東南アジア紀行 <インドシナ編> その5 ホー・ツーニェン —-The Sleeping Tiger of Malaya w/ Ho Tzu Nyen —-

「クアラルンプール:眠れるマレーの虎」

 

出国してから10日が経った。

プーケットにある安ホテルのハシエンダで、朝6:00にスマフォの目覚ましが鳴った。冷房を強くしすぎたためかか、少し鳥肌が立っていた。

外はまだ暗かった。

すぐにパタゴニアのPatalohaらしさの光るハワイアン柄のオープンカラーシャツに、同じブランドのスイムもできるショーツを着て、Nikon D810とスマフォ、そして財布だけを持って一階の部屋を出た。

すぐ目の前のフロントで部屋のキーを預けてから、正面の駐車場といくつかの軒並みを抜けて、大通りに出た。車の隙間をくぐり抜けて向こう側に渡ると、すぐそこにパトン・ビーチへの入り口に続く酒場の隊列が現れる。

しかし朝の6時の歓楽街といえば、前夜のカーニバルともいうべきお祭り騒ぎが過ぎ去った後の、いわば単なる抜け殻だった。あちこちにゴミや正体不明の液体のシミが散乱している。

目の前の看板や屋根の色彩を見るかぎり、夜明けの明かりは背後からやってくる。日の出はたしか6:30だったから、僕は歩くスピードを早めて、急いでビーチへと向かった。

パトン・ビーチに辿り着くと、まだ黒々とした海面が切り出す水平線のはるか遠くの空が茜色に染まりつつあった。僕はカメラのレンズカバーを外すと、モードや設定を少しいじって、光量が少ないところでも撮影ができるセッティングを選んだ。

 

 

それから海に向かって後方にあたる、東の空から薄い雲の間隙を縫って昇ってゆく暁光が、雲だけでなく大空をも茜色から桃色に染めてゆくのに気づいて、それはきっと上空の湿った空気が同様に陽光を受け止め、温かく発色しているのだろうと推察できた。その麗しき暖色は、フランドルの画家ピーター・ポール・ルーベンスが描く桃色の豊満な肉体と、背景に浮かぶたおやかな雲のそれとを彷彿とさせた。

それから15分ものあいだ、少しずつ、しかし確実に変わりゆく色彩をカメラに収めていると、今度はビーチの左端から右端まで全ての視界に亘る完全な虹が現れた。

それは堂々としたものだった。もはや橙色に染まりきった空と海の協調関係にあっても、虹だけはまだはっきりと七色の自己を表明し、ただでさえ豊かな朝焼けの情景に、自然という名の巨匠による絶妙な一筆のタッチが、見る者たちに時間を忘れさせるのだった。

僕の腕前では、この複雑で繊細な百万色の光彩は捉えきれないと無念さを噛みしめながらも、ファインダー越しでさえも輝くような被写体の優美さに耽溺し、唾を飲み、そしてカメラを下ろしてからしばらくの間、虹を肉眼に焼き付けておくことだけに努めた。

撮れ高はまだ未知のことだったが、それなりの写真があれば、娘に送ってあげたいと思っていた。

 

 

 

7時ともなると、あたりは薄めに薄めた浅葱色とも呼べるさっぱりした白み加減で、すっかり朝の海岸という雰囲気に早変わりしていた。人出も多くなり、いつものようなリゾート地に典型的なレジャー客の風体が多く見られたから、もうここは自分のいる場所ではないなと確信し、ホテルへと足早に戻った。そして1時間ほど再びベッドに入ることにした。

起き上がってすぐにシャワーに飛び込んだ。顔を滴ってくる水にいくばくかの塩の味を舌先に感じながら、短いようで長く感じた5日間だったが、これでタイともおさらばだと考えていた。

東南アジア有数のリゾート地プーケットにはそれなりの旅行客とそれなりのアクティビティしか期待できないのはわかっていたが、チェンマイで醜態をひとまず棚に上げて、こんなビーチタウンで何にも文化的な行事に関われなかったのが悔しくて、いや、それとも北の地での浅ましくも幻想的なひと時のリフレインを脳裏から拭い去れない自分が情けなくなってきて、洗顔フォームのついた顔を強く擦った。

シャワーから上がって、昨夜買っておいたSinghaビールを冷蔵庫から取り出してから、王冠をテーブルの角に押し付けて栓を開けて、ぐいと一口やった。

空港へのミニバンの出発時刻は正午だ。つまり、ちょうどチェックアウトしてからすぐにバスの出迎えとなる。まだ3時間近くあるから外出しようと考えた。

いつものようにカメラ、パスポート、財布を手にしてから、外へ躍り出た。影が濃く、すでに気温はかなり上昇していた。

シャワーを浴びたから余計に強調されたのだろうが、塩の香りとベタつく空気の感触が、海辺の街にいることを物語っていた。

僕は歩いて10分ほどにあるバンザーン生鮮市場に向かった。その手前にはモールを10分かけて歩き切らねばならないが、そのテナントたるや、三軒のマクドナルド、バーガーキング、スターバックス、ピザハット、ダンキンドーナツ、そしてアパレルではリーバイス、リップカール、ポールフランクなど、ありきたりのショップで詰め尽くされているから、目の毒としか言えない。

 

 

 

 

バンザーン生鮮市場はワロロット市場に似て、良くも悪くも地元住民向けのものだったから、大量の野菜や果物、肉や魚、スパイスなど調味料が、プレゼンテーションの手法はそっちのけであちこちで叩き売られていて、いわゆる見た目だけでは判断のできない熟達した目と知識と言語能力を必要とするのだった。

2Fにはタイ製のシェルのドットボタンの柄モノの半袖シャツが100バーツだった。絵柄は、ジープ、戦闘機、バイクを簡略化しモノグラムとしてランダムに配置したものだったから、ネタとしては悪くないと考え、思わず手が出そうになったのだが、よく財布と相談してみると、手持ちのタイバーツは残り300バーツだったから、ミニバスで空港まで1時間かかることや、それからもし出国までに空腹になることがあればと先を見越して、買うのをやめた。

結局、帰り道のファミリーマートでクロワッサンとヨーグルトとバナナを買って一度ホテルに戻り、早々とそれらを頬張り、バスルームに掛けてあるアカスリの水を切ったり、シャンプーのボトルを拭いたりして片付けを進めながら、手が空くと仕事のメールをいくつかこなしたり、SNSを眺めたりしていたら、すぐに11時半が迫ってきて、おっともうこんな時間だと焦って荷造りを終わらせようとしていると、こういうときにかぎって仕事の国際電話がかかってきて、あっという間に11時50分がやってくるから、今度はホテルのクラークが部屋のドアをノックをしてきて、チェックアウトしないとバスに間に合わないよと催促するものだから、余計に焦って手元が狂い、最後はドタバタでチェックアウトすべくフロントに転げ出たのだった。

僕は息を切らせて腋の下と額に汗を滲ませながら、無事にチェックアウトを済ませてしばらく立ちすくでいたが、肝心のミニバスがすぐに来たわけではなく、5分経っても10分経っても来ないから、フロントのソファに腰掛けることにした。目の前の冷蔵庫の透明なガラスからは50バーツのSinghaやChangビールが顔を覗かせていたから、よほど枯渇感を満たしたいという衝動に駆られたが、さてバスがいつくるのか知れたものではないから思いとどまっておいた。

ホテルのクラークも心配して幾度か電話をかけていたのだが、はたしてそれが功を奏したのか、それとも単にはじめからそういう予定だったのかは定かではないが、遅れること20分、やっとミニバスは現れた。

それから空港までの間、ミニバスはまずパトン・ビーチから東側の国道402に抜けるために必ず通過しなければならない激坂の斜面手前のコンビニで二人を拾い、それから国道に乗ってからも給油に一回停車し、それからもう一つの給油所で今度はもう二人をピックアップしてから、渋滞に巻き込まれないように山道を揺られて空港へ向かった。

空港に着いたのは14時だった。マレーシアのクアラルンプールへの便は16時過ぎだったから時間は充分ある。

手荷物のチェックインと出国手続きを経て、僕は搭乗ゲートのGate 14に向かい、ベンチに座って1時間ほど時間を潰すことになった。向こうにDairy Queenが見えたから歩み寄って、ちょっと気になってブリザード(アイスとクッキーを混ぜたもの)でも食べようかと思った。だが、手持ちの現金が足りないわけではなかったが、空港内の手数料が付加された価格が、さっき市場で見たシャツよりも高いのがなんとなく理不尽に思えたから、買うのをやめておいた。

しばらくして搭乗機に乗り込んで、いつものように窓際の席に座り、離陸と着陸の画像と動画を撮ることためにスマフォを準備した。

巡航高度に達してから1時間も経たないうちに 降下が始まると、目下には、地平線まで秩序立って並ぶココナッツか何かのヤシ科みたいな単葉植物の樹海が見えてきた。

すると、その先にはすぐに滑走路が迫ってくるのだった。

間髪入れず、飛行機の窓ガラスから見える景色が歪んだと思えば、それは突然訪れた、バケツをひっくり返したような豪雨が叩きつけているからだった。

スコール。東南アジアに来て10日目にしてやっと降り注いだ洗礼の雨は、クアラルンプール流のウエルカムだったのかもしれない。

 

・・・・

入国審査を済ませてから手荷物を受け取ろうと所定のベルトコンベアの前でしばらく待った。それから刻一刻と時間がすぎていったが、僕ともう一人の白人を残して、もう誰も残ってはいなかった。時計をみると30分が経過していた。もう夜の8:30を過ぎていた。白人はそわそわした様子で、何度か航空会社の係のいるカウンターへ早足で行ったり、また戻ってきたりしてはベルトコンベアの荷物の投出口の目の前に陣取っていた。

スマフォを空港のWi-Fiにつなげてから、市内までの交通手段をいくつか挙げてみると、KLIA Expressという高速鉄道が最適だと思われた。

しかし所要時間は30分以上となっている。ということは、わりと急がなくては夕食を摂り損ねるのではないかと、噂に聞く美食の街クアラルンプールをほんの少しも損ないたくないという欲求が、ちょっとした危機感を引き連れて頭をもたげていた。

それからというもの、そわそわしてしまって、1分や2分といういくばくかの時間が悠久の時に感じられるようだった。それを後押しするかのように周囲の人気がすっかり消え去って、目を遣る場所もいよいよ少なくなってきた。普段であれば、掛け捨ての旅行保険をかけては、手荷物が届かなければ散財できるなとひねくれた期待をしているようなところもあるから、まさか異国の地で本当にそんなことになったら、それこそコトだと心配になった。

そんなとき、ふと隣のベルトコンベアに視線を送ると、ベルトコンベアでなくて床に転がった荷物がなんとなく僕のバッグに見えた気がした。

距離があるから断言はできなかったが、見た所その近所にあるバックパッキング用のザックと比べると小ぶりだから、もしかすると僕のリュックの55Lくらいの微妙なサイズにも合いそうだし、一般的な男性の嗜好から外れるであろうイエローの配色といい、適っている。すぐさま近寄ってみると、Gregoryのロゴが見えたから、瞬間的に推測は確信に変わっていた。

なんだ、こんなところにあったのかと思わず口に出してしまい、見つかった喜びよりも、いったいいつからここにバッグが放置されていて、そしてなぜ自分がそれに気づかなかったのだろうかという自己嫌悪に似た不愉快な気分が芽生えた。

僕はリュックを担いで、かなり足早にKLIAへという矢印を追いかけた。

KLIAの表示やチケットブースは、そこもかしこもショッキングピンクの印象があった。

ブースに向かうと、布で頭髪を隠した肌の浅黒い女性のスタッフが対応してくれた。そうか、イスラム教国のマレーシアでは、女性は頭髪と肌を隠さねばならない。そして、これからは人種もタイ族ではなく、いわゆるマレー系の人たちになるわけだ。

クアラルンプール市内のKL Sentral駅までは、55リンギットというから1,500円弱だ。ふと、タイと比べて物価はどんな感じなのか、疑問が頭に浮かんだのだが、こうした国際空港から市内までのルートで、しかも距離は70kmもあり、おまけに高速鉄道ともなれば、それは特別なものだから、物価の判断にはならないだろう。

電車はおよそ15分おきに運行していて、時刻表もきっちりしているようだから、僕は近代都市に戻ってきたような懐かしさを感じた。

乗り込んでみると、なんとなく簡易な建てつけとプラスチックの質感と配色などが、シャルル・ド・ゴール空港からパリへ向かう車両のイメージと重なった。

僕はスマフォで行き先のCity Comfort Hotelの場所の確認を終えると、安堵に眠気を催して、少し微睡んでいた。

ほどなくKL Sentral駅に着くと、寝ぼけまなこですぐにタクシー乗り場へ向かった。それからポータブルWi-Fiを起動させて、Uberアプリを開いでホテルの住所を打ち込んだ。すると運賃はおよそ200〜300円のようだ。

ホテルはJalan Baratという大通りから南へ一本入ったところにあったが、Bintangと呼ばれる繁華街のエリアからは遠ざかる方向だった。安ホテルだから仕方ない。このホテルに2泊することになっている。ところで地図にはいたるところにJalanと記されていたのだが、おそらくストリートを意味する単語なのだろうと思う。

フロントでは今回の旅で初めて、デポジットの支払いを要求された。その額は100リンギットだと言われたのだが、言われる通りにして、チェックアウトの際にリンギットを返されても、それからすぐに空港に向かうわけだから使い道がない。だから、他の通貨ではどうかと提案してみた。するとUSドルで良いというから、ベンジャミン・フランクリンつまりUS $100札を財布から出して、手渡した。

チェックインを済ませて部屋へ上がってみると、同じフロアのどこかの部屋からか、クルアーンか何かのイスラムの教えの詠唱がかなりの音量で響いていた。自室に入ると、室内は全く異なる印象の清潔感が広がっていた。部屋の新しさだけでなく、ミニマルでシステマティックな内装に意外さを感じた。

そんな感動はともかく、僕は荷物を置いて必要なものだけを手にして、すぐに部屋を後にした。

もう22時を回っていた。夕方の雨のせいか、今までの東南アジアの街よりも湿気がきつく感じた。夜なのに涼しさは感じられず、体にまとわりつく熱気に不快感を抱かざるを得なかった。

僕は水たまりを避けながら、暗い道をビンタン(Bintang)の繁華街へと向かった。Googleマップをみる限り、少しリサーチしていた店は22時で根こそぎ閉店のようだ。まだきっと何かあるさと願いつつ、しばらく歩きながらいじっていたスマフォから顔をあげると、Isetanやら高級ホテルやら何やらが連なった街角に出た。

それからもうしばらく行くと、隙間なく並ぶビルが消え去って湿気に曇る空が顔を覗かせたかと思うと、辺りはすっかり平屋のような低い建物が軒を並べる通りに様変わりしていた。その道はひときわ混雑した様子だったから、直感的にここだと思った。

調べてみると、案の定、アロー通りという飲食のナイトマーケットということだった。道をゆくと、目に飛び込んでくるのがカニや魚類の料理で、その多くが見慣れた炒め物や麺類だったから、海鮮料理の中華系の飲食店だということがすぐにわかった。そして、この通りには中華系の店がほとんどだ。

歩きながら飲食店の作りに注目してみると、ほとんど中と外の境界がないような拓けた印象で、多くの客が外側に4列ほど突き出した円卓のテーブル席で食事に勤しんでいる。

 

 

 

そして、各店舗の日除けの上には黄色や赤の激しい光量のバックライトに照らされた看板が、巨大に引き伸ばされザラザラになった料理の画像を表示しているわけだが、ほとんどどこに境があるのか判別がつかないほど隙間なく掲げられているものだから、どの店がどこまで続いているのかは定かでなかった。

僕はせっかくなら海鮮料理を食べたいと思って、なんとなく良さげに見えた店に入ろうとして、上にある画像の一つを指差してみると、案の定、それは隣の店だということだった。試しに一つ隣の空いたテーブルに着いてみると、そこは隣の店だった。境界線はあってないようなものだ。

僕は気を取り直して、早速Tigerビールを注文した。それからメニューを見ながら、ビールの値段の意外な高さに目をみはりながら、野菜炒め、マレーシア風の焼き鳥を二、三本、それからエイのグリルとエビを注文した。料理だけでみると全部で1,000円ちょっとだったが、そこにビール2本が加わると一気に総額2000円を超えてくる。

それで気がついた。イスラム国家マレーシアでは禁酒が当然だから、かなり高い酒税がかけられているのだ。思わずマレーシアの地ビールを探してみたものの、その甲斐なくシンガポールのTigerに落ち着かざるを得なかったのは、こうした背景によるところもある。

マレーシアで虎か。マレー半島には野生の虎もいたはずだし、よしとしようと、その時は納得した。

腹を満たしてから席を立って、ほろ酔い気分でアロー通りをもう少し進んでみた。途中でコールドストーンと同様の方式の、冷えた金属のプレートの上で作られるアイスクリームの屋台があったから、ドリアン味を試して見た。トッピングは自由に選べるが、オススメのチョコチップにしておいた。

アロー通りは11時を過ぎても盛況の様子ではあったが、次第にその派手なライティングと喧騒を遮るように、目の前に透明な何かが立ちふさがったように思えて、全てが無音になっていた。思えば今日はプーケットで日の出を見るために早起きしたわけだし、それから国を跨いでの移動があったわけだから、疲労が溜まっているのかもしれない。

しかし心はいたって穏やかだった。もう暗闇への道筋は見えなかった。

ホテルに向かう間、僕は考えごとをしながら、およそ20分の道程をゆっくりと歩いていた。そしてKKという名称だったと思うが、そういう表示のスーパーに立ち寄って、明日の朝食を物色した。

いつものヨーグルト、フルーツ・ジュース、ミロをカゴに入れ、それから今夜のためにビールも買おうと思い、探すが冷蔵庫には見当たらない。しばらく店内をうろつき回って、店員も探してみたが、もう夜中の12時だったからか、店内にはレジの一人しかおらず接客中だったから諦めた。

ふと、もう一度冷蔵庫の前に行くと、最奥の黒い扉に気づいた。初めは、この扉は使われていないか、貯蔵用のものかと思ったが念のため開けてみると、ビールがいくつも置いてあった。よく見ると、ガラス扉は黒いスモークがかかっていて、中が見にくくなっている。

そういうことか。イスラム国家だから、酒税が高く設定されているだけでなく、販売する場所からして限定されているのだ。

初めて見るSinghaの小麦のホワイトビールがあったので、それを買ってからホテルに戻った。

それから先はあまり覚えていない。

翌朝、7時に目覚めてから、すぐにシャワーを浴びて、ヨーグルトなど朝食にしたが、まだ足りなかった。というよりも、Googleで近所の飲食店を調べていた時に、一軒、ホテルの近所にある海南系の朝食のレストランに目星をつけていたのだ。繁華街や観光スポットから外れているこのホテルの唯一のメリットだと考えて、早速行ってみることにした。

直線距離では300mと行ったところだろう。しかしブロックの作りの関係で、遠回りをしなければならない。歩いて行くと、大きなランドリーショップや雑貨店が見えた。あまり観光とは関係のない、ローカルの人々のサービス業の地域なのかもしれない。しばらく行くと、ヒンドゥー教の寺院が左手に見えてきて、目当ての店はその向かいにあった。

店の表にはAh Weng Koh 海南コーヒーと書かれていた。ここに違いない。開けたダイニングスペースが、朝早くから混み合っていた。どこでも良いというので着席すると、すぐに店員が来てメニューが目の前に広げられた。

 

 

 

チョイスは限られている。セットのAかBか、パンがトーストかロールか、というレベルのごく微細なさである。僕はトーストにした。卵料理はスクランブルをお願いしようとしたが、それは選べないらしい。

それから2分も経たないうちに、コーヒー、トースト、そして卵が提供された。トーストはバターと何か甘いものが入っている。アイスコーヒーはもちろんコンデンスミルク入りのとても甘いものだ。

卵が面白い。ステンレスかピューター製の大きなマグカップには熱湯が張ってあり、その中に殻付きの卵が入っていて、その上が二枚の皿で蓋されている。店員は3分待つようにと言い残して去っていった。どうやら熱湯の中で、いまだに卵が茹でられているということなのだ。

3分待つ間、両隣のテープルの客がどうするかを見て、なんとなく理解した。時間が来て、皿をテーブルに置いて蓋を外し、スプーンで卵を掬い上げ、皿に置く。卵を指で抑えないといけないから熱い。今度は卵をスプーンのエッジで叩いてヒビを入れて、割る。するとちょうど良い硬さの半熟卵が出てきた。あとは殻をそっと左右に外して、中身を皿にあけるだけだ。

最後にテープルの茶色のソースをかけて、少しかき混ぜてズルッといただく。ソースは醤油の一種だとわかった。美味い。甘いコーヒー、甘いトースト、そして塩辛い卵。お気に入りになりそうなコンビネーションだった。これで合わせて200〜300円ほどだ。明日、ホテルをチェックアウトする前にまた来ようと思った。

僕は満足した状態で店を出て、すぐにUberのアプリを立ち上げた。利用できる車両はすぐ近くにいるようだ。

マレーシアのイギリス領からの独立を記念するムルデカ・スクエア(広場)に行ってみようと思っていた。Uberの運転手は営業に積極的で、広場を終えたら次にどこに行くんだい、予定は立てているのかい、なんなら一日雇わないかい、と仕切りにせがんできた。値段を聞いてみると、たいしたことないため、悪くはない。しかしUberのシステムではどうやって決済するのか疑問だったから、尋ねてみたところ、Uberとは切り離すよと言うので、またサイゴンの二の舞になるのも気分を損ねてしまうから遠慮しておくよと伝えて断った。

すると気が変わったら連絡ちょうだいと電話番号の書かれたカードを渡された。

広場にはおよそ10分で到着した。近隣の交通量はそこまで多くないという印象だった。Uberから降りると、Wi-fiをつなげていないから評価はあとでいいかと思って、早速広場に向かってみた。

広場の中央からやや南にずれた高台にはマレーシア国旗が高々と掲揚されている。1957年、ここで英国国旗が降ろされて、マラヤ連邦が誕生し、長きイギリス統治時代が終焉を迎えたのだ。

そして、広場の中央から道を挟んだ向かいには、イギリス統治時代の傑作と名高いスルタン・アブドゥル・サマド・ビルが左右対称の堂々たる姿をひけらかしている。時計台を備えた塔を中心とした構造は、確かに欧州というよりイギリスに特有の感覚だと思えるが、建築のデザインはスペイン南部のモスクなどに見られるようなイスラムの建築様式、ムーア様式が採用された元連邦事務局でありマレーシア随一の歴史的な建築物である。

 

 

僕はなるべく良い写真を撮りたいと意気込んで様々な角度に挑戦してみることにした。しかし、例えば左右対称の姿を正面から捉えようと広場中央の芝生に進めばあたり一体が工事中で柵に行く手を遮られてしまうし、今度は近景を求めて斜めからのアングルを狙ってみると、道路には百人は下らないと思われる中国からの旅行客を乗せるための観光バスがびっしりと駐車していて、必ずフレームに入ってきてしまうのだ。

建物の中に入って見学できるわけでもないため、僕は仕方なくこのサイトの観光を終えることにした。場所を変えようとスマフォで何かを探してみるが、さっきのUberの運転手が言っていた、郊外にあるヒンドゥーの寺院のことが気になった。そのままスマフォで調べてみると、どうやらバトゥ洞窟というらしい。由緒ある寺院のようでマレーシアを代表するヒンドゥー教の聖地とのことだ。

距離的には市内から10kmほどありそうだが、Uberの見積もりを取ってみたところ、15.6RM(リンギット)、つまり430円くらいだからすぐに配車することにした。

僕が乗り込んだUberは、Jalan Kuchingという名の高速道路のような1号線を飛ばして、現地に到着した。車を降りると、照りつける強い日差しがコンクリートの地面に真っ黒な影を落としていて、太陽光が肌に刺さるような感覚があった。

車両の進入路は一台が通れるくらいなものだが、中の拓けた空間は広漠たるものがあり、観光バスやタクシーなどがひしめき合っていて、次から次へと団体の観光客が塊となって移動する、さながら一大観光スポットという様子だった。

そして遠くに巨大な金色の立像が見えた。ヒンドゥーの軍神、スカンダの像だ。かなり遠方にあるはずなのだが壮大すぎてスケール感を見落としてしまう。目を凝らしてみれば立像の下には米粒くらいの人の営みが確認できるから、この像は余程のサイズがあるはずだ。

 

 

スカンダ神はマハーバーラタに登場するシヴァ神の次男で、軍神インドラの次世代を担った最高司令官である。仏教の天部では増長天の抱える八将の一人、韋駄天となる。近づいてみるとカメラのフレームから見切れてしまうほどのサイズがあり、調べてみると全高43m近くあるというから驚きだ。

バトゥ洞窟への入り口は、この立像の左横に厳しい仰角でせり上がっている長い階段を登りきったところにあるようだ。

階段の入り口へと続く門をくぐると、服装チェックのスタッフが待ち構えていて、時たま女性を、特に肌の露出の多い旅行客風の女性を引き止めては大判のローブやスカーフのような布を貸し出して、肌を覆い隠すようにと促していた。

いざ階段を登り始める。途中、洞窟に棲む猿たちの洗礼を受ける。旅行客で餌をやって写真を撮ったりしている者も多かったが、案の定、猿たちの反感を買い、肝を冷やすような奇声を浴びせられた挙句、引っかかれたり噛まれそうになっていた。

日差しによる暑さと、大臀筋に溜まる乳酸とにらめっこしながら、着実に、そして比較的スピーディに階段登っていきたいと考えた。それでも周りには多くの観光客や参拝客があふれていた。中には伝統衣装に身を包んだ老齢の人も無視できないほど多かった。そして、上りきる頃には息も切れ始めていて、額からは汗が滴ってきた。数えてみると300段近かったようだ。

市内の方角はどのようになっているか興味があり、写真を取るべく振り返ってみれば崖のような奈落が現前した。洞窟の奥へと向かおうとすれば、また少し先に上方から強い陽光が差し込んでいる、1階分くらいせり上がった台地が目に入った。その先は左に向かって90度に折れて、続いているようだ。

ここから先は、左右の洞窟の壁を工夫して彫り込まれた大小様々のサイズの祠があったり、神話がストーリー仕立てに演出され彫刻が配置された、ライトアップされたジオラマなどが点在したりしていた。そして見上げれば、視線の先にはいつも有機的で、場合によっては人の顔や何か実際のものを連想させそうな奇想的ともいえる石灰岩の複雑な壁肌が見る者を飽きさせない。

再び急な階段を30段ほど上がると洞窟の最奥部に達することができた。そこは、周囲ぐるりと背の高い石灰石の岸壁に囲まれ、天井が大空に向かって口を開けた、自然光がたっぷりと入ってくる、ひときわ神々しい雰囲気の、閑やかな空間だった。

中央には、赤、青、黄、緑、紫、橙で大胆に配色され、四方には壁のないオープンな構造の寺院があった。ちょうどその時、中央奥の祭壇前に一人の上半身裸の僧侶がいて、列をなす参拝客一人一人に対して経を詠唱し、もてなしていた。寺院のすぐ近辺や内部には数匹の猿が我関せずとばかりに佇んでいるのだが、マナーの悪い観光客がちょっかい出すものだから、機嫌を損ねてしまうのだった。

 

 

 

その時、上空から大きな爆発音が鳴り響いた。すぐに見上げると、岸壁の一面に向かって一筋の白い煙が尾を引いていて、その先の壁面を駆け上がってゆくいくつもの動く物体があった。奇声を上げていたから、すぐに猿であることが分かった。追い出したのだろうか。観光客とのトラブルが関係しているのか、それとも単に定時になるとそうするのかは分からなかったが、周囲からは、なんて強引なのだとか、猿が哀れだとか、そういう声が白人たちの口から聞こえてきていた。ヒンドゥー教と仏教とでは生物に対するスタンスが異なるのかもしれない。

僕はもう少しだけ写真を撮って、下山することにした。時計を見ると、11:30だった。その途端、かなりの空腹を感じた。思えば朝から市内の広場を経由して、ヒンドゥーの本山を登ったから、当然かもしれない。早めに昼食にしようと考え、洞窟の麓に店を構えるRestoran Amuthaというヒンドゥー料理の店に入った。調べて見ると、豚肉の無いハラールに属する、南インドの料理を出す店だった。僕はシンプルにご飯の上にいくつものスパイシーな惣菜を乗せる料理を注文し、ドリンクはコーラにした。

クアラルンプールのコーラも僕好みのいわゆるクラシック・コーラだったから、強いカフェインと甘みが、枯渇感と空腹を同時に満たしてくれるようだった。

表に出た時にはちょうど正午を迎え、さらに日差しが鋭くなっていた。

それから出口の方向に向かって歩きスマフォをしながら、次はどこに行こうかと食事を摂っている間にだいたい決めていたモスクへの道程を確認した。そして、チェンマイ以来、相当お世話になっているUberアプリを開いて、現在の単価を調べてみた。往路と同じくらいだった。

せっかくスマフォを開いていたから、ホーム画面をスクロールダウンしてプッシュ告知のリストを見てみたが、あの人からのメッセージは入っていなかった。

その時、僕が歩いている傍に停車していた何台ものタクシーのほうから声をかけられた。よほど暇なのか、タクシーの外で数人の友人たちと談笑している運転手の一人が話しかけてきたのだ。あなたはどこに行くのですかと、市内までは50リンギットですから安いでしょうと自慢げに提案してきたが、それでもUberとは比較にならない。

なぜか少しだけ、テクノロジーの急激な発展と、彼らの仕事の手間とのアンバランスさに違和感を覚えたが、だからといって自分は将来の不安にまみれているのだから、心の中で、他の裕福な人に当たってくれと唱えていた。

出口まで来ると、車道は細く、一方通行であることを思い出した。ふと車の来る方向に見ると、ヒンドゥーならではの黄色を中心としたいくつものカラフルな花を縦向きに繋げた花束がぶら下がっている露店が目に入った。

同時に、スマフォがぶるっと震えてUberが到着したことを知らせた。僕はドライバーに少し待っててと伝えて、その花束を写真に収めた。それから僕は車に乗り込み、市内のモスク、マスジッド・ジャメを目指して欲しいと念を押した。

それから僕は少しの間、冷房の快適さとシートのやわさかさ、そして雑踏を遮断した穏やかな車内でまどろんだ。

・・・・

「僕はこれから、旅に出ようと思う」

「笑顔で」

「ビデオ・チャットしたとき、ずいぶん印象が変わったの。」

「良い印象に、だといいな。」

「ええ、そうよ。プロフィール写真はいかめしい表情だったけど、話したら全然違ったの。」

「よかった。いつか会えるかい?」

「会えると思うわ。バンコクか、東京で。」

「着いたら、教えるから。」

・・・・

「着きましたよ。ヘイ、モスクの前ですよ。」

僕は飛び起きると、重い眼を懸命に開いて車外を見やってから、サンキューとお礼を言いながらドアを押し開けて外に出た。そしてすぐに忘れ物がないか確かめるべく、シートと床をチェックしてからドアを閉めた。

外気温の高さと、あまりにも刺激的な直射日光に眼が潰れてしまいだと感じながら、僕は目の前に広がる、ホワイトの印象が強いモスクの堂々とした姿に見とれていた。

 

 

 

それから、いざ入場すべく中央のゲートに向かう。しかし、入り口だと思われる門のあたりには人の姿が疎らだった。そこで、目の前にいるイエローやライトグリーンの色味が南国の雰囲気を思わせる特徴的な迷彩柄の軍服を着たRELA(People’s Volunteer Corps)の門番に尋ねてみたところ、なんと日曜日は礼拝の日で、ちょうどいまセッションの真っ最中だから入場できないという。

仕方なく、別のプランを考えようかとスマフォで地図を見ている間、 衛兵に数人の観光客が寄ってきて尋ねては引き返すというシーンを何度か目撃した。

ゲートから来た道を戻ろうとすると、さっきは気がつかなかったのだが、イスラム教徒の証拠であるヒジャブを纏った数多くの女性達が買い物をしている姿が目に飛び込んできた。女性たちはモスクの横道に周りに整然と並ぶ屋台の周りに群がって、活発にジェスチャー混じりの会話を繰り返しているのだが、お昼時であることと、僕のそばに漂ってくるスパイスの効いた美味しそうな匂いが、だいたい彼女たちが何を求めているのかを想像させてくれた。

 

 

屋台の方に向かってみると、ショッピングの導線は、大通りを挟んで向こう側にも同じように延々と続いてように見えた。

地図を調べてみると、その先にはマスジッド・インディアという別のモスクがあり、どうやら週末はバザールが開催されているようなのだ。あまりの暑さで喉も乾いたことだし、僕はそこに向かうことにして大通りをJウォークで渡った。

渡りきると、少し暑さが和らいだ気がした。ふと見上げると大通りの真上には高架の鉄道が通っていることで直射日光を受けないこと、そしてバザールはアーケード仕様になっていることがわかった。

そして、バザールも始まったばかりのところにある小さな屋台で白人の男性一人が買い物をしているのが気になった。白髪混じりの長身の男性は透明の大きなプラスチック・カップを受け取るを、釣り銭を受け取りながらストローに口を寄せて飲料を吸い込んでいた。

僕はより強く、喉の渇きを覚えた。そして同じように屋台で飲み物を買うことにした。僕は屋台の女性にアイコンタクトをしてから、立ち去る男性を指差して、Sameと言っていた。すると女性は、手元のタッパーを指差した。焦げ茶色のゼリーをクラッシュしたようなトッピングが入っていた。僕はYesと答えて、飲み物を受け取った。一口すすると、ダージリンか何かの甘いアイス・ミルクティーに小さく細切れにされた例の四角いブロックが多少ハーブっぽい香りがしていて、アクセントになっている。一口目のあと、僕の二口目は勢いよく吸い込んでいて、そのおかげか視界にビビッドさが戻ってきた気がした。熱帯の気候では、冷えた飲料と砂糖がとてもよく効くというのを、僕は実感していた。

それから僕は人の流れに任せてアーケードに沿って細い道を進んだ。しばらくすると自然とマスジッド・インディアの前を通過した。モスクの前の広場から数十人の人々が内部への入り口のあたりに群がっているのが見えた。見上げると、モスクは赤茶色のこじんまりとした規模の建物だった。中央には控えめな意匠の塔がそびえ立っていて、よく見るとてっぺんの雨避けの直下には、いくつかのスピーカーというより昔懐かしい拡声器が四方に向けて配置されていた。

僕は、マスジッド・ジャメのような壮麗な姿と比較すると、このモスクは随分みすぼらしい、というのは失礼だから、随分と庶民的なモスクだなと思った。しかしその分、観光客らしき姿はあまり見当たらなかった。

なんとなく、本物の礼拝所という雰囲気が、僕をこの場にはあまり長居しないほうが良いかもしれないと思わせたから、そのままバザールに続くルートをフォローしてみることにした。バザールで販売されているものと言えば、ほとんどが粗悪なブランド品のノックオフ(偽物)か、スマフォとか電子機器の周辺アクセサリの山、そしてイスラムの戒律に適合した衣装だった。僕はアパレルの仕事の癖が残っているからか、イスラムの衣装にも資料として興味があって、男性用のJubba(ジュバ)と言われる長尺のガウンが気になっていた。その中でも、シルクのものはあるのだろうか、と自分が持たぬ引き出しを覗いてはみるが、単なる憶測にしかならなかった。しかも、多くが女性用だった。だから、たまに何軒かの男性用と思われる店に立ち止まるときは、必ずシルクはあるかと尋ねてみるのだった。その答えは、たいがいが、シルクはスカーフしか無いというものだった。普通はポリエステルだという。

流石にポリエステルは品がないと思いながら、僕は店の外に出て、さて次は一体何をしようかとぼうっとして佇んでいると、傍に何かロールを抱えた男性が次から次へと四方八方から集まってきて、細いバザールの道に流れ込んでいくのが見えた。

両隣の露店は店の前にロープを張って、その上から布切れを被せている。店じまいということだろうか。奥を覗くと、もはやお客は買い物をする様子はなく、同じように店の外側でいそいそと作業をしているのが目に飛び込んできた。しばらくすると感覚的ではあるが、女性の姿が疎らになってくる気がした。ふと後ろを振り返ると、今さっきシルクのジュバのことで教えてくれていた店の女性も、いつの間にか店のフロントを閉じていて、その気配はすでに布切れの向こう側に移っていた。

僕はもしかすると、と思ってモスクの方に戻ってみることにした。モスクの前の広場には、すでに数百にもなろうかというイスラムの正装をした男性が集結しており、各々がモスク側に向かって場所を確保したり、小さなカーペットを敷いたりしていた。

 

 

 

一日五回の礼拝つまりサラートの時間がやってくるのだ。よく観察してみると正装と思われたのは、間違いとは言わないが、そこまでの意気込みは必要なさそうで、最低、クフィと呼ばれる帽子さえ被っていればドレスコードをクリアできるようだ。そのクフィであるが、中東のお決まりのニュースやハリウッド映画の印象と比べると、クアラルンプールのそれは、黒が基調であることに違和感を覚えた。丸みのあるスカルキャップではない。

意匠はおろか帽子さえも被っていない僕がモスクの広場の中央近くにいることはよくないと思って、広場の背後に建つビルのテナントが少し高くなっているのに気づいて、そちらに向かって階段を登った。外に男性たちが出てきてカーペットを敷いて準備をいるのだが、店の中は女性たちが営業を続けているようだ。

店の中に踏み入ると、着席してスマフォをいじる女性に男性用のクフィは無いかと訊いてみた。外で黒いタイプのを見たのだが、これは何か意味があるのですかとも訊いて見た。すると、ヒジャブを着用しているため年齢が分かりにくかったが、女性の店員はすぐに好意的に対応してくれた。

まず僕の頭のサイズをメジャーで測ってくれた。僕の頭だと、かなり大きいサイズになるから、在庫は限られるという。そして店員は奥から上品な箱を持ってくると、それを開いて見せてくれた。クフィの中でもソンコックと呼ばれるもので表面はベルベット調で、厳選された素材を使っている一級品のようだ。極めて意匠が少ないが、金糸を使ったステッチ・ワークが見事で、形状もラストに合わせてハードに作られていて型崩れすることがない。聞くところによると、マレーシア、インドネシアなど特有の形と色で、こちらではスルタンやその他、こだわりのある人が着用するという。

値段は三千円ちょっとだったが、ハードケースに入った帽子はかさばる。すでに今回の旅の荷物が200%を超えているのが悔やまれた。諦めて、折りたたみのできる白いクフィを購入することにした。値段は半分以下だった。店を後にしようとしたとき、僕はついでにセールと書かれたハンガーラックに掛けられたジュバに目をつけた。40リンギットというから千円程度だ。ポリエステルであることは承知の上で、紺色のMサイズを試着してみると、身幅といい着丈といい、まさに御誂え向きだった。

しばらく考えて、僕はせっかくだからと思い、女性店員のところに持って行って、これもちょうだいと伝えた。ジュバを受け取りながら、そのときの女性は何か含みのある目をしていた。何だろうと思いながらも、僕は財布からお札を出そうとしていたとき、女性に「あなたはイスラム教となのですか」と尋ねられた。そこで僕は息を飲んだのだが、とっさに「なろうかと考えているところです」と答えてしまっていた。

品物を受け取って店の外に出ると、目の前のモスクがさっきより大きく見えた。僕はすでに始まっていた礼拝には見向きもせず、早足でバザールの中へと消え去った。その間、聞かぬように努めてはみたが、鼓膜にはアザーンの詠唱がいたずらに響き渡ってきて、それはとても痛々しく、心を締め付けるのだった。僕は、非常に無責任かつ宗教心の冒涜とも取れるような返事をしてしまったことを悔やんでいた。

そして何よりも衝撃的だったのは、少なくとも僕の理解の範疇では、女性は表立って礼拝することができず、建物の奥や布の向こうなど、人目のつかない場所に静かに身を隠すということだ。もしかすると彼女たちには別の場が用意されているのかもしれないが、イスラム諸国では男女間の社会的立場の格差が大きいというのはよく知られた話だからとやかく言うつもりはないが、実際にこうして誰もが慣習を当たり前のこととして受け入れている様子には、違和感を感じざるを得なかった。

自分のムードのせいか、バザールを通過してアーケードの天井を過ぎ去った後も、本来ならば色彩に満ちた建物や人々の衣類は灰色混じりで僕の両目を満たしていた。さっきまでは、ひどく攻撃的に照りつけてくる太陽だなと思っていた印象はどこかに去っていた。

歩きながらスマフォのスクリーンを眺めていると、地図上では歩けそうな距離だったため、僕は次の目的地をKLタワーに決めていた。マスジッド・インディアの横のバザールを抜けてクラン川に出ると、航空機が雲を抜けたときのように視界が開け、目の前にビルが立ち並ぶ丘の姿が飛び込んできて、その向こうにはひときわ背の高い塔が見えた。東南アジアで最も高い通信塔、KLタワーだ。

その時、塔の背景の空模様が明らかにどんよりと怪しげなものだとわかり、さっき僕が感じたあらゆるものの変色はこれが原因であったことを知った。向こう岸へと橋を渡っていると、みるみるうちに周囲に広がる湿気が急激に増していき、そのすぐ後に額にぽつんと水滴を感じた。周りを見渡すと、誰もいないだけでなく身を隠す場所がない。

スコールは刹那、到来した。僕は全力で橋を渡りきって、どこでもいいから入り口付近に屋根のありそうなビルを探して、飛び込んだ。たった数十秒だったろうが、ずぶ濡れになった。あいにくハンカチやタオルのようなものは持ち合わせていない。

ビルの中から自動ドアが開くたびに隙間から冷気が漂ってくる。このままでは風邪を引くかもしれないと思い、距離はさておき、またUberのアプリを立ち上げて配車した。

3分ほどでUberはやってきた。車中では中国系のドライバーに近いのにすまないと謝罪をしたが、この雨なら当然ですよと好意的に応じてくれた。これまでの東南アジアの旅ではスコールには遭わなかったと伝えると、ドライバーはここでは毎夕一回は必ずありますよと言っていた。スマフォの時刻を確認すると14:30だった。

KLタワーへの道のりは地図上では近いように見えるが、丘の麓からつづら折りの道程をゆかねばならず、歩くとしたら骨折りだったろうと思った。車であればKLタワーの入り口の目の前の車寄せまで乗り入れることができる。

到着後、自動ドアをくぐってビルの中に入ると、押し寄せる冷気を浴びて、まだ乾き切っていない身体に鳥肌が立った。標識に従ってエスカレータを上がって、すぐ目の前にあるチケット・ブースに歩み寄った。

もしかしたら突然の雨のせいかもしれないが、列には一人も並んでいなかった。僕は展望台まで行きたいので大人一枚とお願いした。するとチケッティング・スタッフが、屋上のスカイデッキの展望台は現在悪天候のため閉鎖中ですので、入れるのはその一つ下の屋内展望台のみとなりますが、視界が悪いかもしれませんと教えてくれた。見上げると価格表があり、スカイデッキは105リンギット、屋内展望台は52リンギットと書いてある。一日しか観光する時間が与えられていない僕は時間を優先するほうが良いだろうと考えて、屋内展望台で構わないと支払った。それでも1,500円弱といったところで、正直高いなと思った。スカイデッキであれば3,000円近い。KLタワーでこれなのだから、日韓合作のペトロナス・タワーの展望台ならばいくらになるのだろうか。

屋上までのエレベーターの乗り心地とスピードは悪くはないが、森美術館などのそれと比べるとやはり雲泥の差だった。

 

 

降り立ってから短い廊下をほんの少しゆけば、グレーの視界が床から天井までのガラス窓を通して目の前に広がった。展望室は円形で全面ガラス張りの設計だ。確かに今だに外の天候は荒れているのだろうが、幸い雨雲は視界の上の方にあり、見下ろす街の風景への影響は大したことはない。なおかつ雨雲はだいぶ大雨を降らせきったのか、先ほどまでの黒々とした重みは失せていた。

僕はNikon D810を取り出して、くまなく全面を撮影することにした。ガラス越しで、しかも雨天と曇空の中間のような曖昧な明るさにはカメラの設定が難しかった。オートにするとガラスの表面の光の反射や残された人の脂、ゴミにピントがあってしまうこともあるから、できるだけマニュアル設定にしてみた。

しばらくするとペトロナス・タワーに向き合ったガラス窓のあたりにさしかかった。さすがにここはセルフィーや記念撮影を試みる人々で混み合っていた。それよりも僕はペトロナス・タワーがKLタワーよりも下に見えていたことに少し驚いた。丘の上にあることも手伝ってか、KLタワーの方が高い場所にあるようだ。

全方位の写真を撮り終えてから、ガラスの窓から後ろを振り向いて、背後のエレベーターシャフトの周りにへばりついたお土産店を覗いてみることにした。

娘へのお土産はこれまでの旅程でベトナム、カンボジア、タイと買い続けてきていた。マレーシアでも何か見つけられたらと思っていた。もちろん、こういう観光スポットで何か良いものが見つかるとは思っていなかったが、初めから決めつけるのは性分では無いから、念のため物色してみた。しかし案の定、おきまりのキーホルダーやバッジそして置物はどれもこれもMade in Chinaの輸入品で、一つとしてマレーシア製のものはなさそうだ。ダメもとでショップの店員に尋ねてみてもやはり答えは同じだった。

僕は諦めてタワーから降りることにした。腕時計を見ると、まだ時間がある。KLタワーのロビーで僕はスマフォを開いて、地上からペトロナス・タワーを写真に捉えるためのベストなロケーションを求めていた。いくつか候補は見つかったが、ビルのフロントを堂々と捉える正面図と、背後から公園の池を含む叙情的なイメージの両方を恣にすることができるスポットを探し出して、とりあえずスリアKLCCを目指してUberを呼ぶことにした。

今日は一体何回Uberを使っているかと案じられるほどだが、なにせ一回の乗車の価格がリーズナブルであるため、いくらでも使いたくなってくるのが消費者心理である。

待つこと5分。Uberからアプリを通して連絡が届いた。運転手が言うには、すでに到着しているが、あなたがどこにいるか分からないというので、僕は、きっとまだKLタワーの入り口を目指して上まで来られると思うからそうしてみて欲しいと伝えた。それからほどなくして車は現れた。

車中、僕はスリアKLCCで、ペトロナス・タワーを正面に捉えることができる交差点があるでしょYou know? と訊いてみると、Yes, I understandと運転手は言ったので、任せることにした。それから彼は、日本人はみんな真っ先にチキン・ライスを求めますね、Chicken Rice, Chicken Riceと言って。僕は笑いながら、そうかもしれないですね、日本人は定番が好きですからと話した。そして、きっとクアラルンプールの旅行ガイドブックにきっとそのようにお勧めが載っているのでしょうと付け加えておくと、運転手はAhと言いながら、クアラルンプールにいれば世界のどこよりも多文化の食事ができるから、日本の人も良いチョイスをしていますよと誇らしげだった。

礼を述べてから僕は道路に出て、信号を二つばかり渡って例の交差点に到達すると、すかさずカメラを構えて何枚か異なる設定でシャッターを押した。これで一つ目の用が済んだ。しかし物足りなさを感じて周囲を見渡してみたが、大通りでは次第に夕方の渋滞がはじまりつつあることくらいしか明白なものがなく、他にこれといって興味を引くものはなかった。僕は仕方なく再び交差点をいくつか渡って、KLCCのショッピングモール側のほうへ向かった。

スリアKLCCは、つまりペトロナス・タワーの直下の基礎建築内にある。実際のところ世界のどの都市にもあるブランドやフランチャイズ・ショップが軒を並べるショッピング・モールには一つも用はなかったため、僕は人混みを避けてビルの真横を歩いてみることにした。モールの中にはIsetanの文字も見えていた。

ペトロナス・タワーを見上げてみたが、タワーのRが頂点の先端に向かって緩やかにカーブしているからかもしれないが、少しも人を無力にするような圧倒的な壮大さというものは感じられなかった。僕自身、NYや東京に慣れているのだから相手が悪かったと言いたくもなるが、何れにしても、僕はスカイスクレーパーのような超高層ビルのモダン建築よりは、有機的でコンセプチュアルな、もしかするとコンセプト過多と言われても仕方の無いような異端な建築物のほうが好みなのだ。

僕はツインタワーの下を通過して、公園側に出た。時刻は16:30だった。公園内は水と緑が多いからか、身体中に清涼感を感じて、気分が晴れるようだった。広場のステップやベンチでは、仕事を終えた人、観光客、そして子供を連れた母親など様々な人々が黄昏時の穏やかなひと時を過ごしている。左右対称でシンプルではあるが広さにゆとりのある門構えが印象的なKLCCの入り口と噴水のある池の間には、中国の新年を祝う数々のバナーや空気で膨らませた巨大な置物が設置されていて、祝日のムードが漂っていた。

その安らかな雰囲気に僕はすっかり一息つきたい衝動に駆られて、もはやタワーの写真などどうでも良くなった。あまり方向を意識せずに歩く。僕は、気が向いたらカメラを構えるくらいのスタンスにとどめておこうと考え、あとは公園をのんびりと歩きながら瞑想に耽った。

これから僕は一体どうしようか。それは己への究極の問いかけだった。

見つからない答えを恐れながら、答えを導き出してしまいそうになる自分の早とちりをかき消すように、何をするかといえば僕はスマフォをもう一度開いて、当てもなくSNSのアプリの中を彷徨っていた。

すると、シンガポール在住の友人エドモンドから明日の予定について質問がメッセンジャーに届いていた。すでに到着の便とターミナルは連絡済みだったが、日中に何をするかの問い合わせだった。僕はプノンペンのリム・ソクチャンリナがシンガポールのグループ展に出ているということなので、それを見に行こうと思っていると伝えた。そうすると、すぐにOKそれまで街を案内するよとレスが届いた。

しかし、あの人からのメッセージは入っていたなかった。僕はごきげんようとだけメッセージを送ってアプリを閉じた。

次第に空が橙色に色づいてきたように思えたのは錯覚だったろうか。見上げると昨日のプーケットの朝焼けを彷彿とさせた。埃っぽく、粗悪な店舗と屋台ばかりのあの半島のリゾート地と、立ち並ぶ高層ビルに空を切り取られたような、今いる場所のとの大きなギャップに不思議な感覚を抱いた。

気のみ記のまま歩いていたが、いつの間にか周りには仕事を終えた人たちだろうか、ジョギングをする姿がちらほら増えてきた。中にはヒジャブを被ったままジョギングする女性たちも無視できないほどいた。首より下はもちろん肌は見せていないが、タイトフィットなスポーツウェアに様変わりしていた。

ジョガーたちが向かってくる方向に沿って緩い下り坂を降りると、目の前にKLCCの水族館が見えてきた。僕は中を素通りして、建物の反対側の出口を出てから惰性でそのまま継続して歩いて、ゴールデン・トライアングルと呼ばれる高層ビル街の一等地までやってきた。

地図を見ると、宿泊先のコンフォート・インまでは1.5kmほどだ。微妙な距離である。やはり歩いていると汗ばんでくるし、喉も乾いてきた。僕は少し早いがせっかくマレーシアにいるのだからグルメも味わおうと考えて、ホテルまで歩く間に夕食を食べ、それからホテルで休憩してから今度は夜食を食べに出ようと考えた。

Googleであちこち探る。こうした時、単にレビューの数と数字だけに惑わされてはいけない。感覚的に良い店というものは定量的なものでは測りきれない。僕は単に健康に良さそうだからという理由でチキンライスよりも肉骨茶(バクテー)に興味があった。

そして、レビューの数が500近くあってポイントが3.7という、いかにも観光客相手と言わんばかりの店Restoran Sun Fong Bak Kut Tehを帰路の途中に発見した。唯一の救いは、店のロケーションが観光客が立ち寄りそうな場所から外れているということだろう。

 

 

入店したのは夕方5時。早速ビールと肉骨茶を注文したところ、まだ夕食時よりも前であるからか、厨房からすぐに料理が提供された。初めての肉骨茶は漢方のような薬草と胡椒系のスパイスが効いて、辛さというよりは、何か身体に良いものを食べているという直接的な効果があって、身体中の毛穴が開いて汗が噴き出してくる感覚があった。

それから先、意識が朦朧としてくる感触を覚えて、どこかに吸い込まているような、麻酔で意識が遠のいてゆくようなのに身体が重くなっていった。僕は頭の非常な重さを感じて項垂れてみると、あらゆる毛穴から流れ出る汗が全身を多い、次第に椅子から滴って、乾いたコンクリートを黒々とした色合いに変えていった。

その様子に、僕は何かの映画で見たような、血のようなものがカーペットに染み込んでゆくのを思い起こした。黒い液体の波打ち際はどこか魅惑的で、生き物のように地面の乾いた部分の粒子を内側に取り込みながら、ゆっくりかつ確実に侵食している。

そしてその液体は、涼しさを連れてきた。涼しさは次にあらゆる感情に静謐をもたらし、同様に時の刻みをすこぶる遅くするものだった。僕の身体は重さを通り越して今度は質量を失い、さらにその輪郭を失い、周囲の別の物質と融合していった。

気がつけばさっき地面を黒く染めていた液体は逆流し、椅子やテーブルへと水位が上昇し、物質となった僕の身体と合流して、大海となり、肉骨茶の店も全て飲み込んでいき、その中でほのかに点った微かな自我が自分のものだと気づいたとき、何か声が聞こえた。

「タイガー、我はマレーの虎なり。」

© KFDA, Ho Tzu Nyen

 

目の前に、漆黒の闇を翔ける立派な体躯のマレー虎が現れた。意識を背後に向けると、同様の暗闇の背景の手前に、冒険家の姿に扮した19世紀初頭のイギリスの植民者スタンフォード・ラッフルズが宙に浮いていた。

 

© KFDA, Ho Tzu Nyen

 

マレーシアの現代アーティスト、ホー・ツーニェンの映像作品だ。長尺の映像は、マレーシアとシンガポールを占領し植民化したイギリスの帝国主義者たちと野生のマレー虎との邂逅と因縁のライバル関係を、両者の視点から、時間と場所を宙吊りにしながら、散文的なダイアローグによって表現している。そこには一概に白黒や善悪では割り切れない土地に根ざした粘着的かつ複雑な多文化の折衝の関係性が、形式として採用されたスローモーションの上に広げられていて悠久の時間の流れを体感させている。

それから長い時間を経ると、僕の身体はまた別の意識の関係律に絡め取られて、そして今回はショックを受けた。

「タイガー、我はマレーの虎なり。」

二つの壁に別れた映像に変化が訪れる。虎と無精髭の人物が画面の手間に向かって極端に近寄ってきて、ズームアウトすると、おそらく両者は棒の意識の海のある暗闇の領域において仮想的に融合したはずだ。

すると次に、虎と無精髭の人物は片方の画面に現れてかと思えば、両者がお互いのピクセルを干渉し、同座標上に居座ると、身体がモーフィングされフュージョンのように混ざり合っていった。

© KFDA, Ho Tzu Nyen

 

もう一つのマレーの虎とは、真珠湾攻撃よりも前に太平洋戦争の口火となったマレー作戦を実行に移した、山下奉文中将だった。

タイ南部のシンゴラ、パッタニー、そしてコタバルから進軍を開始した山下の三個師団から成る帝国陸軍の第25軍は、疾風のごとくイギリス領マラヤを蹂躙しながら南下し、ジョホールからイギリス軍の背後を突き、電光石火の勢いでシンガポールを陥落させた。兵力およそ8万5千のイギリス・インド・マレーの連合軍に対して、山下はおよそ3万5千の兵力で劣勢ならびに多くの犠牲を出しながらも貫徹したのだ。

その軍神のような恐るべき戦歴に、山下はマレーの虎とあだ名され、今だにマレーシアやシンガポールでは悪名を轟かせ、時によって老齢の人々は反日感情を抱いている。

その全てを受け入れ、目撃してきたタイランド湾に、僕は沈んでいた。顔を水面に浮かべているような、骨格が作り出す起伏に沿って流れ落ち、熱を放射する水滴の存在に気づいた。だから、ついに顔面は形状を取り戻したように思ったのだが、上体や下肢は相変わらずぼうっとしていて感じることができない。だがそれでも、そのまま僕は全てを委ねることした。

ふと耳元に爽やかな音色が訪れ、その直後に頭蓋骨をぶるぶると震えさせるような振動がきて、僕は目覚めた。

僕は宿に戻っていた。時計を見ると朝5:30だった。あの人からもLINEに何件もメッセージが届いていた。

僕はすぐに着るものを着て、表へ出て、まだやっと白み始めた空を見上げながら、全くましにならない湿気の鬱陶しさを歩くスピードで緩和すべく、早足にAh Weng Koh海南コーヒーハウスに向かった。昨日と同じ喫茶だ。

僕は昨日と同じものを注文して、5分で完食し、そして店を出た。

すぐにホテルの部屋に戻ると、僕は荷造りの最後を手際よく終わらせて、忘れ物がないか指さし確認してから1Fに降りてチェックアウトし、US $100札を受け取って、Uberを手配し、KL Sentral駅に移動した。

KLIAエクスプレスの車両に揺られながら、僕は目の前に広がるココナッツの森の上に広がる薄いピンク色に染まりつつある空を眺めて、これは朝なのだろうか夕方なのだろうか、プーケットで見た空もこんな風だったろうか、一体あれはいつのことだったろうかと思いに耽って、突如として、何とも言い表せない寂しさに襲われた。

今の僕には、アメリカに住んでいた時よりも欧州に出張で二週間出ずっぱりだった時よりも、日本という母国が遠く、遥か向こう岸の非現実的なものとして映っていた。

かといって、この場所に、東南アジアに居座ることも僕には不安を感じていた。ただ、そのすぐ後で、あの人がいることを思うことができると、ふと、また東南アジアにいることが現実味を帯びてくるのだった。

そしてまた、娘のことが頭に浮かんでくる。まだ幼い子に、父親が不在というのはあまりにもかわいそうだ。しかし、僕がいないほうが子供の成長には相応しいのではないかとも思えてくる。それは経験的に、そして成り行きとして進んでしまった事柄ではあったが、家庭がうまくいかなくってから、自分の不甲斐なさと具体性のない過ちへの自責の念に苛まれてきたことが、真実のありかが特定されないまま、僕に、厳しい現実が真実であると信じさせてきてしまったからだった。

頭の中では、母国と外国、自分と娘、自分と恋人の関係性の間で、考えが幾度も行ったり来たりしてばかりで、脳内の電気信号が必要以上にに活性化して僕の精神を消耗させた。

「勇気を出して、大丈夫だから」

「パパ、今度は何して遊ぼうか」

僕の救済は、遠く、そして近く、何があっても、どれだけ落ち込んでいようとも、胸の奥底にしっかりと根を下ろし、仄かであっても激しく熱量を持った、体を熱し包み込む、愛情そのものだ。

それだけは、どんなことがあろうともなくならない。少なくとも今は。だから、それが消えるまでは、僕は前進し続けようと決心した。

 

(続く)