インド北東部紀行(第六話)「白骨街道」

 
  「2019年12月30日 カレーミョウを出発」
 
 昨夜からルートを何度も眺めていた。
 
 そして、マップを指でズームしたり引いたりするたびに、アラカン山脈のスケールに肝を冷やしていた。
 
 直線距離だけを見れば、それほどの骨折りではないように思える。おそらく日本アルプスを越えるくらいのものだろう。
 
 しかし、山々をめぐる道路が雨季を通して負うダメージは計り知れないし、何よりミャンマー政府が僻地のチン州のライフラインにどれほどの重きを置いているかは、さらに計り知れないところがある。
 
 そんな時、僕は吉川英治がインパール作戦の無謀さに言及した記述を発見した。インパールとコヒマへのルートを日本国内の地図に置き換えてみたものだった。
 
 インパールを岐阜と仮定した場合、コヒマは金沢に該当する。ミャンマーの北部から西進した佐藤幸徳の第31師団は軽井沢付近から、浅間山(2542m)、長野、鹿島槍岳(長野の西40km、2890m)、高山を経て金沢へ向かったことになる。
 
 現在はルートが残されていないが、中央突破しインパールに北側から迫った第15師団は甲府付近から日本アルプスの一番高いところ(槍ヶ岳3180m・駒ヶ岳2966m)を通って岐阜へ向かうことになる。  
 
 そして今日訪れることになるルートは、カレーミョウから北西のアラカン山脈を超えてインドへの国境を越えるルートだ。第33師団は小田原付近から南アルプスを越えて岐阜まで歩く距離に相当する。しかも道中、山岳地帯での交戦でイギリス軍の第17インド師団と第23軽師団を駆逐しながらの行軍だった。
 
 兵士一人当たりは30kg〜60kgの重装備で日本アルプスを越え、途中山頂で戦闘を交えながら岐阜に向かうものと思えば、だいたい想像は付く。
 
 そして肝心の後方の兵站基地はインドウ(イラワジ河上流)、ウントウ、イェウ(ウントウの南130km)は宇都宮に、作戦を指導する軍司令部の所在地メイミョウは仙台に相当する。

 

 
 こうしてインパール作戦の位置関係を日本の地理に当てはめてみると、たとえ現代のハイテク素材によって強度を増しつつ軽量化された装備と、コンパクトにできる食料が無尽蔵にあったとしても、兵士達に課せられていたのは、ウォーキングやハイキングというレクリエーションとは全く別次元の厳しいミッションだった。
 
 僕は朝6時の開店と同時に朝食の会場に向かい、ちょうど明らんできた東の空を写真に収めた。
 

 
 なんとなく今日は、いつまともに食事が摂れるか分からない予感がしたので、なるべく色々なものを皿に取ったし、おかわりもして、最後はバナナを二本、部屋に持ち帰った。
 

 
 インドから帰ってきて一泊。特に荷物を広げたわけでは無かったので、荷物をまとめるのは容易かった。
 
 午前7時。僕はフロントでチェックアウトを済ませた。スーツケースを転がして表へ出ると、チットコーが待っていた。
 
 「ベテル・リーフはたくさん買ったかい?」と聞くと、彼は笑って頷いていた。彼にとって噛みタバコは何よりも大事な旅のお供である。
 
 僕らはカレーミョウを出発した。
 
 チットコーが運転するTOYOTAカルディナはインドとミャンマー国境に沿って南北に延びるアジア・ハイウェイ1号線(AH1)から西側に折れた道を進む。方向的には、ミャンマーの国土で最もインドに対して突き出た北西側の地域へ向かうことになる。AH1については次回説明するつもりだ。
 

 
 はじめの1時間は、まだ薄暗さの残る朝靄の中の走行となった。少し湿気を含んだ空気が、いくばくか冷え込みを助けているようだ。
 

 
 サガインを後にして、チン州に入った。登坂をはじめると、勾配は緩やかでカーブのRも考えられている気がして、カルディナのエンジンの唸り声は抑えられ、大人しく走っていた。
 

 
 沿道には、時々キリスト教の教会を目にするようになった。クリスマスから新年までの時期だからか、Merry Christmas & Happy New Yearというデコレーションが残っているところもある。まだ朝が早いので人出は見られなかったが、そのうち今日も多くのキリスト教徒が集まるのだろう。
 
 チン族はミャンマーを構成する8つの大きな民族の一つで、主にチンドウィン川流域から西、アラカン山脈の最東部の山岳地帯にわたるチン州からインド東部に居住するモンゴロイドだ。
 
 彼らは概ねキリスト教徒だから、これから山に入って集落を通過するたびに教会を見ることになるはずだ。残りの数パーセントはライピアンと呼ばれるアニミズムを信仰しているという。
 
 道路横の標識が見えた。タンムアル道(Thangmual Road)とある。
 
 前方の対向車線から、旧式のWiley’sそっくりのジープが走ってきた。少し横幅が広く、ホイールベースも長いように見えたので、チットコーに聞いてみた。
 

 
 「チン州で製造ライセンスを持っているジープだよ。昔のライセンスが生きている。」
 
 「本当に! それはすごい。高いの?」
 
 「高くはないが、質が悪い。エンジンが悪い。すぐ壊れる。」
 
 初め、新品のジープが持てるかもしれないという個人的な物欲が浮上してきたが、壊れるということを聞いて、一気に冷めてしまった。日本製のエンジンを積んだら良さそうだが、エンジンルームの高さはオリジナルと同じく、低いものに見えた。
 
 標高が徐々に上がってくると、朝靄の匂いといい秋空の感じといい、どこか懐かしい感じがした。それこそ、上高地へと続く道と重ねていたかもしれない。
 
 きつい勾配を緩やかなスロープに落ち着けるために、道は次第につづら折れの様相が強くなってきた。右側に山を置き、左側には眼下に森林地帯が見え、さらに遠方にカレーミョウを望むことができた。
 

 
 車を停め、朝靄に沈むカレーミョウにカメラを向けてシャッターを切った。
 

 
 ふと行く先の方向を見上げると、道は細く斜面に沿って左上に延びているが、山の稜線のあたりで消えていることから、もしかすると一山が終わる兆候かと思った。
 

 
 案の定、小さな村が丘の頂上あたりに見えてきた。チン族の第一印象は、カレーミョウの人々をして都会人と言わしめておかしくないほど、質素かつ埃にまみれていた。
 

 

 
 この村の先で道は右に折れ、今度は山嶺の尾根を北に進むようなルートが目の前に出てきた。ずっと奥に東西に伸びる山筋のより少し下に、斜め左上から右下に向かって、道路が刻まれているのが見える。あそこまで10kmはありそうだ。
 
 尾根を走る道は勾配がほとんどないので、走行に無理は生じない。だが路面の状況は、少しずつ悪化してきた。すでに出発してから2時間が経過している。
 

 
 先ほど見えた尾根に続く道の先には村があった。道は狭くなり、沿道の木造の建物は道から崖にせり出していて、背の高い木組みの構造で支えられていた。
 

 

 

 
 SUUNTOの標高計を見ると標高はすでに2000m近くに達している。それでも村の両側には真新しい電柱が見えたので、ここ数年来くらいの間だろうか、電力が通ったのだと理解できた。
 
 この村にはクリスマスの飾り付けが目立った。この地域のハブとなるような集落なのだろう、人を乗せたバスや資材を運ぶトラックなどが多く見られた。
 

 
 その先で道は二手に別れていた。右へ向かうと、ティディムだ。もちろんこちらに車を進ませる。そうして僕らはついにティディム道に入ったわけだ。
 

 
 そのまま数キロ進んでゆく。標識には黄色でNH45と表示されている。iPhoneで調べてみると、それはインドのNational Highway 45号線らしい。
 
 まだミャンマー側にいるのだが、この標識が見えてきたということは、このまま先へ進むとインド国境を越えて、45号線へと直結するということを指し示しているのかもしれない。
 

 
 ティディム道のミャンマー側の始点はかなり標高のある場所だった。アラカン山脈の中心部めがけてミャンマー側、つまり東側からアプローチするため、今度は向かって左側に斜面を迎えると、右側は反対に緩やかに下っている。
 
 道は次の山稜の頂上めがけて伸びている。高原であるためか、さっきまで鬱蒼としていた両側の森林が薄くなってきた。特に人工の道路を境界線として道の上と下とで植生が変わりつつある。
 

 
 道から少し離れた向こうに何か見えてくる。十字架だ。横切って山を越えていくと、遠くに道で囲まれた中央にそびえる、ひときわ立派な山が見えてきた。
 

 
 この山頂を敬うかのような十字架は、ちょうどこの頂をもって、ティディムの街へのターニング・ポイントであることを示している。その頂きとは、標高2700m超のケネディ・ピーク(Kennedy Peak)である。
 

 
 手前には、道路を舗装するためのの作業に必要なのだろう、砂利を砕くといった単純作業を行う女性の家族だと思われる三人を見かけた。
 
 ケネディ・ピークへ向かう道筋に、小さな集落が出現した。ペットボトルに入れた燃料や簡単なスナックを売っている。単なる通過地点である。
 
 ケネディ・ピークを東側から回り込むようにして越えると、今度はチン州のもっと険しい山岳地帯に入っていく。
 

 
 ここでSUUNTOは2400m近くを表示した。
 

 

 
 登り坂から平坦に移り変わるところで、チン族の村が現れた。ここでは水道は通ってないらしく、水道代わりになる水のタンクのあたりに人々が集まって、小さめのポリタンクへ移している姿が見えた。
 

 

 
 もしかすると電力も届いていないのかもしれないが、街灯のためのソーラーパネルを確認することができた。これもまだ建って間もないような新しさだった。
 
 車を見ると、行商の女性たちが近寄ってきて、僕らはすぐに囲まれた。手にはオレンジやリンゴが入ったビニールをぶら下げていて、もちろん聞き取れるわけではないが、買ってくれと言いながら、袋を掲げて見せつけてくる。
 

 
 ちょうど空気が良いので窓を下げていたところ、なんと女たちは袋を僕らの車内に投げ込んでくるというアグレッシブさだ。
 
 「チン州のフルーツは美味しいことで有名だよ。」
 
 袋を投げつけられ、どうしたものかと思っている矢先にチットコーがそう言った。
 
 すでに時刻的にも11時過ぎだったので、腹の足しにはなるかと思い、僕は6個入ったリンゴを2袋購入した。10,000チャット(750円)だった。
 

 
 後から考えると、思ったより値段が張るなと後悔していたが、それはすぐに払拭された。
 
 リンゴをひと齧りすると、中は蜜がたっぷり入っていて、毎年長野県の親戚から送られてくるリンゴのフジと互角。ややもすると、状況も相まって、チン族のリンゴの方が優っているかもしれない。とにかく最高に美味しかった。
 
 「オレンジも買っておけばよかったかな。」
 
 「気に入ったか。帰りに買えるよ。」
 
 チットコーに向かってそれはそうだと言いながら、まさか帰りにはこのようなことが考えられないほどの苦境に立たされることになるとは、この時点では思いもよらなかった。
 
 僕はリンゴを齧りながら、初秋の峠越えの快適なドライブ気分だった。この先は、再び尾根を渡りゆくように、平坦に近い形で道が延々と延びているようだ。
 

 
 その時、はるか遠方の山間に街の姿が見えた。ティディムだ。
 
 
  「ティディム道の最大都市」
 
 まさにティディム道の名称を冠する、インドに続く街道の主要な街だ。人口は9万人程度。標高2300mの位置にあるにも関わらず、チン州では数少ない大きな街の一つだ。
 

 
 そのせいか物資と人的資源は豊富な様子で、道路の舗装工事が何箇所かで同時進行していた。
 

 
 しかし、その手法とは原始的なもので、道端でハンマーを振り下ろして人の頭ほどの石を小さい砂利に砕く作業員がいて、その砂利を今度は女たちが中華鍋のような丸底のタライで道のほうに歩いて持っていき、ばらまく。
 
 それを最後にローラー車が踏み固めるのだが、肝心のアスファルト車は見当たらない。これでは夏の雨季までに間に合うのかどうかも怪しいと思えてならない。
 

 

 

 

 
 ふと来た道を振り返ると、すでに幾重もの山々の背後にケネディ・ピークがせり上がっていた。すでに正午が近い。
 

 
 iPhoneは、ティディムからさらに1時間奥のトンザンから向こうの名も無い地域までは、あと3時間はかかると表示していた。チットコーは全く時間に無頓着なのか、焦る様子もない。
 

 

 
 ティディムに入ると街の活気を感じられた。久しぶりに看板や食事処のサインなども目に入ってきた。
 

 
 ところで、ミャンマーで誰もが日常の「足」として利用するスクーターは、中国メーカーがほとんどのシェアを持つと言われている。その代表格がKENBOだ。
 
 定番は120ccのスクーターだ。燃費が良く、取り回しが良い車体はプラスチック製のホイールやシンプルな機構など、簡素に作られている。販売価格は5万円程度と安く、ビルマ人でも手が届くらしい。
 
 ただしビルマ人と話す時、僕が日本人であることを知ると、誰もが「ジャパンNo.1」と言うのが決まり文句だ。ここで彼らの言う「No.1」というのは、日本車やスクーターを含めるバイクである。
 
 HONDA, YAMAHA, SUZUKIと彼らは連呼するものだ。中国製と比べて値段が倍以上するので高嶺の花ではあるが、結局長持ちするのは日本製だと彼らはよく知っている。
 
 話を戻すと、ティディムのメインストリートを走っていると、驚くべきことに、沿道に桜が咲いていた。気候そのものがモンスーンと高地とのミックスであると考えられる。確かにすでに気温は20°くらいと涼しくなってきた。
 

 
 街中では人々の数も増えるため、彼らの顔つきを見るのに時間を取ることができた。標高が高く大気の遮蔽物が少ないせいか、それとも民族的な特徴か、マンダレーなど低地に住むビルマ人達と比べて肌の褐色がより濃いように思えた。
 

 
 ティディムを過ぎると、ティディムが座していた山地から北側に向けて下降した。
 
 前方に見えてくる山脈の雰囲気が変わった。道の左右の茂みも変化したことがわかった。窓を開けたままにしてあったので肌感覚として感じられることだが、空気が格段に乾燥している。
 
 木々や植物の葉に枯れ色が目立つようになり、遠方の山の斜面は森林伐採の跡が乾燥し山肌が露出していることも手伝って、黄土色の割合が増えた。つまり、秋である、という第一印象を持った。
 

 
 車は谷間に落ちてゆくようにルートを辿っていく。
 

 
 すると細流が現れた。僕は瞬時に、東京から西の奥多摩や秩父に自転車で行った時のようなフラッシュバックを味わった。
 

 
 これはマニプール川だ。
 
 インパールのあるマニプール州の主要な河川であり、インパール作戦の激戦が繰り広げられた『レッドヒルの戦い』の舞台であるロクタク湖を起点とする川である。
 
 周囲の山々は標高がぐっと下がったように思えた。錯覚だろうか。
 
 川の流れはインパールのある北から南へ流れている。ということは、僕らが南から北上してきているのだから、もちろん、山々が低くなったのではなく、僕らがいる場所そのものが絶対的に高い位置にあるということだ。
 

 
 景色が開けると、橋が見えた。その周りには棚田があり、日本の田園風景を思い出させた。秋の農園の姿とその匂いは、日本の田舎とそっくりだ。
 
 僕は強くノスタルジアを感じていた。そしてなぜか、この「白骨街道」の奥で日本軍の兵隊が何千人と斃れたことに思いを馳せていると、彼らは少なくとも懐かしい風景の中で最期を迎えることができたのかもしれないという、前向きな気持ちが芽生えてきた。
 

 

 

 
 しばらくマニプール川沿いを北へ進んだ。13時頃、川の平地を後にして、再び車はつづら折れを繰り返す山道へと差し掛かった。ここから30分ほどの山道をこなせば、トンザンがあるはずだ。
 

 
 急なカーブをいくつも攻略して、僕らは山の頂を眺めることができるフラットなルートに躍り出た。
 
 遠方に小さな町が見える。トンザン(Tonzang)だ。規模からして村ではなく、やはり町である。
 

 
 トンザンは同じくチン州の町で、人口は25000人足らず。ゾミとも言われるチン族が居住するところで、やはりキリスト教徒が大多数だ。
 
 
  「トンザンで出会った、日本在住の修道女」
 
 町に到着すると、僕らは道端の空き地に車を停めて、近くにある民家を訪ね、聞き込みを始めた。時計はすでに13時半を過ぎている。帰りを考えると、急ぐ必要がある。
 
 チットコーに通訳をお願いしていた内容は、日本人として白骨街道のことを知りたいと願って旅をしていて、もし日本人達の足跡を知っていれば教えて欲しい、というものだった。
 
 一軒目で若い女性に家の人がそういうことを知らないかと聞き込みをしてみると、早速奥から出てきた男性が、日本人のことを多少知っているということで、親切に案内までしてくれるという。
 

 
 彼が言うには、現在のティディム道は車道として後から整備されたので、元々のルートから少し外れていて、民家から裏へ降りたところの細い道こそが旧道であり白骨街道だという。
 
 土埃の舞う道を男性の後についてゆくと、教会や学校などが見えてきた。この地域の大事な集会所だ。
 

 

 
 「ここですか? どこかに何か残っていますか?」
 
 僕はチットコーを催促して、話を聞き出そうとした。
 
 「もう昔の跡は残ってはいませんが、昔はこのあたりに日本人の残党が住んでいました。」
 
 「家や遺品は残っていないのですか?」
 
 「昔はよくありましたよ。私の両親は、色々なものを生活の中で使っていました。よく覚えています。」
 
 それから僕は、そういうものは今どこにあるのかと聞いてはみたが、チットコーを通して色々と突いてみても、男性は首を振るばかりで何も答えが帰ってこない。
 
 「今は日本の兵隊たちがどうなったかは知りません。」
 
 通訳を通しているからか、質問に対する答えがズレてきていた。
 
 僕らは民家に戻った。
 
 チットコーがまだ何かを話していたが、僕はすぐに次の村へ、つまりティディム道をさらに奥へ行く必要があると思っていたので、焦り始めていた。
 
 もはや目的地は、インド国境すぐ手前のチッカ(Cikha)だろうと高を括っていた。
 
 すると先ほどの男性が椅子を持ってくると自ら座して、僕らにも座るように勧めた。僕はチットコーに急がないとまずいと伝えてはいたが、民家の奥から女性達がミルク入りのチャイ・ティーを持ってきた。
 
 ホスピタリティはありがたいのだが、僕はiPhoneを睨みながら、かろうじて入ってくる電波で、チッカまではまだ3時間以上かかることを知り、全身の汗腺が開いて汗ばんでしまっていた。
 
 インド近くまで来ると、やはりお茶もマニプールやナガランドと似て、ミルクたっぷりのチャイになるのだなと頭の片隅で思いながらも、心は上の空だった。
 
 チットコーは相変わらず男性との話に勤しんでいる。何か良い情報を聞き出せていることを願った。
 
 その時、民家の二軒向こうから、女性のキリスト教の僧侶、つまり尼が歩いてこちらに向かってきた。
 
 女性は英語でセシリア(Cecilia)と言った。笑顔の優しい、とても落ち着いた印象の女性だった。
 
 僕は英語で自己紹介をして、日本から来ていること、そして日本人の足跡を辿る旅の目的を簡単に伝えた。
 
 「私は今、東京に住んでいます。」
 
 僕は耳を疑った。もはや電波もほとんど届かない、Google Mapでもわずかな情報しか得られないチン州の山奥で、セシリアさんは日本語を使って、僕に話しかけてきたのだ。
 
 ”No way! Really?”
 
 思わず日本語ではなく英語でリアクションをしてしまっていた。
 
 “Yes, really.”
 
 「あぁ、すみません。そうでしたか、東京にお住まいなのですね。どういう経緯ですか?」
 
 「教会に派遣されて、三年前から東京に住んでいます。」
 
 「なんとそれはなんという奇遇でしょうか! ちなみにどちらの教会ですか?」
 
 「新宿区の中落合近くの教会です。聖母病院があるあたり。」
 
 大体の場所はイメージできた。
 
 その時、チットコーと例の男性の会話のほうから、「ハンゴウ」と聞こえた気がした。
 

 
 セシリアさんが彼らの会話に加わった。僕は完全に取り残されてしまったが、彼らの会話の行方を待つことにした。
 
 「ハンゴウ、知ってますよね?」
 
 突然セシリアさんが今度は日本語で僕に向かって話しかけてきた。セシリアさんが「ハンゴウ」と言ったことで、僕が聞いた単語は空耳ではなかったことを確信しつつも、なぜそういう言葉がゾミ族の男性から発されたのか、全くもって文脈を失っていた。
 
 「ここでは昔から、ハンゴウを使っていました。日本人が残したものです。台所に必ずありました。」
 
 「なんと! それをハンゴウと呼んでいたのですか。」
 
 「ええ、ここでは誰もがハンゴウと呼んで使っています。今でも。私は日本の教会に派遣されて、日本人と話していて、やっとハンゴウという言葉が日本語の飯盒だったと知りました。」
 
 ということは、これは、インパール作戦後に残党としてここに住み着いた日本兵とゾミ族との間でコミュニケーションがあったという証拠だ。
 
 「彼女の日本語はうまいのか?」
 
 チットコーが虚をついた問いかけを英語でしてきたので、僕はうまいよと簡単にあしらっておいた。
 
 僕はカレーミョウのホテルでダウンロードして端末に保存しておいた画像を開いて、セシリアさんと男性に見せた。彼女らは、あぁと感嘆の声を出して、「昔はあったけど、もう無いね」と言った。
 
 「日本人の生き残りは知らないですか?」
 
 「うーん、わかりません。遺品も生き残りも、もっと奥の村に行かないと。」
 
 僕はチットコーを見やり、視線を送って、出発しようと合図した。
 
 「みなさん、とても助かりました。色々お話を聞かせてくれてありがとう。お茶も美味しかったです。」
 
 せっかくなので僕らは記念写真を撮って、お互いに別れを告げた。
 

 
 時刻は14時を指していた。僕は暗鬱な気分になり始めていた。チットコーは、まだ事態を把握していない。
 
 僕らは今日、カレーミョウから車を走らせて8時間も南にある、世界三大仏教遺跡バガンに宿泊することになっている。
 
 仮に、今この場をUターンしたとしても、カレーミョウには夜6時頃に着き、それからすぐに出発したとして、バガン到着は夜中の2時といったところだ。。
 
 それでもUターンすることなく、僕らはさらに奥のチッカを目指さなくてはならない。僕はチットコーに急ごうと伝えて、進行を急がせた。
 

 

 
 トンザンを過ぎると、今まで以上に急勾配で鋭角なカーブを幾度もこなすことになった。道はさらに細く、谷側には防護柵がない箇所が多く、カーブを攻略するたび、遠心力に振られて、崖を覗き見るような格好になるから、肝を冷やした。
 
 戦前、ティディム道はまだ獣道程度でしかなかったため、日本軍とイギリス軍が切り開いたルートを基礎として、現在まで拡張されてきた。
 
 雨季にはぬかるんでしまい、歩兵の足は取られ、車輌のタイヤは泥に埋まってしまう。そして乾季になると、今度は泥が浮いていて崩れやすく、通行はさらに困難だったという。そのため連合軍はティディム道を”Chocolate Staircase”、つまりチョコレートの階段と呼んでいた。
 
 現在、乗用車で通行できるというのは当時からすると極めて信じられないことなのだろう。
 
 それから30分ごとに一度くらいの頻度で、小さい村と呼ぶには失礼なほどの、マイクロサイズの軒並みがいくつか現れた。ナクザン(Nakzhang)という村は確認できたが、あとは山深い里というべき村には名前すら見当たらなかった。もちろんiPhoneには一切の電波が届いていない。
 

 
 途中の村で、警官たちがたむろしているのを見ると、チットコーが行き先を訊ねていた。ビルマ語ではなく、チン語を混じえた会話だったようで、なかなか苦戦しているようだ。
 
 彼らが言うには、これから三つ目の村に、日本人の部隊が最後に行き着いた村があると言う。その一つ手前は、イギリス軍の部隊が息絶えた村らしい。
 

 

 
 最初の村では、チン州で有名だという、とても辛い唐辛子を干している景色を見た。
 

 

 
 そして、これほどの山奥になると車通りはほぼ皆無になるにも関わらず、数台のスクーターが巨大な荷物を運んでいるのを前方に目撃した。チットコー曰く、山深い里には日用品や野菜、食料が届かないので、こうしてスクーターに色々と積んで行商がわざわざいくつもの山を越えて来るのだという。
 

 

 
 15時を過ぎた。少し先でダンプカーが道を塞いでいる。
 

 
 ここまできてどうしたことかと不安を感じていると、その直後に爆破音がして、むき出しの岩肌が崩れ落ちた。僕らは最初かなり驚いたが、どうやら発破をかけて岩を破砕し、それらをトラックに積んで運ぶということらしい。トラックの一台には軍人が乗っていたので、何か物々しい雰囲気ではあったが。
 

 
 僕らはさらに奥に進んだ。
 

 

 
 
  「チッカの小教区」
 
 15時半、ついに三つ目の村に到着した。村のローマ・カトリック教会には、トゥイ・キャン(Tui Khiang)とある。その横にはチッカ教会区(Cikha Parish)と書かれているということは、ついに僕らは目的地に極めて近づいたことになる。
 

 
 村のメインストリートを車はゆっくりと前進した。僕らはどこかに車を停められる場所を探しつつ、かつ質問できそうな村人の品定めもしてみた。
 
 しかし、すぐにわかったことだが、むしろ村人たちからの視線のほうが、僕らの存在を突き通すような威力を持っていた。
 
 道の左側の民家が見えると、中年男性と子供らがこちらをじっと見ていた。民家の敷地には充分駐車スペースがある。
 
 僕はチットコーに目配せした。彼は僕のほうのサイドウインドウから中年男性に話しかけた。
 
 チットコーが頷いてハンドルを左に切ったので、ここに停められるようだ。
 

 
 車を降りると、僕は周りの子供たちに笑顔を振りまいてこちらが怪しい人間では無いことをアピールしたが、子供たちは車や携帯やカメラをじっと見つめるだけだった。
 
 チットコーは熱したエンジンに対応するため、真っ先にボンネットを開けてクーラントを見たり、冷却を促したりした。
 

 
 そこにいた中年男性はチットコーからの話を聞いていた。チットコーが僕のほうを向いて顎で指し示すと、男性は僕の方を見て、またチットコーと話しを続けていた。
 
 おそらく僕が来た理由と探している情報を伝えてくれたのだろう。
 
 チットコーの車のメンテ作業が落ち着くと、男性が裏山を案内してくれるということだった。
 
 僕は英語で感謝の気持ちを伝えてはみたが、もちろん伝わるはずがない。
 
 男性はメインストリートから右に折れて、山に向かう斜面の方に僕らを引導した。下は単純に土だけの地面で、雨が降ればそのまま土砂が流れるであろう構造だ。
 
 山に差し掛かると、小川を越えた。そこには鉄筋を横たえた簡易の橋がかかっていた。
 

 
 男性がチットコーに伝えると、彼は、「日本軍の車輌の部品のようだ」と言った。
 
 確かに古い。戦車の骨組みだろうか。
 
 それから山に踏み入っていくと、所々に穴が出没した。
 

 
 「昔、ここに日本兵が埋められていた。」
 

 
 男性が言ったのをチットコーが通訳した。
 
 「今は遺体はどこにあるのですか?」
 
 「墓荒らしに掘り起こされてしまい、その後の亡骸の行方は不明だ。」
 
 「なぜ墓を掘るのです?」
 
 少し男性は悩んでいた様子でチットコーに思ったよりも長い回答をしていた。
 
 「装備品は日常生活に使えます。いろんな道具や備品が剥奪されて身内に配られたり、外部の人間に売られたりしてきました。」
 
 戦後75年の月日の中で、様々な事情があったのだろう。真相はもはや遠い歴史の闇に葬られてしまっている。
 

 
 「しかし、どうやって日本兵が埋められているとわかるのです?」
 
 「当てずっぽうだよ。村の連中は人によっては先祖から日本兵が埋まっている場所を受け継いできているかもしれないが、大抵は闇雲に掘っていくだけ。そこにある石で周りを囲まれた立派な墓であれば確実だが、ほとんどは単に土を掘って埋められただけなので、見つけるのは難しい。」
 
 僕は仕方ないと肩を落とし、男性に従って山を歩き回った。山からまたメインストリートに戻る途中、少し視界が開けた。そこにも桜の木があった。日本兵の魂が宿っているかもしれないと、ふと思った。
 

 
 開けた場所に到達すると、遠くに小さめの山が見えた。目の前に空き地がある。
 
 「昔、ここに燃料切れとなった戦車があった。それから村人が解体して、家財として使ったり、パーツとして売ったりしてきた。」
 

 
 「どうか、日本軍に関わる何かがいまだに使われている様子を見せて欲しい。」
 
 男性は先導して、村の家々を見せて回った。
 
 家の所々に、戦車や小型車両の部品が使われている。ボディや装甲の部分は家の側壁の補強や、井戸の蓋として使われている。
 

 

 
 戦車のタレットの銃眼やハッチは台所に置いてあるコンロの蓋として、原初の目的を変えられていた。
 

 

 
 他には、フレームや通信アンテナのキャップなどは敷地内に何かゆくゆく使われるために、今は放置されていた。
 

 

 
 豚小屋を通り過ぎると、庭の端っこの切り株の上に、天頂に穴の空いた日本兵の鉄兜が置かれていた。
 

 

 
 僕は思わず声を上げてしまった。さらに敷地を歩くと、戦車のキャタピラも出てきた。単に放置されているものもあれば、巻かれ、筒状にされて立たされ、炭火のコンロにされたものもある。
 

 
 
 
 さらに一度表通りに出てから別の民家にお邪魔すると、中年男性が家の主人としばらく話した様子で、主人は奥から何か土色のものを持ってきた。
 
 男性はタワシでそれをゴシゴシと洗い始めると、次第に銀色の部分が見えてくる。最後に姿を現す時には、それが水筒であることは誰の目にとっても明白だった。
 

 
 チットコーに視線を送って顎を突き出して指示をする。僕は彼の耳元へ、「これらを村人から買って、日本に持ち帰ろうと思う」と伝えると、チットコーはわかったと短く答えて、僕が意図する深い文脈を理解してくれたようだ。
 
 それからチットコーを介した価格交渉が始まった。
 

 
 それぞれ所有者が異なるため、両方同じ値段で落ち着かせる必要があった。村人たちは急に色気付いてきて数人が周りに集まるようになっていた。
 

 
 最初の提示はどこでその知恵を得たのかは定かではないが、一つ30,000チャット(およそ2280円)という強気な価格を提示してきた。コンディションからして、どうせ使っていないジャンクだろうと話しながら、日本人として、日本兵の所持品を日本に持って帰る義務があると伝えて、それぞれ20,000チャットで交渉が成立した。
 
 車を停めてある男性の家のところに着いたらのは16時半だった。僕は彼に案内してくれた報酬として5,000チャットを手渡した。
 

 
 「聞いた話では、インド側に残留日本人が残っているらしい。」
 
 僕は突然のことに不意を突かれたが、その内容が意味するものの大きさから、日本人の足跡にまた新たな糸口が見えてきたと身震いするようだった。
 
 僕は再度感謝の意を表明して、チットコーに彼の連絡先をもらっておくようにお願いした。いつか、次回インド側に行く際には行方を捜してみたいと思った。
 
 僕はひとまずミッションを達成できたと安堵した。
 
 ふと街道の向こうの山々を眺めて、あのさらにずっと向こうにインドがあり、道はインパールに続いているのだと感慨に耽った。
 

 
 一昨日まで、そのインパールにいた。
 
 国境が塞がっていなければ、直接、今僕らがいるチッカまで来られたのだろう。戦時中に一週間もかけて行軍する距離を、いくら路面状況が悪いとは言え現代であればこうも簡単に移動ができることは幸運としか言えない。
 
 僕はチットコーが車にエンジンをかけて問題ないことを確認してから車に乗り込んだ。村人たちは未だに遠巻きに我々を眺めている。勇気のある子供らは車のサイドウインドウのすぐ横まで来て、興味深そうに車内を眺めている。
 
 僕は村人たちに手を振って、笑顔でありがとうと伝えた。
 

 
 しかし、村人たちは最後まで不思議な表情で僕らを見ていた。一体なぜ、この日本人と呼ばれる人種はこの村に来て、そして間も無く去っていったのか、彼らには理解が難しいところなのだろう。
 
 そして、いくら教育が行き届いていたとしても、文脈と主観の置き場所によって、歴史というものはいくらでも様変わりしてしまうという宿命にある。だから僕は自分の目的を伝えてゆくことしかできない。当事者でもないのだから、お節介なシンパシーは振りかざさないように決めていた。
 
 これからカレーミョウに帰還する。単純計算で、到着は22時だ。そしてそれからバガンに出発となれば、バガンへの到着は朝6時ということになる。
 

 
 チットコーがスピードを上げて峠を攻める。途中で、行き倒れとなったダンプカーに遭遇した。様子からして、数ヶ月は立ち往生したままだ。往路では気づかなかったのは何故だろう。
 

 
 次第に黄昏の色彩に染まる山肌は、来た時の雰囲気とは全く違う、穏やかな表情を浮かべていた。
 

 
 白骨街道。
 
 戦時中とその後の凝縮された時代に歴史の表舞台に立たされる運命を辿った街道には、様々な思念が錯綜し、今もなお、玉虫色の輝きを、ときたま訪れる稀有な旅人たちに見せつけている。
 
 連合国軍と日本軍という戦争の当事者からすれば、この街道は成仏できぬ魂が滞留する、悲歎の道かもしれない。しかし、ここチン州に居住するゾミ族からすれば、自分たち土壌で行われた他人の戦争を一体どのように納得すれば良いのだろうか。彼らこそ戦争の被害者であり、イギリス軍と日本軍の激戦に巻き込まれた不幸な人々なのである。
 
 そこに突然僕が現れて、日本軍の足跡を見せろとお金を振りかざし、村人を利用したことは、果たして許されることなのだろうか。
 
 僕は運転席で今日すでに12時間も運転に励んでくれているチットコーの横顔を見て、その思いをさらに強くしていた。
 

 
 
「24+耐:出発から26時間後、バガンに到着」
 
 いくつもの峠を越え、チン州で有名なオレンジの行商達ですら閉店してしまっていた夜の山道は想像を絶するほど険しく、孤独で不安を募らせる道程だった。遠くに見える明かりを発見するたびに、気持ちがふっと楽になる。
 

 
 しかし、それがまだ地図上で帰宅ルートの序ノ口であることを知ると、また僕らは言葉を失い、車内に響くのは荒れた路面に弾かれるタイヤの音や、砂利を巻き上げる音、そして荷物が激しく上下に打ち付けられる音のみだった。
 
 僕らがカレーミョウに着いたのは、やはり22時だった。
 
 僕はMoeホテルで洗濯物を回収した。その間にチットコーはベテル・リーフを買いに行き、僕らは再びホテルの駐車場で落ち合った。
 
 結局リンゴ以外、何も口にしていない。しかし、そんな余裕すら無かった。
 
 僕はホテルのフロントでポテトチップスを二人分買って車内に持ち込んだ。
 
 チットコーの表情にはさすがに疲れが見えていた。僕はそれでも、バガンまで頼むと伝えた。彼は頷いて、さぁ行こうと言った。
 
 TOYOTAカルディナは今日3度目の給油を行なってからアジア・ハイウェイ1号線(AH1)を南下した。山道と違ってスピードに乗ることができる。
 
 しかしアジアを貫通するハイウェイの名には程遠く、街道には街灯は一切無く、道も曲がりくねったり、急激なアップダウンがあったりして、フロントの底面を地面に擦ってしまう。
 
 僕は何度もぼうっとする局面が訪れてきたし、横のチットコーもうつらうつらと船を漕いでいて、道を外れてしまうことも数度あった。
 
 時計を見ると午前2時や、3時というのが非常に緩やかなテンポでやってくる。
 
 幾度もカーブやチャレンジングなハンドルワークを要する場所をこなしてきているのに、いっこうに距離は縮まらず、時間の経過も遅い。
 
 リンゴもポテトチップスも全て食べ終わってしまった。
 
 ふと眠りに落ちてしまい、iPhoneのGoogle Mapで居場所を確認すると、ルートからずれていることが二度ほどあった。
 
 チットコーの中国製のスマホのGoogle Mapは位置情報がずれていて、僕のiPhoneとは異なるルートを勧めている。間違いなく、それは誤ったルートだ。
 
 僕らは合意して、iPhoneだけを使うことにした。
 
 そのうち夜明けが訪れた。
 

 
 まだバガンまでは2時間半ほどある。
 
 しかし太陽は救世主だった。僕は完全に覚醒し、横のチットコーもゾンビ状態ではあるが、目はしっかり見開いている。その目の周りは凹みが激しかった。
 

 
 そしてベテル・リーフの噛みすぎか、彼の口の周りは本当に今まで人間を喰っていたゾンビであるかのように真っ赤に染まっていて、不気味だった。
 

 

 
 すでに今日は大晦日だ。今見ているのが、今年見る最後の朝日だった。
 

 

 
 カレーミョウを出てから24時間。酷く長く、そして濃厚な一日だった。いや、今日も、昨日も一昨日も、そしてその前も、今回の旅は毎日が濃厚だ。
 

 
 バガンが近づくにつれ、ゴールデンウィークに訪れた時のことを思い出してきた。
 

 
 多少知っているというだけでも、アウェイ感が一挙に薄れて、どこか、帰ってきたとでも言いたい気持ちにさせるから不思議だ。
 
 雄大なエーヤワディー川を渡る頃には、もう安心できた。疲れがどっと出てきて、激しい睡魔に襲われ意識が薄れていくようで、チットコーにはあともう少しだと、数分に一回はぼやいていたと思う。
 

 
 もはや彼からは何の言葉も返ってこなかった。
 
 午前9時。ニューバガン地区のRuby Trueホテルに到着した。
 
 チットコーは完全に全てを使い果たした亡者の表情で、自分の宿に向かうと言った。僕らは13時にここで待ち合わせようと約束した。
 
 僕は縺れそうな脚を引きずりながらフロントに辿り着いて、とにかく眠気と空腹の両方を解決したかったから、朝食はまだやっているかと訊ねた。
 
 フロントのスタッフは、「すみません、チェックインは午後2時以降です」と言った。
 
 僕が事情を説明すると、スタッフと女性の初老のマネージャーの二人が同時に驚きの声を漏らし、まさか僕が昨日チェックイン予定でやっと今到着したことに驚愕していた。
 
 彼らは態度を変え、「もちろん朝食はご用意できております。ようこそいらっしゃいました」とマニュアル通りのプロパーな挨拶と一連の手続きを済ませてから、僕を会場に招待した。
 
 あるだけの料理を皿に乗せていき、勢いよくテーブルでがっつくと、胃がびっくりしたのか、あまり多くは食べられなかった。
 
 仕方なく多少残す形で食事を済ませて、僕は部屋に向かった。すでに荷物は全て部屋に運ばれていた。
 
 僕は歯を磨いてから、すぐにベッドに倒れ込んだ。枕に擦りつけられる髪の毛がゴワゴワしていた。気にはなったが、もうどうでも良かった。
 
 きっと睡魔は襲う暇もないまま、僕の意識は遥か彼方に遠のいていた。
 
 
 (つづく)