東南アジア紀行 2019 <ミャンマー編 その1> マンダレー 初日

「マンダレー初日:マンダレーの丘」

 2018年12月にタイ北西部のメーホンソンを訪れて以来、ミャンマーのことが気になっていた。
 
 メーホンソンには首長族のカレン族や大タイ(タイヤイ)と呼ばれるシャン族など、90年代に軍事政権によってミャンマーから追い出された人々が多く暮らしている。
 
 チェンマイからメーホンソンまでの道程282kmは3、4つの山々を越えてゆくのだが、その急峻さたるや日本の比ではなく、カーブの数は1864回もあることから、ちょっとしたアドベンチャー・ルートとなっている。
 
 メーホンソンでは、タイとはまた異なる伝統工芸や食文化、それから人々の雰囲気に興味を持った。さらに、2018年10月から日本人はビザなしでミャンマーを旅することができるようになったため、せっかくの機会だとも思っていた。

 
 5月7日、数日をバンコクで過ごした最終日。僕は7時に起床して荷造りを終わらせ、8時に友人の到着を待った。車で来てくれた友人にドンムアン空港に向かう方向の途中で降ろしてもらい、タクシーに乗り継いだ。
 
 ドンムアン空港に早めに着いたので、荷物を預けてから、ここ数回のタイ旅行ですっかり気に入ってしまったCafé Amazonというコーヒーのチェーン店を探して国内線ターミナルまで5分ほど歩いた。
 
 その途中、インフォメーションで問い合わせていたLeft Bagという、荷物の一時預り所を見つけて情報を得ておいた。というのも、ミャンマーからの帰路に、バンコクで飛行機の乗り継ぎに8時間ほど時間の猶予があるから、その際に市内に出ようと考えているから。荷物を預けるのは24時間で75バーツ。とてもリーズナブルだ。
 
 甘いミルクの入ったタイ式のアイスコーヒーを飲み終えると、僕はゲートへ向かい、Air Asia 245便で機上の人となった。
 

 
 ミャンマー中部の古都マンダレーまでの所要時間は1時間45分。眼下には、まるで砂漠地帯のようなオーカー色の地表が広がっていた。少しすると、似たような色の線状のプレーンが蛇行しているのが見えてきて、河であることがわかった。点々と広がる緑色の粒は木々のようであるが、決して群生しておらず、やはり地表が直接顔を覗かせている。木々が落とす鋭い陰影が、強い日差しの存在を確実にしていた。
 

 
 着陸すると、すぐに時計を合わせる。チープカシオにはプリセットの世界時計が入っているため、ミャンマーを選択。バンコクから30分遅れの、日本から2時間半遅れの時差となる。
 
 空港はふた昔前のような簡素な作りだった。外国人として入国する人数は多くはない。スムーズに入国すると、預けた荷物もすぐに出てきた。数日前にミャンマーの行動の仕方をネットで見ていたところ、ホテルや観光客用の飲食店以外はまだクレジットカードが使える場所は少ないため、キャッシュが必要になる。しかし、現金からの換金は基軸通貨のドルかユーロの、しかもピン札でないと受け付けてくれないらしいから、ATMからクレジットカードを使ってキャッシングするのが良いという。
 
 そこでいくつか並んだATMのうち、手数料が低いというKBZを選んでVISAカードで選択できる上限の30万チャット(およそ21,500円)を引き落とした。
 
 それから期限1ヶ月で通信量5GBに90分の通話が可能なSIMカードを6,800チャットで入手。485円。次に、およそ30km離れたマンダレー市内への乗合バスのチケットを購入した。特に出発時刻など明記されておらず、だいたい席が埋まったら出発するらしい。これは5,000チャットなので350円ほど。バンコクと比べても、とにかく物価の低さに驚いたというのがミャンマーの第一印象だった。
 

 
 バスに向かうべく外気に触れると、熱風が身体中をぐるりと包み込む感覚があって、物理的な質を感じた。携帯で気温を見ると40℃だった。照りつける日差しが肌に突き刺さる。
 
 バスはいわゆるマイクロバスだった。定員は10人ほどだろう。バスに乗り込むと冷房が効いていて、思考が落ち着いた。運転手は長いスカートのようなものを着ていて、間違いなく伝統衣装だと思った僕は、早速ネットで調べて、それがロンギ(Longyi)と呼ばれることを知った。
 
 よく注意して見渡すと、男性はほとんどがロンギを着ていた。こんな猛暑でも涼しいのかもしれない。
 
 そうこうしているうちに、5分も経たずにバスが出発した。とにかく日差しが強いから、僕はリュックからサングラスを取り出した。バスは相当揺れた。路面の情報を漏れなく吸収しているという感じだ。というよりも、路面のコンディションが悪く、大小さまざまな凸凹が車のサスペンションを跳ね返していると言ったほうが正しいのだろう。それくらい激しい揺れだったし、ミャンマーに来たばかりの旅行者の乗客たちもオゥとかワォとか言葉が漏れてしまっていた。
 

 

 
 1時間もすると市内にやってきた。すると運転手の補佐がバス内を回って、乗客に行き先を聞きはじめた。それから30分ほどの間、バスは乗客をホテルやその他乗客が指定した場所に降ろしては、次の場所へ向かうという繰り返しだった。あいにく、僕のホテルは最後だった。
 
 ホテルにつくと、ホテルのスタッフがバスのところまで来てくれて、スーツケースを持ってくれた。向かうと、建物の横面にYadanar Ooと書かれた立派な構えのホテルが見えた。
 

 

 
 室内は冷房が効いていた。フロントでは予約が無いと言われたが、スタッフがExpediaからのメールを確認すると予約が入っていたからチェックインできた。到着を今まで知らずにいたとなると、部屋は準備できているのだろうかと少し不安になった。
 
 パスポートを受け取ってリュックを背負うと、スタッフがスーツケースを転がして、2Fまで案内してくれた。部屋に入ると、高い天井と充分な間取りの部屋に満足できた。念のため、水周りや電気系統などの作動を確認してから、スタッフを送り返した。ここでチップはいるのだろうかと一瞬戸惑ったが、スタッフはすぐに退室したので必要ないということなのだろう。
 

 
 時計を見ると15時だった。まずは昼食にしたい。でもその前にシャワーだ。スーツケースから洗面用具を出して、シャワー室のバスタブに入った。バスタブがあるのは、東南アジアでは初めてかもしれない。東南アジアに来るようになってからというもの、三つ星ホテルというものは縁がなかった。
 
 シャワーを浴びながら、バンコクのーー今は友人と呼ぶべきなのだろうがーー彼女のことを考えていた。貧乏旅行とは言いたくないが、僕は常にアドベンチャラスな旅ばかりしていたから、旅程も宿泊先も食事も、まずは倹約を真っ先に考えていたから、それに巻き込む形で、ひどい男だったのだろう。彼女は、男女のロマンティックな旅行をしたいと思っていたはずなのに、僕はストリートフードや屋台ばかりを選ぶわりに、アートのことや伝統工芸には資金を投じていたから、きっと自分は想われていないと感じたのだろう。僕は日本人としての基本的な財力を持ち合わせているのに、なんてケチくさい男なのだと思われたのだろう。
 
 シャワーから出ると、キンキンに冷えた室温に鳥肌が立った。僕はすぐに身支度を整えて、屋上階のレストランに向かった。
 
 景色の良い、内装はウッド調の壁と黒塗りのパイプがむき出しの洒落た店だった。ここでミャンマー料理の豚のシチューとミャンマービールを飲んだ。料理ははっきり言って塩が効きすぎて旨味がなく、いまいちだった。タイ料理に慣れた僕の舌は、辛さ、酸っぱさ、旨味、甘さといった複雑な味に感化されていたから、この料理はシンプルにもほどが過ぎた。
 

 

 
 「Myanmar Beer」はラガー酵母による完全発酵型のアルコール臭が強めのビールだったが、他の東南アジアのビールと比べるとビターホップが効いているような苦味とキレがとても美味く感じた。ビールは基本640mlの大瓶でくる。しかし、汗をよくかいてしまう気候にはちょうど良い。
 
 昼食でも夕食でもない時間帯のため、反対に、奥のテーブルで数人の小綺麗な男性たちが何かの話で盛り上がっていたのが異質だった。このホテルの経営陣だろうか。
 
 塩辛いシチューに我慢しながら、僕はスマホの地図を見て方角と距離的に窓の外にあるのはマンダレーの丘であると確信すると、日差しが傾き始めている気がして、逸る気持ちが芽生えてきた。ビールを飲み干してから部屋に戻り、パスポートや財布など必需品ポケットに詰めて、カメラと水のペットボトルを簡易バッグに入れて、サンダルに履き替え、フロントへ向かった。
 
 まだこの国の勝手がわからなかったから、僕はフロントで一番英語ができる若い男性に、マンダレーの丘に行くにはどうしたら良いかシンプルに訊ねてみた。すると彼は歩いて30分だよと言う。それは厳しいよねと同意を求めると、全然大したことないと返されたのは意外だった。僕は直感的にそのオプションは無いと思った。距離は結構あるし、しかもスマホには気温40℃と表示されていたのだ。
 
 僕はそこいらでタクシーを拾うことができないと知ると、ホテルのスタッフに呼んでもらうことにした。乗用車かトゥクトゥクのどちらが良いか聞かれて、せっかくならミャンマーのトゥクトゥクに乗ってみたいと思い、その旨を伝えて待つことにした。
 
 5分もするとドライバーがやってきた。スマホを見るとGrabだった。それであれば次回から自分でもドライバーを呼び寄せることができるので安堵できた。マンダレーの丘までの値段は1700チャット=120円。  
 
 トゥクトゥクに乗った瞬間、ビニールのシートがヒーターのように皮膚を刺激した。走り出すと、熱気を帯びた分厚い空気が体にまとわりついてきた。気温40℃というのは本当らしい。だが空気は乾いていて、日陰にさえいれば、なんとかなりそうな気もした。
 
 僕はミャンマーの町並みや生活様式に、タイともカンボジアともラオスのような他の東南アジアとは異なる雰囲気を感じていた。
 

 

 
 ほどなくして麓の登り口に到着すると、目の前には大きな門が現れ、左右から中央を挟み込むように、巨大な純白の獅子が一対正面を見据えていた。
 
 トゥクトゥクの屋根の防護が無くなった瞬間に、露出した腕や首筋に強い日差しが突き刺さる。

門をくぐろうとすると、神聖な仏教寺院では靴を脱ぐように、と女性が近づいてきた。ついでに仏に供えるための花を売ってきたが、まだ勝手がわからないから断った。
 
 すると今度は真っ黒に焼けた中年の男性が歩み寄ってきて、トゥクトゥクはいらないかと聞いてきた。鋭い眼光の持ち主だなという第一印象を受けた。僕は今ついたところだし、帰りのことはまだわからないと伝えると、じゃあ待ってるから、後で考えてくれよと言ってきた。だから僕は軽い気持ちで、もしからしたら後でねと伝えてその場を去った。
 
 慣れない裸足でコンクリートの階段を少しずつ登ってゆく。踵の骨から振動が腰を通じて頭頂にまで響くような感覚があった。コンクリートやタイルなど、大して掃除もされていないのだろうか、あちこちに野良犬か飼い犬かわからない雑種の犬が横たわっていて、地面には液体のシミや、糞を拭き取った痕跡などが目立った。普段であれば土足で歩くような場所だなと思い、少し臆した。
 

 
 途中、テーブルを組んだだけの簡素なお土産店や飲料水やソフトドリンクを販売する店はいくつか通過したが、この暑さのためか、それとも夕刻が訪れたためか、店員は横になって昼寝をしているか、ぼうっとスマホを見ているだけで一切のやる気が感じられない。
 
 それよりも、僕以外には麓から登っていく人間はいないのだろうかと思うくらい、参拝客の姿はほぼ皆無だった。
 
 三ヶ所どころか五ヶ所以上の仏像に行き当たって手を合わせつつ、しばらく登ってゆくと、少し開けた、フラットな場所にたどり着いた。そこにも寺があって、僕は中央の仏像に向かって土下座をして手を合わせた。
 

 
 この辺りが平坦なのは、マンダレーの丘が一度中腹で平坦になり、丘の奥の方へ行き先が変わっているからだった。僕はその奥に向かおうとしたが、先は工事中のようで、砂利が点在する未舗装の道路脇に作業者達が座っていて、行けるのか行けないのか、少し迷ってしまった。
 
 すると後ろから若い仏僧が英語で声をかけてきて、その先で合っていると教えてくれた。タイヤカンボジアやラオスと比べ、僧侶が着る袈裟の色が異なる。黄色やオレンジではなく、赤紫というか、バーガンディーの色味だった。
 
 彼も奥に向かうようなので、前にネットで調べておいた旧日本軍戦没者の慰霊碑のありかを尋ねたところ、ちょうどその先にあるから付いて来くるといいと言われた。僕は荒れた道に気を取られて、恐る恐る、まるで熱した床を飛ぶように爪先立ちになりながら前に進んでいた。
 
 若い僧侶は珍しく英語が堪能で、積極的に話しかけてきた。それから慰霊碑を前にして、僕は祈りを捧げた。ミャンマーに来る前に昔見た『ビルマの竪琴』をおさらいしていたから、より身近に感じることができた。慰霊碑には、靖国神社のお守りが立て掛けてあった。
 

 
 そのまま頂上に向かったのだが、僧侶の彼が言うには日没まではまだ1時間半もあるという。仕方がないと腹をくくって、酷暑をしのぎつつなんとか時間を潰すことにした。
 
 頂上付近は再び平坦になり、豪華な寺の建造物が崖までせり出していて、そこからマンダレーを一望できる展望スポットとなっている。そのせいか樹木に守られることなく厳しい西日が直接降ってくるため、質量を持った日差しに身体中が燃え上がるような感覚を覚えた。
 
 東南アジアの寺は、いや、特にミャンマーの寺院は四方に仏像の祠が彫られている。祠というのはわけがあって、仏像の在処は少し奥まったところにあり、その手前は細い通路に導かれ天球の形をした天井が閉じた空間であることをイメージづけるからだ。僕は本殿の全ての仏に祈りを捧げ、200チャットや100チャットなど小さい紙幣がそこを尽きたので、本殿よりちょっと下のお土産屋が並ぶところへ行って何か飲み物を買おうと思った。いや、まったく止まることを知らない汗のせいで、持参したペットボトルはとっくに空になっていたので、むしろ自然に足は売店の方に向かっていたのだ。
 

 
 登ってきたのと別の階段を下ってみると、いくつもの売店が囲む中心に、立派な菩提樹がそびえていた。幹には小さい社が備え付けてあり、この木が霊的な存在であることを物語っていた。地面に目を落とすと、やはりいくつかの種が見えたので、早速拾うことにした。売店のおばさんたちは初め不思議そうな顔をして眺めていたが、少しすると、笑顔で上を指差して、ツリー、ツリーと、この木の種だと教えてくれた。僕は、イエス、少しもらっていきますと英語で伝えて、また先に進んだ。
 

 

 
 ちょっと前に通った覚えのある広場に達すると、何やらガサガサと上の方で音がした。見上げると、子供達が木登りをしている。しかも下から子供や大人がわいわいと声を掛け合ってあっちだこっちだと指差していた。すると、ドスっという音と共に、何やら緑色のものが落ちてきた。それから子供たちが同じものを何度も手でキャッチして、ベンチに置いてあったバケツに入れていった。みるみる緑色の楕円形のものでいっぱいになったバケツを見ていると、近くの大人の男性がマンゴーだよと教えてくれた。なんと、寺の境内にマンゴーが原生しているのだ。
 

 

 
 僕が少し驚いている様子に、男性が一つマンゴーを持ってきて手渡してきた。美味しいから食べてみな、水をやるから洗ってから食べてみな、洗うと黄色くなるからと言った。僕は言われるまま、彼の持っていたペットボトルの水でマンゴーを洗い、擦ってみると、確かに黄色くなってきた。思い切って齧ってみると、甘い芳醇な味わいが口いっぱいに広がった。紛れもなくマンゴーだった。
 

 

 
 僕はお礼を述べてから、エネルギードリンクを1000チャットで買った。ベンチに腰掛けて、生い茂ったマンゴーの木の木陰で涼をとった。しかし風が流れるでもなく、基本的には酷暑であることには変わらない。汗が出るのが先か、水分を補給するのが先か、僕は素早くドリンクを飲み終えてからも、しばらく子供達がマンゴーの木に登る様子を眺めていた。
 

 

 
 時計を見ると、午後6時10分だった。やっとかと思い、再び頂上へ向かった。展望エリアには数十人規模の人だかりができていた。しかし展望台は広く、司会の邪魔になることはない。僕は自分の場所を見つけて、カメラを構えた。黄色から黄金の光を放った後、夕陽の色はオレンジからマゼンタに徐々に変わっていった。その球は次第に大きくなり、赤く燃える球体がはっきりと目に焼き付いた。そして夕陽はしだいに青から紫の衣にも似た大空の一切を身に纏い、雲の向こうにその姿を消していった。最後に雲から再び顔を覗かせたかと思えば、夕陽は、その直下にある地平線に落下するように吸い込まれていった。時計を見ると6時40分だった。
 

 

 

 

 
 
 僕は言いようのない達成感を味わっていた。身体じゅうから吹き出す汗も気にすることは無い。みるみる暗さを帯びてゆく通路を下山しながら、僕は今日という日にシュールさを覚えていた。今朝まで彼女といたことや、途中まで車で送ってくれたこと、それからのタクシー、ドンムアン空港のCafé Amazon、マンダレー空港、乗合バス、マンダレーの丘を見たレストラン、トゥクトゥク、熱気、菩提樹、マンゴー、そして今がある。僕は充実感の次に枯渇感を覚えていて、近くのレストランへ向かう算段をしていた。
 
 そんな時、突然通路の横から、待ってましたよと声を掛けられた。
 
 「さっきマンゴーの木の下で手相をしていた者ですよ、覚えてらっしゃらないのですか?」
 
 僕はとっさのことで虚を突かれて、一瞬思考が空っぽになってしまったが、確かに先ほどマンゴーの木のところで話しかけられて、手相はいらないよと断ったがあまりにしつこいので、もしかしたら後でね、と伝えてあったかもしれないと思い出した。
 
 「いや、手相はいらないよ、お金も無いから。」
 
 とは言いつつも、ミャンマー式の手相というものはいかなるものか、正直気にはなった。
 
 「お安くしておきますから、まずはこちらへどうぞ。」
 
 付いていってみると、通路脇に設置された彼の個室はガネーシャやシヴァ神の絵や装飾の雰囲気から、ヒンドゥー系であることが直感的に伝わってきた。
 

 
 価格は10,000チャットだというので、いやぁそれは高すぎる、そんなお金は持ってきてないよと言いながら、僕は財布を覗いて、札を探すふりをして、充分あるのに結局こう言った。
 
 「4,000(280円)チャットしかない。本当に悪いんだけど、それでいいなら」とかなりの値切りを押し付けてみると、それでもすんなり受けてくれた。
 
 彼は僕の右手をとって、手相を見始めた。占いのセッションが始まった。
 
 「あなたは90歳まで生きます。」
 「あなたは高等な学位を二つ持っていますね。」
 「経営者レベルの新しい職が、訪れるでしょう。」
 「あなたは車一台をお持ちですね。」
 「子供が一人いますね。」
 「何人か彼女がいましたね。」
 「一回別れ。離婚してませんか。」
 「良い人が現れます。日本人ではないでしょうね。カンボジアか、タイか、それともまた別か。」
 「日本人の女性はあなたにとって問題です。」
 「現れる女性は大きなハートを持っていて美しい人です。末長く。」
 「去年か一昨年、交通事故に遭われませんでしたか。」
 「去年は景気が良くなかったかもしれませんが、今年は良いでしょう。」
 
 僕はなるべくポーカーフェイスを保ちつつ、静聴したが、途中、頷いてしまったこともあった。
 
 彼は、ガネーシャのご加護があらんことをと言いながら、僕の右腕に紐のブレスレットを編みつけた。14日間付けたら取り外して、それからは高いところか、身の回りに身に付けるようにしてくださいと彼は言った。
 

 
 僕は礼を述べてから再び下山のルートへ戻った。床がほんの少しひんやりしてきたようだ。通路からはお土産店も全て引き払われていたが、その脇の道から外れたところにいくつかの灯りが見えた。往路では気づかなかったが売店の人々は、道の脇の斜面の掘っ立て小屋で暮らしていた。いくつかの小屋ごとに井戸と洗い場が掘られていて、老若男女がそこで沐浴をしている。風呂やシャワーはないのだ。

 
 下山を終えて、暗闇を最後下駄箱のあるところまで降りてくると、例の男性が待っていた。僕は嫌な予感がした。
 
 「ヘイ、元気? 待ってたよ。帰りはホテルまで行くかい?」
 
 やはり、ミャンマーの人たちはよほど根気強いのか、この男性もまた僕から金をせびるつもりなのだ。
 
 「まだ待ってたのか。僕はGrabがあるから、それで帰ると思うよ。」
 
 「待ってよ、どこまで行くの?」
 
 「Yadanar Ooホテル。いくら?」
 
 「7000チャットだね。」
 
 「そんなばかな、Grabで来た時は1700チャットだったよ。2000チャットがせいぜいだ。」
 
 「わかったよ、それでいい。」
 
 というやりとりを繰り返しているうち、だが、まだホテルには戻らないことを伝えて、近くのレストランだから歩いてゆくから良いと、僕は突っぱねた。
 
 すると彼は1000チャットでいいからさ、と妥協してきたので、そんな70円くらいのために、彼は何時間も僕のことを待っていたのだろうかと急に悪い気がしてきて、歩ける距離ではあったが、承諾した。

 
 これがChitkoとの出会いだった。

 
 少し先の話だが、結局僕は、彼をバガンを除くマンダレー4日間の専属トゥクトゥク・ドライバーとして雇うことになったのだった。普通ならクーラーの入った乗用車の運転手を雇えば良いものを、なんとなく彼を気に入ってしまい、あえて灼熱の空気をいっぱいに浴びるトゥクトゥクを選択したのだ。
 
 レストランに向けて出発する前、翌日のことを聞かれた。明日はどこに行くか決まってるのみたいな、たいがいのドライバーの常套手段だ。カンボジアでもラオスでもそんな感じのパッケージ商売だ。そして案の定、彼はラミネートされたA4サイズの観光地マップを出してきた。
 

 
 「一日雇ってもらえれば、市内の名所から川向こうの旧都のほうも案内して、それから最後にウーベイン橋で日没を見る定番コースに連れていってやるよ。」
 
 「それで、いくらなの?」
 
 「50,000チャット。」
 
 ちょっと待ってくれと伝えて、スマホのレート換算を見てみると、3500円だった。一日専属ドライバーで、距離を考えればかなり安い。僕は40,000チャットならいいよと伝えた。」
 
 「OK, OK」彼はそう言った。
 
 レストランに着いてから1000チャットを支払って、じゃあ明日朝8時にホテルの前で、と約束をして別れた。
僕は豪勢なレストランに一人で入って着席し、フローズン・マルガリータやビールの大瓶を頼んで、それから料理二品を注文して、ゆっくりと夜の更けるのを味わっていた。
 

 

 
 しばらくするとライブ音楽のバンドも始まったが、終始、一昔前のアメリカのポップソングのカバーの目白押しだったから、僕はチェックをもらい、18,000チャット(1300円弱)支払った。
 
 帰り道はおよそ1kmを歩くことにした。懐かしい田舎の埃っぽい空気の匂いがした。夜風は乾燥していて心地よかった。

 
 
<その他の写真>