東南アジア紀行 2019 <ミャンマー編 その2> マンダレー 二日目(午前中)

「トゥクトゥク・ドライバーのチットコー」

 2019年5月8日の朝6時半、僕は目覚めた。
 
 iPhoneでメールを立ち上げて、本社からの火急なタスクが無いことを確認してから、少しベッドの上で物思いに耽っていた。
 
 昨日の朝はバンコクの友人とひと時を過ごしていたのが、今はミャンマーを一人で旅している。マンダレーに降り立った瞬間から、タイ人とは異なるビルマ族の人々の装い、肌の色の濃さや顔つきの違いが強く印象として残っていた。
 
 マンダレーの丘の夕陽は、マンゴーをもらった思い出もあり、また異なる空気の肌触りと匂いを伴って一層強調されて脳裏に刻まれている。
 
 僕はシャワーを浴びながら、こうしてつい昨日のことでも回想して、記憶に残しておきたいと思っていた。
 
 7時15分には上の階の朝食会場にいた。ここは昨日、遅い昼食を食べた場所だ。今朝はビュッフェ形式になっていて、僕はまずオレンジ・ジュースだけ手に取って席まで持っていき、場所を確保してから、大皿に次々と惣菜を乗せていった。
 
 朝食はいたって単純なコンチネンタル形式のものと、それ以外はほとんどが中華料理だった。よく見ると会場には十数人の中国人たちのグループが思い思いに朝食を摂っていた。
 
 僕は炒めた野菜類をいくつか取って、おかゆや果物、そしてバナナを持って席に向かった。
 

 
 すると、そこには誰かの皿が置いてあった。僕は自らの大皿を置くと、向こうから中国人の女性がやっていて、繋がった隣のテーブルに座って不思議そうな顔をしていた。僕はもしかしてと思っていると、もう一人の中国人女性が僕の目の前の席にやってきて、立ち止まった。
 
 どうやら、二人の女性はお互いが、僕が持ってきたジュースを片われが持ってきたものと勘違いしていたらしい。僕はIt’s OKと述べて、皿とジュースを持って別の席へ移動した。朝日が眩しくて少々暑かったが、一番奥のマンダレーの丘の見える席を選んだ。
 
 バンコクの友人とLINEでやりとりをしているうちに時間が思った以上に過ぎてしまったので、僕はさっさと食事を終わらせて部屋へと戻った。
 
 昨日の夕方、移動の疲れもあってか、軽装になりたいとサンダルを選んだことが結局、神聖な場所である寺院を訪れるときに都合が良いことがわかったので、今日は一日サンダルを履くことにした。そう、マンダレーの丘全体が仏教寺院であったため、麓で裸足になってからというもの、タイルの床、コンクリの地面、レンガの道、そして悪路もひたすら裸足だったのだ。
 
 その他の必需品をポケットに入れ、簡易のバッグを手にして、僕は8時を少し回ったところでホテルのロビーの外へ出た。
車寄せには誰もいなかったが、一般道に出たところの木陰にトゥクトゥクがあり、そこにチットコーはいた。
 
 「グッド・モーニング。元気?」
 
 お互いにそのような感じで声を掛け合い、僕は後部座席に座った。
 
 「じゃあまずはこの近辺のお寺をいくつかですよね? 調べたところだと、ギネスブックで世界最大の書籍のお寺には行ってみたいです。」
 
 「オーケー、オーケー。」
 
 チットコーは口数が少ないのがいささか心配ではあったが、経験はありそうなので、僕は委ねることにした。
 
 トゥクトゥクは発進した。今朝もすでに気温は33℃ある。ここから上昇を続けて、日中には40℃に達する予報だった。表面に多くの砂が浮かんだ舗装路には強い日差しが照りつけ、サングラス越しでさえも、地面は真っ白に見えていた。
 
 観光地から少し離れた街並みは、スクーターの修理店や金物屋、八百屋、雑貨店など、この地域に暮らす人々の生活に寄り添ったものだった。
 
 
「シュエナンドー僧院(Shwenandaw Monastery)」

 ホテルから北東に5分も行かないところで、広い敷地が左側に見えてきたと思えば、そこが早速一つ目のお寺だった。
 

 
 シュエナンドー僧院(Shwenandaw Monastery)は、チットコーが言うには、第二次世界大戦中に日本軍vs.英国軍の激しい戦闘で燃えなかった数少ない戦前のお寺だ。全体がチーク材でできた高級感が漂う寺院であり、元々、ビルマのミンドン王の住居だったという。
 
 チットコーは僕を降ろすと、奥のほうで待っているから見終わったら来てくれと言い残して、トゥクトゥクを走らせた。
 
 僕は入り口で2万チャットくらいだろうか、マンダレーの寺院を周遊できるパスを購入させられた。建物に入る手前でNo Shoesのサインに従ってサンダルを脱いだ。
 
 目の前には焦げ茶色の古い木造建築の仏教寺院が厳かに佇んでいる。コンクリートの階段を登り終えて、木製の踊り場に足をついたところで、ひどく熱した床に僕は一瞬足を引き上げた。それから爪先立ちで日陰を探し、すぐに建物への入り口を見つけて中へ逃げ込んだ。
 

 激しい日光で目が眩んでいたせいで、建物内は真っ暗に思えて、目が慣れるまでにはしばらく時間を要した。寺院の内部は奈良の古いお寺を思わせるような控えめの色合いの柱が整然と並び、所々に仏教の教えやアラベスク文様がレリーフとして彫られた細かい装飾がその場の雰囲気を引き締めていた。
 
 日本のように中央に一体の仏像があるのではなく、前後に中央を挟み込むように二体の仏像が壁を挟んでお互いに背中を向けるようにして座していた。周りには戦前の欧米由来の時計や箪笥やキャビネットのような調度品が並べられている。
 

 
 僕は正座をして仏像にしばらく手を合わせた。だが額や背中を滴る大量の汗を感じて、室内はせっかくの日陰ではあれども、循環しない空気にひとたまりもなく、逃げるようにもう一度外の踊り場へと足を踏み出した。
 
 また足の裏が焼けるようだった。あまり長居はできないと思っていると、風変わりな顔つきと毛並みをした猫が歩み寄ってきた。撫でてやるとそこに横たわり、気持ち良さそうにしていた。
 

 僕は噴き出してくる汗に堪りかねて、サンダルを履いて寺院の外に出た。外観の写真を何枚か撮ってから、敷地の奥へと進んで、チットコーを探すことにした。
 
 
「アトゥーマシー寺院(Atumashi Kyaung)」

 奥には広大な空き地が広がり、その右奥の巨木の下にチットコーのトゥクトゥクが停まっていて、彼は運転席でスマフォを見ていた。
広場の正面にはまるで要塞のような左右対称の建物がそびえていた。黄金の屋根に煌びやかな装飾が目に入ってきたので、王族の居城か何かかと思い近寄ってみると、なんとお寺だった。1857年にミンドン王がマンダレーに遷都して数年後に建てられた、アトゥーマシー寺院。
 

 入り口でさっき購入したパスを提示してから、階段を登って中へと入っていく。中は敷居のない広大なお堂だった。遠くの方に仏壇が見える。そこまで歩いてみることにした。途中で仏に供える花束を販売する売り子に話しかけられてどうしようかと思ったが、1,000チャット(70円)だったので買ってみた。
 

 奥の仏壇まで来ると、その花束が掛けられた、沙羅の木だろうか、花瓶に入った小枝が備えてあったので、僕もそこに添えてから仏に手を合わせた。
 

 表へ出ると、強い日光が純白の床に反射して目が眩んだ。サンダルを履いてから遮蔽物のない砂地をトゥクトゥクまでいそいそと歩いてゆく。その時、アトゥーマシー寺院の手前の生垣の奥にマンゴーが大量に実っているのが目に入った。昨日のマンダレーの丘で見たばかりだったから気がつくことができたのかもしれない。
 
 トゥクトゥクへ到着すると、チットコーが「グッド?」と聞いてきたので、「グッドだよ、でも暑いね」と返して次の寺へと向かった。
 
 
「クトドー寺院(Kuthodaw Pagoda)」

 クトドー寺院までの道は、歴史ある地域だからか、樹齢の長い巨木の並木道を通ってゆくため、比較的過ごしやすい印象があった。寺院へ到着すると、チットコーはそのへんにトゥクトゥクを停めてくるよと言い残して行った。
 
 寺院の入り口は先にも増して観光地らしさというべきかお供え品やお土産品を手売りする商人たちの数が増えてきた。
 
 特にひもじそうな装いの子供達が親たちよりも前に出て商売をしているのが目立った。なかなか断るにも断れず、僕は花を買うことにした。見るととても立派な蓮の花が、これまた1,000チャット(70円)だったので迷わずに買うことにした。
 

 一度買ってしまえば、以後はもう花はあるから結構ですと断りやすいのもあった。
 

 入り口からしばらくは屋根付きのタイルの床を奥へと進んでゆく。左右を見やると、屋根のないところに、整然と並んだ数多くのパゴダが見えた。そして所々に、びっしりと実をつけたマンゴーの木もある。
 

 僕はそのまま中央の本堂に進み、女性たちが座して祈りを捧げる場の横に座って一礼してから、奥の花瓶に蓮を献花した。その脇には6座ほどの座布団が敷かれていたが、きっと特別な人か僧侶たちの場だろうと考え、退いて後ろの方で正座をした。
 

 立ち上がってから中央に黄金のパゴダを視界に捉えながら、僕は周囲を歩いて四方の仏壇を参拝した。振り返ると、純白のパゴダは延々と奥まで続いている。日陰がないので躊躇ったが、僕はルートを外れてパゴダの中を覗いてみた。中央には、何やらびっしりと文字が刻まれた石版が厳かに立てられていた。隣のパゴダを見ても同様だ。
 

 

 僕は熱した地面を走るように本堂の方に向かって、屋根の下に逃げ込むと、まずは汗を拭き取った。そしてこの寺院のことをスマホで調べてみようと思ってポケットから取り出した。
 
 その時、チットコーがやってきて、近くの仏壇に手を合わせた。僕は彼に聞いた方が早いと思った。
 
 「あれば仏典の1ページだよ。この寺には全部で700枚以上の仏典のページがあって、それぞれがパゴダの中に納められているんだ。だから世界最大の本ってわけさ。」
 
 そうか、今日はギネスブックに載っている世界最大の書物を見ることになっていたのだった。あまりの暑さで思考がはっきりとせず、たまに目的がわからなくなっていた。
 
 「てっきり、本堂のどこかに巨大な書物が奉納されているのだと思っていたよ。」
 
 「あぁ、そうじゃなくて、寺自体が本だよ。」
 
 僕は頷きながら、それじゃ世界最大になるわけだ、と呟いた。少しトンチに引っかかったような気がして、拍子抜けしてしまった。
 
 暑さに耐えながら、僕らは出口に向かった。僕のTシャツはすでに胸のあたりと背中全体が汗で張り付いていた。チットコーは涼しい顔をしていて、汗をかいている様子もない。
 
 まだホテルを出発してから2時間も経っていない。人を出てから僕はサングラスをして少しでも目への負担を和らげようとした。
チットコーは、次はあそこだと指を指す。サングラス越しには何も見えない。向こうへ歩いていくとサンダ・ムニ寺院があるという。僕はOKと伝えると、次にチットコーはこう言った。
 
 「寺院に入るとき、サンダルは手に持っていけ。仏像があるから見逃すなと言った。そこから右にまっすぐ進むと出口があるから、その外にいる。」
 
 なかなか簡素なディレクションだったのでちょっぴり心配だったが、僕はどうにかなるだろうと踏んだ。
 
 
「サンダ・ムニ寺院(Sanda Muni Pagoda)」

 サンダ・ムニ寺院までのたった2、300メートルの道程は木々の木陰の恩恵を受けることはなかった。強い日差しがあたり一面を真っ白にホワイトアウトしてしまうような感覚だ。
 
 歩みながら、僕は沿道の立派な菩提樹の木の幹に社を見つけて、その下の地面を少し探索してみると、いくつかの菩提樹の種を発見することができた。よくみるとコンクリートの隙間から芽が出ている。

 汗を拭くことも面倒なので、そのまま垂れ流しにすることにした。サンダ・ムニ寺院の門をくぐり入り口を通過すると、僕はサンダルを手に持って先へと進んだ。
 

 タイルやコンクリの床はほんの少しひんやりとしていて、廊下の脇には多くのお土産店があった。漆芸や木彫、翡翠、編み籠、あとはおそらくベトナムかどこかで作られた安物のTシャツがほとんどだ。
 
 奥へと進むと、本堂のあたりに金色に輝く仏像が顔を覗かせていた。直進していざお堂の中に入ってみると、じつは仏像自体は白く、天井や壁、あらゆる装飾が金色であることがわかった。仏像の大きさたるやなかなかだった。
 
 仏像の周りには鉄と竹を合わせた足場が組んであり、何人かの男性たちが座って後背に何やら作業をしているようだった。黒いものを塗り、その上に金色のものを塗っているような。そうか、これはきっと石川県で見たことのある、漆の上に金箔を貼ってゆく作業だ。漆は経年や環境の変化に強い接着剤として使われていて、金箔がその上に薄く貼られている。ミャンマーは漆の伝統的な技術が盛んで、しかも東南アジアでは金の産出量が多い国である。
 

 しばらく作業の様子を眺めてから、僕は正座して仏像に手を合わせた。それから黄金の本堂の周りを少し歩いて写真を撮った。中央には修復作業中の黄金のパゴダがある。こうしたものや装飾の全てが本物の金だとしたら、かなりの意気込みだなと思った。しかし仏教に捧げる気持ちの強いミャンマーであれば当然なのかもしれない。
 

 

 

 僕は北側の出口に向かうべく、本堂から周囲の廊下を回って歩いていた。途中で菩提樹を囲んだ小ぶりの仏像の群れに遭遇した。横には水桶があって、コップで掬って仏様にかけてあげるという功徳のようなものだ。僕は周囲すべての仏様に水をかけてやり、次に菩提樹の種を拾ってポケットに入れた。
 

 

 北側の小さな門を出たところでサンダルを履いた。道の向こう側にチットコーのトゥクトゥクを見つけることができた。乗り込む前に、僕は喉の渇きを潤すのと炭水化物を欲して、路傍の商店でコーラを1000チャットで買った。
 
 
「織物の町、アマラプーラへ」

 後部座席に乗り込むと、すぐにトゥクトゥクは発進した。チットコーは、これからアマラプーラへの少々長い道のりになると言った。
 
 昨日マンダレーの丘の麓で見た地図を元に、僕が昨夜ホテルで見ていた今日の目的地であるサガインやミングンは、マンダレーから西に向かってイラワジ川の向こう岸にあるのだが、直線上には橋が無いためマンダレーを南下したアマラプーラのあたりにある橋を渡ってから北上というルートを辿る。そのためかなりの迂回を強いられるためどうしても遠くなってしまう。
 
 この時の僕にとっては、今朝からすでに歩いてばかりだったから、できるだけ長くトゥクトゥクに乗っていたいという気分になっていたからちょうど良い。そして、アマラプーラへの道のりはミャンマーの生活感を見聞するには良かった。
 

 マンダレーでは靴を履いている者がいなかった。誰もがサンダルか草履のようなもの、あるいは完全に裸足で道をゆく。バッグを持つ者も多くはなく、カゴに荷物を入れて頭の上に乗せて歩く女性や、ビニール袋をいくつか合わせて持っている人たちも多い。どっちにしても歩くというよりは皆がスクーターを足代わりにしている。
 
 道の傍には至る所にゴミが散乱している。どこに行っても、水場や川の傍には必ずと言ってよいくらい、より大量のゴミが溜まっていた。その割に菩提樹にはリスペクトが払われているのか、周囲はそれなりに片付いている印象だ。
 

 チットコーが選んでいるルートのせいか、貧困という言葉が脳裏に浮かんでくる。調べたところでは、ミャンマーは東南アジアでは最貧国だ。平均月収が8,000円くらいだったはずだ。
 
 二階建ての民家は少ない。長屋のようなトタン屋根か葉っぱを使った屋根の下には、壁の無い民家が多く、十軒かそれ以上ごとに井戸と洗い場が設けられていて、人々はそこで選択したり体を浴びたりしている。家に洗い場というものはないのだ。風呂やシャワーはもってのほかだろう。
 
 いくら雨季の前の猛暑の季節であっても、40℃を超えてくる気候では、水のシャワーが充分なのかもしれないと一瞬安易な考えが頭に浮かんだが、初めからそういう問題ではないのだ。
 
 ふと運転席を見ると、チットコーの着ているシャツのほつれと擦れた様子が目に入ってきた。襟は首筋で擦り切れてしまっているし、シャツの生地全体も幾度もの洗濯のためか薄くなってしまっている。
 

 チットコーは昨晩マンダレーの丘の麓で3時間もの間、もしかしたら客にはならないかもしれない僕を待ち続けていた。一日中ドライバーとして付き合ってもらっているが、僕は5万チャットのところを4万チャット(2,800円)に値切ったのを思い出した。
 
 毎月どれくらいの収入になっているのだろうか。トゥクトゥクの燃料やメンテナンスもあるだろうし。家族はいったい。
 
 その時、チットコーが話しかけてきた。
 
 「先にアマラプーラを通って、ミングン行って、ウーベインは最後に戻ってくるから。日没の頃。」
 
 僕はオーケーと答えて、日没より後まで案内してくれるのか、と内心驚いた。
 
 それからしばらく、トゥクトゥクは巨木の立ち並ぶお寺や商店街をゆったりとしたペースで突き進んで行った。スクーターや車に追い抜かされることも多い。でもそのペースはちょうど風をうまく捉えて、心地良かった。
 

 ふと、追い抜いてゆく車を見ていると、やはり、と確信したことがある。マンダレーに入ってから幾度となく、ライトバンや軽自動車より一回り大きいピックアップトラックなど、中古車の多くに日本語のレタリングが施されている。
 
 ここまで目視できたものだけでも恐らく50台以上はあり、写真を撮ったものだけでも20台は下らない。なんたら商店、なんとか醤油、株式会社云々、何某工務店、新聞社、プロパンガスの配達車、ダンプカー、上履きやスニーカーの大手シューズメーカーの懐かしいロゴの車など、日本の懐かしい産業の払い下げの車がやたらと多い。
 
 「ミャンマーの車は日本車が多いよ。家電も日本のがいい。」
 
 そうなんだねと僕は相槌を打ち、かなり古い中古車もメンテナンスして大事に永く利用しているところを見て、日本も少しは見習うべきだなと率直に思った。
 
 仏へ帰依する強い心だけでなく、だんだんとミャンマーに好感が持てるようになってきた。心変わりが早いと思われるかもしれないが、今のところ、食事はタイ料理には勝てないし、寺院の床のタイルやコンクリには小石が転がり汚物がこびりついているものだから、あえて悪く書きはしないが決して好ましい環境とは言えない。加えて、この暑さときたら。
 
 道を行き交う人々やスクーターで滑走していく人たちを見て、そういえばあの男性が着用しているスカートのような伝統衣装はどこで手に入れることができるのかと、ふと思った。
 
 僕は織物など伝統工芸に目が無い。チットコーは履いてはいないのだが、工夫を凝らして、言わんとするものがどういうものかを長ったらしく説明すると、チットコーはこう言った。
 
 「ロンギーのことか。ミャンマーの男が着ているものが欲しいのか?」
 
 「イエス。伝統的な生地とか手作りの物はどこの国も好きなんだ。特にインディゴとかね。」
 
 「OK、ちょうどいい。連れていくよ。アマラプーラにある。産地だ。」
 
 それはまさに好タイミングだと、僕は浮かれ始めた。
 
 それから数分も経たないうちに、件の場所に着いたようだ。メインの道からちょっと左に逸れただけで、アマラプーラの織物工場だという。さっき発言しておいて本当によかった。
 

 僕は早速工場を見学させてもらって、足踏み式の古い人力織機の駆動音に懐かしく、温かな木が打ち合う心地よいリズムを聞いた。その横では、それなりの幅のある反物の全幅に亘って、縫い子の女性二人が青写真を見ながらすべて手で刺繍してゆく様子に驚いた。それはシルクだという。
 

 

 

 ほどなくして僕は向かいの売店に立ち寄った。中に入ると、白人のお客もいたので、なるほどここは通常ルートなのだなと少しがっかりした。
 
 すぐに英語の達者なビルマ人の女性が寄ってきて、まず洋装のボタン式のシャツやジャケットなどを勧めてきたが、僕はロンギーを探していると伝えると意外な感じではあったが、奥の棚に案内してくれた。
 
 旅行客向けのお土産店だろうからロンギーは勧められないのが普通なのかもしれない。でも見ただけで上質な作りであることがわかった。
 
 道で見てきた普通のロンギーは縦横同じ打ち込みの平織りばかりの単調な色調が多かったが、なんとここにあるのは、その上にさらに縦と横の織り込みがなされているものだった。ぱっと浮かんだのは、シャトル織機の上方からジャカード織のようにもう一本の織機が立体的にもう一本の糸を織り込む方式だが、さすがにそれはないだろう。単純に平織りが済んだところで、もう一度織機にかけてピッチを緩めに設定して織り込んでいるのだろう。
 

 それにしても立体感と高級感が増しているので、僕はこれを買うことにした。15,000チャットだったので、お寺の沿道にあるお土産店で見た6000チャットと比べれば倍以上の価格だ。だがそれでも1,000円くらいなので激安だ。僕はもう一つ、バンコクの友人のために女性もののロンギーを20,000チャットで購入した。
 
 それからロンギーの着用方法を習ってみたが、どうせ日本に戻れば忘れてしまうし、着る機会があったとしても人生数回だろうから、その時はYouTubeで見ようと思った。着方を教えてくれた店員もYouTubeには出ていると言っていた。
 
 僕は礼を言ってから店の出口に向かっていたが、途中で例のシルクの豪華な刺繍の反物が目に飛び込んできた。横から店員がすり寄ってきて、これを作るのに二ヶ月かかりますと言う。値段を聞くと、USドルで$300。決して高くない。むしろ激安と言える。でも、初めからアメリカドルで値段を言われると、西洋人と一緒にするなとプライドがざわつくという変な価値観に固執してしまって、急に食指が動かなくなった。
 
 良いけどやめておくと伝えて、僕はトゥクトゥクに戻り、チットコーに良かった旨を述べ、合わせて、腹が減ったよと伝えた。
 
 「OK、橋を渡ったところにあるから。」
 
 「そうか、わかった。もうわりと近くだね。」
 
 「良い生地は見つかったのか?」
 
 「見つかった。でも、もっと伝統的なものは無いのかな。半年前にタイ側の国境地域で、ミャンマー文化が濃いところに行った時に、手差しの刺繍を見つけたんだ。」
 
 僕はそれからスマホをいじって撮った写真を引き出してきて、後部座席から運転席のチットコーに肩越しに見せた。」
 
 「アンティーク?」
 
 ティアドロップのサングラスを持ち上げ、目を細めて、首から仰け反るような仕草をしながら、チットコーはそう言った。
 
 僕は、彼はすでにかなりの老眼が進んでいる歳なのだと実感した。健康的な褐色の肌と、贅肉のない身体つきだったから、そう言われてみると彼の年齢は気にしたことがなかった。
 
 「これはアンティークではないよ。でもアンティークでも刺繍があれば見たいね。」
 
 「Ok、連れていくよ。」
 
 
「ウーベイン橋近くのアンティークショップへ」

 トゥクトゥクは、マップ上ではミングンやサガインへ行く方向から少し遠ざかるように、南東に向かった。数分もすると湖というか干上がった湖が見えてきた。かなりの奥の方の地平線に何かが見える。橋だ。あれがウーベイン橋かな。
 

 そうこうしているうちにトゥクトゥクは停車して、目の前に広い入り口のショップが見えた。物品の煤けた色や茶ばんだ印象からアンティークショップだろうと思った。
 
 チットコーが入店すると、奥から若い男性が出てきて、色々と言葉を交わした。若い男性は僕のほうを見て、笑顔でハローと言った。英語ができるらしい。
 
 「奥にありますから付いてきてください。」
 
 言われるままに僕は彼の後ろを付いていった。
 

 すると店の奥の暗がりの壁添いに雑に積まれた布の山が見えた。近寄ってみると、刺繍のアンティークだった。もともと単なるタペストリーだったようだが、裏張りされてクッションカバーのようになっている。一見して、間違いなく上物だということがわかった。
 

 一枚手に取ってみると、その細かい刺繍たるや現代の技術は到底及ばないことが明らかだった。きらびやかな錦糸と様々な金属のパーツが複雑に絡まりオベリスク文様を生み出し、真珠貝から削り出された微細なボタンやビーズが整然と括りつけられ、全体に穏やかな光明を与えている。
 
 このレベルのものがこれだけの量、ここにあることは奇跡なのではないだろうか。早速、僕は物色を始めて、様々なモチーフを見て、どれを娘にプレゼントしようかと考え始めた。
 
 像、虎、孔雀、そしてビルマの伝説の鳥カラウェイ。そしてその鳥を四方に意匠として用いた大型船のモチーフなどこの土地ならではだ。
 
 僕は汗だくになりながら、30枚くらいを山から引っ張り出して、咳き込みながら埃を吹いたり手で払ったりして物色した。
 
 しばらくの間、そんな感じでああでもないこうでもないと決めあぐねた挙句、最終的には時代考証と手業の良さで決めることにした。一枚目はビルマの国鳥、孔雀のモチーフで、確か旧日本軍がビルマの独立を支援した際のはじめの国旗に描かれていたはずだ。全体を埋め尽くした無数のビーズと錦糸が、気の遠くなるような作業の証であることを物語っている。時代的にも70年前のものだというので、当時のナショナリズムの昂まってゆく時代の息吹を感じさせるようでもある。アメリカドルで$30だった。
 
 もう一枚は50年ほど前のものでもう少し時代は浅いのだが、インド方面から巨大な仏像を内包したパゴダを引き連れてやってきた伝説の鳥カラウェイを模した大型船のモチーフのものにした。これも$30だった。
 
 カラウェイの表情やパゴダとか雲の様子がコミカルでなんとなく現代っぽさが表に出ている。
 
 こうして時を忘れてしまうクセは前からあるのだが、チットコーも先があるからそろそろ行こうかというような雰囲気でいたので、僕は支払いを済ませるべくフロントに向かった。汗だくのまま財布から紙幣を出そうとしたが足りなさそうなので、クレジットカードを若い店主に渡したところで、彼は何杯もコップに水を入れてくれた。Tシャツはおろかズボンまで大量の汗をかいていたのでみるに見かねたのかもしれない。僕は5杯くらい飲んだだろうか。
 
 「いや暑くて大変だね。君たちはすごいよ。」
 
 僕はつい暑さに愚痴を言ったが、若い店主も、いやこれは例年よりも暑くて厳しいですよ、僕らでもキツいですと言ってくれたので悪い気はしなかった。
 
 それから15分くらいクレジットカードを試みたが、電波がうまく届かず、カードを読み取る機械が作動しない。仕方なく僕はATMに行こうと促して、チットコーと店主に連れて行ってくれるように伝えた。
 
 すぐ近くにあるから一緒に行こうということになったが、とは言っても3kmほど先の大通り沿いの銀行までは多少の時間を要した。
ATMからクレジットカードのキャッシングで現金を引き落とすと、僕はチャット紙幣を彼に渡して、取引成立となった。
 
 僕は礼を言ってから、若い店主とFacebookでつながって、それからトゥクトゥクに乗り込んで、旅を続けた。
 
 
「サガインの丘へ」

 トゥクトゥクはまた風をなびかせて湖のほとりを走ってゆく。少し怠さを感じた。それはそうだ。夢中になって忘れていたが、はっきりと空腹を感じたから。
 
 チットコーは大橋にさしかかるとき、手前の橋脚のところで一旦停止して、ここは写真スポットだと教えてくれた。
 
 橋は片側二車線の幅のある重厚なものだった。この近辺でイラワジ河を車で渡るにはこの手段しかない。


 
 遥か遠くに霞んだ向こう岸は、いささか中央がせり上がった橋のせいでその全容を知ることが難しかった。それでも目に留まった丘を指差した僕に向かって、チットコーは言った。あれがサガインだと。
 

 サガインの丘には、緬甸(ビルマ)方面の戦没者の慰霊碑が建てられているという。
 
 ラングーンからマンダレーに至り、そして北西に向かってチンドウィン川を渡り、歩荷の果てに山岳地帯からインド国境を越えれば、太平洋戦争の悲劇の中でも最悪と呼ばれるインパール作戦の舞台が待っている。
 
 その道は白骨街道と呼ばれる。
 そのことをふと思い出しながら、僕は背筋に悪寒のようなものを感じていた。
 
 (つづく)