東南アジア紀行 2019 <ミャンマー編 その4> バガン 初日

「オールド・バガンへ」
 
 5月9日。
 
 目覚めると、前日と同様の時刻に朝食を済ませ、チェックアウトのための荷造りをした。二泊はあっという間だった。
 
 思えば紀行文を書くきっかけになった旅では、二週間で8回も飛行機に乗るというクレイジーな旅程を組んでしまい、すべての行き先で最大二泊という有様だったことを後で反省したものだ。
 

 すでにバンコクのチャトチャック市場で購入した工芸品や雑貨で少し荷が増えていた。しかし、今回の旅ではあらかじめバンコクでもミャンマーでも買い物をする想定でいたから、90Lのソフトケースは着替え以外ほぼ空の状態で日本を出発していた。
 
 荷造りを終えて、いつものように日記をつけるくらいの気持ちで部屋の写真を数枚撮ってから、フロントへ荷物を下ろした。


 
 ホテル内部の構造が少し変わっていて、一回と二階の間にエレベーターホールだけ宙二階として分かれている。そのためスーツケースを転がす時に、いちいち持ち上げて上段に乗せたり下段に下ろしたりと面倒だった。
 
 フロントでは、チェックアウトの時に10分ほど待たされた。理由はスタッフが部屋の状態をチェックして何か問題があるかないかを確認するためらしい。
 
 そのためチットコーとの待ち合わせ時間をそのぶん遅れてしまうことになった。iPhoneのMessengerアプリを開くと、数分前に彼からメッセージが入っていて、ちょうどホテルの前まで来たらしい。
 
 僕は10分遅れると伝えると、オーケーと返事が来た。
 
 問題なくチェックアウトして表へ出ると、伝統衣装のロンギーを穿いたチットコーがトゥクトゥクの中にいた。
 
 僕は大きなソフトケースを転がしてトゥクトゥクのところまで持っていき、後部座席の後ろの小さな物置場に強引に横向きに載せてもらった。ソフトケースは後部座席にはみ出していて、背中を押し戻すようだったので、チットコーが少し気にかけていたが、僕は大丈夫だと伝えた。
 
 「まずはマハームニ・パゴダに行こう。」
 
 そう言うと、チットコーはエンジンをかけて出発した。
 
 あらかじめ部屋でGoogleを使って調べていたのだが、僕はマンダレーの地元民たちが商売をするゼージョー市場にも寄る時間はあるかと聞いてみた。
 
 「時間があまりないかもしれない。」
 
 「15分もあればいいんだ。雰囲気がわかればいいから。」
 
 「オーケー。マハームニ・パゴダに行ってから、バス乗り場の近くにあるから連れていくよ。市場に。」
 
 僕は頼むと言って、安心してトゥクトゥクに揺られた。
 
 朝の交通ラッシュはなかなかのものだった。マンダレーは市街地であっても、片側三車線くらいのバイパスのような大通りでないかぎり、基本的に信号機は付いていない。東京の片側二車線の山手通りや環七のような大動脈に信号機が無いと言えばイメージがつくだろうか。
 

 もちろん東京ほどの交通量ではないにしても、朝のラッシュともなればかなりの数の乗用車、トラック、スクーターの群れが交差点に押し寄せてくる。
 
 優先順位は特に決まりごとが無いのか、皆がいっせいに突っ込んでくるものだから、交差点は渋滞し、お互いが道を塞いでしまうため、針の穴を通すような形で抜けるしかない。
 

 その点、スクーターやトゥクトゥクは小回りが効くので有利だと言える。何度か、数分にわたって完全にスタックする場面があったが、チットコーは最善を尽くしてすり抜けてくれた。
 
 
「マハームニ・パゴダ(Mahamuni Buddha Temple)」

 マハームニ・パゴダの正面玄関に到着する頃には、あたりは通勤の車と参拝客を乗せた車やスクーターの群れでごった返していた。チットコーは最右翼の歩道ギリギリを勢いよく通過し、右の小道に折れて、そこから200メートルほど行ったところにある、南側の小門の前で停車した。
 
 「ここは空いているよ。ずっと奥に進むと、真ん中にブッダがいるから。」
 
 僕はオーケーと言いながらトゥクトゥクから降りて、朝だというのにすでに突き刺すような強い日光に目を細めた。門はどうやら裏口のようで、メンテナンスがあまり行き届いていないようだ。入ったところは何やら工事現場のようだ。
 
 「わかった。工事中みたいだから、サンダルは脱がなくていいのかい?」
 
 「サンダルは脱ぐ。お寺だからね。」
 
 僕は仕方ないなと頷いて、早めに戻るよと伝えて、サンダルを下駄箱に入れて、境内に歩み行った。
 
 床には工事現場特有のコンクリートの破片や細かいダスト、それからセメントの固まりそこねたものなどが散乱していて、僕の両足を痛めつけた。なるべく爪先立ちで歩いてはみたが、それでも避けられないものは多かった。
 

 奥へ進むと、かなり多くの人々が床に伏して祈りを捧げている部屋の脇腹のあたりから足を踏み入れることになった。僕ははじめ彼らの後ろのほうに回って、遠くから仏像を眺めることにした。
 

 仏像には数人の人がたかっていて、何かを持って仏像に触れているようだ。
 
 気がつくと、今僕がいる礼拝室の後部のカーペットの上で参拝している人々は全員女性だった。
 
 仏像のすぐ手前、つまりもう一部屋奥のほうに男性の姿が見えた。僕はそこに行ってみることにした。
 
 たどり着くと、そこには金属製のパイプで仕切られたゲートがあって警備員のような男性が立っていた。手前の部屋から奥の部屋へはそこを通る必要がある。
 
 しばらくきょろきょろしていると、男性は僕に向かって、手で招くような仕草をした。入っていいらしい。
 
 中に入ると、仏像がすぐ近くに見えた。だが僕がいる部屋よりもさらに前には、二人の仏僧がお経を唱えている。なるほど、ミャンマーでは仏像に近づける身分が決まっているのだ。仏に最も近づけるのが僧侶、その次に男性、最後に女性となるようだ。僧侶は理解できる。だが、他国の文化を責めるつもりはないが、男女の区別はばかばかしく思えた。
 

 仏像に近づくことができたのでやっと見えてきたのだが、なんと仏像に触れている人たちは、カゴに入った金箔をべたべたと仏像に貼り付けていた。そのせいで、よく見ると、仏様の足や体は金箔が盛られて腫れ上がっている。
 
 金箔を貼っている人らは仏に帰依する一般人のようだが、それなりのお布施を行なうことで中に入ることができるのかもしれない。
 
 僕はそれから寺院を回遊して、またお決まりのお土産ショップを横目に、チットコーの待つ南側の出口を目指した。
 

 それから僕らはゼージョー市場に向けて、トゥクトゥクを走らせた。
 
 
 
「ゼージョー市場」(Zegyo Market)」
 
 市場の周りは駐車する場所どころか、歩く隙間を見つけるのが難しいくらいの人混みで、ランダムに突き出た出店や屋台もある。
 
 チットコーは、市場より1ブロック手前でトゥクトゥクを停めて、ここから先は車で移動するのが難しいから、ここで待っているから歩いていってきてくれと言った。
 
 僕は了解したと伝えて、歩き始めた。確かに徒歩であっても道を進むのに手間取った。歩道から車道に出たり、また戻ったりと工夫した。
 

 しかも、市場自体は大きなモールのような建物の中にある。だがモールといっても日本や北米のモールとは異なり、一階ごとに小さな店が所狭しとひしめき合っていて、慣れていないと、一度来た店に帰ってくるのはほぼ不可能だし、入ってきた入口を見つけることすら難しいような迷路のような場所だ。
 
 一階はどこもかしこも同じような見た目の衣類を売っている店がゴマンとあった。緑色のスカートの学生服や、その上に着るシャツのセットは、何度目にしたかわからない。男性用の服と言えば、イタリアかトルコ風の趣味の悪い刺繍や光り物の付いたシャツがほとんどで、その下と言えば、伝統衣装のロンギーとなる。なかなか攻めたコーディネートだ。
 

 一階は冷房が効いていないのか、非常に蒸し暑く、通路も狭いので空気が滞留して、極めて不快だった。汗がとめどなく吹き出してきた。
 
 僕は二階に上がろうと思い、階段のところまで来ると、肌に涼しい風を感じた。ここには冷房があるようだ。そのせいか、階段は涼をとる人々で埋め尽くされていて、中には踊り場で寝ている人たちもいた。
 
 僕は彼らをまたいで二階に上がった。二階は化粧品や生活用品を売る店が多かった。買い物客の数は一階と比べて少ない。
 
 二階に上がると早速コスメの店に入って、黄色い日焼止めのペーストを探してみた。前日にチットコーから『タナカ(Thanaka)』と聞いてはいたが、この時は名前を忘れてしまい、店員には伝統的で、黄色くて、顔や手に塗るものでと頑張って説明してみたが、その店員は英語そのものがわからないようで、奥にいる別のスタッフにヘルプを求めていた。
 
 僕は再び英語が話せる店員に説明してみると、タナカだねとわかってはくれたが、ここには無いと言われてしまった。この化粧品店はモダンな店構えだったから、あまり古風なものは売っていないのかもしれない。
 
 僕はありがとうと伝えて店を後にした。時計を見ると15分経過していたから、チットコーの待つ場所へ戻ることにした。
しかし案の定、入口だと思って出たところは全く見当違いの場所だったらしく、 Google Mapを立ち上げてみると、モールの裏側の少し離れた出口から表に出てしまったらしい。
 

 僕は急ぎ足で戻った。その途中、オリーブドラブと黒の色味に、僕は引き寄せられた。単なる屋台ではあったが、販売員のおじさんが僕に向かって頷いた。
 
 近づいて話しかけてみると、ミャンマーの軍モノの払い下げを売っているらしい。トラウザーを手にとって見た瞬間にディテールがグルカっぽいことが見て取れた。イギリス軍が永きにわたって統治していたからかもしれない。
 

 僕はそこで新品のTシャツを一枚2000チャットに値切って三枚と、4000チャットの長袖BDUシャツを一枚買った。合わせて450円もしない。
 
 チットコーのところに急いで戻ると、彼は余裕な感じでスマホをいじっていた。
 
 じゃあ行こうかということになり、市場のエリアから5分も行くと、僕らはOK Expressのバス乗り場に到着した。
 
 チットコーは後部からソフトケースを降ろしてくれるようだったが、重いので僕は自分で降ろした。それから僕は彼にお礼を言って、2時間足らずではあったが10,000チャットを手渡した。
 
 「サンキュー、チットコー。あなたは良い案内人だったよ。」  
   
 「オーケー、オーケー。」
 
 僕らは握手した。
 
 「テイク・ピクチャー。」
 
 僕らは互いにそう呼びかけて、バス会社のスタッフに一枚お願いした。
 

 それから僕らは別れた。
 
 バスはネットで予約済みだったが、事務所ではすべて紙で仕事をしているようで、ぼろぼろになったノートで名前を探すことになった。
 

 もちろん、名前はしっかりと載っていた。
 
 バスに乗り込むと、弱いが冷房は効いていた。OK Expressの水が配られてから、バスは出発した。僕は微睡んだ。
 

 
 
 
「バガン・バスターミナルから、ロイヤル・バガン・ホテル(Royal Bagan Hotel)へ」
 
 途中トイレ休憩などを挟んで、およそ5時間を経て、バガンに到着した。
 

 だがGoogle Mapを見るとバガンのバスターミナルは旧市内ニャンウーやニューバガンまではまだ10kmほど離れていた。
 
 マイクロバスは身動きが取りづらいので、先にバスを降りて、運転手と助手の荷下ろしが終わるのを待つ。バスの運転席と後方に山積みになったスーツケースか次々とバスの外に降ろされるのを見ているうちに、一気に汗が噴き出してくる。
 

 気温は40℃を超えていた。
 
 マンダレーと比べると、日差しが強烈さを増していた。空気は乾燥していて紫外線を遮るものがない。じりじりと肌が焼かれていく音が聞こえてきそうなほどだ。
 
 荷物を受け取ってから、宿泊先ホテルのあるニャンウーまでの行き方を考えた。
 
 振り返ってみると、バスに同乗していた白人の三人が、白タクのドライバーと価格交渉をしている。ニューバガンまで20,000チャットだと言うことが聞こえ、それは高すぎると文句を言っていた。日陰でもないところで、よくやる。
 
 スペインかどこかラテンの国から来たカップル二人と、単独で旅をしている学生くらいの女子は、バスの車内でターミナルからニューバガンまでタクシーをシェアしないかと、マンダレーを出発して一時間もしないうちに、そんな相談をしていた。
 
 白人の女子は、スマホを見ていたのをやめると、そわそわしだして、周囲の席のアジア人に目もくれず、席の前のほうの白人にずいぶん斜め後ろから話しかけていたので、僕は違和感を感じたのを思い出した。
 
 バスの日陰の中から周りを窺っていた僕の右後ろ側から、タクシードライバーの男性が歩み寄ってきた。
 
 どこまで行くのかと聞かれたので、僕はニャンウーまでだと答えて、バスターミナルに入ったところで見た、市内まで6,500チャットと書かれたサインの事を伝えた。
 
 すると男性は遠くのほうへ手を挙げて、こちらへ来いと指示を出した。どうやらタクシーを呼んだようだ。
 
 タクシーがやってくると、先ほどの男性はドライバーと何やら話してから、ニャンウーまで6,500チャットですと僕に言った。こちらも白タクのようではあるが、正式料金を提示してきたので、僕は承諾してスーツケースをトランクに入れてから後部座席に乗車した。
 
 車に入ると、運転手は窓を開けていたので、暑くて堪らないから冷房を入れてくれと頼んだ。それから冷房を入れてくれたが、前の座席の窓はなぜかうっすら開けたままでいたので、効果はそれほど大きくは無かった。もうとやかく言うのはやめた。
 
 車は2000年代初頭くらいの日本車の中古だろう。
 
 「ETCカードが挿入されていません。」
 
 エンジンがかかって発車する時には、よく聞き覚えのあるアナウンスが聞こえて、思わず運転手に話しかけてしまった。
 
 日本車は一番だと言っていて、どうやら苦労して買ったらしい。
 
 数キロ走ったところに道路脇に観光センターの小屋があって、そこで20,000チャットだったか、観光税を支払った。日本人であることがわかると、片言の日本語で3,000円でも良いと言っていたが、その方が断然分が悪いのでビルマ・チャットで支払った。
 
 それから20分ほどは、あたりはところどころに木々が密生する、乾燥した赤土の平原を一本の道が直線的に走っているだけだった。
その時、ドライバーが話しかけてきた。
 
 「明日、ドライバーいりますか? 日の出、日没、パゴダ巡り。」
 
 「いくらですか?」
 
 「午前中夜明けからお昼頃で30,000チャット。丸1日で50,000チャット。」
 
 冷房付きの車でこのレートは悪くないと僕は思った。しかも、地図を見るかぎり、バガンでパゴダを見て回るには、移動にはそれなりの距離をこなす必要がある。その手段が車以外に考えられないうちは、仕方ないと思った。
 
 その前に、以前ネットで見ていた、バガンから南に行ったところにある、崖の上にある仏教寺院が気になっていたので、それを聞いてみることにした。
 
 「あの崖の上の寺院まではどれくらいかかりますか?」
 
 「往復3時間です。中を見るのに1時間。」
 
 「では朝出発して行けば、午前中に終わりますね?」
 
 「はい。充分です。」
 
 「オーケー。では明日、そのプランでお願いします。」
 
 「わかりました。8時スタートでいいですか?」
 
 「大丈夫です。朝食の後、ホテルのロビーにいるようにします。」
 
 こうして僕は、早速明日の予定をフィックスした。
 
 そうこうしているうちに、進行中の車の両脇に片側二車線の道が現れて、左右にはホテルや飲食店が見えるようになってきた。地図を見る限り、僕の止まるオールド・バガン・ホテルは近そうだ。
 
 ホテルはブロックの最北端にあった。入り口は巨大ガラスによる採光がなされていて、ある程度モダンな造りのようだ。
 

 フロントでチェックインの際には、スタッフがオレンジ・ジュースを運んできて、待合用のテーブルにそっと置いた。しばらくするとパスポートのコピーなど一連のチェックインの手続きが終わったようなので部屋へ案内された。
 

 1Fのフロントから近い部屋は広く、清潔感があった。
 
 一通り説明を受けて、早速Wi-fiへの接続を試みてみたが、なんと繋がらなかった。
 
 スタッフ曰く、フロント・ロビーのWi-fiは信号が強いが、それ以外は今メンテナンス中で、業者を呼び寄せているという。じゃあ今日中には修理されるよねと尋ねると、まだこちらに向かっているところなので何とも答えられませんと言う。
 
 なんと業者ははるばるヤンゴンから車で向かっているというから、一体いつ出発したかは知らないが、早くても到着は今夜か明朝だろうから期待はできなかった。
 
 僕は仕事の関係でWi-fiは必要なので、部屋を移させてくれないかと頼んだ。それから2Fの部屋へ案内されたが、ここもWi-fiが繋がらず、却下となった。
 
 これ以外に部屋は無いというので、僕はマネージャーと話したいとスタッフに伝えると、今日はマネージャーは休みだという。
 
 なかなか不都合なことが続くなと自らの不運さを恨めしく思いながらも、僕は食い下がって、様々な選択肢をスタッフと一緒に考えてみた。幸い、スタッフの一人は英語が堪能だったので助かった。
 
 結局、フロントから一番近い部屋を使わせてもらえることになり、清掃に15分ほどかけてもらってから、僕はやっと入室となり、落ち着くことができた。
 
 シャワーを浴びて、荷ほどきをして、備え付けの水を飲んでいるうちに、久しぶりの冷房に、僕は眠気を覚えた。
時計を見ると4時30分だった。
 
 僕は空腹を覚えて、今回は近くのマーケットで何かストリート・フードでも探そうと決めた。前から調べていたマニ・シトゥ市場が近くにある。
僕は水や必需品だけをナイロン・バッグに入れて、サンダルに履き替えてホテルを出発した。
 
 少しずつ傾きかけた夕刻の日差しではあるが、暑さは衰えることがないように思えた。道のりは歩くようにはできていないようだ。いや、歩いている人間は皆無で、だいたいスクーターか、古い乗用車か、ピックアップ・トラックの類だった。
 
 僕はおよそ1km先の市場までゆっくりと、こまめに水分を摂りながら歩いていった。途中で、道路の舗装作業をしている様子に出くわし、すべてが人力で行なわれるのだなと感心した。タールを撒くのもバケツでやっていた。
 

 市場にたどり着くと、もう店じまいな雰囲気なところも多かった。
 
 そして、トタンや端材を組み合わせて、なんとか立っているような壊れかけのバラックの建物が軒を並べ、あたりには様々なゴミや廃棄物が散乱している様子が、マンダレーで見てきたあらゆるものと比べて、凄まじく貧しく見えた。
 

 ストリート・フードを販売している店舗も、最後一体いつ洗ったのか分からない調理用具や、洗いが甘い器などが重ねてあるだけでなく、辺りには調味料と腐った食材や残飯などが混ざりあったものだろうか、強烈な悪臭が漂っていた。
 
 僕はこの一角では一切の食欲が湧かず、市場の奥へと進んでいった。
 

 途中、地元の編み細工の工芸品の店を見つけて、牛の鼻につけるヒモや、トイレット・ペーパーをティッシュ代わりにするホルダーを買った。これらは優れた籠の編み上げの技術が光っていた。
 

 それから緑茶を袋に小分けにする作業を行なっている女性たちに作業現場を見せてもらった。ミャンマーでは緑茶は乾燥させず、発酵させた状態で袋に入って売られている。
 
 女性らに写真を撮っても良いかと尋ねたところ、綺麗に撮ってくれたらいいよと冗談めいて話してくれたので安心したが、果たしてシャッターチャンスを逃してしまったようで、出来映えが良くない。
 

 こうしてほぼ閉まりかけの市場ではあったが、一通り見終わると、市場を突き抜けたところに大通りが現れた。
 
 どうやらこちら側が表玄関のようで、屋台や飲食店は人が多く出入りして繁盛していて、肉を焼いた美味しそうなにおいが立ち込めていた。
 
 市場の後、僕はニャンウーでは有名は比較的新しい寺院を訪れて、そこで日没を撮影したいと考えていたから、iPhoneでより多くを調べて、せっかくならそこまでの道程で評価の高い Shwe Moeレストランを探すことにしていた。
 
 歩いて10分も行くと、目当てのレストランが現れた。
 
 チーク材の木造建築だろうか、なかなか立派な佇まいだ。午後5時とまだ早いからか、それともこの暑さのせいか、自分以外にお客は誰もいなかったが、入店すると、奥から中年の女性が出てきたので、訊いてみると店は営業しているという。
 

 僕は早速マンダレー・ビールを注文してから、早速グラスに注いで一杯目を瞬時に飲み干した。喉が渇いていたから、ビールの味は格別だった。
 
 それからチキンカレーも頼んだ。この店の料理はなかなか上等だった。
 

 まだこれから日没を拝もうというのだから先を急がなくてはならない。
 
 早々と会計を済ませて、僕は寺院へ向けて歩を進めた。
 
 それから1.5kmほど、斜陽の日差しの中を僕は歩き続けた。
 
 繰り返すが、ほとんど徒歩の人間はいない。そのせいか、僕は目標を持つことができず、さっきの市場の時と同じように、今回も寺院に正面玄関からアプローチする普通のルートを見つけることができなかった。
 

 気がつくと、僕は古びた民家や壊れかけの仏塔を縫って歩いて、裏道に出ていた。そこからは、地元の人々が生活する場所を目撃しながらの行程となった。集落の周りには洗濯をしたり身体を洗ったりするための洗い場があり、その横にはゴミの山があり、子供達が裸足で走り回っている。多くの野良犬が思い思いに暮らしていて、そのすぐ近くには朽ちたパゴダが点在している。
 

 これがバガンのリアリズムなのだと感じた。
 
 
 
「シュエズィーゴン・パゴダ(Shwezigon Pagoda)」

 僕は裏口から寺院に入り、サンダルを脱いで裸足になってから、先へと進んだ。
 

 寺院は中央に円形のパゴダを構えた、オーソドックスなミャンマー様式だった。ここにも回廊が巡らされていて、その中にお土産ショップや工芸品を売る店が軒を並べていた。
 

 

 回廊を歩いていると、数人の中年女性に声をかけられ、半ば強引に、奥に御利益のある仏様の像があるから見ていくと良いと勧められた。
 

 促されるままそちらへ向かって行くと、さらに数人が付いてきて、あれやこれや御利益の話とか、お花を供えると良いからいくらで売るよとか、いつもの調子でセールス・トークが始まってしまった。
 
 僕は面倒だなと思い、有料だったら入らないし、そこまで先導されても料金は支払わないからねと伝えた。
 
 もちろん返答は、「大丈夫だから」だったが、断言はしたくないが、僕は予想がついていた。
 
 目指していた御利益のある仏像は、寺院から北側の外に出たところすぐにある、貧しい地元民の集落の縁に建てられていて、周囲が鉄格子で囲まれていた。
 
 もちろん中に入るのは有料だ。僕はやはりそう来たかと思い、一切を受け付けず、断固として断った。生活が苦しいのはわかるが、自分のみがとやかくできることではない。
 
 僕はそのまま集落を横切って、北の方角へと進み、イラワジ河のほとりを探した。そこへ行けば、向かって左の西側に日没が見えるかもしれない。
 
 それから3分も歩かないうちに、確かにイラワジ河はその悠久な姿を現した。
 
 初めは木々から漏れて地面を照らす赤さに気づいて見上げてみると、ちょうど木々の間に夕陽が覗かせていた。
 

 僕は河岸まで降りて、もっと見晴らしの良いところを探そうと思った。
 
 岸までは下に降りる階段が続いている。ふと右側の壁を見ると、それは壁ではなく、獅子の石像だった。つまり、この寺院も川からの玄関には一対の獅子が見張っていることになる。僕にはもう一体の所在は明らかではなかったが。
 

 階段を下り切ると、岸は一面砂地だった。細かな砂が柔らかくサンダルを飲み込んで、足の指に流れ込んでくる。その砂の温度は、ちょうど体温に近いのか、とても心地良かった。
 
 それから遮蔽物のない水面がよく見えるところまで歩いていくと、ちょうど夕陽がオレンジから赤に色が移り変わってゆく絶妙なタイミングだった。すぐにカメラとスマホで何枚か撮って、おまけに動画も撮影して、できるだけ雰囲気も合わせて取り込んでみた。
 

 目を閉じれば、あたりは鳥のさえずりと昆虫の鳴き声で満たされていて、肌を撫でシャツを揺らす涼しげなそよ風が、木々の瑞々しい香りを運び、深呼吸を誘うような時間がしばらく続いた。
 
 僕はこの瞬間、誰かと一緒にいるような錯覚に陥った。
 
 再び目を開けると、目の前を悠然とのびやかに流れるイラワジ河の水面が、真っ赤な夕陽を細やかに映し出していて、まるで鱗のように見えるそれは、まさに大河が龍に喩えられることのルーツを直感的に感得させる瞬間だった。
 
 そして夕陽は今日も地平線に到達することなく、ミャンマーの厚い大気の中に姿を消していった。
 

 僕は後ろを振り返りながら、階段の麓まで歩いたところで、上からまだ若い犬が尻尾を振りながら下りてきた。
 
 僕は犬を撫でてやり、少し戯れた。階段の上の方には持ち主の男性が数人の友人たちと階段に座って日没のひと時を談笑しながら過ごしていた。
 
 彼と目があった時には、お互いに笑顔を作って挨拶した。
 
 僕が犬を触りながら階段を登っていると、その途中でいくつもの大きな豆の鞘のようなものを見つけた。
 
 中には一列の植物の種が詰まっていた。
 

 僕はそれらをポケットに入れて、寺院の方を目指して一歩を踏み出した。
 
 
 
「バガンのハンバーガー」
 
 寺院の表側に向かっていくうちに人々の数が増え、土産物屋も同じだった。だが日没の後だから誰もが帰り支度をしていて、かえって呼びかけられることは無かった。
 
僕はコンクリートの地面になったところでサンダルを放り出して履こうと試みたが、すぐに後ろから、「シューズはダメだよ、あっちだよ」と指示された。地面はすでに小さなゴミや小石、レンガの破片などが見受けられたので、もう場外かと思ったのだが。
 
 僕は爪先立ちで歩いてゆき、完全に寺院の外に出てからサンダルに足を滑り込ませた。
 
 見上げると、前方には野球場ほどもある砂地が広がっていて、ちらほらとトゥクトゥクが停車している。赤砂の上に白いボディがくっきりと見えた。
 

 僕は砂地を歩いた。トゥクトゥクのドライバーたちが、どこまで行くんだ、乗ってくかと訊いてきたが、もうすぐそこだから歩いて帰るよと伝えた。
 
 それから砂地の駐車場の道路に近い方にあるレンガ造りの古いパゴダを横目に、僕は車通りの少ない道路を横切って、Google Mapを見ながら、ホテルの方向目指して数ブロックをジグザクに歩いた。
 

 途中、わりと評価の高いBiboと呼ばれるハンバーガー屋があったので、まだカレーを食べてからさほど時間が経過していなかったが、興味の方が先行して、行ってみることにした。
 
 数分歩いた後、到着する頃には夜の帳が下りようとしていた。
 

 僕はいつもと趣向を変えて、ダゴンビールを注文して喉を潤してから、さらにメニューを見て、シェフおすすめだという4900チャット(350円)のテリヤキバーガーを注文した。
 
 小さな店だが繁盛しているようで、他の席にはカップルや友人同士だろうか、いずれも白人の客が多かった。
 
 バーガーは10分ほどで提供された。目に飛び込んできた緑色のバンが印象的だったのでスタッフにそのことを訊いてみると、緑茶のパウダーが入っているという。つまり抹茶と言うこともできるかもしれない。
 
 内側には、粗挽き牛肉のパティが二枚に、あとはトマトとレタス、それにパイナップルが入っているのでボリュームたっぷりだった。
 
 味のほうはというと、牛肉の旨味にパイナップルとテリヤキ・ソースがうまく調和して、ハワイアン・バーガーに代表される甘辛のバランスがとてもよかった。
 

 口いっぱいに広がるトロピカル系の世界観がミャンマーの気候と相まって上質な体験をもたらしてくれたから、明らかにこれまでのミャンマーの味の質とは別格だった。そして、付け合わせのフライドポテトも久しぶりの味わいと食感だった。
 
 あまり空腹ではないと思っていたが、歩きまわっていたせいか、結局、難なく食べ干してしまった。
 
 そろそろ明日のプランを立てようとバーガーの余韻に浸りながらスマホを見ていると、新しい客二人がやってきて、横の席に案内された。
 
 明らかにハングル語を話す客は、周囲を気にかけることもなく、かなりの声量で、ひたすら喋り倒していたので、僕は拍子抜けして、早々とビールを飲み干して、会計を済ませて店を出た。
 
 ホテルまでは歩いて5分ほどだった。表通りから路地裏を通ってホテルが軒を並べる通りに向かうわけだが、その暗がりを右側の方から二人の背の高い女性が歩いてきて、「今夜はどこかに行くの」と声をかけてきた。
 
 いやに馴れ馴れしいなと思って返答を控えたまま歩き続け、10mほど近くまできたところで街灯のおかげで気付いたのだが、どうやら彼らはニューハーフかオカマだった。
 
 「ジャパンから? 良いバーがあるから行かない?」
 
 「遠慮しておく。帰るよ。」
 
 僕はそう答えて足を止めずに歩き続けた。後ろから「つまらない(Boring)」と言われたが、だんだん声が遠ざかっていくので、諦めたらしい。
 
 僕はホテルの車寄せのあたりで一度後ろを振り返って、ついてきていないことを確かめた。
 

 そういえば、車寄せの横には10台ほどの同じモデルのスクーターが整然と並べてある。その右奥の電話ボックスほどの小屋に男性が居たので、僕はレンタル・バイクかと訊いてみた。
 
 するとフロントを指差すので、僕はフロントまで歩いて問い合わせてみたところ、一日8000チャットで借りられるという。最高時速60kmくらいは出るようで、電動バイクなので給油の必要は無いし、値段も570円くらいだから、急に興味が湧いてきた。
 
 これでバガンの主要なパゴダを廻るのはどうだろうか。数千あるパゴダの中で観光名所を選んだとしても軽く10はある。
 
 明日は朝からポッパ山まで例のタクシー運転手を雇っている。しかし、まずはバガンの真骨頂たる、パゴダを一通り見るのが先なのではないかと自問自答した。
 
 少し考えてから僕は決断して、フロントにタクシー運転手の名刺を渡して、電話をかけてもらおうとした。
 
 しかし、フロントのスタッフが言うには夜遅いから明日の朝で良いとのことだった。運転手はきっと僕からの稼ぎを期待していると思ったので、できるだけ早く知らせてやりたいという善意ではあったが、夜の9時を回ってからの電話はまずいようだ。
 
 では明日の朝でいいねと僕は念を押して、加えて電動スクーターを借りたい旨を伝えた。
 
 部屋に戻ると、カードキーが挿さっていないと稼働しないシステムのせいで、部屋は生暖かかった。
 
 僕はすぐに冷房を入れた。この時になって気づいたが、このホテルも設定温度は18℃になっている。だいたい東南アジアのホテルはこういう感じだ。
 
 シャワーを浴びてさっぱりしてから部屋に戻ろうとドアを開けると、冷え切った空気が流れ込んできて、目が覚めるように爽快だった。僕は室温を25℃に設定した。
 
 それから僕はベッドの背もたれに向かって枕を立てて、それに背中を押し付けて座椅子のような形で座り、今朝のことを思い出していた。
 
 今日はマンダレーの朝からはじまり、見事な仏教寺院から活気にあふれたゼージョー市場に立ち寄って、それからバスに乗ってバガンにやってきたのだった。
 
 目を瞑ると、夕陽の風景がまぶたの裏に焼き付いていた。
 

 それは哀愁に満ちていた。僕は胸が締め付けられるような気持ちを抱きながらも、自分はどちらかといえば朝日よりも夕陽だ、と奇妙な確信に近い嗜好を脳裏で表明していた。そのことに気づいた瞬間、それを否定し、頭の中で、朝日のほうが良いに決まっていると言い換えた。
 
 豊かに萌えんだ木々の隙間から差し込む夕陽が頬を赤らめて、夕焼けチャイムの音が響くと、僕は友達たちと走り回って遊んでいるのをやめて、砂が入った靴を脱いでからひっくり返して砂を落として、みんなと水をかけあいながら手を洗って、蛇口を上向きにしてゴクゴクと喉を鳴らして水を飲んでから、別方向の友達にはじゃあねと別れを言い、近所の友達とまた帰り道に小石や空き缶を蹴って遊びながら、最後にまた明日ねとお互いにさよならを言い、ちょっぴり悲しい思いで家に帰る。それを毎日繰り返しながら、また明日は別の出来事と成長が待っていた時代があった。
 
 僕が旅に魅了されているのも同じかもしれない。旅は人生そのものだ。夕陽が終末へ向かう象徴であっても、それは地球の裏側では朝日だ。だから冒険は終わらない。
 
 そうやってぶつぶつ考えながら、僕はいつのまにか眠りに落ちたのだと思う。
 
 (つづく)