「チェンマイ:追いもとめる真像」
ナイト・マーケットに着いたのがもう22時を回ろうかというときだったから、さすがに食べ物の屋台の選択肢は少なかったのかもしれない。
旧市街の南側に位置するKey Hotelのフロントの若者が気遣って、チェックアウトしたらすぐに行ったほうが良いと急かしていたのを思い出した。
それでも若者は、名前がディンだったかファンだったか、とにかく短すぎてもう忘れてしまったが、どうやら日本に伯父が住んでいるらしく、いつか訪ねたいから頑張って貯金していて、日本語も地道に学んでいるという。
想像される通り、僕はしばらく彼に足止めを食らって、日本語の単語をいくつかと、すみませんとごめんなさいのニュアンスの違いなど、用例を挙げながら教えることになった。
ほんの5分くらいのものだろうが、僕はシェムリアップのフィッシュ・アモックで腹を下してからというもの、タイ料理のパッド(กระทะ )、つまり炒めた料理を心待ちにしていたから、いてもたってもいられなかった。
夜市までの道中、チェンマイが小さな街だなと思ったのは、街灯の光度とその数のせいだろう。
いや、もしかするとチェンマイが山々に囲まれているため、これまでの都市と比べて気温帯が低いことが、僕とっての同様の涼しさが連想させる記憶を呼び覚ましていたからかもしれない。
それは、晩秋の叙情を誘う日本の田舎の風景だった。その理想像では、経済のシステムとはかけ離れたところで、年老いても自給自足の生活を送る老夫婦が幸福な笑顔を浮かべているのだ。
毎週日曜日のナイト・マーケットは有名らしい。
旧市街の仏教の寺の周囲1km以上を歩行者天国にして、雑貨、食べ物、コーヒー、お茶、その他考えつくあらゆるものを売る多くの屋台が出ている。
僕はすぐに紺色に支配された売店を見つけてしまった。この色には目がない。近づいてみると、30代だと思われる母と小学生くらいの娘の二人が綿の藍染とおもわしき衣類を販売していた。目に飛び込んできたのは、ボックスシルエットで襟なし8分丈の、フロントは釈迦ボタン仕様のシャツ・ジャケットのようなものだったから、食指が動いた。
「インディゴ?」と訊くと、イエスと即答された。
前身頃には左右の腰上に四角いパッチポケットが縫い付けられていて、フランスの作業着ブルー・デ・トラバーユを彷彿とさせた。タイ王国ではモーホン(Mo Hom)というらしい。チェンマイから東にラオスに向かう途中にPhraeという、こうした藍染を生業とする民族が住む地域がある。いつか訪れてみたいものだ。
値切ろうとして粘っていると、閉店ぎりぎりだったことも手伝ってか、苦笑いで3着450バーツにしてくれた。そのうち一着はろうけつ染めの手間がかかったものだった。その時はしめしめと思ったが、為替計算をすると1,500円ちょっとだったから、さっきの親子のことを考えると流石に悪い気がした。
腹が鳴って空腹に気づいてから、パッタイのような炒め物の匂いのする方へふらふらと引き寄せられてメインの通りから左に折れた広場に来てみたが、コの字に壁側にへばりついた屋台の群はもう店じまいだった。
どこへ行けばいいかと店の一人に聞いてみると、奥の寺院ならまだお店はまだやっているはずだと言うので、その通りにしてみることにした。寺院を中心に夜市が形成されていたらしい。
寺院に向かう途中、ナイト・マーケットの表通りを横切る。至る所で、酩酊しとぐろを巻いてふらつく者や、地元民らしきアジア人の若い女性を連れている白人も多くみられた。
ここも白人だらけだな。僕は少し失望した。
それからやっとワット・ファン・オン寺院に到着して、おそらくここだろうと思われる屋台を発見し、やっとパッタイにありつくことができた。70バーツだった。麺が違うと思ったら、ビーフンだった。もっと分厚い米粉の平打ち麺を想像していたから、思ったものとは異なっていて少し残念だった。
近くのドリンクのコーヒースタンドはもう店じまいの支度中だったが、初老のおじさんにコーヒーはもう終わりですかと聞くだけ聞いてみた。アイスかホットかによると言われたので、できる方でいいですと伝えたら、どっちがいいのかと訊かれて、アイスと答えると、結局嫌な顔もせずに作ってくれた。練乳と砂糖がたっぷり入った冷たいエスプレッソ。30バーツだった。
それからナイト・マーケットを目標もなく気の向くままに歩いていると、Tシャツのセールの声が聞こえた。ワゴンセールで、粗悪なプリントが施された、ベースとなるボディもまとまりのない、せいぜいお土産くらいにはなりそうなTシャツが山積みにされていた。
そこで僕はタイのChangビールのリンガーTシャツが50バーツで売られているのを見つけて、これはと思い、MかLを探してみたが、向こうで同じように商品を物色している白人がそのTシャツを着ていたのでがっかりして買う気が失せてしまった。
その場を去って、また人の群れの流れに身を任せた。周りには売店や屋台の他に、マッサージの勧誘も多かった。セットバックされた建物から通りの方に何人ものホステス風の女性がスツールに座ってスマホをいじっていて、その周りではキャッチの男性が声がけをしている。
興味はないと首を横に降りながら素通りした。中には肌の白いとても美しい女性もいた。
僕はすぐ脇にセブンイレブンを見つけて、Singhaの缶ビールを買って、歩きながら飲むことにした。
行く手の遠くに城壁のようなものが見えている。夜市の商店街にもいよいよ終わりが見えてきたようだ。
近くで弦楽器の奏でるエキゾチックな音色や打楽器のビートが聞こえてきた。タイの伝統音楽だろうか、数人の男性が演奏していて、その周りではブロンドヘアが絡み合わなくて貧相なドレッド・ロックにしかならないネオヒッピー主義者でトランス音楽愛好者のようなボヘミアンな白人たちが、音楽に合わせて体を揺らしていた。
地面近くに両手両足のない商売人が見えた。その脇には、アメリカン英語だったからアメリカ人だと疑いを挟まなかったが、白人たちが感嘆詞を並べ立てて、眉を垂らして、両手を合わせて、口をとんがらせて、体を屈めるようにして全身で彼に同情していると表現して、写真付きのガイドブックのような冊子やコピー品のCDなど雑貨を買い上げていた。
だが、僕にはそれが嘘っぱちにしか見えなかった。
それはカンボジアで訪れた二つの街の市場で見た光景と同じだった。
ベトナム戦争やカンボジア内戦により、ベトナム、カンボジア、ラオスには地雷原がまだ多く潜んでいる。地雷はポル・ポトが最強の戦士と読んでいた代物だ。タイでは地雷の問題はカンボジアとの国境付近、例えば東のTrat地方に偏在しており、未だに死傷者が絶えない。
果たしてこの行商人がそうした境遇の人間であるのか、そもそも地雷とは全く関係ない事故だったのか、それとも先天的な障害であるのか、もはや思い描くシナリオばかりが増殖してゆく。
それからバーに入りビールを頼んだ。タイの大手ビールメーカーChangだけはドラフトのタップがあったのでそれにした。カウンターの中央付近に落ち着いてから、スマホのサファリを開いて、例の出会い系サイトにアクセスした。すると、あの人からメッセージが入っていた。
「どうして笑顔じゃないの。」
僕は胸を締め付けられる思いがした。
すぐに言い訳を送ってみたが、すぐ後に返ってきたレスポンスを見て、僕はなんだか冷めてしまった。僕は有料メンバーではないから、10分に一回しか返事をすることができないわけだし。
残りのビールを一気飲みして、ライムのダイキリを注文した。一口飲むと、期待していた苦味はビールのホップに消されたようで、ジュースの他にラム特有の甘みが口の中に広がった。
すると左横から、一人の短身のアジア人女性がカウンターをスライドするように近づいてきた。
ヘイ、どこから来たの、飲み物をちょうだい、同伴どう、一晩付き合いますよ、と色々と強いアクセントの英語で話しかけてくる。暗闇の中だったからか、肌が黒く、皺の寄り方が自分よりも年上に見えた。似合いもしない真っ赤なルージュと真紅のワンピースを無理して着ているから、母親だろうか、子供を養っているのだろうかと、さっきと同じように多くのシナリオを思い描いてしまった。
だから、そんな気分ではなかったはずなのに、僕は、おごるよ、なんでもいいよと簡単に乗ってしまった。その時僕はすでにパイナップル・ダイキリをすすっていた。
それからその女性は、僕にいつ来たとか、明日はどこにいくのとか、いわゆる観光客に対しての常套句で飾った英語を駆使してきたから、そのティピカルさが反対に微笑ましく思えてきた。
僕は、きっと彼女は一家を支えるために夜の仕事を入れて切り盛りしているのだろうなと、自分の娘の母親の姿と重ね合わせてしまったから、余計な演出劇を差し込んで、彼女を美化して話に乗ってやったし、また、彼女には一切質問をしなかった。僕が作り上げたシナリオでは、この女性は、僕よりもはるかに輝いていた。
少し酒が回ってきたのだと思う。そうやって自分好みのストーリーを妄想してカタルシスを得ていることが滑稽に思えてきた。
ふとカウンターの上のスマホが震えたかと思うと、Googleマップのアプリから現在地についてのプッシュ通知が届いた。最近のGoogleは、目標として目指していた行き先ですか、というふうに、検索結果に踏み込んだ提案をしてくる。
僕は反射的にYesをタップしてから、なんだか馬鹿らしくなって地図上に保存していた星印を消した。
ふらりとバーに立ち寄ったのではなくて、この店を目指して歩いてきたことがいつか誰かに知れたら気まずい。
そこはタイ・レッドキャットという行き当たりばったりで見つけた英語圏のまとめサイトで調べた、個人のホステスたちが客引きに集まるバーだった。
だから店に入ってから3分もすれば、目の前の彼女のようなフリーランスのホステスに話しかけられるのは当然なのだ。
カウンターの頭上にあるTVスクリーンを見上げると、イングランド・プレミアシップの試合が流れていた。90年代のヒット曲をつなげただけの安っぽいBGMとの相性がよかった。
僕はストローでダイキリを強めに吸い上げた。彼女がカウンターに身を乗り出して、僕の顔色を伺うような仕草をしているのが横目でわかった。そのまま少しだけ世間話を続けたが、明日は早いからもう行くよ、最後に一杯欲しいものを飲むといいと伝えて、財布から多めのUSドルをカウンターに置いてスツールから立ち上がった。
最後に女性が右手を差し伸べてきた。
その動きは僕を引き止めようとするものではなくて、さよならのそれでもなくて、ただ一瞬でも、人と人とが吐息のかかるくらいの距離にいたことを祝福するような、ささやかな身振りだったのだと思いたい。
だからその手を握った。
外は肌寒く感じた。
さっき買った藍染のモーホムを羽織った。袖から覗く褐色の手の甲を見て、ずいぶん日に焼けたなと思った。肌の白さは東南アジアでは憧れとされている。
すでにナイト・マーケットの喧騒は去り、道ゆくカップルたちの口元からは深夜の訪れを告げるしっとりとした囁きが聞こえてくるようだった。
ホテルまでの帰路は別ルートを使おうと思い、城壁に沿って歩くことにした。少し頭がぼうっとしている。程なく目の前にチェンマイの東側の門、ターペー門が現れた。
城壁の向こうには、いずれバンコクでチャオプラヤ川となるピン川が流れている。まだ北部の水源に近いからであろう、せせらぎと呼ぶことができそうな小川だった。その川を越えると、地図を見るかぎり様々なマーケットがあるようだ。
足元のコンクリート舗装を見ながら、自分はどうかしていると思った。
孤独を紛らわすだけのために、会ったこともない女性とネット上でやりとりをして、ホステスが出入りするようなバーに転がり込んで。
だが、何をしても寂しさは募っていく。
気がつくと僕はターペー門をくぐろうとしていた。
デジャヴ。
それよりも、どこかで見たことのあるノスタルジーに似たものを覚えた。脇の下から背中にかけて、じわりと汗ばんでゆくのを感じた。
門の姿が溶解してゆく。門の表面の様式が別のものに姿を変えてゆく。
そして、カンボジア奥地に密かに眠るサンドストーンの仏教とヒンドゥーの廃墟と重なった。
シェムリアップのタ・プロームで見たような、寺院の遺跡に絡みつき食い尽くすガジュマルの触手が恐るべき勢いで門を覆ってゆく。有機生物に備わった生命力と捕食力の前には、無機物は為す術もない。
それは神々しく、かぎりなく温かな理力であったが、僕はそこに、絶対に近づいてはいけない深淵を垣間見た気がした。
それなのにどうしてか、明日の晩には、門を越えて、そのアビスに沈むのだろうなと確信していた。
時計を見ると午前1時だった。
僕の手のひらには、まだあの女性のゴツゴツとした手の感触が残っていた。
農民かどうかはわからないが、土や、自然に近いところで生きている者の手だというのは明らかだった。
僕は20年以上も前に、同じ手を握ったことがあった。
その手は、埼玉の祖母と同じ、とても温かい手だった。
・・・・
翌日。朝シャワーを浴びてから、例の絆創膏を使ってみることにした。
しかし、粘着部が布のガムテープのような強靭な粘着力を持っていることがわかり、これでは間違いなくせっかく形成しつつある皮膚もろとも剥がれてしまうだろうと直感した。
いささか旧い気もするが、次に薬局を見つけたらガーゼと消毒液など、別のものを探してみよう。それまでは、赤くただれた皮膚にかろうじて残された毛穴から吹き出しつつける血小板が頼りだ。リーバイス501のふくらはぎの部分は、100円ショップで売っているプラスチック製の薄手のまな板のような触感を帯びてきている。
一泊3000円のホテルには朝食が付いていなかったから、すぐ道端の食料品店を覗いてみた。昭和の時分に成増でよく通っていた駄菓子屋を思わせる、黒光りしたコンクリの床の上に置かれた、あちこちペンキの禿げた緑色の鉄製の棚には、箱入りの様々な食物が並べられていた。日本人の十八番である賞味期限をチェックするという条件反射的な行為を行うまでもなく、僕は冷蔵庫の中の、ヨーグルト、ミロ、ミックスジュースだけを買い込んで、部屋で簡単に済ませた。
それから、そろそろ洗濯物も増えてきたのでフロントデスクにサービスはあるかと尋ねてみたところ、道を挟んだ向こうにあるからそこに行ってくれという。
その店はスクーターや自転車もレンタルしている雑貨店で、何でも屋のようだ。家族経営のようで、店の中は拓けたスペースが広がっていて、奥の梁のあたりにはバラエティ番組をやかましく放送するTVがあった。手前は低い食卓のテーブルが置いてあって、小さい子供と、主人だろうか、中年男性と老婆がプラスチックのどんぶりを手に持って食事をしていた。
店番は少し疲れた様子の、よく日に焼けた若い女性だった。ランドリーのやり方は、洗濯機で洗ったあとは、天日干しを指定した。1kgで40バーツ、135円くらいだった。驚きの安さに、いったい商売になるのだろうかと案じてしまうほどだ。
真夜中12時まで営業しているということなので、今夜受け取りにくることにした。その女性には笑顔が無かったから、ほんの少しでも笑顔がもらえたらと思って、受け取りの際には、チップを渡そうと思った。
10時を過ぎた頃、ホテルの目の前に停まっていた観光用の大きなトゥクトゥクに声を掛けられた。サイズ54mmはありそうな巨大なティアドロップのアヴィエイター・サングラスをかけた、褐色の肌に真っ白い歯が印象的な中年の男性ドライバーだった。
普通なら明らかに観光ツアー用のバスに引き止められても、タクシーを探すからノーサンキューと断っていただろう。
なんとなく今朝は、ついさっきも出会い系サイトにメッセージが届いていたように、あの人の言う通り微笑みを浮かべてみようかなと、従順になってみようかと思っていた。
頬を撫でるそよ風が爽やかなチェンマイの朝に、あまり出会い頭から否と言いたくない気分だったのだ。
ドライバーにMAIIAM現代美術館までいくらか訊いてみると、お前含めて何人だと言うので、一人だと応えて、仕方ない200バーツでいいよと言われたから、少し高い気もしたが、15kmほど距離があるし、おまけにイエスとしか言いたくない気分だったから、僕はあっけなく諾していた。
東南アジアのタクシーはとりあえず走り出してから、後から場所を確認するということが多いようだ。
このドライバーも同じだった。途中、走りながら後部座席との隙間から何度もスマフォの地図を見せてくれとせがんでくる。その後、仲間か会社に電話をしたのだろう、場所の詳細を聞いてから、大きく残念そうに嘆き声を吐き出していた。それから、ファー、ファー、遠いよと文句を言ってきた。
もう5km以上は来ていたから、もうこのまま行ってくれと頼むと、わかったよ、このまま行くよと不本意そうに頷いていた。
MAIIAMに向かう道は広く直線的で、両側には道路にせり出した巨木の並木道が珍しかった。その木々が初めにあったのか、並木のセットが迫るごとに道が狭くなり、両脇にはコンクリートの防護が現れ、注意を喚起する黄色のペンキが施されている。
空気は少しもやがかかっている。夜のうちに溜まった湿気が朝の日光を浴びて、気温の上昇とともに水蒸気へと気化しているのかもしれない。
MAIIAMに到着すると、ドライバーが非常に切実な表情で300バーツで頼むと言うので、もちろん今日の心境からすれば、そうせざるを得なかった。
外壁は日光と手前の樹木をそのまま反射するミラーパネルに覆われた、一見、透明に見える建物だった。そのせいか規模感を掴みづらい。中に入ると、若く、10代の学生のようなナイーブさが表情に残った男性スタッフのアテンドの初々しさを微笑ましく思った。単にマニュアルに沿っているだけだろうが、その接客の丁寧さのほかに、ショップの配置と商品のセレクション、カフェテリアの佇まい、展示場への誘導の分かりやすさなど、全てが洗練された現代美術館だとすぐに理解できた。
MAIIAM。
タイの王族の女性とフランス人の夫婦が30年をかけて蒐集してきた東南アジアの現代アートのコレクションは、単なる民間の域を超えて国立美術館レベルの価値がある。未だ公共の施設としてでの現代アーツセンターに恵まれないタイにあっては、バンコクの芸術文化センターよりも秀でているだろう。
特設展は、タイの最南端のマレーシア国境近くに位置する、東側に海を構えたパッタニーという地域の現代アートのグループ展だった。
パッタニー県は、人口の80%を占めるマレー人と残りの華人を抱える地域だが、植民時代にはイギリス領マラヤの傘下となり、20世紀初頭には曖昧なままシャムに移譲され、イスラム系のマレー人が人口のほとんどを占める中、そのままタイ王国の領土となっていった。
日本軍の統治下にあった太平洋戦後、この地域の再建が国の一大プロジェクトとなったが、そこでは多民族主義の樹立が掲げられていたため、歴史的な経緯が大きく働いて、マレー人のナショナリズムが首をもたげ、いくつものイスラム系武装組織が結成された結果、2004年以来、テロリズムや武力闘争が後を絶たない。
パッタニー県におけるアートの発展もまた、地域が辿ってきた歴史の道のりと共にあり、タイ南部の地域への責任を担うソンクラー大学の芸術学部の設立によって、こうして証言される機会を得た。
参加アーティストたちは、パッタニー出身で在住の者、地元出身で海外を制作の場に選んだ者、それからタイの別の地域やマレーシア北部に拠点を持つ者らで構成されている。
アーティストたちは、各々が共有するパッタニーを取り巻く不安や切望といった感情を、イメージ、サウンド、そして様々な解釈によって表現している。多くがタイの伝統を再解釈したネオ・トラディショナルな芸術や、現代アートに影響を受けているため、地域に根ざした創造的なプロセスを順を追って表現しているといえる。さらに、ペインティング、インスタレーション、写真、ビデオアート、ドキュメンタリー、ショートフィルムなど多岐にわたるメディアを駆使して、アーティストたちはアイデンティティをめぐる政治や、平和活動、正義、宗教心などに関わる問題をヴィヴィッドに表現している。
はじめ展示場には他に誰もいなかったから、じっくりと鑑賞することができた。
パッタニー出身のアーティスト、スハイディー・サタの「シンボル・オブ・バイオレンス」(2017)はコンセプトといい、メディアのチョイスといい、ピースの制作と展示手法まで、なかなかうまくまとまっていると感じた。
Suhaidee Sata, “Symbols of Violence 11” 2016.
作家はココナッツを素材として選び、それをAK-47とColt AR-15の形状に削りだして、銃口を来場者の目線の高さに合わせて、銃身は壁に埋め込まれている。
AK-47はイスラムの武装組織ほか、冷戦時代には東側のシンボルだった。そして、AR-15別名M-16は西側の象徴だ。
そして、ココナッツはタイの南部の風景にはもちろん平凡なもので、いくらでも採れて、日用雑貨の素材にもなるし、それでいて燃えやすいという特性から、カラシニコフのように死をもたらす記号でありながら、燃えやすく儚いものであるというメッセージを表現できている。
その時、背後のほうに気配を感じた。二十代前半だと思われる若い女性二人が展示場に入ってきた。身だしなみのセンスや色白さから、はじめ韓国人かと思ったが、よく話している言葉がわからないにせよ韓国語ではないことは確かだった。しばらくして、なんとなく発音の感じから、おそらくタイの女性だろうと推測できた。
二人は作品の前で笑顔でポースをとったり、作品一点に限らず全景をバックに、床に座ってファッション・スナップ的なアングルの写真を何枚も撮ったりしていた。
サイゴンのファクトリー・アーツセンターでも同じ光景を目にしたが、こちらの若者たちにとっては、美術館やギャラリーはかっこうの撮影スポットだということなのだろう。
だが、パッタニー県に脈々と流れるナショナリズムやイスラム武装組織などの抗争で血が流れてきた歴史を背景に、いったいどのような写真が撮れるというのか、僕には想像すらし難かった。そして、そんな悠長なことをしてはいけないと、紛争地域に安易にシンパシーを抱いてしまいそうな危うい思考回路を起動させてしまいそうなことがとても嫌だった。
だから、日本と違い展示場を占有できていたことから突然目覚めさせられたのもそうだが、僕には彼女たちの行為が極めて不純なものとしてだけ映って、憤りに似た感情がこみ上げてくるのだった。
「またそんなに真剣になって。プロフィール写真と同じ怖い顔をしているの?」
突然Wi-Fiの電波を拾ったiPhoneが震えた。
あの人から、今朝送ったメッセージに対する返事が届いていた。僕から送ったのは昨夜見た光景で、しかも地べたを這う男性を地雷の被害者だと理不尽に断定してしまったことを後悔するような文面だったはずだ。
なんだか全てを見透かされているようだったから、邪魔しないで放っておいてくれと心で呟いた。いや、小声で実際にLeave me aloneと発声してしまったかもしれない。
だが僕は返信することなく、携帯を肩掛けバッグにしまってから、いそいそと展示場の出口へ向かい、ガラス扉を押し開けて、すぐ目の前に現れた2Fへと続くシンプルでクリーンな階段へと向かった。
階段を上りきると、そこは、床の境界が全て曇りのないガラスのフェンスで覆われていて、1Fの中央の大展示場を地続きのように見渡せる踊り場だった。
2Fには二つの展示室があって、一つは、50年以上もパリを活動の拠点としていた中国貴州省出身の書家でありダンサー、ペインター、文筆家、詩人として活躍したLaLan(本名: Xie Jing-Lan)の回顧展だった。
もう一つは常設展で、壁にはPiphitmaya Collection – Feeling in the 1990’sというタイトルの下、展示のハイライトの説明文を認めることができた。
90年代は、まさにタイやシンガポールを筆頭に、東南アジアの現代アートが海外でも紹介されるようになり、一つのムーブメントとしてエスタブリッシュされた節目の時代だ。
タイでは、軍部による統治が続くなか、1992年にラーマ9世が成し遂げたといっても過言ではない民主化、めまぐるしい経済成長、そしてその後訪れたバブル崩壊、そして国内と海外をメディアやテクノロジーで行き来するという、いわばグローバリゼーションに孕まれた典型的な問題群に向き合うことになる。
そこでアーティストたちは、グローバルな経済圏に参入しながら、土着のアイデンティティや文化に生じる親和性や違和感を多用的に表現するツールを得ることになる。芸術表現にとって、様々な問題は表現の糧となるから。
つまり、タイの現代アートもまた、この時、急激に発展を遂げた。
その時代にスポットライトを当てた展示の内容は、もちろん目を見張るものがあった。それこそ「サンシャワー展」でも目立っていた作家や、北米や欧州の美術館やビエンナーレ等でもよく作品を目にするアーティストだらけだった。
モンティエン・ブンマー。リクリット・ティラヴァーニャ。アピチャッポン・ウィーラセータクン。そして、ナウィン・ラワンチャイクン。タイを代表し、アジアの現代アートにおいて語らずにはいられない作家たち。
Rirkrit Tiravanija, “Untitled 2013 (Study for Freedom cannot be Simulated)” 2013.
Navin Rawanchaikul, “Super (M)art Bangkok Survivor” 2004 – 2015.
だが僕は、いまだにさっき芽生えてしまった嫌な気持ちの元凶をどこかへ追いやりたい欲求が強まっていて、それでいて彼女たちにずっと追われているような気がしてならなかった。
「きっと大丈夫だから。ほらこっちを向いて。」
突如、脳裏にトマス・ウルフの『Look Homeward, Angel(天使よ、故郷を見よ)』が浮かんだ。
ホームを、こちらを向いてと。その天使はもちろん愛する者の喩えであり、故郷というのも、より広義な帰る場所で、安らかさの一方でどこか引け目を感じてしまう抽象的な帰属点なのだ。
「そう言ってくれてありがとう。前向きでなくてもいいんだね。自分の安らぐ場所に帰るよ。」
僕はどこかに自信を隠していた。
まだこの血がアルコールに冒されるよりずっと前に、まだこの皮膚に少しも皺がなかった時代から、東南アジアのアートをすでに知っている。
目を瞑って、胸に手を当てることはしなかったと思うが、父である谷新(たにあらた)の『北上する南風』に意識を傾けた。
僕は静かに深呼吸した。脳内のシナプスに電気信号が流れてゆくミクロの映像が頭に浮かんだ。
Montien Boonma
Montien Boonma, “Handprints on Cement Construction” 1990.
ブンマーの作品は、還元主義的でありながら、つまり素材をありのままの状態へ解放するだけでなく、彼自身が素材に対して、そして素材を用いてアクションを加えるなど、ヴァナキュラーとも言える独自のアイデンティティの内在化が行われていることが特筆すべきポイントだ。そこにはタイ独特の土っぽさのほかに、仏教への信心や神話といった聖と、急激に発展する日常の俗が、抜き差しならない関係で共存している。
ブンマーは自身の仏教徒としての生い立ちと信心に寄り添いながら、例えば寺院の構造や伝統的な装飾にインスピレーションを得て、素材の本質を開示しながらも、自らの痕跡を残していた。
ブンマーのシグネチャーの一つである、クエスチョン・マークとエクスクラメーション・マークが一体化したモチーフは、まさに表象的には仏教的な様式を、そして、コンセプト的には、輪廻を繰り返す永遠の問いかけと苦悩とが交錯している。はじめは、仏僧の助言で別居していたのに、ガンで斃れてしまった妻をめぐる不条理に揺さぶられて表出した記号だったかもしれないが、ブンマーはその永遠の疑問に偏見を抱かず、未知のもの、驚き、発見と希望といった真理へと自ら向き合った。
こうした彼の制作におけるポジショニングは日本のアートと比較してみてもうまくコンテクストに当てはめることができることもある。
乱暴にくくってみるとするならば、日本ではニューウェーブやポストもの派のムーヴメントに似たところがある。もの派が実践した、造形と作家性の極度な消去や、素材と作家との純粋な関係性の表出は、いわば放置型ともいえるもので、ツンデレで言えばツンの指向性だった。これに対して、ポストもの派は、それなりに制作や造形の復権が行われていて、濃淡あれど、作品には作家のアイデンティティが染み込まれている。つまりデレである。
欧州のトランス・アヴァンギャルディアやアメリカの新表現主義など、美術史的にはポストモダンな動向に顕著な、こうした作家性の再発見と再認識は、むしろ東南アジアではモダニズムと歩みを共にした。
そして今日、ここに挙げたブンマーの弟子にあたる、チェンマイ在住の現代アーティストと会うことになっている。気がつくと、さっきの女性二人は展示場にはいなかった。
あるいは、90年代の東南アジアのアートへ触れることがとても自然だから集中することができて、彼女たちが通り過ぎたことに気づかなかったのかもしれない。
当時、僕が小学生の高学年から中学生の時期に、頻繁にこの地域に足を運んでいた父とはほとんどアートの会話はなかったと思うが、それでも肉親であることと、同じ屋根の下に住む者に共同主観的に発生するかもしれない神秘的な何かが、この土地を肌で感じてきた父の身体を媒体として、僕の身体にも染み込んでいっていたのかもしれない。
「今日はきっと良い1日になるわ。」
あの人は、そう発声し、そのように言い聞かせることで、本当にその通りの日を送っている。彼女は言霊を操っている。
僕は充分展示場を堪能してから、再び1Fに降りて、もう一度全ての展示場をゆっくりと歩いて、余韻を楽しんだ。
そして、また一番初めの部屋に帰ってきた。
そこには、フランスの画商のジャン・ミシェル・ビューデレーとシャム王族のパトスリ・ブナンが夫婦として集めてきたコレクションの歴史と、パリからチェンマイへ移住したエピソードが記されていた。全ての展示を見てからだと、その説明文が与える印象に大きな変化があった。
僕はいつか、東南アジアの旅のどこかで、必ずバンコクにいるあの人に会いに行く。霊的な言葉と、美しい笑顔に引き寄せられるように。
ジャン・ミシェルは55歳の時、長い間ギャラリーを営んでいたパリから移住し、妻であるパトスリの息子エリック・ブナン・ブースの義父となる。愛する者と、自己の探究心のために、故郷を後にして異国に住むということ。今まで思ったことすらない一つの考え方が、意外な希望の光とともに頭に浮かんできた。
ホームはどこにでも作れるのかもしれない。
僕は展示室から渡り廊下を進んで、カフェテリア側の棟のガラス戸を開けて中へ入った。僕は現代美術館に来ておきながら、この瞬間はアートのことはそっちのけで、異国人同士が紡ぐ人生のことに考えを巡らせていると焦燥しまったようで、一服したいと思った。
ナウィンとは14時に彼のスタジオで待ち合わせだから、まだあと1時間ある。これまでのメールのやり取りによると、移動には車で30分はかかるそうだ。
チェンマイにはUberがあるのでそれを使うといいと言っていた。MAIIAMはチェンマイ市内の東側に位置しているから、彼のスタジオに行くには、一度市内に戻る方向に移動して、それから北上することになる。
よし、MAIIAM内のカフェで軽く昼食を摂ることにする。
少しスパイスの効いたガパオライスにした。米も炊きたてのようだったし、新鮮な野菜と肉を炒めたのだとがよくわかるような、とても綺麗にまとまった洗練された味だったから、思わず昨夜のストリートフードとしてのパドタイと比較してしまった。これが70バーツで、食後にコンデンス・ミルク入りのアイスコーヒーが50バーツだったから、合わせて400円強だ。昨夜の屋台と大差ない。
僕は根っから土っぽいものが好きなタチだから、路上の屋台にロマンチズムを感じてしまうのは当然かもしれないし、同じ性格のせいでカフェの食事にはたいがい期待していないから、このランチには余計に驚かされた。
食べ終えてから館内のWi-Fiを利用してUberを手配した。オンライン上のマッチングでは15kmで830円くらいと、とてもリーズナブルに思えたから、すぐに配車した。
やってきたのは女性のドライバーだった。
特に会話はなく、淡々とナビゲーションに従って疾走してゆく。今朝の、後ろが大きく開いた錆の浮いた観光用のトゥクトゥクとは大きな違いだ。
市内にめがけてしばらく行くと、途中でバイパスを右に折れて北へ向かった。高速道路とは言わないが、80kmは出せそうな道幅の広い直線的なブールバードだった。
今度は小道を左に折れて入ってゆくと、突然土煙が舞い上がるような道路に変わった。旧道のためか、鋭角にそして網の目のように入り乱れるカーブや袋小路など先の見えない旧道をかき分けて入ってゆく。窓ガラスの向こうには、古めかしい民家がひしめき合う町並みや、商店街などが次々と通り過ぎていった。
行く手のはるか向こうに川が見えてきた。ピン川だ。地図上ではこの先を川沿いに右折すればアーティストのスタジオということになる。
突き当たりまで来ると、ドライバーがここから先には行けないと言うので、じゃあ歩くからここでいいよと伝えて、降ろしてもらった。さっきポータブルのWi-Fiにスイッチを入れていたので、Uberアプリを起動して、ドライバーには5つ星の評価をつけておいた。
歩くと1分で、スタジオだと思われる建物が左手に見えてきた。
・・・・
StudiO.K., Navin Production。
チェンマイを代表するアーティスト、ナウィン・ラワンチャイクンのアトリエだ。門構えは厚いコンクリートの壁と鋼鉄のゲートに囲まれた、一見、美術館を彷彿とさせる重厚な佇まいだった。
ホワイトキューブのギャラリーと説明されてもおかしくないミニマルな建物もあるし、より工場のような構造で組まれた鉄筋がむき出しになった建物もある。その反対側には、まだ外装も内装も同時進行のように従事されていたと思うが、極めてクリーンでモダンな新しい建物で、大工かエンジニアのような数人の男性が仕事中のようだ。
ゲートは開けっ放しだったので中に踏み入ってみた。
左手にはスクーターがいくつか停まっていて、資材や画材のようなものも見えたし、天井が高いシンプルな作りの建物だから作業場かもしれない。姿は見えずとも人の気配は感じることができたが、何となくここではないと思って、正面に向かったところにある二階へと続く階段を登ってみることにした。
上まで来ると、目の前に黄銅色のコミカルな銅像が置いてあった。上半身裸でサンダルを履いた老齢のナウィン自身が一斗缶を蹴っている作品だ。
ドアを引いて室内に入ってみたが、人けが感じられない。僕はこの時、言いようのないスリルを感じていた。未開の土地を、マレーのジャングルを植民者が虎に細心の注意を払いながらマシェーティを振りかざしてかき分けてゆく、とまでは言わないまでも、何か踏み込んではいけないところに忍び込むことに鼓動の高鳴りを覚えた。
入ってすぐの左手には作品の所蔵庫があって、平面や立体作品、それからカタログやおなじみの漫画作品などの書物が所狭しと、それでいてきちんと整頓された状態で収まっていた。
もう少し進むと、左側の通路の向こうに自然光を強く感じた。その手前まで近寄ってみると、奥の部屋は、30畳はありそうな床面積の中央部分がごっそり大きく吹き抜けになっていて、一階からの階段が設置されていた。そして二階には四方の壁沿いに通路が設けられている。
その四方全てに、巨大な横位置の絵画が掛かっている。全面にオールオーヴァーに、大小様々な多くの肖像や、看板、自動車やバイク、建物の一部、そしてテキストなどに埋め尽くされた様式は、間違いなくナウィンの作品だ。
すると、はじめ気づかなかったが壁の右奥にドアがあって、それが突然開いたものだから、僕は思わず飛び上がってしまった。
現れたのは、ナウィン・ラワンチャイクンだった。
「さっき二階に上がってゆくのを見ましたよ。Hisashiでしょ。分かりづらくてすまないです。」
そう言われていた最中、僕は真っ先に、どこまで見られていたのだろうかと、不審な動きをしていなかったかと心配になってしまい、正直彼の言葉は聞こえてこなかった。
「すみません。勝手に上がってきちゃいました。」
「いいんですよ。どうしようかな。16時に来客があるんだけど、それまでは相手はできますよ。どうしますか?」
どこか貫禄の中に優しさと哀しさが共存しているような、そんな印象を抱いた。
「できれば作品をあるだけ拝見したいです。さっきMAIIAMで見てきた作品のような大作が、ここにこんなに無造作に置いてあるとは思ってもみなかったですから。」
「あぁ、ここにあるのは以前展示されてきたものです。今はがらんどうですが、廊下の向こう側にもギャラリー・スペースがあります。作品が大きいので、収納するだけなら展示スペースも持ちたいと思って。」
すると僕のリュックを見て、邪魔なら先に荷物を置きますか、それとも作品を見てから一階の制作現場も見せますので、そこに荷物を置きますかと気遣ってくれた。
僕は先に荷物を置かせてもらうように頼むと、中二階に位置する事務スペースにいるマネージャーにリュックを預けてくれた。マネージャーとの対話の物腰は、相手への尊敬を思わせたし、その前に僕の荷物のことを気にかけてくれたときにもさりげない思いやりを感じた。そして、日本人と結婚しているナウィンは日本語が話せるし、僕が日本人であることがわかっているのに、メールでのやりとりに使われた英語をそのまま採用してくれている。
それからもう一度上の階に登ってきて、僕は渡り廊下の一番奥の床に置いてある全面モノクロームの大判の作品について質問した。
「チェンマイのワロロット市場が舞台です。そこで商売する人や生活する人たちの肖像を集めたものです。」
その市場には聞き覚えがあった。きっとGoogleマップで市場を調べていたときに出てきたのだろう。
「確かナイト・マーケットの近くでしたよね。」
「ええ。面白い市場ですよ。もし時間あれば行ってみるといい。」
僕は絵を眺めながら、なんとなく東南アジアとは異なる異国情緒を感じていた。
「私の先祖はケーク(Khaek)と呼ばれるヒンドゥー教徒のインド系の移民なのですが、タイ語もタイの北の方言も話せるのにチェンマイではアウトサイダー扱いされているのです。しかし、ワロロット市場だけは人種のるつぼです。中国系やインド系そして北方の少数民族など混在しています。」
「確かに顔つきや衣装を見ても、人それぞれですね。そして、みんな笑顔で、いい雰囲気ですね。」
確かケークという言葉には、ディアスポラ(民族の離散)という悲劇的な意味が込められていたはずだ。単なる移民ではない。だが、きっとこの市場では、出自関係なく、多種多様な民族が差別・非差別意識なく暮らすことができるのだ。
「そうですね。ここでは多様な民族が、自分は何々が得意だからこういう商売ができる、ということを民族レベルで共有しているので、お互いに認め合っています。」
「ナウィンさんのインド系だと何が主要な商売になるのですか。」
「生地の卸と小売です。先祖はパンジャブ地方からやってきたので、穀物や野菜など豊富な資源だけでなく、上質な生地が流通しています。」
「そういえば、この前のサンシャワー展で発表されていたショップの再現でも、生地が豊富に並べられていました。」
「そうそう、父スワン・ラワルのO.K. Storeです。ワロロット市場の外側にあるので、もう80歳もとうに過ぎていますが、いまだに毎日営業していますよ。」
「すごいですね!こうなると間違いなくワロロット市場に行かなくてはならないです。ちなみに、O.K.という名称は由来があるのですか?」
「ここでは、移民はどうしても下の立場にいるので、商売するときに含みのある言葉とかニュアンスが難しい表現は相手にされないのです。全てポジティブに言わないとやりくりできない。」
「それでGoodの意味でO.K.なのですか。」
「そう。世界的にO.K.は通じるし、肯定表現の代表ですからね。」
それからナウィンは微笑みながら、ちょっと待っててと言うと、奥の部屋から”Tales of Navin – 20th Anniversary of Navin Production”と書かれた図録を持ってきて、一番後ろのページを開いてQRコードを指差し、場所が分かりづらいからこれを持っていくといいと手渡してくれた。
それから僕らは1Fに降りた。通りの方に向かってスペースの奥側が床から天井まで到達するシャッターを装備している。そのため壁全体が開くようになっていて、搬入用にも自然光の確保のためにももってこいの構造だ。広さで言えば小型セスナでも格納できそうなほどだ。
そこでは5、6人のアシスタントが、チーム体制でナウィンが描いた絵の最後の仕上げ作業を行っていた。さすがにこのレベルのアーティストになると、中世以降に主流となった旧来のアトリエの分業制度が採用されていて、アーティストを筆頭としてアシスタントが役割分担して作品制作に勤しんでいる。そこでは現在コミッションで受注している作品の制作がリアルタイムで進んでいた。
そしてナウィンはさらに部屋の中央少し奥に置いてある移動式のラックから数枚の絵を引っ張り出して見せてくれた。
『博多ドライヴ・イン』と日本語で書かれたテキストと、その上に並ぶレトロな色調の人物像の描写とコンポジションが映画ポスターを思わせた。
アトリエで忙しく手を動かしているペインターの職工の一人は、本物のポスター・アーティストで、少し前までは映画館の看板をすべて手描きで仕上げる職人だったそうだ。確かに壮年期にあるその男性だけは他の若者とは一線を画す凄みのようなものがにじみ出ていた。
そしてナウィンは再び、何冊もの何やら小冊子のようなものを奥から持ってくると、それらを僕に手渡した。
ページをめくってみると、それは漫画だった。1998年10月にミュージアム・シティ・福岡での企画展「新古今」の時に発表された『博多ドライヴ・イン』と、同年にワタリウム美術館で企画された「マイ・ペン・ライ東京1998」で刊行された『マイペンライ東京』の10冊セットだった。
ナウィンはそれから少し電話をしなければならないというので、僕はしばらく制作の邪魔にならないように、アトリエの端のほうで作業を見物させてもらうことにした。
それから『博多ドライヴ・イン』を読んでみた。
それは、とても人間味溢れるストーリーで、ナウィン自らの体験談に基づいたものだった。福岡から空港までの道中、彼は乗り合わせたタクシーのベテランの運転手と会話をして、車中で戦後から40年代までの話を聞くことになる。心温まる人情話を通して、土地の歴史が浮き彫りにすること。人間のエピソードありきの歴史の描写は、いまの彼の制作のスタンスに通底している。
「まだ来客までは時間が少しあるので、コーヒーでも飲みますか。」
電話を終えたようで、階段の中二階からナウィンに訊ねられたので、その言葉に甘えることにした。
彼の居住空間は、アトリエの建物の奥に設けてあった。オープンなリビングに広い窓を構えたモダンな造りの、とても清潔感のある空間だった。壁にはおそらく彼の娘が描いたであろう絵がいくつか額装してあった。
「ランチは食べたの?」
「ええ、さっきMAIIAMで。」
「そうですか、何か作れたのに。コーヒーはブラックでいいですか?クッキーを出しますから。」
インド系の料理になるのかなと興味をそそられた。
しかし僕は、料理と聞けば自分の境遇に重ねてしまい、男手ひとつで料理をしてまかなうのは、様々な理由で妻子と離れているからだと変に悲しいストーリーに結びつけていた。
スマホの画面を見て、あの人からのメッセージが無いとちょっぴり寂しくなった。
黒い画面には相変わらず娘が貼ってくれた可愛いキャラクターのシールが見えたから、思わず壁に飾ってある娘さんの絵について訊ねてしまいそうになったが、ファミリーの話になると自ら墓穴を掘ると思い、すんでのところで止めておいた。
「上の階には、フィラデルフィアのPlays & Players Theaterのコミッション作品がありましたね。」
「よくご存知ですね。もう100年以上も歴史のあるシアターです。カタログなどで見ましたか?」
「私の大学はフィラデルフィアにあったものですから、センターシティのあたりの老舗のパフォーミングアーツの劇場はそれなりに知っています。Kimmelとか、母校が所有するMask & Wig Clubとか。」
「そうでしたか。私の作風は歴史的な写真やアーカイヴでは無いですから、その現場に赴いて、そのコミュニティの人たちにインタビューをしたり、歴史的なものや現代の資料を収集したりして、新しい角度でストーリーを紡ぎ出すことなのです。」
「歴史の縦軸と、人の横軸、というイメージでしょうか。」
「近いかもしれないですね。そういう意味では私の作品は3D作品だと思っていますよ。」
「へぇ面白いですね。普通3Dと聞けば、誰もがCGを駆使した映像とか、いまではVRのようなニューメディアが海外の企画展にどんどん出てきていますから、言い方は悪いですがアナログ作品ではありながら、3D的なアプローチというのは斬新です。」
「それぞれの土地に、私なりに全てをスタディした上で、紡ぎ出すことができるストーリーがありますから。」
「とすると、あまり自国のタイやご先祖のパンジャブ地方にこだわらず、今度日本で発表される新潟とか、地域についてはかなりオープンなのですね。」
それからすぐに、口が滑ってまだあまり知られていない新潟のことを喋ってしまったと後悔した。
「以前、『ナウィンランド』というコンセプトの作品群を展開していました。タイで急成長する経済とグローバリゼーション、そして政治的な動向の波に対して、かなり風刺的なスタンスで、いわば狂想劇とも言えるパロディ調の作品を次々と発表してきました。そこでは私自身がTVや映画のセレブリティだったり、経済圏や政治のリーダーだったりする表現だったわけですが、反対に言うと、そうした固有名は儚いもので取り換え可能なものであると言いたかったのだと思います。」
「ナウィンランド、ですね。インドや中国にも存在するナウィンという名前の方々にアプローチした作品もありましたよね。」
「はい、私はタイ人として生まれながらに、周りからラワンチャイクンというインド系の苗字に違和感を抱かれてきて、自らもインドからの離散移民であるケークを意識し、常にアイデンティティを揺さぶられてきました。」
「ワロロット市場のような人種の坩堝がヒントになりそうですね。多様性のパイオニア的な存在として。」
「ええ、世界には私のケースにかぎらずアイデンティティのイシューがずっと付きまとっているのです。国というボーダーラインには収まりきれないアイデンティティがあるのだと強く思うようになってきました。インド本国に残ったナウィン、中国土着のナウィンなどさまざまです。」
「なるほど。本質的な意味で、民主的(民族的)なスタンスな感じがしますね。だから、作品で選ばれるサイトに対しても、生まれた国に固執せずに、オープンであると。」
「そうです。もちろん、いまはタイの南部のイスラム地域のコミッションも制作したりしていますし、タイ国内の古いシアターの作品を手がけたりと、もちろん国内の仕事は多いです。」
「そういえば、二階で拝見した作品群もそうですし、現在制作中の作品もそうですが、時空を超越して、いわばトランスするかのように、全てにナウィンさん自身も登場されますよね。」
「ええ。それぞれの土地を表現すること自体が本来は多様なものですから、私が手がけるものは、あくまでも私なりの一つのストーリーなので、できるだけナラティブの作り方や造形的な側面では、私自身のオリジナリティを前に出しています。」
「ご自分のことをまっすぐに表現されているのはとても頼もしいスタンスです。ご家族のこともよく表現されますものね。O.K. Storeしかり、娘さんしかり。」
僕はいつの間にかコーヒーの最後の一口を飲み干していたから、持ち上げたマグカップをそのままテーブルに置いた。
ナウィンは妻子と離れて暮らしている。
作品には時たま娘のことがモチーフとして採用されている。僕はいつもそれが気になって仕方なかった。
そして、彼はこんなに真摯に話をしてくれているのだし、そろそろ僕自身のことを会話に挟み込みたいような、色々と説明しないのは失礼ではないかと思うようになっていた。
「ところで、さっき新潟での発表のことを仰ってましたが、ご存知なのですか?」
やはりその運命の波からは逃れることができなかった。
僕はすぐに答えを話し始めてから、少し曖昧な言葉をつなぎ合わせつつ、どう説明しようかとまごついて、結局ストレートに伝えることにした。
「父が美術評論家でして、今度の新潟の『水と土の芸術祭 2018』のディレクターを努めているのです。」
「え、Tani-san?」
「はい。私は谷新の息子です。父はペンネームを使っているのでラストネームは異なるのですが。」
「オウ!あなたはTani-sanの息子でしたか!」
ナウィンはさすがに驚いたようで、しばらく状況を把握するのに苦労したようだった。
そしてしばらくしてから、こう話した。
「昔、谷さんが師匠のモンティエン・ブンマーによく会いに来ていたのをよく覚えています。」
出国前に那須の家でブンマーとナウィンの関係は父からよく聞かされていたから、ここはもう答えなくてはならないと気を引き締めた。
「父からはブンマーさんのこともナウィンさんのことも聞いてきました。それでメールでコンタクトさせていただきました。」
「そうでしたか。お父さんはお元気にされてますか。」
「ええ、おかげさまで。10年前に生存率の低い難病を患いましたが、奇跡的に復活し、いまは薬が手放せないもののピンピンしています。メールでリンクを紹介させていただきましたが、私の最近の評論文の執筆のために日本国内やヨーロッパを巡った時も、一緒に行ってたのですよ。」
「そうでしたか。それは何よりです。ところでメールの文面には、今回あなたは東南アジア諸国を巡っていることでしたね。具体的なプロジェクトがあるのかと思っていました。」
出国前、初めての東南アジアへの旅ということで未知の土地への不安もあり、会う予定にしていたアーティストには営業的に効く言葉ばかり選んで、具体的なところは詳らかにしてこなかった。
「あると言えばあるのですが、ないと言えばないのです。父からは挨拶に行ってくると良いということは言われていますし、ナウィンさんに日本の新聞社がインタビューを実施するという企画がどうなるかわからないので、話を聞いてくることは一つのミッションでした。」
でももう良いのだ、と心の中で呟いていた。
僕はすでに東南アジアで多くを吸収し、さまざまな人と出会うことができて、これから先、アーティストの発掘や評論活動に自分自身に期待を抱いていたから。
「2月に新潟に行って、前回の制作の続きを行います。新潟市は本当に土と水に密着していて、しかも暮らす人々が四季ごとに異なる生活を営んでいるので、さまざまな顔を持っています。ですから毎シーズン、現地に行って人々を取材し、そして風景や街並みを収録しているのです。次は日本酒の酒蔵にも行く予定ですよ。」
明確なインタビューを設定したわけでもないのに、ナウィンは気を遣ってその後も新潟で発表する作品について色々と教えてくれた。
いざ芸術祭が始まったらレビューを書こうと思った瞬間だ。
僕らはそれからしばらくの間、家族のことやアート業界について会話を続けた。途方もない話だが、僕はできれば美術評論の復権を目指したいと述べると、もう日本には評論が消え去ってしまいましたねとナウィンは悲しそうにしていたし、これから先のアート業界が心配だと言っていた。
まだタイでは現代アートに足を運ぶ人は少なく、芸術だけでなく教育ほか全てのことがいまだに仏教の寺院を中心として営まれていることが、経済は農業から新たな産業へと移行している現実もありながら、どこか矛盾しているとも言う。
タイでは5つ星ホテルに泊まるような人間はまだアートには興味がないし、国内のキュレーター不足も大きな問題だ。優秀な人間は海外に留学し、帰国すると欧米の影響下にあるままで美術館を作りたがる。
だから、2018年の11月に企画されているタイの大手ビール会社のChangがスポンサーとなるバンコク・アート・ビエンナーレに置いても、結局おなじみの海外のアーティストが多く招待されることになってしまう。
同時並行で批評の頽落も嘆いていたから、同じ70年代生まれの中年二人が現状を嘆いていることがおかしく思えてきた。もちろん自分の身の上の話もした。娘のことも。
すると16時半くらいになって、やっと次の約束のお客さんが到着したようだ。同じくアート関係の人なので、せっかくだから紹介してくれるという。
一人は韓国から来たというキュレーターでGraywallのディレクターHongchul Byun(ホンチュル・ビュン)と、チェンマイ在住の次世代のアーティストTorlarp Hern(トーラープ・ハーン)だった。二人とも僕と同世代のようで、すぐに打ち解けることができた。
今後、情報交換をしていこうということになり、LINEで繋がることにした。
僕はインディペンデント・クリティックとして活動していると自己紹介をしたから、逆を言えばどこにも所属していないという不安や負い目を肯定的に表現することには成功していた。
ByunはNYUの大学院でMAを修了し、その後広州ビエンナーレにも参加して来た経歴があ理、韓国では新進気鋭のキュレーターだ。Torlarpはチェンマイではよく知られたアーティスト・ラン・スペースGallery Seescapeを経営している。
僕は、なぜ父の足跡を辿るのか。
自分でもまだはっきりとした答えを導き出すことができていない。横で聞いていたナウィンの両目は、間違いなくその真相を心待ちにしているように見えたが、彼は穏やかな表情でゆっくりと頷くだけで何も言葉を発しなかった。
「ではそろそろ行こうと思います。邪魔になってはいけないので。」
「そうですか。では、スタッフの一人に送らせますよ。」
「そんなご迷惑になりますよ。またUberを拾いますから。」
「大丈夫、大丈夫。アパレルのお仕事をしていると言ってましたよね。そういうショップが並んでいるストリートがあるので、興味あるなら見ておくといいと思いますよ。」
「あと、明日ワロロット市場に行くなら、すぐ近くに伝統的に本藍染のバティックや刺繍の民芸で知られるモン族のマーケットもあるから、行ってみるといいです。」
それは是非見てみたいですとお礼を伝えながら、とても面倒見の良い人だと改めて感心した。
僕らはせっかくなのでみんなで記念写真を撮りましょうということになり、StudiO.K.の外で何回もシャッターが押された。もちろん全員が笑顔で、しかも右手でO.K.サインを作っていた。
それから多少日本語が話せる女性スタッフが運転するセダンに揺られながら、僕は久しぶりに話す日本語に少し戸惑いと懐かしさを感じていた。
やがて懐かしさは郷愁となり、郷愁は寂寥にその場を譲ると、胸の内の原野を焦がしてゆくような感触をもたらした。
だが、僕は、それこそが独立した旅人の証拠であり、例えば木こりが未踏のに杣径を切り開く時の武者震いのようなものだと信じていた。
いっぱいに開けた助手席の窓の外から甘美な花の香りが届いた気がした。あたりには少し前に見た白い花をつけた背の低い木々が確認できた。
そして、ピン川の川面に浮かぶ黄金の光の美しさに心を弾ませた。
・・・・
その夜、僕は確かにターペー門を通り過ぎたことは覚えている。
旧市街を出ると、気温がぐんと下がった気がした。
それまで圧迫されていた大気が道の広がりとともに解放され、風が吹き込んで、漏れ落ちたガソリンの臭いや排気ガス、そして人々の思念に汚された熱気をどこか彼方へと連れ去っていく。
僕はひどい目眩に悩まされていた。スマフォを握って、行き先を目まぐるしく変更しては彷徨い、また気が変わると目的地を変えて見知らぬストリートを徘徊した。
あの人はどこかにいるのだ。
その影を追いかけて、僕はあてもない小さなアドベンチャーに身を投じてはみたものの、身に危険は及ばない程度のつまらないその場つなぎの遊戯であることを自覚すると、もう何をすれば良いのかわからなくなり、それこそ観念的な道に迷ったのだ。
それを紛らわすために、掘っ建て小屋の外側に簡易テーブルとプラスチックの椅子を並べただけの、蛍光灯のどぎつい大衆食堂に入った。
左の手首を見てもTIMEXはどこかにいってしまっていたし、何時だか気にもかけなかったが、店の者が遠くから送ってくる、もう食べ物はないというジェスチャーは理解した。きっとかなり遅い時間だったのだろう。
仕方なく、何ならあるのと訊ねると、店員は調理場の脇に見える冷蔵庫のビールを指差していたが、僕にはその上の棚に並べられた正体不明の透明ガラスにカラフルなラベルを配したボトルのほうが気になった。
焦点が合わせづらくて、タイ語しか書かれていないようだが、気にせずあれをくれと指差して注文した。
一口含むと、蒸留酒だということがわかった。ツンときつい匂いが口に広がる。その向こうに、どこか安物の泡盛のような味がした。
目眩が消えたとは思えなかったが、あまりにも新鮮な味だったから気付けにはなったようだ。
スマフォの電池は残り8%だった。帰り道のことは少し気になったが、この時はマップを開くのも面倒になった。
懲りずにそれからしばらく夜の街を彷徨った。
「笑いましょうよ。私と一緒に。」
黙っていてくれ。それがあの人からのメッセージだったのか、誰かの声だったのかは定かではない。
だが、すでにどこか暗い場所に滑り込み、柔らかなソファに深く身体を埋めた僕には、そんなことはどうでもよかった。
息を殺して、あらゆる位相の隅っこの暗い場所を安住の住処とし、世界の底辺に滴るものをなんでもいいからすすって生きながらえていた僕は、またしても誘惑に負けていた。
そして、己の批評的なエッジが削られて、角が取れてみるみる丸くなってゆくような感覚があった。
それは水を掬った手から、とめどなく水が溢れていくのを何もできず呆然と立ち尽くす僕自身を眺めているようなものだった。
そして、もう一人の僕は、さらに一段階メタの高みから、凍りついた自分の姿を傍観していながら、一切の憐みを感じることもなしに、むしろあらゆる刹那に身をまかせるがいいと念じていた。
思考回路が、全神経が骨抜きにされてゆく。
僕は批評活動において所与の条件であるペンと剣のうち、後者を失った。
しかし、最深部の床すらも崩れ落ち、一切遮るもののない堕落の果てに、破滅よりももっと下方に、金色に輝く微笑みがあった。
この胸の内に点る温かいものは、いったい。
条件反射的に身体と思考が濁流となってそれに向けて働いた。
自らを二の次にすることは本望であり、己の生命を賭け金とすることが喜びであるような、無条件の愛、家族。
僕の頬を伝うものがあった。
はるか昔のことだったか、いやもしかすると一年前には当然のように日々抱いていたはずなのに、そのありがたさに気づかぬまま、当たり前のこととして、ないがしろにしてきたものかもしれない。
苦悩。享楽。
理性。本性。
刹那。永遠。
僕の座部と背後には、もはやナーガの加護は期待できなかった。
僕は魑魅魍魎のはびこる密林に、裸で立ち尽くした。
けれど、どん底まで堕ちきった人間こそ上に這い上がることができる。救いは必ずある。だから、あの人に身を委ねた。
その豊かな唇を、そのサテンの肌を、その茂みの奥に潜む熟れた蕾を、僕は貪り、甘美を味わいながら、それが開花することに喜びを覚え、また、どこか超越的な絶対美のイメージと重ね合わせた。
絶望や悲哀や空虚ではない、何かが人の野生を目覚めさせる。戦いが人の野蛮を目覚めさせる。
恥をかいて社会に冷笑されることの怖さに誰もが怯えている。社会という、名もなく顔もないくせに厚かましく全能者のように振る舞う小心者に対して、型にはまらない遊撃的なアクションが戦士の証であると突きつけてやる。
その時、甘く、バニラに似たノートのフレグランスが鼻腔を優しく訪れてきた。
女の胸に顔を埋めていた僕は、覚醒した。
夕方に嗅いだ香りに似ている。
伽羅(きゃら)。
ジンチョウゲ科ジンコウ属、東南アジアを原産とする沈香の中の沈香。その中でも最高級のもの。
花言葉は、栄光、不滅、永遠。
プノンペンのトゥール・スレン強制収容所で見た唯一の正義、白い花の正体こそ沈香の木だった。
その崇高な香りによって、その穢れなき純白の芳香によって、救いはもたらされた。
だが同時に、すべてが瞬間的に凍りついた。
己が穢れそのものだった
娘の姿が網膜に浮かんだ。
伽羅、すまなかった。
でも、やっとわかった。
パパは、この南方の地に、お前のことを探しに来ていたんだね。
(続く)