「ラングーン、マンダレー、ラショーをつなぐビルマ公路」
今朝は8時に目覚めた。
iPhoneのアラームを止めるとすぐにスクリーンを確認したが、Wi-fiマークは表示されていなかった。仕方なくシャワーを浴びてから、服を着て出発の準備をした。
その時、ドアをノックする音がした。のぞき穴から見ると、ホテルのスタッフだ。ドアを開けると彼が大皿を差し出してきた。朝食は注文していなかったが、スタッフが言うには、通信環境のお詫びにフルーツの盛り合わせをサービスさせて欲しいということだ。僕は素直に受け取った。
皿には、マンゴー、リンゴ、オレンジ、ブドウが載っていて豪華だ。果糖は朝のスタートを切るには好都合だ。僕はそれぞれ味わってみた。リンゴはチン州のリンゴには到底及ばなかった。南国のマンゴーはさすがに美味い。
僕はカメラバッグと貴重品を持ってフロントに降りた。チットコーがソファで待っていた。おはようと伝えると、彼もおはようと応えて、首を左上にクイッと持ち上げた。今になって気づいたことだが、チットコーも、インド人たちと同じ頷く動作をする。つまりYesを意味するジェスチャーだ。
僕らはまずミャンマー政府の郵便局へ向かった。インドとミャンマーで溜まってきた荷物を日本に送りたい。
郵便局は朝9:30オープンという、政府機関にしてはかなりのんびりした営業開始時刻だ。ちょうど定刻に到着し、車を大通りの反対側に停めて、僕らは箱を持って郵便局のEMS専用のカウンターに向かった。
昨夜ネットで確認していたEMS料金がかなり高かったので、まさかとは思ってはいたが、やはり5kgの荷物の日本までの送料は13,000円くらいだった。バンコクからの料金の倍以上だ。であれば、マンダレーからバンコクまでのフライトの手荷物の上限を10kg増やして1500円ほど支払ったほうがリーズナブルだ。
さらに追い討ちをかけるように、せっかく前夜に緩衝材と擦れに強い素材で丁寧にラッピングしていたのに、白骨街道の奥地で回収してきた旧日本軍の鉄兜と水筒がセンサーに引っかかった。郵便局員が言うには、あらゆる金属が送れないという。
すでに料金のところで幻滅していたから、もう決心はできていた。そもそも英霊の遺した鉄兜と水筒を郵便で送ってしまうという考えを改め、自分の手荷物の中に入れて、ハンドキャリーで日本まで持ち帰ることにした。
僕らは郵便局を後にした。
メイミョウまでは歴史あるマンダレー・ラショー道路(3号線)でおよそ1時間半の道のりだ。
一度市外に出てしまうと不便なため、まずは腹ごしらえと思い、マンダレーの丘の麓の食事処で簡単にシャン州の麺を食べた。ちょっと甘めのあっさりスープと唐辛子の辛さが絶妙にフュージョンされ、米の細麺にとてもよくマッチする。
もう一品はミャンマーではよく出されるお茶っぱのサラダだ。これは塩気が強すぎて、あまり箸が進まなかった。4月、5月の猛暑の頃であれば、汗っかきの自分にはもってこいの料理だったに違いない。
メイミョウがあるミャンマーの東北部はシャン族の居住区である。当然距離的に近いマンダレーにもシャン族のコミュニティは存在するようだ。
その間、近所に住むチットコーはTOYOTAカルディナの底面の状況を再度チェックしていた。地元のトゥクトゥクの友人らが何人か集まって、車の下を覗き込んでいた。
僕はフルーツジュースを飲んで一服し、いよいよミャンマー最終日のメイミョウヘの移動が始まることに意気込んだ。
3号線の道路は、マンダレーの東側を南下し、市街地を過ぎたあたりでさらに東側へ折れて、ちょっとした丘陵地帯に突入する。道は広く、きちんと舗装されていて、走行にストレスは全く感じない。
ただし勾配はなかなかのもので、僕ら以外のダンプカーやオンボロのバスは苦戦を強いられていた。たまに出くわすトゥクトゥクはさらに苦労をしていた。
「俺は一回だけトゥクトゥクでピン・ウー・ルウィンへ行ったよ。なかなか大変だった。」
それはもちろんチットコーの言葉だった。
この道は太平洋戦争中の重要な補給ルートだが、それより数年遡ると、日中戦争時に連合国軍が蒋介石への物資を送っていた、いわゆる「援蒋ルート」の一つでもある。
戦争初期には、20世紀初頭にイギリス植民者が建造したラングーン(現ヤンゴン)からマンダレーそして北部のミッチーナーまでの鉄道の他に、マンダレーから中国との国境近い東北地方の町ラショーまでの鉄道も通っていて、そこから陸路で雲南省に入り、国民党の本拠地の重慶まで物資を送ることができた。
このルートが「ビルマ公路」と呼ばれている。
しかし、日本軍が1942年にビルマのほぼ全域を手中に収めてからというもの、連合国軍の援蒋ルートは弱体化する。いわゆるThe Humpと呼ばれるヒマラヤ山脈を越えるハイリスクな輸送空路以外は存在し得なかった。
1943年のケベック会議で大きな動きがあった。北ビルマでの戦いで日本軍に敗退し続けた英国軍の再起を図るため、ウィンストン・チャーチル首相は東アフリカで成功を収めたオード・ウィンゲート大佐を評価した。
ウィンゲートは東アフリカの作戦以来、編成の時期を同じくする特殊空挺部隊と近しい思想を持つ、長期間の作戦行動を遂行するゲリラ部隊を構想していた。チャーチルは彼をビルマへ飛ばし、「チンディット部隊」を指揮させた。
帝国陸軍第15軍は、こうした神出鬼没のゲリラ部隊との交戦にしだいに疲弊してゆくことになる。
やがて1944年にインドのアッサム地方からビルマの北部を通るスティルウェル道からミッチーナーとバーモを経由し雲南省に入るルート、いわゆる「レド公路」が計画されるわけだが、それまでにかなりの時間を要した。
やはり単なる丘陵地帯くらいだという予想は的中し、およそ標高1200mのところでメイミョウに到着した。街中はイギリス植民時代の面影が多く残っていて、無造作に交差点の風景をカメラに収めると、どことなく上品な感じがした。
市街地にある、とりわけ1934年に建造されたパーセルタワーと呼ばれる時計台は、簡略化されてはいるが、ロマネスクの雰囲気を取り入れた19世紀のジョージアン様式の建築だった。
「先に鍾乳洞を見に行かないか。寺もあるから。」チットコーが突然切り出した。
まだ昼下がりだし、僕はそうしようと言って快諾した。
「マハーナンダムーの鍾乳洞」
今度はメイミョウの丘陵地から東側にラショーに向かって延びる道を下ってゆく。ここで僕らは完全にシャン州に入ったことになる。
景色を見るに、英国風ではないミャンマーの田舎の風景が戻ってきた。なんとなく落ち着くのは何故だろうか。
辺り一面に青々とした畑が広がっていた。冬場であってもマンダレー側のように乾燥しないため、湿潤な気候が手に入る。ここでは水を田んぼに張った水稲栽培では無く、畑を用いた野菜や果物の栽培が適していた。
しかし緑地の印象とは異なり、沿道の土の色は赤褐色に変わった。チットコーに聞くと、この地域もまた鉱物資源が豊富なため、中国企業が流入して銅山をこしらえて問題を起こしているという。
ここから北に120km行ったところにあるモゴクと呼ばれる宝石の一大産地までの間は、こうした中国系の鉱山が多いという。モゴクといえば、翡翠、ルビー、サファイアといったミャンマーを代表する宝石の採掘場の町だ。
一方、モゴクの歴史的な役割としては、マンダレーから見て北部のミッチーナーや東部のラショーよりも雲南省への距離が近いことから、西南シルクロードのポイントとして、シルクや宝石類が中国へ渡ったルートとして考えられる。
そして他方、1942年に日本軍がアウンサン将軍率いるビルマ独立運動の志士たちと共闘してラングーンを落とし、ビルマ全土からイギリス軍を駆逐したのとタイミングを同じくして、モゴクの監獄から逃走していた政治家バー・モウも、この近辺で回収された。バー・モウは英領ビルマ植民地政府の首相を務めた人間であったため、直後の1943年には初代ビルマ国内閣総理大臣として日本国から任命された。
丘陵地から平地に降りてくると、前方に森林地帯が迫ってきて、見通しが悪くなった。反対に言えば、鍾乳洞がありそうな雰囲気になってきたということだ。
確かにそれからすぐに目的地に到着した。マハー・ナンダムーという寺であることがわかった。鍾乳洞の中にお寺があり、敷地の奥には滝もあるという。
車から降りると、みやげ物屋の印象が今までと違うことに気づいた。そこでは赤と緑と黄色のシャン族の色合いの商品が目立っていた。
この三色は、チェンマイから車で北西の山奥に6時間進んだところにあるメーホーンソン地区のタイヤイ(大タイ)と呼ばれる人々のものとそっくりだった。話を聞くと、タイヤイは別名タイシャンと言い、タイ側にいるシャン族という意味だ。つまりミャンマーのシャン族とタイのタイヤイとは同じ民族なのだ。
シャン州の名産は、ウールのセーター、ブドウ酒、イチゴのワイン、ハチミツ、梅、そして近年成長中なのがコーヒーの栽培だ。売店ではどこかしこで干した肉を売っていたが、正体不明であまり腹も減っていなかったのでパスすることにした。
鍾乳洞の中に作られた仏教寺院は、ビルマ国内の観光客がほとんどといった感じだった。チットコーが先導して寺への入り口を尻目に奥に歩いてゆくと、観光客は一気にいなくなった。隠れスポットらしい。
すると森を抜け出たところに断崖があり、下ったところ奥には、滝が見えてきた。
滝はこじんまりとしていて、ダイナミックさはなかったが、向かって手前には石灰岩が蓄積してできたと思われる段々の水溜りがあって、立体的な散策ができるのと、靴を脱いで水に入って移動するので、それなりに飽きさせなかった。
充分に写真を撮ったし、マイナスイオンをたくさん浴びてから、僕らは寺の入り口に向かった。
その際、高級建材であるチークの木が植樹された区画を通った。とても高級な木材で、ミャンマー国内での消費というよりはタイなど東南アジアの先進国に輸出されるらしい。
鍾乳洞の手前で靴と靴下を脱ぎ、ロッカーにしまってから内部へ歩いてゆく。ミャンマーやインドでは当然のことだが、裸足になっても相変わらず土足で歩くのと同じ石や砂が多い通路を100mほど歩かされた。
内部はもちろん薄暗い。目が慣れるまではゆっくり慎重に歩く。天井からは湧き水がぽつぽつと落ちてくる。
床と壁面は全て濡れているから、相当の湿度だ。カメラで写真を撮ろうとすると、ファインダーが曇ってしまいなかなか思うように撮影できなかった。
早速、お寺らしくお堂が現れた。ここには金箔を貼るための涅槃像があって、身体中が幾重にも重ねられた金箔で膨れ上がっている。それにも関わらず、敬虔な信者たちはベタベタと金箔を貼り付けていた。
奥に進んでゆくと、青や緑や赤のライティングがとてもチープな感じがして、あまり良い雰囲気ではなかった。床面といえば、一日何千人という人たちが濡れたタイルの上を裸足で歩く。誰かがモップがけしているわけでもないから、床にはぬめりがある。衛生面も考えると、ちょっと気持ち悪かった。
帰りはロッカーのところに寄付金を入れるボックスがあったので、少し入れておいた。警備のスタッフが礼を言ってきた。
車に戻ると、僕らは再びメイミョウヘと来た道を戻った。
「ピン・ウー・ルウィンあるいはメイミョウ、あるいはMay’s Town」
メイミョウはインパール作戦を指揮した大日本帝国陸軍第15軍の拠点であり、牟田口中将の司令部があったところだ。
もともと東インド会社をはじめとするイギリス植民者たちの避暑地であったことから、とても過ごしやすい気候で、ビルマの戦いを通して日本軍はここの病院で傷病兵たちを手当てしていた。というのも、前線で治療するとなるとマラリアや他の熱帯地域特有の病気を罹患するリスクが高まってしまうからだ。
こうした歴史と施設を受け継いでか、現在メイミョウはミャンマー陸軍の一大拠点であるばかりか、士官学校も併設されていて、軍人達で溢れかえっている街でもある。
街中をゆくと、人々の顔つきがモンゴロイドではないことに気がついた。
チットコーが言うには、植民地時代にイギリス軍の兵役に就いていたのが、メイミョウの名前の由来となったメイ大佐率いるインドのベンガル連隊だったため、アーリア系の人々が多く移住したからだという。それに加えてシャン族が多く住んでいる。
「俺の親父はソルジャーだったよ。ピン・ウー・ルウィン出身だ。」チットコーが話し始めた。
「へぇ、そうなんだね。それじゃあ、あなたもここで生まれたの?」
「そうそう。小さい頃までここに住んでいた。」
「この街は故郷というわけだね。」
「うん。好きな街だよ。気候が良くて、敷地の広いイギリスの建物が多く残っている。」
「里帰りは考えていないの?」
「不動産が高すぎる。ちょっと前までは安かったのに、今はもう手が届かないくらい高価だよ。」
「リトル・チャイナと呼ばれるマンダレーで働く中国系実業家の避暑地なのかな。」
「そうかもね。」
それからチットコーは知り尽くしたメイミョウの裏道を見せてくれた。
ここはイギリスの田舎ではないかと錯覚させるような豪華な邸宅が多く見られた。庭付きで立派な門構えの家々は、軍の施設から道を挟んで向かい側にも相当数が並んでいた。
「こういう豪邸には軍の将官らが暮らしているよ。元はイギリス人の将校が住んでいたのだろう。」
軍属の邸宅と言われれば実感が湧く。
さらに進んでゆくと、教会や寄宿学校などもあり、英国風の墓地もあって、何から何までミャンマーにいることを忘れさせる。
しかしメイミョウや近隣の町々は、1943年からの一年間にわたって、米空軍と英王立空軍に構成される東方エア・コマンド(EAC)のB-29爆撃機や新型P-47サンダーボルトの来襲を受け、激しく破壊された暗い一面もある。
戦後の復興のおかげかもしれないが、優雅さを取り戻したメイミョウでは想像だにできないことだ。
そう思いに耽っていると、通り過ぎる豪邸や、何度もすれ違う馬車はリゾート感たっぷりだ。
僕らは英国墓地と教会を訪れてみた。
墓地は正直なところ荒れ果てていた。敷地内にはゴミが散乱していて、雑草は生え放題だし、敷地の四方を囲むレンガ壁は崩れてしまっていて、その隙間から雑木林がどんどん侵入してきている。
前方から仏教僧が歩いてきたので不思議に思ってシャッターを切った。彼とは目があったので、挨拶をしておいた。
墓地の奥のほうを眺めやると、墓石のメンテナンスだろうか、何かを掘ったり埋めたりする作業中の三人組が目に飛び込んできた。向こうもこちらのことを見ていた。墓地の空間に車でずけずけと侵入していたので、何か注意されるかもしれない。しかし、それからは何事もなかった。
英国墓地の埋葬されているのは専らキリスト教徒で占められている。確かに墓標のいくつかを見てみると、予想通りマイケルとかトマスのようなクリスチャン・ネームが刻まれている。
しかし、彼らのファミリー・ネームを見てみると、何やらおかしい。ポー・スウとか何某とか、明らかにアングロ・サクソンの名字ではないことは明白だった。
「シャン族はキリスト教徒?」僕はチットコーに訊いてみた。
「シャン・ピープルは仏教徒だよ。どうして?」
「ということは、このあたりに住んでいるビルマ族はキリスト教徒かい?」
「いいや違うね。バーマー(ビルマ)・ピープルもみんな仏教徒だよ。どうして?」
僕は少し困惑していたから、直接聞くことにした。
「じゃあここに眠っている人たちはどういう人たちなの?」
「イギリス系ビルマ人。白人の血が入っている。」
「アングロ・バーミーズ! そういう人達が存在するというのは知らなかった。」
そうは言い放ったが、19世紀からの植民地なのだから自然の成り行きと言えばあり得る話だ。
調べてみると、日本でおなじみのピーター・バラカンは母親が英国系ビルマ人だ。ハリウッド女優だと、ケート・ベッキンセールも同じくビルマ人の血が流れているという。他にも調べれば色々とヒットした。
車に乗り込んで、僕らは教会を目指した。
カトリック教会を見たとき、思い浮かんだのがヨークシャーという地名だった。教会とイギリス方式の庭園、そして併設された学校を含む全体像は、イギリスの田舎町にありそうな質素な作りだった。
最後にピン・ウー・ルウィンを代表する観光地であり広大な敷地を誇るイギリス庭園に行ってみることにした。僕は花よりは木が好きなタチなのだが、チットコー見ておいたほうが良いというのだ。
途中、またしても何軒かの立派な邸宅の前を横切った。その姿は、あたかもイギリスにいるのではないかと錯覚させる。
右手に湖が見えるようになると、すぐに庭園の入り口が見えてきた。
国立カンダウギー庭園だ。今はちょうどフラワーフェスティバルが催されている。
「カンダウギー庭園のフェスティバル」
マンダレーと比べると湿度が高く、しかも雲に覆われているので日光の恵みを受けられない今日は、底冷えといった冷え方をしていた。イギリス庭園の本質とは、天候までも英国風に暗く湿っているべきなのだろうか。
入場料は7000チャットくらいだったはずだ。アメリカドルで$5、なかなか高めだ。明日バンコクに移動するため、ミャンマーチャットは使い切りたいと思っていたから、残金が残り少なくなってくると不安になる。
チットコーは駐車場で待つという。これだけの入場料では、地元民にとっては重荷だ。
入園すると、中央にローズガーデンがあって、フェスティバルの主役といった存在感を示していた。その周りも黄色や紫やピンクのチューリップなど美しい花が植えられて、遠くに浮かび上がるPyin Oo Lwin(ピン・ウー・ルウィン)という文字を引き立てていた。
会場に来ているのは家族連れや友人同士、そしてもちろんカップルという客層だ。独り単独で来ているのは本当に僕だけでないかしらと思うほどだ。
僕はあまり中央の庭園にいても寂しいだけだと感じて、湖の周りの森のさらに向こう側の人通りが疎らな遊歩道を歩いてみることにした。
このルートは静かで心が落ち着いた。大きな竹をひと所に集めて飾った竹林があったり、珍しい胡蝶蘭を集めたミュージアムがあったりと、人がいないわりに内容は濃かった。
他には、鮮やかなピンク色の桜の木が満開だったのも、嬉しい出来事だった。
最後にベルタワーに向かってひたすら歩いた。入り口で配布された地図で見るよりもかなり遠いようだった。広場に出ると、仮設の露店のことごとくが暖簾を下ろしてしまっていて、人気がないし、誰かいたとしても裏で片付け作業をしているくらいだった。
僕は広場を越えて、再び湖の今度は西岸を北に向かって歩いた。途中、何台かのピックアップトラックやバンが通り過ぎていった。もしかするとシャトルがあるのかもしれないが、もはや調べ終わるのと暮れてしまうののどちらが早いかと比べるのももったいなかった。
夕刻をとうに過ぎ、夜の帳が下りるのは近そうだ。
その時、暗がりの森の上、数百メートル先にベルタワーの尖塔が見えてきた。僕は急いだ。
辿り着いたは良いが、周りはまだ鬱蒼とした森林に囲まれていて、視界は全く良くない。タワーの周りを歩いてみると、上へ登る階段が外周に設置されていた。それを使って屋上まで登りさえすれば絶景が待っているに違いない。
僕はスタートした。結局スピーディに登り切ったが、最後は息が切れてしまった。SUUNTOで獲得標高を調べてみると、およそ5階建のビルと同じくらいの高さまで登ることが要求されていた。
しかし、もはや景色と呼ぶには難しいくらい辺りは薄暗くて見づらいし、天気も芳しくない。遠くのメイミョウの街にもすでに街灯が輝いていた。もしかすると本来ならマンダレーが見えるかもしれない西側を振り向いてみたが、何も見えなかった。カメラの望遠レンズを使ってもほとんど変わらない。
僕は潔くタワーを降りることにして、再び庭園を縦断する長い道のりを歩き始めた。途中、ライトアップされた仏塔がふと目に留まり、ここはアジアなのだと再認した。
庭園内は時々スポットライトが歩行路をしているが、そのため目が明るさに慣れてしまうと、あらゆる風景が漆黒の背景へと沈んでいってしまう。そんな中、庭園の名前の由来ともなったガンダウギー湖を渡るときには、湖岸の砂地に数羽の白鳥が毛づくろいをしていた。
駐車場に着く頃には、時刻はすでに19時近かった。まだ庭園の警備員たちは小屋にいて、そこからサンキューまた来てねのようなことを言われたと思う。
暗がりの中で待つ車は、もはや一台だけだった。
「良かったか?」
僕はチットコーにありがとうと伝えた。さぁ帰ろうとお互い頷いて、車はゲートの外へとゆっくり進んだ。再びメイミョウの中心を通過した。その時、初めてパーセル・タワーを正面から見ることができた。
「マンダレー最後の夜」
明日、マンダレーを発ってバンコクへ飛ぶ。もちろん以前からお互い話し合っていたことだが、空港まではお願いするよと改めてチットコーに依頼した。
僕らは順調にホテルに帰ってきた。ロビーのテーブルで、これまでの一週間の運転手代金を清算すべく話し合った。しかし、金額の合意に至るまでには紆余曲折あった。はじめに話していた料金より目減りしている。
理由は色々あった。一つはクリスマス・イブの夜。インドへと陸路で国境を越える前夜、チットコーが突然インドへ渡航できない旨を突きつけてきたこと。
3ヶ月前から、僕らは車でインドへ入って移動する予定でいたから、インパールでもコヒマでも、僕は宿泊先を町の中心から離れたところに選んでいた。車がないとかなり不便なところだ。
しかし突如予定が崩れてしまったので、僕は自力でインドに入ってから移動手段を見つけて、インパールまでたどり着かなくてはならなかった。コヒマについても同じことだった。
その間、チットコーはインド国境目の前にあるミャンマー側の町タムーに三日間滞在した。彼はタクシー専用のナンバープレートを持っているので、お客を取ることができた。
これは不可抗力なのか、それとも運転手の不手際と言えば良いのか、僕らはお互いに主張するポイントが異なり、金額にズレが生じていた。
チットコーは事前に確認したと主張してきたが、渡航については、ちゃんと役所に訊いたのかと問い詰めると、友人と兄に相談しただけだと言う。そして、彼らはたぶん大丈夫だと推測したという。国境を越えられるかどうか役人や専門家に問い合わせをせず判断するなど、なかなか考えにくい。特に、お客から依頼を受けている中で、そんなリスクがよく取れたものだ。
二点目は宿泊の件。あらかじめチットコーが運転して僕を連れ回っている間、宿泊先は二部屋予約していた。この件も以前から相談し、合意の上のことだった。しかしチットコーは、カレーミョウでもバガンでも、自分は別の場所に泊まると言って、いつもどこかへ消えていってしまった。
この二点の齟齬が生じた結果、僕は余分な費用を捻出してしまっていた。だから支払うべき料金は変動していた。
合理的に議論をまとめて相談を繰り返した結果、ようやく最後は合意に至って、僕らは握手した。
すでに半額は旅の前に支払っていたから、残りの分は明日の朝、空港へ出発するときに支払うのでいいねということになった。やっと落ち着くことができる。
深呼吸をしてから部屋に戻ると、僕はWi-fiが復活していることを知った。今日一日外出していたから、復活というよりはじめてやっと使えるということだ。
僕はオンラインでフライトのチェックインを済ませた。預ける手荷物の重量を10kgプラスしておいた。
それから簡単に顔と手を洗って、夕食を探しにホテルの外へ出た。
昨夜と同じように、暗闇の中を北東に向かって歩いてゆく。
BBQ、ビルマ料理などなど、何か食指の動くものはないかと歩き回ってみたが、結局、昨夜の中華街のことが頭に浮かんで、今夜も同じストリートに戻ってきた。
今日は他の店にしようかと彷徨ってみたが、屋台や露店の料理店ではビールを出さないことが判明し、結局、勝手をよく知る同じ店に入った。
すぐにビールがサーブされ、その後に餃子と四川風の火鍋麺が提供された。やはり500円弱。
僕はホテルに戻ってから荷物をまとめた。インパールのお茶、同じくインパールのカシミア・スカーフ、ナガランドで買った伝統衣装、チン州のテキスタイルや、バガンで買った漆器、マンダレーで仕入れたビルマ軍の軍装など、荷物は膨れ上がっていた。
畳んであった予備のダッフルバッグを広げて、嵩があって壊れない生地などを入れて、スーツケースの真ん中にスペースを作った。ここに、今回の旅で着用済のTシャツや下着などで包んだ鉄兜と水筒を収めた。
荷造りを終えてひと段落したので、ゆっくりシャワーを浴びてから、ベッドに入ってTVを点けた。
ケーブルTVには多くのチャンネルが存在したが、中華系の番組、インド系、アメリカ、オーストラリア、香港の順で勢力があるようだ。
とにかく中華系の番組が多い。ニュースからバラエティ、ドラマまでなんでもある。もちろん英語やビルマ語の字幕はないから、それだけ中国人がミャンマーに流入しているということなのだろう。設定すればビルマ語くらいは字幕があるかもしれない。
「いざバンコクへ。」
気がつくと、iPhoneのアラームが鳴っていた。
シャワーを浴びて、冷蔵庫に入れてあった果物を食べてから、忘れ物がないか確認し部屋を出た。
9時チェックアウト。チットコーはロビーで待っていた。スーツケースを持っていき、表に停めてある車に積んでくれた。
フライトまでは三時間あるから、少しどこかに立ち寄れる。前回は空港に行く途中、マンダレーからエーヤワディー川沿いに南に下って、旧都インワを訪れたのだった。
「ジュエリー・ショップに行くんだろ?」
ほとんど忘れていたが、ミャンマーと言えば宝石をお土産に買って帰るのが定石だ。そこで、チットコーの知り合いが運営するオススメの宝石商に行ってみることした。
店の前に到着すると、朝9時を過ぎたところなので、まだ開店していないのだろうか。店内が暗い。僕がフロントのチャイムを押している間、チットコーは裏に回って、裏の出入り口のボタンを押していた。そのうち正面入り口に向かって女性が歩いてきた。どうやら開けてくれるらしい。
店に入ると、奥から初老の男性が笑顔で近づいてきた。チットコーとは知り合いらしく店主は彼と陽気に会話していた。
翡翠をお探しですかと聞かれたので、サファイアとムーンストーンを探していると伝えると、そのショーケースを見せてくれた。かなりの数がある。小さい値札が付いていて、見ると全然高くない。翡翠は透明感のある鮮やかな緑の物が高価な値付けとなっている。中国人が最も好む宝石だ。
この店で30分ほど物色して、母には綺麗にカットされた鮮やかなサファイアの指輪、娘には丸くカットされた誕生石ムーンストーンの指輪を手に入れた。最後に自分用には、黒みがかった青が魅力的な、大粒の楕円型サファイアの指輪を買った。
「さぁ、空港へ行こう。」
外に出ると強い日差しが照りつけていた。久しぶりに快晴の空だった。マンダレー空港に降り立った10日前は、まさにこんな日差しだった。
空港までの1時間弱の車中は二人とも静かだった。
僕は旅のことを振り返っては、たまにハプニングを思い出し、笑いながらチットコーに伝えた。もしかすると日本に帰国してからは思い出せないかもしれない。旅の途中で出会った情景や思い出は、その場所にいるときの匂い、触覚、感情によって刻まれるものだ。だから僕はこの瞬間、空港までの道のりを大切にした。
空港に到着した。入り口の目の前に駐車しても誰の邪魔にもならない。日本で言えば地方の小さな空港のような規模だ。岡山空港や小松空港など、自分の経験からはそれらを連想した。
荷物をトランクから引き出した。荷物は随分増えた。
僕はチットコーと握手をした。
「良かったかい?」
「あぁとても。」
「次回は?」
「戻ってくるよ。」
「マンダレー?」
「インドのアッサム地方からミャンマーに入り、ミッチーナーからモゴクを通り、シャン州へ抜けて、中国へ。」
チットコーは深く頷いていた。
彼はカルディナに乗り込んで、勢いよく走り去っていった。1997年モデルのカルディナ。よく走ってくれたものだ。
彼のTOYOTAカルディナは友人からの借り物だから、次回は彼との旅ではないとお互いわかっていた。
僕は大きなリュックと肩掛けのダッフルバッグを背負ってから、スーツケースを転がして空港に入った。
荷物チェックや出国手続きはあっという間に終わり、ゲートまではすぐだった。
財布を見ると5000チャット(380円くらい)残っていたので、ビールとナッツを買ってベンチで食べた。なぜかタイのChangビールのほうが安かった。
まだ時間を持て余したので、僕はもう一本ビールを買って、30円くらいのカップヌードルを食べた。味気ないフレーバーだったが、腹は満たされた。
今回の旅はまた多くの人々と出会うことができた。特にインド北東部の人々と出会えたことは貴重な資産だ。これから先、間違いなく再訪することになるだろう。
そしてまた、太平洋戦争史の底なしの深みを垣間見た。人の思惑と行動が様々な結果を生み出し、そして誰もが何らかの方法で決着をつけている。
西欧の宗主国や東アジアのイデオロギーに翻弄され、戦場に暮らさざるを得なかった現地の人々にとっては、何世代を経たとしても、その傷跡は残っている。白骨街道で出会った村人たちは、日本兵の亡骸の周りに残されていた飯盒や水筒、鉄兜、そして戦車のパーツを、政治的意図もなく、日常生活に使っている。
日本人は日本人で、今から75年も前に母国から遥か離れた南方の異国を縦横無尽に歩き回っていたことは驚くべき事実だ。数千キロも離れた土地に橋を渡したり鉄道を建造したりというのは並大抵のことではない。
日本兵は30kgから60kgの装備を背負って野営しながらアルプスをいくつも越えるという常軌を逸したレベルの運動を課せれていた。しかし、それを食料がほとんどない状況で成し遂げるという計画は、全くもって信じられない無謀さだ。
なおかつ、行く先々でイギリス軍と銃撃戦と砲撃戦を繰り返すのだから、うかうか夜も眠れないだろう。そのため疲労は蓄積する。
白骨街道の生存者がインド側にいるという情報を追いたい。コヒマに埋められたままの英霊達の遺体のこともどうにかしないといけない。
僕は着陸する少し前に目覚めて、バンコク北部の懐かしい碁盤の目の区画を眺めていた。
バンコク市内のシーロム近辺のホテルに着いたら、まずはイーサン料理屋でソムタムでも食べることにしよう。無性に汗をかきたい気分だった。
アジアには、まだまだ行かなければならない場所がある。僕は決心を強くした。
(インド北東部紀行:おわり)