「ベトナムからカンボジアへ:きらぼしと邪の蜃気楼」
僕はシーツから下肢が剥がれる痛みで目覚めた。
夜中じゅう眠りが浅かったから、ブランケットの下を覗き込まずとも、何が痛みの原因かはわかっていた。
案の定、起き上がってみると患部付近のシーツは真っ赤に汚れていた。日本から持ってきたバンドエイドを二枚並べて貼っていたが、体液を含みすぎて剥がれ落ちたのだ。
ホテルに対して悪いなと思った。幸せそうな家族が切り盛りする、こじんまりとしたホテルだったから。
睡眠は浅くても、あの人の夢は見なかった。
シャワーを浴びてから時計を見ると8時だった。今朝のサイゴンは、まだ夜明け前の紫がかった色のように映った。
確か東南アジアはタイム・ゾーンが入り組んでいるはずだ。もしかするとそのせいかもしれない。
それから僕はスマフォで娘の写真をしばらく見ていた。
そして、いくつか仕事のメールをこなしているあいだ、昨夜同じミニマートで買い込んだミロを飲んだ。独特の粉っぽさと強い甘味に違和感を覚えて、おかげで頭がはっきりとしてきた。
1月10日。今日はカンボジアの首都プノンペンへの移動日だ。
東南アジアのホテルはだいたい正午チェックアウトだから、午前中、昨夜トゥアンが行ってみるといいと言っていた戦争証跡博物館とホーチミン美術館を訪れてみることにした。
9時になってからカメラバッグを背負って出発した。
もう市街地のカオスには慣れた。たとえスクーター・タクシーに声をかけられようとも、博物館や省庁が立ち並ぶエリアはサイゴンの中心部であるし歴史的な街並みだから、今日は歩いてみると決めていた。
それにしても暑い。今日はかなりの湿気を感じる。スマフォの温度計を立ち上げてみると、午前中でも気温は30℃に達していた。
省庁が立ち並ぶ地域は、それぞれが広大な敷地を構えている。10分も歩くと、僕は歩いてきたことを少し後悔しながら、それでもタクシーに声をかけられられると頑なに断っていた。
背の高い並木を眺めては写真を撮り、樹齢はいったいどれくらいなのだろう、ベトナム戦争後に植えられたのだろうかとぼんやりと考えていると、統一会堂の裏側に出た。
見渡せるかぎり1kmは続いていそうな通りの奥に目を凝らしてみても、入り口のようなものは見当たらなかった。そこで、歩道を掃いていた清掃員に入口はどこか尋ねてみると、このまままっすぐ先でいいと言われた。
1kmというのは大げさだったが、結局四辺のうち三辺を歩き尽くして、やっと入り口にたどり着いた。
早くもHakubaのカメラバッグと背中が密着しているところは汗びっしょりだった。
昨日チェンと行ったアメリカ・マーケットで300円くらいで買ったTシャツだった。大戦中に抗日運動を指揮していたホー・チ・ミンの肖像が描かれたTシャツを日本人が着ているのはおかしいかもしれない。
僕は確かに日本人であることを気づかれることに不満を漏らしてたのに、いまは反対に自認してしまっていた。そちらのほうがおかしいものだ。
ゲートをくぐると、目の前に、1975年サイゴン陥落の際の象徴的な報道写真で見たことのある旧大統領府が現れた。ベトナム共和国の崩壊。初めてアメリカが対外戦争で敗戦を味わった日だ。
建物の正面に噴水を中心に広がる庭園をぐるりと廻って館内に入った。空調の冷気に目がさめるような爽快さを感じたが、すぐに汗が冷えきって鳥肌が立った。風邪をこじらせるといけない。けれども、気づけば今朝から体調は戻ってきていたように思える。風邪がぶり返すのだけは避けたい。
館内は来賓室や会議室、作戦室や執務室などがほぼ完全な状態で保存または再現されており、それぞれの部屋の外に設置してある説明パネルには、歴史的な出来事と当事者たちの写真が紹介されていた。ほとんどがアメリカやフランスが関った外交、中国共産党の面々との集合写真、それから南北の交渉ごと、サイゴン陥落後の正式なカンファレンスの様子などの写真だ。日本の外交官のものもあった。
そこでやっと、この場所が統一会堂であることに気づいた。正面広場から横奥を見やれば中国製T59式戦車とソ連製T54B式戦車、北ベトナム軍が鹵獲したノースロップF-5戦闘機が設置されていたから、戦争証跡博物館かと勘違いしてしまったのだ。
しかし、ここだって重要な史跡には間違いないから、僕はくまなく見ることにした。戦争証跡博物館は次回サイゴンを訪れるときまでお預けだ。ここに帰ってくる理由が見つかった。
実際、見所が多かった。
地下には諜報員の手垢のついた通信機材が配備された小部屋が残されていたし、緊急時の脱出用の秘密のルートなども見ることができた。なによりも、戦史の詳細な記録と報道写真に加えて、30年に及んだベトナム戦争の様々な局面が実物とともに現前していることが出来事に重みを与えてくれるようで、いささか乱暴ではあるが、一連の流れをより具体的に知ることができたと思う。
19世紀、ナポレオン3世の第二帝政時代のフランスによるベトナム(トンキン、アンナン、コーチシナ)、カンボジア、ラオスの植民化、日本軍による占領と、それに続き共産主義と足並みを揃えたホー・チ・ミンらベトミン主導の抗仏と抗日運動、ベトナム独立に向けた民族運動、戦後直後の連合軍とフランス軍の再進駐とインドチャイナ戦争とフランスの敗北、冷戦、南北の分裂、アメリカの反共産主義の南ベトナムへの介入開始、第二次インドチャイナ戦争すなわちベトナム戦争、南ベトナム解放民族戦線:通称ベトコン、トンキン湾事件、テト攻勢、ハンバーガーヒル、そしてサイゴン陥落まで・・・インドチャイナの三国は、およそ100年間も戦争や紛争に巻き込まれていたことになる。
ベトナムの平均年齢は30歳だ。
僕が肌に感じているサイゴンの活気や、若いアーティストたちの精力的な活躍が、一つは若さによるものだと納得すること簡単だ。
だが、今こうして歴史の扉を開いて中を覗いてみると、その若さの根源に深い悲しみが伴っていることを知り、僕は正直やるせない気持ちになった。
少し空気が吸いたくなって最上階のダンスルームのベランダに出た。そこで目下に窺える公道を行き交ういつも通りのスクーターの群れを写真に収めた。
それから売店で冬瓜のジュースを飲んでみた。懐かしいプルタブだった。エッジが鋭く、唇の両脇を少し傷つけた。血の味がした。
冬瓜ジュースはなんとなくキュウリとかスイカのような香りがしたが、概ねとても淡白で、砂糖の甘さが前面に出たものだった。
ふと腕時計に目を落とすと、もう11時を回るところだった。チェックアウトの時間が近いため、少し急ぎ足でホテルまで戻ることにした。
・・・・
客室で荷造りをしていると、やはり昨日買ってしまったコーヒー1.5kgを詰め込むのに苦労した。僕は少し思案してから、時計をしばらく見つめていた。荷物を抱えて、フロントに降りた。
正午が訪れた。チェックアウトの時間だ。
フロントの番を任されていた10代と思わしき若者に、小さくていいから空箱をもらえないかと頼んだ。
上の部屋を見てきますと言うと、若者はエレベーター乗り込んでいった。ほどなくしてダンボール箱を見つけてきてくれたので、僕は例のコーヒーとアメリカ・マーケットで買ったTシャツ数枚を詰めてから、近くに国際便を送ることができる郵便局がないか尋ねた。
すると、観光スポットでもある中央郵便局しかないと言う。ホーチミンの肖像が正面に飾ってあるのをネットで見たとき、その画が目に焼き付いていた。
ベトナム民主共和国の初代国家主席。統一会堂を訪れてからというもの、ホーチミンのことを意識するようになった。
僕は礼を述べるとチェックアウトを済ませ、しばらく荷物を預けさせもらうことにして、箱を抱えて表へ出た。
すぐにスクーター・タクシーを見つけて交渉し、150円ほどで郵便局へ乗せて行ってもらうことになった。
スクーターにまたがるとき、右足の太ももの皮膚が履いていたジーンズから剥がれるような嫌な感触を覚えた。当然激痛が走った。ジーンズの上から患部を触ろうとすると、ジーンズのその箇所だけ血液が固まって板のようになっていた。濃色のリジッドのデニムだから血の色が滲んだようには思えなかった。
スクーターの後ろで、僕は火傷とは違う別のことを考えていた。
日本を発つとき、僕は必要最低限のものを着て行こうと思って、どうしてかMade in USAのニュー・バランスM585GRというモデルと、Made in USAのLevi’s 501を履いてきたのだ。たいした知識も持ち合わせていないのだから、アメリカとベトナムの関係をどのように考えればよいか意識してわけでもないが、なぜアメリカ製を選んだのだろう。
中央郵便局に到着すると、スクーター・タクシーの運転手が次はどこへ行くんだいと聞いてきて、なんなら次も雇ってくれよと言うので、僕はホーチミン美術館に行くから、そこまでいくらだい、と交渉を始めた。お得な感じがしたので、続けて雇うことにした。
振り返ると、目の前に堂々たる姿をした建築物が現れた。どことなくルネサンス期や、細部にゴシックを彷彿とさせる装飾の面影を残す様式が、19世紀のフランス植民地時代の建築であることは一目瞭然だった。東京にはこれだけのものは無い。パリのオルセー駅を手本にエッフェルが鉄骨の設計を行った、正真正銘、当時のフランス領インドチャイナの威厳を誇示したものだった。
係員に尋ねると、国際郵便なら裏へ回ってくれという。
言われた通りにすると、雰囲気は一変した。そこは単にだだっ広い無機質な空間で、考えうる洒落た装飾が一切ない、かなり昔の日本の役所のような場所だった。
顧客は自分以外には誰もいない。反対に係員は10人はいただろうか。しかも全て女性だった。
僕は正面の窓口に向かうと、すぐに入口近くのカウンターの方を指差された。そちらへ行けということらしい。
指示された場所に向かうと、中年の女性の係員が僕に何枚もの書類を渡すと、指で書く仕草をした。書類を見ると、送り先や内容物の詳細を記載する項目が見えたから、インボイスだろうと思った。
顔を上げると、女性はすでに僕が持ち込んだ箱をカッターで切り開けていた。
そう、検閲である。
社会主義国家では、中身は全て開封され調べられてしまう。
全ての書類を書き終える頃には、カウンターにコーヒーやTシャツ、その他初日の移動日に着ていた服などが並べられていた。
係員の女性は、書類を受け取ると奥へ下がった。それからしばらくして戻ると、コーヒーは豆なのか挽いたものなのか質問してきた。終始、表情は変わらない。あまりにストイックなので、普段この人は喜怒哀楽を表現できるのだろうかと余計な心配をしてしまった。
確か日本円で数十円だったはずだが、その場で女性にコーヒーにかかる関税を支払った。その他の物品は特にお咎めなしのようだ。
すると今度その女性は、僕がはじめに向かった窓口を指差したので、そちらへ向かった。
そこでは別の係員が請求書のようなものを手渡してきた。女性は諸項目を指をなぞりながら説明してくれたが、なにせ全てベトナム語なものだから、注意が必要だった。
幸いなことに書類には数字が書いてあるので、それだけで安心できた。総額3,000円くらいのものだったが、送料以外の所に細かい費用がいくつも発生しているようだ。
きっと些細なことだから、あまり頓着すべきでなかったかもしれないが、僕は初めて社会主義国家で郵便物を送ろうとしている手続きを、いやチャレンジを、最初から最後まで全うしてみたかったのだ。
小さなことかもしれないが、自分なりに、制度に対する反発として。
係の女性は、なにやらしかめっ面で、色々と言っている。関税か税金の項目は、送料のすぐ下に書かれていて初めから総額にたされていたので、何となく分かった。でも一つ何だかわからないものがあって、それは項目には書かれていなくて、いきなり計算機上に表示されて支払いを要求された。
たかが100円くらいのものだったが、詳細が知りたくて幾度も問い合わせてみた。係員は、たまに先ほどの検閲カウンターの方を指差して、はっ、はっと何度も繰り返している。
しばらく聞き返してみるも、それが何を意味しているのか分からず、とっさに日本語なら通じるかもしれないと思い、ハコ、サッサト、さっさと行けということですかと聞いてみた。
なぜそのほうが通じると思ったかは分からない。
それからしばらくして、Pack(パック)と言っているのだとわかるまで、かなりの時間を要した。なるほど、梱包手数料というわけか。確かに女性は検閲のあと、段ボール箱をぐるぐるにテープで巻いていた。
心の中では、荷物は必ず検閲されるのだから、梱包手数料が課されることに逃げ道がないじゃないかとつぶやいていた。いっそのこと、初めから送料に入れておいて欲しいものだ。しかも関税はさっき向こうの係員に支払ったのではなかったか。二回徴収されたのだろうか。
これ以上意地になっても自分自身を含め誰の得にならないと思ったから、もう詮索はやめることにした。いずれにしても日本への国際郵便の発送の手続きを完遂することができたのだ。
僕は表へ出ると、スクーターの上で昼寝をしていたタクシーの運転手の肩に手を置いて、さあ行こうと出発した。
ホーチミン美術館はキュレーションも所蔵もなにもかも前時代的なシロモノだった。
それなりに戦前のベトナムの近代美術に始まり、日本軍占領下の風刺画や、時代を経てここ数年のものもちらほらあったが、ほとんどがフォーク・アートの域を出ず、日本でいえば上野や新美術館の公募団体展のようなものが多かった。
それが何か悪いというわけではないが、僕の求めているものとは違っていたし、少なくとも展示に対しては誇りを持って欲しいと思っていた。
というのも、展示室内に入ると、目に飛び込んでくる作品のほとんどが、傾いたままの埃だらけのフレームや、所々指紋や油が浮いたガラス、剥がれ落ちたまま何年も経っているような説明プレートを引き連れているのだ。これでは作品が報われない。
廊下を移動すると、展示していない作品がむき出しで、壁に何枚も立てかけられている。どこかの大学のアトリエの廊下じゃあるまいし、こんな作品の管理であるならば、壁に展示されている作品と向き合う姿勢も崩れてくるというものだ。
僕はさっさと美術館を後にして、少し不満を感じながら、近所の通りを少し歩いてからホテルに戻ることにした。
美術館の近所には骨董通りがあった。
後から知ったことだが、海外の骨董のコレクターやギャラリストには意外と知られたスポットらしく、10店舗以上が軒を並べて競っている。中には相当な掘り出し物もあると言われている。
だが僕が見るかぎり、それぞれの店自体には独自性がなく、蒐集にコンセプトも感じられないから、したがってセレクションにも魅力がなかった。
例えば、李朝の器や安南の染付けなどは、とにかくサイズだけが評価基準のごとく、小皿ならUS$100と均一の値段がつけられていた。
たとえ個別の骨董の歴史的背景、絵柄の内容、コンディションや形状について会話を始めようとして、手がかりになる単語をいくつか発してみても、古いものだよ、良いものだよとしか言わない。
こちらが不満足げな顔をすると、単に提示された値段に納得していないだけだと思われて、いくらならいいとか、少し負けるよとか言うから、僕はそこが問題ではないんだと説明する気さえ失せてしまった。
僕はそのまま骨董通りを歩き去って、中国系の売店で肉まんとコーラを買って、昼下がりのサイゴンの雑踏をホテルに向かって歩きながら、それを頬張った。
商品二つで80円くらいにしかなっていないのに、売店の女性の店員は満面の笑みで感謝の言葉を発した。
それではっとした。
その日、僕は腹のどこかをうろつく怒気をずっと抱えていた。戦争のことで胸いっぱいになったからか、郵便局の形式への違和感か、骨董通りでの不満足感からか、色々思い起こしてみたが、どうもしっくりこない。
結局、それが何なのかはわからなかったし、いつか必ず根絶やしにせねばならない怒りの感情にはもうこれ以上付き合いたくもないと思っていた。
・・・・
Thien Tuホテルに戻り、荷物を預かってくれてありがとうとフロントに伝えると、例の若者が奥からバックパックを引きずりだしてくれた。
Bui Vien通りはいつも混んでいるからタクシーを拾いづらい。仕方ないかと諦めて、重いバックパックをあえて左腕で持ち上げた。
少し間を置いて、誰の目にも明らかなバックパッカーのなりをしている僕を見かねてか、彼がGrabのタクシーを呼んでくれるという。料金は降りるときに12万ドンを払えば良い、およそ10分で来るから心配するなと。
何か勘違いされているかもしれないと思ったが、ありがとうと伝えた。
僕は物思いに耽っていただけだ。
せいいっぱい遡って思い出せる中学生の頃から、僕はいくら正面を向いていても写真映りはどちらかに傾いていた。
ショルダーバッグではなくてセカンドバッグ通称セカバンと呼ばれるバッグをいつも右肩にかけていたから、右肩が落ちて顎が僕から見て左にしゃくり上がってしまい、左右の眼の位置が平行にはならないのだ。
とくにそのことを気にしたわけではない。それより、右利きの癖からくる筋力の不均衡が問題だった。
そのことは去年から意識していて、バッグはなるべく左肩にかけたり、重いものを持ち上げるときにも、左腕を使うように心がけている。
それを意識するようになった去年という節目は、友人達に誘われたゴルフによってもたらされた。右腕ではなく、左肩など左半身を使う意識だ。たった数ヶ月にしては余りある喜びに溢れつつも甘酸っぱい記憶に染まりきっている。
だから僕は、あらゆる現象を一刀両断するような覚悟で、何者にも隙を与えないのだ。
ゴルフというものは、誰もが陥りがちなスコアという呪縛に囚われずに、好きなようにプレイするにかぎる。何を言われようとも、力に任せたければそうすれば良いと思っている。
ドライヴィング・レンジに出たら、バッティングセンターと同じと思えば爽快な気分を味わえるし、大枚叩いてコースに出たとしても、ロードバイクに乗っているかのように自然と一体となって四季の空気を胸いっぱいに吸い込んでやるのだ。
そう、このように自分のフィロソフィーを気ままに描きあげては、断固として立ち入る隙を与えないのだ。誰に対してなのか、何に対してなのか、異常な防御壁をそびえ立たせて、内側で意固地になって、他者と触れ合うときには嘘の社交辞令で武装している。
こんな器の小ささを笑いたくなる。ほら、また自虐的になる。
そんなことを考えていると、その次に脳裏に浮かんでくるのは、いつもあの人のことなのだ。
僕は実際に目を瞑れば、心の目をも閉じることができるのではないかと思ってやってみたが、反対に、思い出に刻まれた幾重のイメージが滔々と溢れ出して来た。
僕はやるせなくなって歯を食いしばり、これでもかと左の上腕二頭筋に力を込めて、イエローのGregoryの65Lバックパックをぐいと持ち上げて、背中側にスイングさせて右肩を滑り込ませた。カメラバッグは左肩から腹部にかけて襷に抱えた。
ここから、いなくならなければならない。すると、ちょうどGrabがやってきた。
・・・・
運転手は50代と思われる男性で、日本製の商品とか観光のことにかぎるが、気さくに話をしてくれた。今回出会ったベトナム人の中では、一番英語が上手だった。もちろんトゥアンに次いで、ではあるが。
空港までは30分。料金は600円足らず。いったい儲けはあるのだろうかと心配になった。
広大な区画の官公庁のあたりを走り過ぎるとき、汗だくになったことを思い出して、やはり歩く距離ではなかったかと反省した。
タクシーは猥雑な繁華街に入ってゆく。すると運転手は、ジャパニーズだという飲食店らしきテナント一つを指差した。日本語は一切確認できない。車中からだから、もしかすると指差していた場所と目で追っていた場所は違っていたのかもしれない。
美味しいのですかと尋ねると、おいしいぞ、女性スタッフに別料金で特別サービスだよ、わかるだろと、だらしのない笑顔を浮かべていたので、頭に画は浮かばなかったが、なんとなく言わんとしている内容はわかったような気がした。次回のために覚えておくよ、と僕は一応返しておいた。
空港に着くまでの間、少しずつ陽が西へ傾いてゆく。その外界の色彩の移り変わりが気持ちよくて、僕はこっくりこっくりと船を漕いでいた。
車が停車したのではっとして起きた。握っていたスマフォには動画が流れている。1963年、サイゴンのアメリカ大使館前で72歳の仏教徒が焼身自殺した様子だった。
そのまま少し見入っていて、タクシーの運転手が出発ゲートに着いたと言っているのに気づくのが遅くなった。
手荷物のチェックインと出国手続きを終えてから、僕は免税店や飲食店には目もくれず、搭乗ゲートのシートに向かった。
周りに人はまばらだ。充電できるソケットが見当たらないので、僕は早々とスマフォを機内モードに切り替えて電力の消費を遅らせた。
僕は腕を組んで天井を見上げていた。それからリーバイスのジーンズの太ももに両手を置いて、爪を立てた。
カトリックと仏教の対立。
アメリカと共産主義の緊迫した状況に巻き込まれなければ、こんなことにはならなかったのではないか。いや、アメリカと中国やソ連は、いつだって主義主張を表明する場所をアウトソースしている。Cold War(冷戦)とは言うが、大戦後からベルリンの壁の崩壊まで、現場ではすべてがHot War(熱戦)だったのだ。
僕は当事者ではないのに憤りを覚えて、心拍数が上昇していくのが手に取るようにわかった。すかさずMp3プレイヤーでMax RichterのSleepを流して心を落ち着けようと試みた。
17:35のVietjet VJ834便に乗り込むと、僕は再び機上の人となった。
サイゴンからカンボジアの首都プノンペンまではUS$45。バスの乗車料の3倍だが、移動時間は6分の1だ。飛行機であれば1時間で行くことができる。
僕はいつも窓際の席を選んでいる。
離陸と着陸の際はきまって窓の外の風景をスマフォの画像や動画に収めた。日本のスマフォは激しいシャッター音がするから気が乗らないのだが。
See ya, ベトナム。Here I come, カンボジア。
キャンボゥディア、と英語風の発音を何度も頭の中で繰り返していた。すぐにそれがおかしく思えてきた。アメリカン・イングリッシュの発音だったから。きらぼしと縞模様はいつだって僕につきまとう。
ふと窓の向こう側に視線を移してみると、雲の雰囲気がまた違って見えた。厚さはたいしたことなくて、向かっている方向が北西だからか、黄昏を予感させる黄色から橙そして紫や群青へといった色彩の推移は期待できなかった。
それでも地表の姿はいつも視線を裏切らなかった。都市部以外は広大な緑地が続き、そのうちメコン川の上流と思わしき大胆に曲がりくねる河川と、その流域の三日月湖たちが雄大な姿を現した。まだ手のつけられていない原始的な姿に、畏怖の念を抱いた。
ベトナム戦争後期の1970年代、ニクソン大統領は米軍にこの河の右岸を北上させた。
少し気怠さを感じながら、僕は17度線のDMZを挟んで対立する南北ベトナムに思いを馳せていた。
人々に親しまれるアンクル・ホーと、厄介なレ・ズアンの北ベトナム。アメリカの傀儡、ゴ・ディン・ジエム率いる南ベトナム。
ベトナムで大勢を占める仏教徒に対して、自らのカトリック寄りの政策を押し付けた実弟のゴ・ディン・ヌー。
権力の亡者、タイガー・レディ、ドラゴン・レディと呼ばれたマダム・ヌーの爆弾発言には棘があった。
『焼身自殺をする仏教徒を見て、私は拍手を送ったわ。仏教徒のリーダーが何をしたというの。やったことはその一人をバーベキューにしたくらいでしょ。内部では酔っ払って、信用を悪用して、バーベキューに使ったガソリンにしたって自国で調達したものではなくて、輸入したものでしょ。これからもっと仏教徒が焼身するなら、私がマッチをつけてあげましょう。』
ほんの数年前にイタリアのローマで死去した彼女は、どのような心境でこの40年近くを生きてきたのだろう。
南ベトナムの、英語が達者なグエン・カオ・キとグエン・バン・テューには端から信念などというものはなく、汚職にまみれた、単なる詐欺師まがいのビジネスマンだったことを公然のものとした。
僕の脳裏には、ホー・チ・ミンのくたびれた人民服と草履姿と、ゴ・ディン・ジエムが纏うテイラー・メイドのスーツと上質なドレス・シューズのセットアップとのコントラストが激しく衝突しながら、目まぐるしく行ったり来たりしていた。
ベトナムはジャングルだ。芝生ではない。
ベトナムはクリークだ、バンカーだ。フェアウェイではない。
ベトナムは野良着だ、ノンラーだ。麻のブレザーにパナマ帽ではない。
間違いなく、僕にとってのサッカー・自転車・登山は、ジエムにとっての乗馬・テニス・ゴルフの対極にある。そこにも深淵なる溝が、DMZがある。
いつか手を取り合う奇跡が訪れるのだろうか。
・・・・
Takeoあたりの上空から地上のスナップを撮ったのを最後に、ほどなくプノンペンに着陸した。
いくつもの星を掲げたとしても、この空に星が浮かぶことはない。
小型のVietjetから降りると、プノンペン国際空港が古めかしく簡素な作りであることがすぐにわかった。少し照明も落としてある気がする。
この感じ、どこか懐かしい。
少しは予習すべきだったが、僕は現地に着いてからカンボジアではビザが義務付けられていることを知った。
入国審査の前にVisa On Arrivalの窓口が見えてきたから、この場で発行できるのだとわかり胸をなでおろした。
しかしそれもつかの間、外国人たちの列の後ろに回ると、前に並んでいる全員が証明写真を手にしていた。周囲を見渡してみても、証明写真を撮れるフォトブースは見当たらない。
仕方なく僕はそのまま役人と対峙した。
ビザはUS$30だ、それとパスポートと写真も提出しなさいと言われて、まずは幸い持ち合わせていたアメリカ・ドルを手渡してから、写真は持っていないと伝えた。
じゃあプラス$3払ってと言われたから、その通りにした。役人からはそれについて特に説明はなく、向こうの列の並びなさいと指で指示されただけだった。
数分すると、名前を呼ばれた。役人がビザとパスポートを両手に持ち、顔写真のページをこちら側に向けていた。
よく見ると、ビザの顔写真はパスポートと同じだった。なるほど$3はコピーをとる手数料だったのか。照明写真を準備する手間と費用を考えれば悪くないが、コピーに$3は高いようにも思えた。
入国審査と関税申告を問題なく終え、手荷物を受け取って、僕は空港の外へ出た。
気温と湿度はサイゴンと変わらない。ただ、夜を迎えたからか、多少涼しげに感じた。
意外なことに、ここではサイゴンのような執拗なタクシーの誘いがない。なければないで、ちょっと寂しく思えた。
しょうがないから、おそらく警備員だと思われるブルーの制服姿の男性に声をかけて、タクシーはどこから乗れば良いか尋ねてみた。
すると男性は笑顔でこっちですよと急ぎ足で歩き始めた。
僕は、まぶたに厚みのある浅黒い肌に、ベトナム人とは違う相貌を早速認めていた。なんという民族だっただろうか。
タクシープールは50mも行かないところにあったから、もう分かるよと伝えたのだが、男性はその奥にいた同じ制服姿の男性に向かってひゅうと口笛を吹くと、なにやら叫んで、その人をこちらに来させた。
その男性もさっきと同じような大きな笑顔を浮かべて、重いからと遠慮しているというのに僕のバックパックを持ち上げると、タクシーのところまで行ってトランクに丁寧に入れてくれた。
この一連のプロセスに僕は猜疑心を抱いてしまっていた。こんなにナイスにされて、何か裏があるのではないかと。カンボジアにはチップはあるのだろうか。入国のことすら不勉強だったから、もちろんそんなことはわからない。
僕は、さっき$3のお釣りに受け取ったしわくちゃになったドル札二枚をフロント・ポケットから出して、その制服の男性に渡そうとしたが、彼は笑顔で首を横に振っていた。
思わず肩をすくめてしまったし、しかも困惑した表情だったかもしれない。頭を下げてサンキューとだけ述べて、タクシーに乗り込んだ。
空港から市内までの街道には、やはりスクーターの数が多かったが、サイゴンほどではない。街灯やイルミネーションなどもどこか控え目だ。
驚いたのは、パリでよく見かける薬局のグリーンの十字のネオンサインがあったことだ。そう、ここカンボジアもフランス領インドチャイナの領土であり、ベトナム戦争時にはアメリカの干渉が少なかったから、フランス植民地時代の監修がいまだに残っているのだ。一回意識するようになると、そのサインは次々と目の前を横切っていった。
カンボジアは初めて来たんだと運転手と話をしていると、進行方向の右奥になにやら巨大な建造物の集合が見えた気がした。初め暗くてわかりづらかったが、近づくと、確かに高層マンションの集合体だと気づいた。
建築現場のフェンスの表には”Star City”と記された豪華なプラン図のバナーが掛けられていた。
チャイナの街、と運転手は端的に言った。
ゲーテッド・コミュニティどころか、中国マネーは街を作ってしまうのかと驚きながらも、この10年を振り返ってみれば納得できた。
不思議なことに、市内の中心部が近づけば近づくほど辺りは暗くなっていき、あまり背の高くない熱帯の木々が鬱蒼と生い茂って立ち並んでいる様子に密林のような印象を受けた。サイゴンよりもずっと前の時代に来た気がする。
目的地のHome Chicホテルはすぐに見つかった。ホームシックにフランス語のシックがかけてある。一泊4,000円くらいだし、ダジャレさながらのセンスにあまり期待はしていなかったが、ロビーは広くて、内装や設備は清潔感があり気配りされたものだった。
フロント脇には、小さいけれどゲストが自由に使えるプールがあり、併設されたレストランは午後4時からハッピーアワーの格安のビールやカクテルが楽しめるようになっていた。
カンボジアではビールはだいたいUS$1くらいだ。そう、カンボジアでは通貨はもっぱらUSドルを使うが、硬貨は流通していないから、お釣りにリエルが返ってくる。ハッピーアワーとなると一杯注文すると二杯目が無料でついてくる。
フロントのスタッフはいつも笑顔で元気があり、様々なことに対応してくれそうだった。
この国はみんな笑顔なんだ、と感心した。当然ベトナムと比べてみても。健康そうな浅黒い肌に短身の身体が、まるで彼らの人柄をそのまま表しているかのようだった。
僕は客室に荷物を下ろしてから、空腹を満たそうと近所の飲食店を探した。2、3分のところにMok Monyという伝統的なカンボジア料理を食べさせるレストランがあるようなので、行ってみることにした。
ついでにフロントに洗濯はできるかと問い合わせてみると、1kgで$1というので、サイゴンの粉塵とたくさんの汗を吸い込んだTシャツや下着類を預けた。
しばらく暗い夜道をゆくと、赤い標識が見えた。Mok Monyはラフな格好のヒップな白人の旅行客で埋め尽くされていた。
少しクィアな印象のカンボジア人の男性の店主は、体をくねらせながらスムーズなアメリカン・イングリッシュを駆使して、それぞれのテーブルのゲストとカジュアルな雑談に勤しんでいた。
こちらにも目配せをしていたのは感じたが、メニューの読解に忙しそうな僕を見て、きっと取っつきにくい印象を抱いたのだろう。否定はしない。
僕は二つのことを考えていた。
一つは、もうソーシャル・メディアで飲食店を探すのはやめにしようということ。なぜなら結局それで行き着く場所は、東京でもNYでもパリでも、そしてプノンペンでも、こういう客層が、メインストリームではない土地の生活感を理解しているのだと自己陶酔しているから。なにせ彼らが信じるリアリズムのすべてが、単にジェントリファイされた虚像でしかないから。
そしてもう一つは、そう、メニューに発見したカンボジアの伝統的なクメール料理の「クメール」という単語だった。
脳内に、迷彩服に身を固め、国連の水色のベレーやヘルメットをかぶった平和維持活動部隊の画像が蘇ってきた。
そして、空港の警備員たちの容姿に見た特徴は、クメール人のそれだったのだ。
中学生の頃だったか。ポル・ポトが率いるクメール・ルージュによる国内粛清とカンボジア人100万人が犠牲になった大量虐殺。
褐色の肌、引き締まった肉体、重心の低い体勢に、戦いに臨む威厳がある。少し離れた両眼に浮かぶ漆黒の輝きには、獰猛という言葉がふさわしい。
クメールの戦士。憧れと恐れが、いっぺんにやってきた。
僕は白飯にクメールの炒め物をからめて腹に詰め込み、Angkorビールをぐいっと飲み干して、店を出た。
もう白人たちはいなくなっていた。
ホテルまでの道のりを歩いているとき、あたりの暗闇には、そして僕のこの暗闇には、何かが潜んでいると決め込んでいた。
それからホテルのバー・カウンターでウォッカのショットにアイスとパッション・フルーツのジュースを入れてくれと注文した。
出されたのは相当な量のウォッカにかろうじてジュースの香りがするくらいの、ジュースのウォッカ割りなのかウォッカのジュース割りなのか定かではないドリンクだった。
バーテンダーに、飲み終えたら返しにくるからと伝えて、グラスを部屋に持って上がった。
グラスに口をつけることもなくテーブルに置いたまま、僕はベッドに身体を投げ出した。
・・・・
1月11日の朝、プノンペン市内から少し南に下ったところで、現代アーティストと会うことになっていた。
シャワーを浴びるとき、いつも通り脚の痛みで火傷を思い出した。
ベッドの掛け布団を剥ぎ取ると、やはりシーツに血が滲んでいる、わけではなかった。昨夜はそのままジーンズを履いたまま寝てしまったのだ。
火傷の具合は芳しくない。日本から持ってきたバンドエイドもついに底を尽きた。
フロントに降りてみると、たちこめる食べ物の匂いに気づいた。全室のゲストに、ビュッフェ形式の朝食が用意されていた。
卵料理には専属のコックがいた。僕は、ハム、マッシュルーム、レッドペッパーを選んでから、オムレットにしてくれと言いかけて、すぐにオーバー・イージーに切りかえた。考えすぎかもしれないが、オムレツで卵が少し生だったら、リスクになりやしないかと思ったからだった。
8時に食べ終えてから、近所の薬局まで歩いた。トゥクトゥクのドライバーたちが待ち構えていた。あとで世話になるかもしれないからと伝えておいた。
意外なことに、朝の爽やかな日光に照らされていても、周辺の雰囲気は昨夜とあまり変わらなかった。枝葉に相当なボリュームを持つる木々のせいか、どことなく閉塞的で視界が悪い、そんな気がした。
バンドエイド10枚で60セント。 アンタイセプティック(消毒)もお願いしたが伝わらず、買うことができなかった。
現代作家リム・ソクチャンリナ(Lim Sokchanlina)と落ち合うのは10:30だから、まだ時間がある。そこで、カンボジアの独立記念のモニュメントあたりを散策することにした。
大通りに出ると、乗用車、スクーター、そしてトゥクトゥクの群れでひどく渋滞していた。
サイゴンより交通量は絶対的に少ないのに、プノンペンではこうなってしまうのかと思った矢先、道を挟んで遠く向こう側に交通の警察官が何十人も並んでいるのだ見えた。
歩み寄ってみると、シハヌーク大通りが封鎖中らしく、スクーターや自動車の運転手たちが警官と経緯について話し込んでいた。
歩いてゆくぶんには通行できるようだ。大げさな一眼レフを首からぶら下げた、いかにも観光客な装いの僕を止める警官は誰もいなかった。
警官たちの脇を何食わぬ顔で通って、そのまま独立記念モニュメントの方面へ進んだ。かなりの距離があるが、視界はよく、大掛かりなモニュメントや巨大な銅像を収めるいくつかの屋根付きの建物が直線的に連なった姿が壮大で、歩いていて心が晴れるようだった。
僕はきちんと手入れされた広大な公園を独り占めしていた。他に誰も歩いていない。湿気がそれほどでもないのか、肌に触れる空気が気持ち良い。
するとシハヌーク大通りの向こうから、物々しい雰囲気の車列がものすごいスピードでこちらへ向かってきた。要人でも移送しているのだろうか、似たような黒塗りの高級車が何台も通り過ぎたかと思うと、次にまたしても黒塗りのリンカーンNavigatorなど大柄のSUVの群れが追走していった。
概ね高級車のボンネット両脇の台座には赤い旗がたなびいていた。
チャイナ。僕はすぐにわかった。
モニュメントを横目にさらに歩き進んでみた。その間に何組かの報道陣を目撃した。
ノロドム・シハヌークの銅像の手前にはレッドカーペットが敷かれていた。銅像の足元には、中国共産党の総書記か国家主席か、それに近しい地位の誰かから贈られた記念碑と大きな花束が飾ってある。すぐ後ろで作業員がレッドカーペットを丸め始めていたから、ついさっきまで式典が催されていたのかもしれない。
振り返ると、独立記念モニュメントを囲むラウンダバウトの車道の向こうに、1967 – 2017カンボジアとベトナムの友好50周年と書かれた立て看板が目に入った。そのすぐ横にはLi Keqiangの正式訪問と大きく書かれたのバナーがある。
李克強だ。
カンボジアと社会主義国家ベトナムの友好を祝うイベントに中国の要人が顔を出すのはありえないことではないと思ったし、第一、昨夜のStar Cityをはじめとして、チャイナ・マネーはこれでもかと存在感を示している。
僕は余計な詮索はこれくらいにしたほうがいいと思った。
昨日からどうかしている。
歴史の深みにどっぷりとはまってしまったようで、純粋に目の前に訪れる現象を受け止められなくなっているのではないか。
もう時間だと気づいて、近くで休んでいたトゥクトゥクの運転手に声をかけてみた。
スマフォ上に地図を開くと、市内から南に10kmほど下ったところにマークしておいた場所を指差して、ここまで30分で行けるかと聞いてみた。事前に車で20分と確認しておいたから、トゥクトゥクならそのくらいだろうと予測はできた。
若いドライバーは、地図上の目的地近くのIICという大学のあたりを確認して、$6でいいならオーケーと言うので、僕は迷わず右手の親指を立てて、早速出発した。
初めてのトゥクトゥク。窓がないから写真撮影にはもってこいだ。
しばらくの間、様々な暮らしの風景を写すことができた。ココナッツの屋台、サトウキビ・ジュースの屋台、クリーニングか売り物なのか不明だが、大量の洋服をハンガーに吊るして移動するスクーター、ビール瓶や透明のガラス瓶に入ったガソリンを平然と道端で売る女性など、全てが新鮮だった。
サイゴンでは単焦点レンズを使っていたが、今日のレンズはNikkor 24-120mmだから、それなりに道ゆく人の表情に寄せることができる。
僕はトゥクトゥクの後部座席で右へ左へと落ち着きなく移動しながら、人々の無垢な仕草を狙っていた。
こちらに気づいた人たちは笑顔を作ってくれた。いや、日本のようにポーズとして笑顔を「作る」というのは彼らにはふさわしくない。ありのままの、純粋な笑顔だから。
僕にその笑顔をくれたことに、心が温かくなった。僕は単にファインダーを覗くので目を凝らしているだけなのだが、もしかするとカメラの下に白い歯が見えていて、彼らは笑顔と受け取ってくれたのかもしれない。それでも構わない。
しばらくするとトゥクトゥクを道路脇に停めて、運転手がもう一度地図を見せてくれと言った。
リムが指定してきた場所は、表通りから横道に入ってしばらく行ったところにあるようだ。地図上には湖がはっきりと表示されている。
もう例の大学のところまでは来たらしい。
運転手はそこが目的地だと勘違いしていたようで、僕がもっと南に下がって湖のすぐ脇のところだよと、指を差して示してみるのだが、無いよ分からないよと言って聞かない。
まだ1km以上ありそうだから、さすがに歩くのは無理があると思い、ナビゲーションするからもうちょっと進んでくれと頼んだ。
地図上にGPSを表示させて、おそらくここから入っていくのだろうと推測し、トゥクトゥクから降ろしてもらった。
あなたが思っていたより遠くなってしまったねと追加料金を払う覚悟でいたが、運転手は、いいよ大丈夫だよと言うと何食わぬ顔で去っていった。なんか悪いことをしたな。
もう約束の時間が来ていたから、僕は早々と歩を進めた。
集合アパートのような生活感のある建物の横というか通路を奥に進んでいくと、中華系らしい人たちが洗濯物を干したり、子供たちが遊んだりしていた。
その全員が今やっていることを止め、僕のほうを不思議そうに見つめていた。十中八九、伝わらないだろうと確信はしていたが、単に通過するだけだからと英語で伝えたが、視線はそのまま僕の背中を追いかけてきた。
そのまま進むと、行き止まりだった。指定場所のマークは、目の前に立ちふさがった背の高い壁の向こうにありそうなのに。
僕は引き返しながら、さっきの中華系の人々に地図のマークを見せて、どうやって行くのか教えてくださいと頼んでみたが、全員が首を横に振った。
仕方なく、地図に現在地をマーキングしてから、すぐにリムにメールを送った。できれば迎えに来て欲しいと。そして、はじめに行き方を聞いておけばよかったと後悔した。
表通りに出ると、真っ白に照りつける日差しが道路を反射して眩しかった。
喉が非常に乾いていたので、道端の屋台でココナッツを一つ割ってもらった。とても大きくて重かった。
ストローでそれをすすっていると、遥か向こうから土煙を上げながら、モトクロス・バイクが歩道を逆走してきた。バイクはすぐ目の前で止まると、Hisashi?と呼びかけられた。
リム・ソクチャンリナだった。まだ若い。
「リム!すみません来てもらっちゃって。」
「わかりづらかったですよね。このあたりは再開発地域なので遠回りしないといけないのですよ。」
僕は彼のHONDA XLRのバックシートに腰掛けてから、「ナイス・バイク」と伝えた。
リムは微笑んで、さあ行きましょう、すぐ着きますよと言ってスロットルを一気に解放した。当然のこと、スクーターとは馬力の次元が異なった。
荒れ果てた土地だった。
舗装されていない、しかも泥や砂利のような発展途上の道ではなく、レンガやコンクリートの何かの残骸が地面に散らばっていて、その隙間には水たまりや汚泥が見え隠れしている。
これが何を意味しているのか見当もつかず、僕の心は落ち着かなかった。
3分もバイクに揺られると、いくつかの豪邸とも呼べる鉄筋コンクリの一軒家の軒並みが左右に等間隔に現れてきた。その一つがリムの家/制作現場だった。
僕を中に迎え入れると、彼はとても家庭的で柔らかな印象のガールフレンドを紹介してくれた。少しはにかんだ笑顔がチャーミングだった。
室内は広々としていて開放感がある。僕はまだ飲み切れていないココナッツを床に置いた。
「ココナッツは、もっと小さいやつのほうが味が濃くてうまいですよ。」
「そうか、サイズはどれも同じだと勘違いしてました。量が多くてとても飲み切れないですよ。」
リムは、むずかしいですよねと笑っていた。そこまで英語は得意そうではない。
僕はバッグのファスナーから手を差し込んで名刺を取り出すと、形式的だがリムにそれを手渡した。
「制作にはもってこいのスペースですね。天井は高いし、自然光は入るし、なにせ広いから、ああやって大きな写真作品でも壁に立てかけておける。」
僕はさっき入って来たほうの広いスペースを指差した。
「もともとガレージなんですけどね、車は外に置いておいてもいいので、室内はできるだけ制作に使っています。」
「なぜここを選んだのですか。」
「この家を見つけた時はとても安かったんですよ。この地域が再開発ということで、その前はゴミ捨て場でしたから。」
ゴミ捨て場や埋立地が新興住宅地になるのはどこでも同じかと思った。きっとそういう、政府からすれば後ろめたい過去に限らず、先だっての Star Cityの例もあるように、カンボジアでは今まさに開発が真っ盛りなのかもしれない。
「リムさんがサンシャワー展で発表していた写真の連作は、開発と記憶の対比のようなものでしたよね。」
「はい、国道5号線です。2年前の作品ですが、日本政府と中国政府の援助もあり、 ASEAN諸国の主要な交易ルートとして、ベトナムのホーチミン、カンボジアのプノンペン、そしてタイのバンコクを結ぶ国道の建設が進められています。」
日本政府の協力。ASEAN諸国対して、確かJICA国際協力機構が多くの技術的・資金的援助をしているはずだ。
©Lim Sokchanlina
「国道5号は全長407kmに及ぶ大動脈になるため、元来の道幅6m程度の、つまり2車線では物足りず、政府は11mに拡幅しています。」
「それで、森美術館に展示されていた写真の家屋のように、壊されてしまったのですか、強引に。」
「はい、計画的な退去の手続きはあって無いようなものでした。もしかしたら真っ向から壊されていたらもっと話題になったかもしれません。というより、ほとんどの家が、道が拡幅される分だけ前面が削り取られた格好になったのです。申し訳程度に、家屋の後ろ側しか残っていない状態になりました。」
「まだ住居として使っているのに?」
「そうです。政府と交渉できたり余裕のある者は移住しましたけど、立場の弱い住人たちは、家を半分そぎ落とされたまま、トタンやビニール・シートを使って、仮の屋根や壁を作って風雨をしのいでいます。しかし、大動脈ですから街道をゆく交通量が引き起こす騒音は想像を絶するものでしょう。」
「それでも住み続けるのですか。なんとも逞しい。」
「いや、さすがにしばらくすると住人たちはいなくなっていきます。どこに移り住んだのか、消えてしまったのか、彼らの運命は定かではありませんが。」
「まったくひどい。住居はちゃんと残していますよとでも主張するかのようですが、実際は、家を半分に割っておいて、さぁこれがあなたの家ですからどうぞご自由に住んでくださいと言っているわけですよね。」
「家という形式は残されていますが、住めるクオリティのものではないのですよ。」
僕はこれこそが不条理だと、眉間に皺を寄せていた。
「こういうことはカンボジアでは普通なのですか。」
リムの表情を見て、はっとした。
また何か深い溝に足を踏み入れつつあるのではないかと感じた。僕は落ち着こうと深呼吸をした。
リムのガールフレンドがコーヒーを持ってきてくれた。
さっきブラックでいいと伝えてはいたが、東南アジア特有のロブスタ種の豆だろうから、香りもコクもなかった。郷に入れば郷に従えという意味でいうと、やはり練乳入りの甘いコーヒーのほうが合っているだろう。
だが、もてなしてもらっておいて文句を言うつもりはない。インスタント・コーヒーだと思えば充分飲める。これが文句の一種だというのは自覚している。
何を言いたいかというと、れっきとした芋焼酎も良いが、たまには立ち飲み屋でキンミヤのプラスチック・ボトルから注がれる焼酎お湯割りも風情があっていい。味よりも現場のリアリズムのほうが、上をいくことがあるのだ。
「そうだ、今度の、もう来週ですが、シンガポール・アート・ウィーク(SAW)で発表する作品をお見せしましょう。」
「僕も来週ちょうどシンガポールに行きますよ。日程はいつですか。」
それから日程や場所など詳細について情報交換をした。僕はシンガポール・アート・ウィークというものの存在は知らなかったが、まだ始まって2、3年のイベントらしい。
なぜシンガポールにと訊かれたので、アニメ関係のプロデューサーと会って企画やビジネスの話をするんだと伝えると、リムは、へえと興味深そうに聞いていた。
それからリムは僕を27インチiMacの前に手招きすると、作品のポートフォリオのフォルダを開いた。
「これもじつは2013年の旧作なのですが。あ、そうか、先にこっちの作品を見ておいたほうがいいですね。」
そう言うと、リムはガレージの壁に重ねて立てかけてある大判の写真数枚を表に向けて床に置いた。
©Lim Sokchanlina
「工事現場のフェンス、ですよね?」
「そうです。タイトルは“Wrapped Future”、ラッピングされた未来です。プノンペンはここ10年で急激な変化を遂げています。政府が掲げる、“より良き新たなプノンペン”というスローガンは、古きものを破壊し、新興地域を作り出すことを目指しています。そのため、町の至るところが、フェンスで囲まれているのです。これが未来の姿なのです。」
「未来のためには、代謝しなければならない。」
「そうなのですけどね。」
「誰もが頭ではわかっていることですが、こうして社会に面するフェンスに注目すると、本質的な違和感を感じますね。北京五輪の時、旧時代の裏道やローカルのコミュニティが隠蔽された時のような感じ。」
「いきなり境界線を引かれ、内部のことがわからないまま、完成までは見ちゃいけないという。当たり前なのかもしれないですが、みんなが昔から親しんでいた土地です。デベロッパーは意識していないかもしれないですが。しかし、誰もが持っていたその土地の記憶がいつの間にか開発の二文字に入れ替わっていることを問いたいのです。」
「これらの作品を見させてもらっていると、なんだろう、ケースによっては、土地の記憶とか未来とかの象徴レベルには集約されない、独自の歴史観が生まれていますよね。例えば、フェンスの向こうでツタ植物が生い茂って、フェンスを越えて来ているとか、様々な素材や色のフェンスがつぎはぎされたりとか。」
「ええ、ええ。あの、開発に思ったより時間がかかったり、予算の問題か計画が途中で頓挫したり、色々あって、現場がそのまま放置されることもあるんです。」
ドバイ、中国の地方都市、そしてプノンペンもそうかと納得できた。きっと中国マネーが流れ込んでいる東南アジアの都市部では当たり前の現象なのだろう。それ以外にも、世界の巨大資本国家たちがビジネス・チャンスを見込んで、東南アジアを開発主義の廃墟と化してしまう前に、僕はもっと現場を見なくてはならない。
「つまりフェンスはコミュニティの断絶であり、未来の象徴もであり、そして開発の遺産でもある。」
「はい。私にとってフェンスとは、現実と象徴された理想像の狭間にあって、公共と私的空間を、過去と未来を、そして知るものと知らざるものを断ち切る境界線なのですが、これ自体が、人々や政府が抱く未来像と現実のギャップに翻弄された遺物なのです。」
僕は深く頷いていた。
リムはそれではと、再びコンピュータに向かってフォルダを開いた。
「タイトルは“Urban Street Night Club”といいます。」
夜のフェンスを映した映像作品だった。フェンスの表面に、激しい彩度と高い明度の写真が見える。それらはアンコール・ワットのような遺跡、滝、ハイビスカスの花など、典型的なカンボジアの観光推進のものに思えた。
©Lim Sokchanlina
「なんですか、これは。」
「これが最新のフェンスのトレンドです。じつは単なるフェンスによる境界線ばかりだった時期から数年後、デベロッパーたちはフェンスに広告を掲載し始めました。」
Star Cityの手前のフェンスにあった広告の方式のことだとすぐにわかった。
「初めは建設現場で、フェンスの内側に建造される“未来像”つまり高層ビルやモールなどの飾り立てられたプラン図の張り紙が主流だったのですが、夜の間、その張り紙がライトアップされるようになりました。」
「それにしてもお下劣なライティングですね。Night Clubというタイトルにぴったりだけど、それまでのフェンスと比べると豹変しているというか。どういう開発対象地なのですか。」
「カジノです。」
ラスベガス、マカオ、シンガポールに次ぐ、というわけか。僕は苦笑いを隠せなかった。
「このライトアップされた広告は1kmに及びます。」
「カンボジアにもカジノがあるのですか。」
「ここはすでに操業中のカジノで、アジアの中でも意外と有名なんですよ。知らなかったですか。」
国力アップや経済的な成長には観光が必須だとは思う。しかし、猫も杓子もとりあえずカジノを導入しようという魂胆が気に食わない。現に、日本の経済産業省もインバウンド推進のため、伝統工芸や日本食といった独自の文化への誘引だけでなく、低俗なカジノに力を入れている。
「カジノのことは知らなかったです。」
「ただ、そういう派手な消費社会に対して一定の支持が集まるというのは事実ですね。」
「よく見ると広告が照らし出されているだけではなくて、フェンスの上には、なんですかLEDですか、光るものが連なっているようにも見えますね。」
「LEDです。いつかからフェンスに広告的価値が見出されたのでしょうね。それにしてもとってつけたような表現方法ですよ。」
「アーティストからすれば、なおさらでしょう。」
「逆にすごいと思っていますよ。カンボジア政府の掲げる“Make Phnom Penh More Beautiful”(プノンペンをより美しく)なる標語と、こうやって大々的にアピールされた典型的な観光スポットの典型的な角度の写真、そしてそれを際立たせる激しい光彩を放つライトアップとのギャップがあるので、いや、もしかしたらギャップだと思っていないのでしょう。本当にそれが“美しさ”だと思っているのです。」
「美しきプノンペンは経済的な幸福に裏付けされたものなのですね。」
「そうは思いたくないですが、きっとそちらに向いているのです。」
「だからリムさんはこの状況を、道の向こう側からロングショットで撮りためて、そのまま映像として発表しているのですか。」
「日本やシンガポールの背中を見つめて、良いものと思われるものが、わかりやすい輝きを持ったものに限られていて良いのかなと悩みます。未来とか成長を単に虚像の上に信じていていいのかと。アートの表現を通じて、もっと未来をリアルなものにしていきたいのです。」
なんとなく僕には、リムはあえて再開発地域に住まんとしていて、肌感覚として、カンボジアの変化をありのまま受け止めながら批評的なダイアローグを残しているのだと思えた。もちろん、勝手な想像にすぎない。プロフィールを見ると彼はまだ30歳だ。だが、リムには真の表現者の意思の強さみたいなものを感じることができた。
リムは、ライトアップされたカンボジアの広告を、表面的で実体のない美しさ、あるいは単なる浮世として捉えている。そして、あえてそこに映り込むスクーターで通勤する人たち、ベンチで眠るホームレスの姿、通り過ぎる屋台など、カンボジアの日常の姿をあるがまま描き出している。富裕層の遊び場とを並列させることで、どちらが本当の美しさかを問いかけるために。
僕はラスベガスの砂漠の上の人工的に作られた、世界のエキゾチズムを凝縮させたシミュラクルの集合体を思い浮かべていた。
消費社会は、すでに目の前にある美しさを忘れさせる。僕らの視線を奪い去る。その暴力は、止まることを知らない。
金銭的な充実は人を迷わせてしまう。後期資本主義国家にあって、僕らが持つことができる様々な選択肢は、カンボジアなど後発開発途上国の夢を食い物にしているからではないか。彼らに僕らと同じ道を、誤った姿の発展の道を幸せの道として歩み続けさせることは本当の良いのだろうか。
プノンペンからトンレサップ川を渡る二つの橋は、もはや矛盾の塊だろう。1960年代に日本が建設し、70年代にポル・ポト派が破壊した橋をもう一度日本が修復したことで、このチュルイ・チョンバー橋は日本橋と呼ばれる。
2014年、その真横には、競うかのように、中国政府が巨額の資金を投じた中国橋が掛かった。カンボジアからすれば外野に当たる中国と日本のプライドのぶつかり合いのせいで、同じ用途のインフラが重複してしまった。他にも必要なものはいくらでもあるだろうに。
そして、僕らがひたすら追いかけてきた超大国のきらぼし(Stars)と縞模様(Stripes)にだって、戦後70年のあいだ、邪だと分かっても、いままでどれだけ翻弄されてきたことか。
美しさはいつだって、すぐそこにある。
やりがいは日々の生活に見出せる。
今朝、僕にココナッツを割ってくれた上半身裸の男性は、笑顔で、鮮やかなナタさばきを見せつけて、僕の感動する表情を窺っていた。
見とれていた僕の表情から受け取れる幸せがあったとしたら、50円足らずのココナッツを捌く反復作業を日々の充実に加えることができるなら、それは勇気あることだ。僕は何時間でも見とれていよう。
そんなことに考えを巡らせているとは知らず、リムが昼食に真のクメール料理を食べようと誘ってくれたので、僕は彼の日本車のSUVに乗り込んだ。
遠く、湖があるはずの方角には何も認めることができなかった。
いくつかの、廃墟のようにも見える巨大な建造物が、陽炎のごとく揺らめいている。
それは蜃気楼にしか見えなかった。
だが、この時まだ僕は、カンボジア政府の真の恐ろしさを知る由もなかった。
彼らは、湖を砂漠へと変貌させていた。
そのスピードには、Googleさえも追いつくことができなかったのだ。
(続く)