「プノンペン:光り輝ける翳」

床のタイルがぐるぐると回転している。
オレンジ色の裸電球が横切った。だから床ではなく天井が回っていたのだ。
身体が鉛のように重い。
背中からベッドに吸い込まれて、そのまま奈落の底に引きずり込まれてゆく感覚がある。身体のシルエットがそのままの状態で引き延ばされるような、コンピュータ・グラフィックスのような。
落下していく感覚はベッドではなく、腰掛けていた目の粗い麻布を貼っただけのソファの溝にはまっていたからだ。全てがスローモーションだった。
隣には一人の女性がいた。褐色の肌に少し離れた両目が魅惑的な、エキゾチックな顔立ちだった。
夢の中で、僕は眼を細めて、その顔を食い入るように見つめていた。そして、クメール美人と心で呟いた。
「ヘイ。アーユー、オーケー?」
僕は眼を見張って、まさか夢ではないのかと、虚をつかれて凍りついてしまった。
「ハニー、さっきまであなたの友人と一緒に楽しい時間を過ごしていたじゃない。」
待てと、ハニーと呼ばないでくれと文句を言ったつもりが、出てきたのは単なる唸り声だけだった。
周囲を見渡してみたが、全体が薄暗く赤い照明に染まった様子からは、この場所はそれなりの広さがあるというくらいしか分からなかった。奥に見えるステージ上には、ドラムセットとスタンドに立てかけられたエレキ・ギターが見えた。
その時、その女性が僕の耳元で囁いた。
「またキスしようよ。」
ジーザス、ファック。そんなことはしていない、と思う。僕は身体を深く沈めていたソファーから上体を起こし、背もたれに背中をつけたまま上半身を滑らせて逃げるようにして首を横に振った。女性は僕の髪の毛に指を絡めていた。
「ヘイ、そろそろ行こう。」
後方から声を掛けかけられた。ふらつきながら、どこかから戻ってきたのは、カンボジアの、あの有名な現代作家、名前が出てこないが、あの人だった。
彼は首を肩のほうにぐいっと引き寄せるようなジェスチャーして、行くぞと合図した。
オー・ノーとか、テイク・ミーとか言いながら、例の女性は背後から僕の肩を揺さぶっていた。
身体を揺さぶられるまま、力なく呆然としていた僕は、そこでやっと思い出した。今日は色々なことがあった。そうそう、夕方からずっとこのカンボジアを代表するアーティストと一緒だったんだ。
外へ出ると、歓楽街のネオンサインと照明が眩しかった。だが、人通りは少なくひっそりとしている。振り返ると、Oscar’sというバーにいたことが分かった。
時計を見ると午前2時だった。金曜の夜から日付をまたいでしまっていた。
向こうから一台の車が接近してきた。車が目の前で停車すると、彼が後部座席のドアを開けて、乗れよと言った。彼のアトリエは遠方にあるから、助手の一人が夜通し彼につきっきりなのだった。
「今日は遅くなったね。オープニングに行かなくちゃいけなかったからさ。」
そうだった。記憶が随分遠のいてしまったイメージがあり、あれがつい数時間前のこととは思えなかった。
「オープニングが三つ、それからバーがいくつかですよね。三軒かな。」
「そんなに行ったか。」
ソピアップはやりすぎたかと苦笑いしていた。そうだ、ソピアップだ。
「いやぁ飲んだ。トータル$90。割り勘でいいか?」
ビールで$2、カクテルで$3の価格帯だから、僕らは相当飲んだのだとすぐに分かった。ソピアップがすでに最初の二軒でご馳走してくれいたので、割り勘どころかもっと支払いますよと伝えたが、彼は右手を振って、よせよという仕草をした。
「ドイツビールとソーセージの店、かなり濃かったですよ。例のフランス人が来て。」
「オー・ガーッド。あいつな、クレモン。」
「いつもストーキングされてるって仰ってましたよね。」
「なぜかバレるんだよね。市内にはたまにしか来ないんだけどさ。」
「毎日のようにバーに入り浸っているんじゃないですか。」
「かもな。それにしてもバーはどこも混んでたな。木曜日にしては。」
「あれ、金曜、でしたよね、今日は。」
すでに土曜日ではあったが、細かいことは気にしないことにしていた。
「え、そう? あ、そうかフライデー・ナイトだったか。なんだどうりで。曜日感覚が麻痺してた。木曜日にいくつもオープニングがあるのは変だなと思ってたんだ。金曜日ならいつも通りだから納得。」
僕より5歳ちょっと年上だが、その笑顔は少年のような無邪気なものだ。初めのオープニングで会った時から変わらない。
ソピアップ・ピッチ。カンボジアを代表し、世界に轟くキャリアを持つ、いわば大先生と呼ばれてもおかしくないアーティストの素顔が見えたことは収穫だと思えた。
どうかな。収穫というのは語弊がある。友人になれたことが素直に嬉しかった、それでいいじゃないか。
「会えてとても嬉しいです。ありがとうございます。」
「またな。東京か、もしかするとプノンペンか。」
「どちらでも是非。小山さんのギャラリーでは秋に展覧会があったのでしばらく来日はないでしょうか。」
「そうかもね。」
「時間さえあれば、アトリエにお邪魔したかったです。今回は自分の身の上のこともあり、旅を急ぎすぎています。」
「まぁ、あまり気にするなよ。市内から20kmも離れてるから遠いしね。次回にしよう。ゆっくり見せるから。」
僕は何度か頷いてから、窓の外を眺めた。今夜はフランス領インドチャイナ時代の暗い部分も垣間見てしまった。
頭痛がした。なかなか焦点が定まらない。
メコン川沿いのリバーサイドの向こう側をぼんやり眺めていると、暗くさっぱりとした夜景の上に、いや夜景とは呼べない黒々とした背景に浮かぶ大きなリゾートホテルSokhaが視界に入った。
どこか場外れな印象が、絵に描かれただけの偽物か、はたまたハリボテのように見えてきて、蜃気楼という単語が蘇ってきた。
その時は、自分自身も蜃気楼だったらよかったのに、きっと楽だろうなと思っていた。
それから、だんだんと僕の意識は遠のいていった。

・・・・
大型トレーラーでも充分な道幅のある片側二車線のブールバード。
プノンペン市内に向けて、砂漠の上に堂々たる直線を描いている。
頬に当たる風が爽快だ。
リムが運転するTOYOTAの四駆は次第にスピードを上げていった。
「あぁ、フェンスの広告が見えますよ。あれはマンションの広告かな。」
「ここではヴィラと呼ばれている一軒家の豪邸です。かなり高価なものですよ。」
辺り一帯は砂漠であるのに、あちらこちらにフェンスで囲われた敷地が目に入ってくる。交差点があったり集落があったりという脈絡は特になさそうだから、業者は好き好きに土地を物色しているのでは無いかと疑った。
フェンスの表面には、わざと色味を飛ばそうとするかのようなホワイト・バランスに設定された純白の建物と、その外観を飾りたてる淡いグリーンの庭園の計画図が、眩しいほどの夢のユートピアを描き出している。
その手前を、現場へ急行しているところだろうか、労働者たちがスクーターのスピードを上げて過ぎ去ってゆく。彼らの姿と広告との間には、決して埋めることのできない深い溝が見えたような気がした。
ふと遠方に目を凝らしてみると、蜃気楼のように建物の骨組みのようなものがちらほら見える。なんだろうか。
「モールですね。あとコンドミニアムもいくつも立ちますよ。」
リムがバックミラー越しに視線を送ってきた。
再開発地域ということか。
「元はゴミ捨て場だったのでしたよね。」
「ええ。砂で埋められて、今はヴィラや高級なモールなどの建設現場の下に眠ってますよ。」
10年も経てば、ゴミが原因のガスや汚染物質が染み出してきやしないか。
「ところで湖はもう通り過ぎたのですか。リムさんのところに行くのに、Googleマップ上に目印してきたのですが。」
「一緒に埋められました。さっき車で通過しましたよ。」
僕は、まさかと声を失っていた。すぐにポータブルWi-Fiにつなげて、スマフォで地図を開いた。湖は確かに存在する。続いて衛生写真に切り替えた。なんと、衛生写真上では、湖は黄土色の平地へ姿を変えている。
砂漠にされたのだ。
そうか、トゥクトゥクの運転手が“無い”と言っていたのは、このことだったのかもしれない。
「カンボジアの国外から持ち込まれた砂に水を混ぜて、ゴミ捨て場と一緒に固められました。というか、湖というのは少し違っていて、政府は昔からこの溜池に汚染水やその他の工業廃棄物を流していたんですよ。」
「ちょっと待ってください。元の溜池は僕がさっき通ってきた2号線沿いにごく近いですよね。かなりの数の住まいがあったと思いますが、大丈夫なのですか。」
「政府は住人のことは気にしてないですよ。国道5号線の工事の時と一緒で。」
何かしっくりこなかった。さっきから目に入ってくるものは、明らかに富裕層向けだったから。
「まさかモールやコンドー(コンドミニアムの短縮系)の他にも、プロジェクト(ハウジング・プロジェクト=団地のこと)とか、住民のための居住区が作られるんですよね。」
バックミラー越しに、リムはとても思わせぶりな視線を僕に送っていた。その眼は曇っていて、諦めというか、救いを求める感じでもあり、それでいてわざとっぽく眉毛をくいっと上げて目尻に皺を集めた。
「それはないですね。今まで廃棄物を市の南に押し付けていたのですが、それでも政府はこの土地を再開発地としてクリンナップして、高額な金額でデベロッパーたちに提供しています。それを自分たちの手柄にして、わかりますかね、官僚の手柄にはもちろんボーナスが伴いますから。」
汚職、だということはすぐにわかった。
「元の住民たちは長いこと汚染の被害に遭ってきて、その上、記憶と土地を奪われて、なんの見返りもないのですか。」
「いまのところは。だから市民はとても怒っていますよ。何もできないですけどね。」
口じゅうに嫌な苦味が広がった。



・・・・
名前もわからないクメール・レストランだった。
門構えは中央にどっしりとした木製の両開きのドアがあって、道路近くまでガラス張りの別棟が迫っている。
駐車スペースはないが、リムは敷地を少し通り過ぎると、ギアをリヤに入れて、店の方にバックした。店員はすぐに気付いて、オーライ、オーライとヘルプに回った。相当店の入り口に寄せてしまっているが、行きつけの店らしいから問題はなさそうだ。
リムは例のガラス張りの別棟を覗き込んだ。室内にはお揃いの調理服を着た二人の女性が、彼女らの手前にある惣菜が入ったいくつもの金属製のトレイを指さして、これかあれかとリムの指示を待っている。
「発酵した魚など大丈夫ですか。」
「好き嫌いはないので大丈夫。特に発酵食品は大抵のものはいけます。」
窓際のテーブル席に案内されると、ほとんどリムに任せて、僕は前から気になっていたカンボジアのカレーを食べてみたかったので、それだけはお願いをした。
ほどなくして缶のコーラが出された。ストローを吸ってみると、一口で大好物なコカコーラ・クラシックであることがわかった。濃いめのカラメルと強めの糖分に時代遅れ感があってかえって良い。東南アジアの気候との相性は抜群だ。
すると厨房側のスイング・ドアが開くと、大ぶりの皿にてんこ盛りの野菜の山が出された。
すぐ後に、今度は小さめの深皿と呼べばいいのか、それとも小鉢と呼ぶべきなのか、深さのある皿が出てきたかと思うと、後を追うように、魚介類だと思われるツンと酸味のある生臭さが風に運ばれてきた。これが魚が発酵したスープだろう。骨も一緒に砕かれた魚の身に野菜も数種類が混ざっている。
野菜に目をやると、これまた珍しく見たことがないものがほとんどだったため、思わず顔を近づけてしまった。
ナスの一種のとても小さく緑色のものや、ひどく苦い薬草のような根菜、黄色く開花前の花、切り口がIビーム形でそれぞれの弁には半円のイボイボがついているものなど、風変わりなものだった。どれも味が独特で濃くて、渋みや甘みなど様々なベクトルに舌を連れて行ってくれる。そして、発酵が進んだ酸っぱい魚のスープには非常に合う。
スナップを撮りたい情動に駆られることは間違いない。やっぱり少しはスマフォを使う方がいいのか。記録のためとはいえ、東京にいるときから、いつも何かにつけてスマフォで写真を撮っていた癖は、人によっては良い気分がしないのではないかと思うことがある。
数ヶ月前とは違い、僕は何をするも周りのことを気にしていたから、この時も恐る恐るリムの顔色を窺おうとして上目遣いになっていた。
「きっと興味深い味でしょうね。家族や大勢で集まるときの料理ですよ。こうやって山積みのいろんな野菜を魚のスープにディップして食べます。」
日本の年末年始に和室に部屋をぶち抜いて宴会を催しているイメージや、アメリカの感謝祭のテーブルにたくさんの料理が並んでいる様子が頭に浮かんだ。もう何年もそういう行事を味わっていない。
「写真を撮らずにはいられないです。」
「いいじゃないですか。」
何か察したのか、リムは目線を落として食事に勤しむのだった。
「まだ今夜の予定まで、時間があるのでどうしようかと思っています。何かお薦めはないですか。」
「アートや博物館ですか。」
「それもいいですけど、できれば歴史に触れたいです。クメール・ルージュのキリング・フィールドとか。リムさんのスタジオからそう遠くなかったかなと思って。」
「キリング・フィールドはもはや草原、湿地、あとはモニュメントがあるくらいなので見応えはないかもしれないですよ。」
「それならS-21に行ってみたらどうですか。クメール・ルージュの監獄です、
およそ17,000人の虐殺が行われた。」
ここからそんなに離れていないというので、僕は行ってみることにした。この時のリムの表情を見れば、相当な覚悟がいるということは理解できた。
僕はリムに礼を伝えた。会ってから4時間くらいなものだが、やはり作品に向き合いながらだと距離が縮まる気がする。
ヴィジュアル・アートは他の芸術のフォーマットと違って、上っ面や建前を通過して、一気に深層まで進むことができる。パフォーミング・アーツでは演出や形式が邪魔をするし、文学や音楽では個別の環境と時間を要するから直接的に同じ箇所を語ることはできない上に、常に事後的である。
「そういえば今夜の用事というのは、ソピアップに会うことなのですよ。」
「ソピアップ・ピッチ?」
「ええ。やっぱりご存知ですよね。今日はいくつか展覧会のオープニングがあるので一緒に行こうと誘われています。」
行き交うスクーター、バス、人の流れのなか、二重駐車されたフォードRangerを避けながら、S-21の手前の道路脇に寄せる作業に忙しそうだった。
「私も行きたいところですが、残念、先約があります。もしかしたら行けるかもしれませんがちょっと今は言い切れません。」
僕は頷いてから、東京で会いましょう、それか先にシンガポール・アート・ウィークで会うかもねと伝えた。
カメラバッグに左肩を通して、運転席のリムに右手を差し出して固く握手した。リムは眉を釣り上げて、そうかもしれないですねと笑顔で言った。
僕はプノンペンの昼下がりに照りつける太陽の日差しに目を凝らしながら、スクーターを避けながら車道を横切った。
目の前にゲートのようなものが見える。
S-21、つまりトゥール・スレン虐殺博物館だった。
僕は唾を飲み込んだ。

・・・・
ついさっきまで吸い込んでいた空気が、何か異質なものに変わるまでには、そう時間はかからなかった。
空を貫いていた激しい太陽光があっけなく翳りゆくのをまじまじと見た。そして鮮やかなブルーはことごとく色を喪失した。
額に浮いてくる玉のような汗が、いつの間にか他人のものになっていった。
四方を囲む元・高等学校の校舎の壁と、監獄のそれとが、なんら差がないことを肌で知った。フランスの思想家ミシェル・フーコーのパノプティコンがかつて言い得ていたように。
絡みつくように、幾万もの精神が靴底と床のタイルの間に糸を引いていく。だから足取りは極めて重かった。いや何物かの意志に関係なく、単に僕は足を踏み入れたくなかった。
独房の中央に、錆がびっしりと浮き出た質素なベッド・フレームが置いてある。ベッドの端からは、頑丈な手枷と足枷が軟体動物のように伸びていて、中央で交差している。
口の中に、その錆の味がしたみたいで不快だった。
背後の壁が目に入った。
橙とも黄土色ともいえるスキン・トーンの壁が、柔らかな印象を与えている。しかし、その表面には爪で掻きむしったような跡が無数に確認できた。
その中央には白黒の写真が掛けてあり、写された無残な屍の姿は、間違いなく、その無数の爪の跡に思えたものの原因ではないことが明らかだった。なぜなら、彼らには独房の中を歩きまわれるという、そんな自由は与えられていないから。
だから、その柔らかな壁の印象は、重大な定義のズレをもってして、一瞬にして常人を狂人へと堕落させる逆説的な穏やかさであることを知らしめていた。
たとえ温かみのある色の壁に囲まれようとも、収監された者たちの目には、それは絶対零度の寒色として映っていた。
同じように、かつて幾人もの生徒たちが体を乗り出していただろう校舎の窓枠は、いまや堅牢な鉄格子によって塞がれている。
本来、そこに牧歌的な青春の一場面が微笑ましく映し出されていたとすれば、時代は、強権的な1720人の極端に共産化した人員をして、己らの疑心を認めさせず、対象に全てをなすりつける暴挙を許した。
確かに、校舎の窓の向こうから穏やかな日光が差し込んでくる。
だが、それは希望の光では決してなく、反対に、日々、自らの身体から流れ出ていく血液を立体的に描き出し、生との決別を確実なものにする冷徹さの象徴だった。
手枷・足枷は二度と外されることはない。
物理的にではない。一日の食事は、米を薄く溶いた粥、たったスプーン4杯だけだ。
四日に一度の放水で糞尿にまみれた身体を洗い流されるとき、どこにも力は残っていない。もはや精神にさえも。
我は牢番なり。
お前は連日の拷問で傷ついた惨めな姿態と、栄養不足で痩せ細った裸姿を、それでも我々に曝け出すがいい。そしてスパイであることを認めよ。
恥ずかしいだろう、悔しいだろう、笑ってやろうではないか、だが心配するな。お前はいずれ尊厳を失い、羞恥心を忘れ、精神などどこかに置き去ったまま、単なる肉として、ただ単に時を刻むだけのものになる。
絶望の欠片すら残されてはいない。
それであっても、お前は次の10のルールに則らねばならない。
- お前は私の問いに対して適切に答えねばならない。決して背けるな。
- お前は、あれやこれやと口実を作り事実を隠そうとするな。異議は禁じられている。
- お前は革命の妨害となるヤツなのだから愚かな行動はするな。
- お前は我の質問に即座に答えよ、熟慮は時間の無駄だ。
- 我に対して、お前の不品行や革命の核心について語るな。
- お前は鞭打ちや電気ショックの際に、泣いてはいけない。
- 何もするな。我の命令を待て。命令がなければ静かにしていろ。指示があれば、文句を言わずすぐさま行動しろ。
- お前は、カンプチア・クロム(ベトナムに奪われたメコン・デルタなど南部)を口実に、秘密や裏切り者を隠そうとするな。
- 以上に従わなければ、お前は多くの鞭打ちと電気ショックの傷を負うだろう。
- もしお前が我の規範に違反するならば、鞭打ちの跡10個あるいは電気ショックを5回味わうだろう。
クメール・ルージュ。カンプチア共産党の武装勢力。
恐るべき破壊の武器は、人が内輪に抱く不信感そのものだ。
フランス領インドチャイナを巡って、カンボジアのリーダーシップもまた、相対するイデオロギーの野望に翻弄された。いや、ポル・ポトは、平等主義を掲げておきながら、機を見るに敏と、押し寄せる共産主義の波にただ単に乗っただけかもしれない。カンボジア王族と自由主義国家アメリカへのコンプレックスに押しつぶされた、弱い心の持ち主だろう。
真に社会をより良きものにしたいと理想を抱く者は、人にやさしいはずだ。人がすべてだ。そうでないとしても、そう信じたい。
同志であるはずのカンボジア人を捕らえては、CIAやKGBやベトナムのスパイではないかと自白を強要した。
心当たりがなくとも、自白しなければ拷問は半永久的に続き、自らの糞尿を食べさせられ、体の一部を切断され、いずれ命を奪われた。命を奪うという意図よりも、ゆきすぎた拷問でさえも、それに耐え続ける囚人たちの精神力と肉体の限界の境目を見失ったのだ。
1975年から1979年までのたった5年足らずの間に、約17,000人が収監され、生存者は数百人のみと言われる。
カンボジア全体を見渡せば、150万〜300万人が虐殺された。これは最大で当時の国民の四人に一人の割合だ。
私はクメール人だ、という声が響いた気がした。
誇りを持って、拷問に耐え、尋問に逆らおう。
本当にKGB、CIA、ベトナムの回し者だったとしよう。そんな日和見主義者であれば簡単に自白するだろう。
看守たちの目を見ればわかる。クメール人の目に、嘘偽りはない。彼らだって知っているのだ、私たちが無実であることを。何を争っているのだ。未来は別のところにある。私たちは共産主義のために戦っているのではない。我が国の独立のために戦っているのだ。
共に生きよう。だが、私たちの死が歴史にとって必然であるならば、喜んでこの身を献げよう。
僕は自由に偏在する意識に気持ちを委ねながら、二階、三階へと登っていた。
独房を形作る荒い仕事の木製の枠や敷居は、鍾乳洞の岩肌のようだった。表面は水とは違う何かの幾万回もの接触によって、粘着質の皮膜のようにも見える。
勘が働いた。触れば、またきっと意識が流れ込んでくる。だから触らないようにしようと思った。
まだ30分ほどしか経っていない。真っ昼間であるはずなのに三階の廊下の奥が蒼然としてきた思わずやって来た方向を振り返った。
明るさを欲して、僕は一階まで降り、中庭に出た。そこにはギロチンがあった。いや、太さのある角材を組み合わせて作り上げられた巨大な遊具と思わしきものは、その形状からして、そしてダーク・ツーリズム的な勝手な想像でギロチンに見えただけだった。
実際には、人を上下逆さまに釣り上げて、直下に用意された、水が張ってある甕に首から突っ込んで窒息させるという拷問器具だった。考え方によってはギロチンよりも残酷だ。
そのすぐ脇の表示板には、投獄されていた者がどのように拷問を受けていたかを示すイラストの稚拙さが目立った。それをカメラに収めることはしなかった。
僕は木蓮のような白い花を見て、綺麗だなと思いながら、足元に気を配って歩いた。
次の棟には、様々な拷問器具が展示してあった。
それぞれの部屋を出ると、廊下と庭との間には、一面に鉄条網が張り巡らされていた。
その向こう側だけに焦点を合わせれば、ヤシの木や熱帯の木々が元気に生い茂っていて、南国の典型的な情景だと思えた。ちょうどいいと思って、カメラバッグの横に挿してあった甘い緑茶のペットボトルでのどの渇きを満たした。
中庭の床面はよく整備されているなと思った。コンクリのタイルにも綻びは無い。
広場の中央には、被害者たちを祈念した仏塔が建っていた。僕はなんとなく会釈をした。
歩みを進めると、もう一つの棟が見えてきた。
室内には、数千にも及ぶと言っていいかもしれない、獄中の様子や被害者たちの顔写真などが所狭しと展示されていた。室内は、一部が崩れた壁や、あまり想像したく無い染みが残された、当時の荒れたままの状態で保存されている。
眩しかったのか、何がどうしたのかは覚えていない。
僕は右手の親指と人差し指で眉間を強くつまんだ。カメラを構えてはみたが、シャッターは押さなかった。ひどく重い物体だなといまさら思えてきた。
それから最後の棟へ向かった。
その手前に左側に薄暗く古めかしい売店が見えた。一息つけるかと思うや否や、僕の足は自然とそちらへ向かっていた。
普段なら素通りしてしまうような店だった。買う気もなかった。それでいてベトナムで見たシルクのストールに似たものや、クメール・クロマーは気を引いた。
だが、サイゴンで見たのと同じものもいくつかあった。それはそれで良いが、どうでも良いジャンクも多かった。ジャンクと呼んでしまえる物でも、売り物なのだから埃を払ってやったらどうだろうか。
しかし、たかが土産程度であっても、細かくそういう記憶は残している自分の胸に手を当ててみると、やはり工芸品が好きなんだなと自覚した。たまにはジャンクでさえも。
僕は売店の中年女性の店員がいるほうのガラスのショーケースを覗き込んだ。
意外なことに、大量のジッポーが並べてあった。どうせ新しいものかレプリカだろうと思ったが、60年代のベトナムの物や、70年代、つまり米軍がカンボジアに介入し始めた頃のもある。もちろん手にとってくまなく検分してみると、すべて本物だとすぐに確信できた。
単価はUS$20だったから、サイゴンで見たときの二分の一だ。
銀製のロイヤル・シャムの鎚起のジッポーと、表にCambodia Takeo ‘76 – ’77、そして裏にセクシーな絵がエングレーヴされたものがあったから買うことにした。急に頭をもたげた購買欲に、できるだけ目の輝きを抑える努力をして、粘りに粘って値切ることに成功した。
だが、もう他に逃げ場所はない。最後の棟にやってきた。
そして、売店でのちょっとした高揚感はすぐに遠のいた。
ここには、もう初老を迎える生存者たちの現在の写真とメッセージが展示されている。
手足がなかったり、顔やその他身体に深い傷が刻まれた、痛々しい姿だ。ひどい後遺症で人前に出ることすらただ事ではないのに、笑顔を作ることができるのは、彼岸を見た者であればこそだろう。
別の部屋には、数百はあっただろうか、クメール・ルージュの戦闘員に駆り出された、まだ物心もつかない少年少女たちのマグショットが展示されていた。
クロマーを首に巻いた黒い戦闘服の上には、輝きを失った絶望の眼差しが、真っ直ぐに僕を睨みつけていた。
フィールドで地雷の設置などおぞましい作業に従事している様子を写した写真を見ると、まだ幼く未発達の細い腕が抱えるAK-47が作り物に思えた。少年たちが浮かべる微笑みには、まだあどけなさが残っていた。
少し目が霞んだ。
僕はカメラを下ろして、両手の親指で、両目の上の骨の部分を押してマッサージした。それからカメラバッグの内ポケットをまさぐって、目薬を探した。
すぐに面倒になって、探すのをやめた。両目を5秒ほど強く閉じて、充血を促した。そうすると少し目がはっきりしてきた。
首に荷重を感じて、カメラのレンズに蓋をした。そのままカメラをバッグのサイドポケットに収納した。
当然のこと、背負ったカメラバッグに重量を感じた。ここでは100枚くらいは撮ったかと、なんとなくそのせいだと初め思ったのは、おかしな話だ。でも、カメラは被写体のすべてを、暴力的に写してしまうことがあるから。
最後まで展示の鑑賞を全うして、僕は再び中庭の木々や花々を見ながら、出口方向へ歩いた。さっきより暑くなったなと思った。
所々にベンチが見えてきて、数人が心地よさそうに座っていたので、それもいいかなと一瞬思ったが、足は止まってくれなかった。
いつチケットブース横の出口を通り過ぎたかは覚えていない。アメリカ人観光客のご一行様とすれ違ったから、それに気を取られたのだろう。
表に出てから、僕はWi-FiをONにした。
それからスマフォで調べものをしようとして、スクリーンの上下に貼ってあるシールを見つめた。丸っこくデフォルメされた猫とライオンのキャラクターのシールだった。もう1年も前のものだった。手垢で色が褪せていた。
僕は結局調べものをするのをやめ、真っ黒なスクリーンだけをしばらくじっと眺めていた。
たくさんの細かな傷が浮かぶガラスの表面に自分が映っていた。
視界が曇った。
目頭からじわりと溢れそうになるものがある。僕は周りに悟られまいと歩き出して、車道に面した入り口のゲートをくぐった。
そこで立ち止まると、カメラバッグからThe Hill-Sideのバンダナを取り出して、額の汗を拭き取るふりをして、下ろす手で両目に押し付けた。
人こそがすべてだ。娘は元気だろうか。またシールを貼ってくれるだろうか。そしてあの人は。僕は急に、人が恋しくなっていた。
虐殺博物館を見た後にこういう心境になるとは、僕は変わり者かもしれない。だから鼻で笑った。
そのとき、降り注ぐものに何か引っかかるものがあった。
大空を見上げて、懸命に目を細めて掴み取ろうとしたが、太陽はひどく残酷なものにしか見えなかった。

・・・・
午後7時半。トゥクトゥクのドライバーに悪かったねと謝罪してから、僕はチップをと思い、料金をはずんで$6渡した。
昼間に待ち合わせ場所をスマフォで調べておいたのだが、向かった先がもう一つのJava Caféだったらしく、空港の方に向かってしまったから、途中で引き返してもらったのだった。

すでに陽は沈んでいたが、向こうには下からライトアップされた独立記念モニュメントが見える。今朝歩いていた大通りへ戻ってきたのだ。オープニングがその近くというのは、確かにメールでもらっていた内容の通りだった。よく読んでおかないと、こういうことになる。
カフェに入店すると、ダウンライトの落ち着きのあるレストランの趣だった。一名様ですかと聞かれたので、アートの展覧会に来たのですがと伝えると、弟子から二階に上がってくださいと言われた。
一度外へ出て、店の側面を奥の暗がりへ向かって歩いて行くと、建物の奥から手前に向けて、二階へと続く階段があった。
会場は、広さのあるれっきとしたホワイト・キューブの画廊だった。
仮にカフェという言葉に惑わされたとしても、一体どんな手作り感のあるスペースに引きずり込まれるかと懸念していたのが失礼であったことは明白だ。
オープニングは、ニコラス・C・グレイという1968年ロンドン生まれの、コミックも手がけるイラスト的な作風のアーティストの個展だった。もちろん初めて見た作家だったが、プノンペンでは人気があり、毎年の個展はすぐに売り切れてしまうらしい。
確かに小ぶりの作品は 蒐集にもってこいだと思った。
マルクス、ウィトゲンシュタイン、フーコー、一休といった思想家の肖像画も、彼らにふさわしい文脈というか背景の演出が、コミカルさも残っていて、なかなか良い。
次に、いくつかの大判の作品を眺めてみた。コミックの影響を受けているというから、確かに彼の90年代風の粘着的で執拗なタッチが独立系アメコミ『トランスメトロポリタン』のダリック・ロバートソンを彷彿とさせた。
だがそれらよりも、僕の目を惹いたのはそのタッチや鉛筆のストロークだけを抽出して画面を埋め尽くした、抽象的な作品だった。
「これいいよね。うん、これしかないな。」
作品に釘付けになっていた僕の真横で誰かがそう声に出した。見たことのある顔だ。
「ソピアップさん、ですよね。」
「Oh, Hisashi?」
「良かったです。ちょっと道に迷ってしまったから30分くらい遅くなりました。」
「そうだったっけ。だいたいで時間を決めてるからどうってことないよ。セヴン・イッシュ(7時くらい)だよ。」
完璧なネイティヴのアメリカ英語。しかもどこか聞き覚えのあるアクセントだった。
「今夜は時間とか大丈夫なんだよね。」
「はい。このために来ましたから。」
「OK。ならいくつかオープニングを巡るから、しばらく作品でも見ててよ。」
そう言うと、ソピアップは友人たちらしい白人の群れに入っていった。
僕は画廊の入り口横にフィンガーフードがあるのを確認してから、中央奥のテーブルに出されていた赤ワインのグラスを一つ手に取った。ウエイターにいくらかと聞くと、無料ですと返された。
ほんの数日前には日本で飲んでいただろうに、この時のワインはとても渋くて、錆びた金属のような味が、昼間の鉄格子の記憶を呼び覚ました。別にどこにでもあるチリかオーストラリアのワインなのに。
しかし、フィンガー・フードをつまみながら作品を見ていると、ワインの違和感はすぐにどこかに消えていた。
聞こえてくるのはイギリス英語とアメリカ英語のみだった。
会場には自分も含めてアジア人も5, 6人はいたが、僕がこの数日、ストリートで見てきたような一般人の雰囲気ではなかった。NYや東京のオープニングにいてもおかしくない上品さが漂っていた。
ワインが進んでいるからか、ここがプノンペンであるというのを忘れさせる。展覧会に行くような人たち、つまりアート・ゴウアー、いわゆるアート系の人種というものは、グローバリゼーションの一つの結晶だなと思った。
「ヘイ。準備はいいかい。」
僕は頷いて、ワインを一気に飲み干してから、テーブルにグラスを置いて、近くにいた女性キュレーターのデイナに展覧会は素晴らしかったよと謝辞を述べてから、もう入り口のドアの向こうを行くソピアップを追った。
表へ出ると、涼しさを感じた。金曜日の夜。フライデー・ナイトの喧騒はこれからかと思った。
ソピアップがちょっと待ってねと言うや否や、一台のセダンが近づいて来た。アトリエの助手だという。たまに市内に来るときには運転をお願いしているらしい。
「良い画廊ですね。来ている人たちも、顔見知りでなくてもコミュニティという言葉が似合いそうな、近しい感じがしました。」
「私はね、Java Caféがスタートだったんだ。だから今でもできるだけ来ているよ。」
僕には彼の表情が少し寂しげに見えたのは気のせいだったろうか。
次の画廊までの道中はほんの束の間だったが、僕はプノンペンはどうだいとか、今日は何してたのとか聞かれたので、リムのことなどを伝えていた。
そうか、リナに会ってたのかと、まるで自分の弟子や生徒を語るような口調で彼の良いところをたくさん述べていた。本当にソピアップにとっては面倒を見たくなる存在なのだろう。
ところでサイゴンのファクトリー・コンテンポラリー・アーツ・センターのキュレーターも、Javaのデイナもソピアップも、リムのことをリナと呼んでいた。苗字のソクチャンリナのリナだろうか。
「彼の父親はカンボジアの巨匠だよ。聞いたかい?」
「そうなのですか、いや、お父さんの話はしなかったです。白黒写真は飾ってありましたが。」
「なんだ、あいつ話さなかったのか。まぁいいや。でもそうなんだよ。」
その後も何か言いたげだったように見えたが、僕はソピアップがすでに結構な酒の影響下にあると思ったから、追って質問はしなかった。それに、僕らはもう次の画廊の前で車から降りるところだった。
画廊は1Fにあった。写真のようだ。クメール・ダンスのドキュメンテーションだろうか。
入ったとたん、ソピアップは若いアーティストか関係者たちに囲まれていた。後から思い出そうとしても、彼は一回も作品の前には立たなかったのではないだろうか。彼くらいの世界的名声を持つカリスマ的なアーティストは、地元の若手アーティストに勇気を与え、牽引して行く旗手なのだ。役割が違うから仕方ない。
白黒の歴史的な写真と現在の写真群とで構成された展示は、おそらくクメールの伝統舞踊であるアプサラの伝承の様子を伝えていた。白黒の時代に活躍したダンサーが、今はカラー写真で次世代のダンサーたちを指導している。文化的意義があるなとは思えた。
そこでもまた飲んだ。明後日にはシェムリアップでアンコールワットなどの世界遺産を見ていることになっていた。できればアプサラも見てみたいと思った。長く美しい指先が宙に描くシルエットに魅了されていたから。
ふと振り返ると、ソピアップがいなかった。視線を遠くへやると、奥の方で彼が手招きをしていた。
その次の画廊がどういうところだったか、正直あまり覚えていない。
僕らはその画廊の二階にあるバーのカウンターに並んで座っていた。ソピアップはドイツビールを続けて飲んでいた。つまみもいくつかのソーセージだったから、今夜はドイツと決めていたようだ。
僕はここでもローカルなものをと思い、アンコール・ビールを飲んでいた。つまみには何を思ったか、フレンチフライを取っていた。立て続けにワインを飲んでいたところに東南アジアのライトビールは水っぽかった。
「君もアメリカだったよね。」
「アメリカ育ちではないですが、大学と大学院に。それから少し働いてました。」
「そうだった、メールに書いてあったよね。」
「私はアメリカではマサチューセッツだよ。」
そうか、彼からなんとなくボストン訛りを聞いた気がしたのだ。
「僕も大学院はボストンでした。」
「本当か。じゃあジャマイカ・プレーンってわかるかい。そこに住んでたんだ。」
なんとも懐かしい響きだった。思い出が湧いて出てきた。
「ジャマイカ・プレーン!僕も住んでました。ストーニー・ブルック駅から歩いてすぐの、ポール・ゴア通りに。」
「本当か!いつ?」
「2000、2001あたりです。」
「じゃあ被ってるな!きっと同じところで飲んでたよ。坂を上がったところのバーとか、ボーリング・アレーとかでね。懐かしいな。」
「行ってましたよ。間違いなく。懐かしいですね。」
ソピアップはビールをすすった。僕は気づいたら底が見えていたので、もう一杯お願いしますと、今度はカンボジア・ビールを注文した。
「生まれも育ちもマサチューセッツ州ですか?」
「生まれはここカンボジアだよ。君が今日見てきた通り、政情不安でね。家族で難民になってキャンプで育ってね。そのうちアメリカに来たんだ。」
やはりこの人も平穏に生きて来られたわけではないのだ。確か僕よりも6歳は年上のはずだから、時代からすれば当然といえば当然だ。
「それでアートに出会ったのですか。」
「アートっていうものとは違うかもしれないけど、絵を描くことはもっと前に、難民キャンプで出会ったんだ。それがアメリカに来てから熱を帯びてきた感じかな。」
「初めは絵だったのですか。意外です。」
「アメリカにいたら絵が花形だからね。そうだったでしょ。」
間違いなくそうだった。しかし今のアートシーンを見渡せば、どれだけのプロパーなペインターが活躍できているのだろうか。
「さすがにその時の作風はわからないです。」
「世に出てないから当然。発表なんて夢のまた夢だったからね。」
この人も決して特別ではなかったんだと、ひねくれた安心感を抱きながら、僕は頷いていた。
「でも絵を諦めず、いずれ良い素材に出会ったのですね。」
「紆余曲折あってね。絵を諦められなかったんだ。U.Mass(マサチューセッツ州立大学)に入ってからさ。初めの専攻は医学。全く別の分野なのに、絵で大学院まで行っちゃったよ。」
自分とちょっと似ている、と思った。国際関係学からファインアートに転向して、転学し、そしてそのまま大学院まで進学してしまった。僕の場合は、大学院の必然性や、何を得たいのか明確な目標も無いまま進学したことは、いまはよく自覚できている。
「大学院はどちらですか。」
「アート・インスティテュート・オブ・シカゴ。」
これまた、僕に学費無償のオファーまでくれた美大だった。しかし、僕はどうせどこに行こうとも同じ結果だった。ソピアップのような忍耐強さと信念は持ち合わせていない。
アーティストとして生きていくことですら、美大卒の一握りがやっと成就できることだ。
その中で、パリのポンピドゥ・センターやNYのメトロポリタン美術館に収蔵されるような大作家になるのは、一体どれだけいるのだろうか、考えるだけでも絶望的になる。だがそれを成し遂げたのは、間違いなく彼の努力の賜物に他ならなかった。
「でもアメリカでは限界を感じたな。ボストンじゃカンボジアって言ってもどこにあるか知らない人間がほとんどだし、もちろんコミュニティなんて無いしね。」
「ボストンはセグレゲート(人種隔離)された街ですからね。サウス・ボストンはアイリッシュで、そのさらに南のドーチェスターには黒人たちの地域があり、西に向かってブルックラインのほうにはユダヤのコミュニティがあって。その内向きで限定的なレイス(人種)のことしか興味ないですよね。」
「その通り。しかもアートの教育は全て西欧のディスクールだ。ずっと他人の筆を使って描いているような、そんな感覚に陥ったこともある。」
「だからカンボジアへ帰ってきたのですか。」
「どうかな。どちらが先だったかはどうでもいいかと思っているよ。つまり、絵の表現方法で路頭に迷って帰ってきたのか。それとも帰ってくることで表現の限界に気づいたとかね。」
「今となっては、抜き差しならない関係ですね。」
ソピアップは、ちびちびやっていたドイツビールのおかわりを注文した。あまり酒は強くないのかもしれないし、もうオープニングで飲みすぎたのかもしれない。
「そうだね。絵は正直キツかったよ。難民キャンプで私に救いを与えてくれたから、とてもパーソナルで大事なものだったけど、それが絶対的なものでなければならないみたいに固執するのは辛いことだった。」
もしかすると、彼がカンボジアに戻ったのは、原点であるペインティングと、それを克服して良いものかどうかをもう一度確かめるためだったのかもしれないと思った。
「今使っている素材はね、子供の頃から知っていたし、扱っていて楽しいものなんだ。」
「素材感がとても土地に特有の素直なもののように思えます。」
僕はそこで、ある種、私の父が切り口としていた現代の状況的なものと土着の神話とが交錯するような感覚もあるのでしょうかと言いかけて、止めておいた。父のことは伝えていないし、そのつもりもなかった。
「藁とか竹とかさ、カンボジアではとにかくそこらじゅうが、それでできているから。暮らしの基礎をそういう素材が支えているってことは、充分な強度と信頼性があると確信したんだ。」
「そして、作品としても収蔵にも耐えうると。」
「鋭いな。あんまり意識はしたくはないが、アーカイバルでないと美術館はなかなかコレクションしてくれない。だから表現者にとっては、風雨とまでは言わないにしても、公的な空間にあって、それなりの不可抗力に耐えられるようでないと、伝えたいことも伝えられなくて、本末転倒になる。」
「表現するための必然、ですね。」
「でも、自分は西欧のアートのコンテクストを結局意識してしまっていること自覚しているつもりだ。」
「素材としては元々ソフトなものの集合体で強固なものになっていくようで、カンボジアだけに収まらず、アジア全体の文化を代弁しているみたいで、僕はとても共感できます。」
そうかそれは良かったと言いながら、ソピアップはトイレに立った。
僕はソピアップが退席している間、昼間に買った銀製のシャムのジッポーを眺めていた。手仕事の美しさに見とれてしまう。
開けたり閉めたりすると、かちゃりと涼しい音がした。ジム・ジャームッシュ監督の『ミステリー・トレイン』の主人公の手業を思い出した。
なんでもいいから一つのことを極めることは、その時はなんとも思わなくても、いずれ人の記憶に残ることがある。いつもあちこちに気が散っている僕はいつまで経ってもダメだなと思った。
カウンターに向かっていた僕は、ソピアップが歩み寄ってくるのを横目で確認した。
しかし、席に着く前に、僕の後方に当たる入り口の階段の方から、彼の名を呼ぶ男性の声がすると、ソピアップはヘイと応じていた。
その声の主は、僕の背後を通り過ぎてソピアップを挟んで向こう側に回り、カウンターに腰掛けることなく、右ひじをついた。急に、さっきの声が年期の入ったしゃがれたものだったと思い直した。
その男性は老人だった。薄くなった長めの白髪が、赤く焦げたように日焼けした額との境に強いコントラストを描いていた。
皮膚は白人の老人らしい劣化の仕方で、贅肉を失ってあちこちが弛んでいた。特に、若さを演出したかのような、肩のところで荒くカットオフされたシャツの両袖の下には、浅黒いけれども細い上腕が見えていて、いやに貧相な感じがした。
ソピアップが飲まないのかと聞くが、自分はちょっと通りすがっただけだからいいよ、飲む気は無いんだと言った。
ソピアップは眉を吊り上げ、軽く肩を竦ませた。
老人は、こちらのことや、これまで僕らが話していたことはそっちのけで、ソピアップに向かって話し始めた。かなりのイギリス訛りの英語だけでなく、弱々しくて、おまけにくぐもった声だから聞きづらさと言ったらない。
そして、いきなり平衡感覚をおかしくするような重厚な話をし始めるものだから、ソピアップは手で制した。
こっちはHisashi、評論家、これはクレモン、と僕たちを紹介した。
ソピアップを挟んでいたので握手はしなかったが、むしろそのほうがありがたいなと思っていた。
へぇクリティックですか、どの美術館、どの媒体、どの教育機関ですか、と次々と問われたので、僕は何も隠さず全てノーで答えていると、完全に興味がなくなったようで、それからというもの、彼との間にアイコンタクトは一切なかった。
彼の話は、ソピアップの少し前の展示のこと、現在の制作状況のこと、現在のコンセプト、そして近々の展覧会の情報、さらには哲学の話まで延々と続いた。
しばらく横でふてくされながら聞いていると、彼はソピアップのことは何でも知っているようで、しかもアートに関わる多くの概念に通じているから、彼に付いているキュレーターあるいは親友かと思うようになっていた。
だが、かなり思想的な部分に触れるコメントが、意見や提案以上に、いささかプッシュが強すぎるなとも思った。
考えようによっては、アーティストと批評家の間の関係としては、当然ではあるが。
自分には入る隙はないか。僕は少し持て余して、スマフォをいじった。
すると、あの人からメッセージが届いているのに気づいた。
それを読もうと、東南アジアの出会い系サイトのアプリを開いた。
彼女はチャンマイではなくバンコク在住だから、今回の旅では訪れる場所ではないことはわかっていたが、しばらく前からやりとりは続いていた。話す相手が欲しかったから。
すると、横からノーノー、とソピアップの声が聞こえてきたので、僕はスマフォの画面を閉じた。
いつの間にかクレモンも結局ビールを注文していたようで、すでに半分以上飲み終えていた。
いや、そうですよ、そうなんだと大きなジェスチャーを振りかざすようになっていたから、クレモンは酔いはじめているなと思った。
ソピアップはカウンターに両肘をついて項垂れたままで聞いていて、たまにクレモンがいる右側に顔を向けては首を横に振っていた。
僕はすでにスコッチをニートで飲みはじめていたが、思考は自然と研ぎ澄まされていた。
話を聞きながら、コンセプチュアル・アートではダニエル・ビュラン、そしてアンフォルムとバタイユ的なもの、クレモンは間違いなくこのあたりを基礎に理論武装しているが、ソピアップの素材のチョイスと造形の指向性はそこにはないと僕は思っていた。
そうではなくて、ソピアップは彼が過ごした土地の記憶と、アメリカ生活を経て、今、彼が楽しく制作につぎ込める素材、手法、そして環境を純粋に表現しているだけだ。衒学的なものや芸術史の言説を意識しているとは思えない。
ソピアップと僕を比べることはおかしな話だが、アジア人がボストンやシカゴをはじめとするアカデミックな町に住んでいること自体、違和感を感じざるを得ないのだ。
だから西洋的な芸術の制度そのものが、いつもどこかで引っかかっている。アジアには東洋思想という大いなる世界観があるのだから。
クレモン、名前からして絶対フランス人だよな。そして彼が発する思想のディスクールを聞いていて、それが確信に変わった。
そして、この人はとても悲しい人だと思えてきた。
付け焼き刃ではあるが、サイゴンで学んだフランス領インドチャイナの崩壊は、1954年のディエン・ビエン・フーの戦いだった。ベトミンを率いるヴォー・グエン・ザップ将軍の名前は永遠にフランス史に負い目として刻まれた。
ラオス国境近くの北ベトナムではあるが、それから敗北したフランス人たちは、カンボジアを含むインドチャイナにおける支配的な階級ではなくなった。もちろん経済的には特権階級であるから、裕福な生活を送ることはできただろう。しかし彼らはフランス領時代の残滓と、自らの遺産を削りながら生きて行くしかなかった。
だからこうして、プノンペンで白人の老人が日差しに弱い肌を曝け出しながら、フランスの文化にすがりながら生き続けることは、それなりに辛かろう。
ソピアップは、オーケーまた次回話そうよとクレモンに伝えて席を離れようとすると、逆に彼は、次はいつプノンペンに来るの、とまた質問に代えて話を長引かせていた。
オーケー、オーケー、オーライ、オーライと、ソピアップはまともに取り合わない。
「会えて光栄です。今日はありがとうございました。」
僕はわざと声を張り上げてクレモンに話しかけた。今まで空気だった人間がいきなり声を出したからか、クレモンは右手を軽く挙げると、そのまま素直に階段を降りていった。
ソピアップは大きくため息をついた。僕も同じ行動を取った。
「友人なんですよね?」
この時点では、すでに彼がキュレーターでないことは明らかだった。
ソピアップはカウンターに再び座ると、笑いながらこう言った。
「友人じゃないよ。ストーカーだな。」
「え、そうなんですか。」
「絶対に見つけられちゃうんだよ。それで、いつもああいう話。」
「かなり深い話をされていたので、僕は入るべきではないなと思いました。」
「ごめんな。」
その苦笑いを見て、少年の顔だ、と思った。純真と形容するのがしっくりくる。彼の制作に対するアティテュードは、絶対に僕が思った通りだと腹でわかった。
「あいつ、自分はアメリカ人だって言い張るんだよ。クレモンという名前でだよ。本当かよ。あんなアメリカ人どこにもいないだろ。」
まさかアメリカ人を名乗っていることは知らなかったから、僕は吹き出してしまった。
クレモン、Clément、間違いなくフランス語圏の名前だ。おまけにイギリス訛りの英語を話す。アメリカ人のはずがない。
「さて、飲み直すか。大丈夫だよな。」
「もちろん。」
僕はスコッチのショットをぐいっと飲み干すと、グラスをカウンターに強めにおいてから、ソピアップの後を追うように階段を降りた。そういえば一度も席を立っていないから、少しバランスを崩してしまった。
外へ出ると、欠伸が出た。
足取りは軽く、それでいて横に揺れるような彼の姿に、自然体がいいなあと心で呟いていた。
車に乗り込むと、静寂が二人の鼻息を際立てた。鼓動すら聞こえてきそうなくらい僕らはアルコールの影響下にある。
ほんの数ヶ月前には、僕だって毎日のように日本酒でこういう状態になっていたなと思い出して、にやけていた。
合成皮革のシートがぎゅぎゅっと音を立てた。
ソピアップさん、次はどこですかと尋ねると、未来は未来のみぞ知る、ただ目の前のことに向き合おうと言っていたと思う。
有志と語り合い、飲み明かす。異なる意見が飛び交い、時には荒ぶる。
いつも後から悔やまれていたが、それはそれで自然体だった。
だが思うだけで認めないのは、いつ、どこで拾ったか知らないが二束三文の安っぽいプライドがいつも邪魔をするから。
少し落ち着いていると、横でソピアップが、今夜は邪魔が入ってあまり話ができなくてすまないと言ったが、僕は、いいんですよ自分が至らないので、でも話についていけたら素晴らしいなと思いますと、まるで、数ヶ月前にあの人が僕に対して繰り返し述べていたようには答えられなかった。
仕方ないですよね、ああいう人もいますよね、確か僕はそんな風に返事をした。
その場つなぎの日和見主義者、以外のなにものでもない。
僕はクレモンと直接話すこともせずに、一方的に解釈して、分析して、こういう人は話す価値がないと決めつけた。おまけに哀れな人間だと思い込んだ。先に相手に評価されたと思って、防御壁を張った。
今日、僕はS-21をこの目で見てきた。クメール人の覚悟を感じてきた。
クレモン、そしてソピアップと対等にコンセプチュアルな話に加わることが恐ろしかった。否定されることに耐えられなかった。間違ったことを言ってしまうのが怖かった。
あの人だったら、わかりません、でもわかったら楽しいでしょうねと素直に返事をしただろう。
それは、強い心の持ち主だ。
僕はいくら時を重ねても、あまり変わることはないかもしれない。でもそれでいいと思う。
夜が深まれば深まるほど、大気が清らかになってゆくから。
闇が深まれば深まるほど、ほんのわずかでも光は見えるから。
僕は後部座席の窓を下げて、メコン川を横目に、空気を深く吸い込んだ。どこからか生ごみの腐った匂いがした。
ソピアップは、次の店は女性たちもいるから醒ますがいいと言っていたと思う。
このまま、ずっと子供のままで、彼のように純粋でいたい。
フロントガラスの向こうから、ピンクやレッドのネオンが艶かしく輝く街並みが見えてきた。
あそこへ帰るんだ、そう思えた。
僕は、自分が堕ちてゆくのが手に取るようにわかった。
そして、もはや後戻りはできなかった。
(続く)

©Sopheap Pich, “Far From the Sun”, 2014

©Sopheap Pich, “Far From the Sun”, 2014