴重品を持って部屋に鍵をかけて、1階まで急いで降りた。
 
 外はすっかり暗くなっていて、行き交う車やスクーター、リキシャのヘッドライトが眩しかった。
 

 
 片側二車線ずつある広い道を渡って、僕はISBTバスターミナルの北側の広い壁沿いに東に向かって歩いた。遠くからスクーターが逆走してくる。Inaoだった。
 
 彼は僕の目の前でスクーターを止めると、後ろに乗れと言った。場所はすぐそこだ、叔父も向こうで待っていると。
 
 そうして2分も行くと、バスターミナルの北東の角で右折したところでスクーターは止まった。
 
 降りると、街灯の無いひどく暗い道に、商店が二、三、ポツンと立っている。Inaoは商店には入らず、その横の細い道に入っていき、裏へと進んで行った。僕は後を追った。
 

 
 すると奥の方から人の気配がして、半野外のような部屋にたどり着いた。そこには五卓のテーブルがあり、それぞれ数人の客が低い椅子に座って食事をしていた。灯りは裸の蛍光灯がうっすらと全体を照らしているだけで、かなり薄暗い。
 

 
 中央のテーブルにInaoの叔父が座っていた。Inaoが僕にそこに座るように仕草をした。
 
 テーブルには薄汚いペットボトルと、二皿のつまみのようなもの、そしてミャンマーのAndamanビールの500ml缶が置いてあった。
 

 
 「さぁここで食事にしよう。ビールは買っておいたから、飲みなよ。」Inaoがそう言った。
 
 「すごい雰囲気の店だね。それより、お酒が飲める場所なの?」
 
 「あぁ、ここは自治体公認の居酒屋だよ。」
 
 Inaoと叔父が小さいコップにペットボトルから透明の液体を注いで、口にクイッと運んでいた。
 

 
 「公認? 自治体政府が禁酒の法律を布いているのでしょう?」
 
 「マニプール県の一つの伝統産業が米のワイン造りなんだ。だから表向きには禁酒なんだけど、地元の人間はこう言う場所で飲むんだよ。」
 
 いわゆるスピーク・イージー・バーとでも言おうか、表立っていなければ、酒を出す料理店を運営できるというわけだ。数日ぶりに飲むビールが喉の奥を通過する爽快感と苦味がたまらなかった。空っ腹にビールが刺さるようだ。
 
 「メシはとりあえずいくつか注文しよう。おまかせでいいね?」
 
 「なんでも大丈夫。腹が減っているし、なんでもOK。」
 
 早速二つの皿が追加された。一つはカレーと油に浸した、チキンの肉とホルモンの和え物で、一口食べてみると、濃いめのカレーのスパイスが極めて香ばしく、肉の臭みを感じさせなくてビールにとても合う。
 
 もう一つは、タニシのこれまたカレー味の和え物で、また別のスパイスの味わいと、タニシの絶妙な苦味がマッチして美味しかった。
 

 
 食べ方は少しコツがいる。タニシの殻の先端が切り落とされているので、そちら側から殻の中のジュースを吸い取ってから、表向きにしてタニシを肉ごと吸い取って食べる。これがまたなかなか美味しい。Inaoと叔父は僕の表情を伺っていたが、美味しいと伝えると、安堵していた。子供の頃に、田舎で食べたことがあるというと、それは驚きだったようだ。
 
 「米のワインも飲んでみたいです。」
 
 スパイスの効いた食事にライス・ワインがどのように合うのか、とても興味があった。Inaoは店の女将にコップの追加を頼んで、それとワイン自体もボトルを一本追加した。なるほど、ボトルのデザインはまちまちで、使い古されているのは、単に入れ物としてリサイクルしているからだ。
 
 コップをもらうと、叔父がライス・ワインを注いでくれた。
 
 「強いから少しずつ飲みな。」
 
 強い? 醸造酒であれば15度未満だろう。匂いは日本酒とは違い、もっとツンとする。早速、飲んでみた。
 
 これはライス・ワインというより蒸留されている、と直感的にわかった。なにせアルコール度が高いし、味も米の風味はかなり消えている。
 
 「これはオキナワンのアルコールに似ている!」
 
 言葉が先に出ていた。まさしく、長粒種の米から作られる醸造酒を一回蒸留した感じの、およそ度数25%くらいの泡盛にとても近かった。どのコウジカビを使ってデンプンを透過させているかは定かではないが、完成品は泡盛に近い。
 
 「おぉ、これはワインではなく蒸留しているから強いですね。」
 
 喉の奥が少し火照っているので、それなりのアルコール度数があることは明らかだ。そして蒸留酒だから、スパイスがいくら効いていても、味の濃い料理でも充分対応できる。なかなか美味しい。
 
 「これは発見。いつか蒸留所を見学したいですよ。」
 
 酒造りにも目が無い僕は、インパールに戻ってくる理由を一つ見つけた気がした。日本では日本酒についてかなり勉強してきて、ラオスでも似たライス・ワインを発見してきたことを話した。
 
 「アー・ユー・フロム・ジャパン?」
 
 その時、背後から英語で話しかけられた。僕ら三人が振り向くと、向こうも三人組の男性が隣のテーブル席から、こちらを覗いていた。
 
 「イエス、アイアム。」
 
 「さっき、コヒマの話をしていましたね? 戦時中のこととか。」
 
 僕がそうだと英語で答えると、一人の英語が堪能な男性が、話し始めた。
 
 「そうですか、じつは私はマニプールの北東部のナガランド近くの出身で、先祖から日本軍のことをよく聞かされてきました。」
 
 「そうですか。とても興味があります。ちなみにどちらの地域ですか?」
 
 「ウクルルです。」
 
 「ウクルル!」
 
 先日Inaoの父がウクルルでは非常に激しい攻防戦があったと聞いていたから、すぐにその地名を聞いて偶然に驚いてしまった。僕はInaoに向き直ると、彼もそのことに気づいて表情を変えていた。
 
 「おぉ、知ってますか?」
 
 「いや、激戦地だったということだけ聞いていました。具体的に何かご存知ですか?」
 
 「もう亡くなった祖父が、ウクルルからカラソムまでのルートで、日本軍とイギリス軍の激しい戦いがあったことを話していました。多くの死者が出ていたと。カラソムが落ちれば、コヒマまでの山岳ルートが開けてしまうので、イギリス軍は必死だったと言います。」
 
 「両軍共に、戦死者が多かった、と。」
 
 「イエス。最後は日本兵がコヒマに迫るわけですが、スコットランド部隊のジョン・ヤングという中尉が活躍したと祖父はいつも言っていました。実際に会ったので、名前がよく出てきました。彼は数騎になっても、遠方からのスナイパーによる射撃と近接戦で日本軍を足止めした功績があると。」
 
 ウクルルは、進軍の時も撤退の時にも使われた場所だったはずだ。特に退却ルートは、やはりまた佐藤中将の第31師団が選んだルートだった。補給も食料も無い状態で、日本軍は次々と斃れていった。
 
 「貴重なお話ありがとうございます。今回はもう明日ミャンマーに戻りますが、次回、ウクルルにも行ってみたいと思います。」
 
 「そうですか、もし来られるなら案内しますよ。日本軍の戦死者が眠っている場所もお見せできると思います。」
 
 僕らはWhatsAppとFacebookの連絡先を交換して、米の蒸留酒で乾杯した。彼の名はパムレイシャン(Pamreishang)と言った。
 
 それから話はマニプール県と戦史を巡って盛り上がり、いずれ酒盛りとなった。水で割る人もいたが、だいたい米の蒸留酒をそのままストレートで飲んでいたから、最後にはなかなか酔いが回ってきたようだ。
 

 
 22時半頃になり、女将が閉店の時間だと言ったようだ。皆、早々に急いでを食べ始め、酒も残らないようにペットボトルから各々のコップに注いだ。
 
 最後、そこに残っていた全員で記念撮影を撮った。居酒屋の女将と店主も一緒に入っている。
 

 
 明日は朝早くに宿を出発し、モレー行きのSuzukiの乗り合いバンの溜まり場へ向かい、バスを拾う。
 
 そこからミャンマーへの国境を越えて、ビルマ人運転手のチットコーと落ち合い、タムーを通過。夕方にはカレーミョウへ至り、ホテル泊。
 
 翌朝、チン州の山岳地域に踏み入って、いよいよティディム道を北上し、再びインド国境を目指すことになる。
 
 このティディム道の別名こそが、白骨街道だ。
 

 
 

 
   
 (つづく)