様式としての「アニメ」を考える――エイゼンシュテインの弁証法的モンタージュ

 
  海外産の「アニメ」
 
 海外のプロデューサーやアニメーターと日本のアニメについて話すことがある。
 
 話の結末は、日本のアニメは特有の「スタイル」であり、アニメーションのリミテッド感――特にアクション・カットに顕著な、強調されたデフォルメ――と、フラットで極端な非現実的な表情を持つキャラクター・デザインの造形にあるということに落ち着く。
 
 近年、北米主導で南米やアジアに発注されるプロジェクトがアニメ風で作られたり、中国国産アニメーションが日本のアニメのスタイルで発表されたりすることも増えてきた。前者にはニコロデオンの”The Rise of Teenage Mutant Ninja Turtles”が挙げられ、後者はYouTubeにまとまったMAD映像がある。
 
 https://youtu.be/iNV6AXPeJeU
 
 https://www.youtube.com/watch?v=IPr3SgYlhFM
 
 確かに様式としては「アニメ」に通じる要素がいくつも見受けられる。しかし、どこかやはり日本製のアニメとは一線を画しているようにも思える。
いったい、それは何故なのか。
 
 はたして、様式としての「アニメ」に込められた、北米または中国のプロデューサーやアニメーターの意図は、どこに向けられていたのか。
 
 大きなポイントは、アニメーションの定義と、ハリウッド流の映像のダイナミズムにあると考えられる。
 
 まず北米の視点は、アニメーションというものは、キャラクターがいかに背景の前で演じるかに向けられている。キャラクターはボディ・ランゲージを駆使しつつ、(通常、たたみかける台詞と共に)多くを表現する。
 
 北米のアニメーション関係者と話すときに驚かされるのは、彼らが「日本のアニメは、枚数が少なく、止め絵やスライドを多用し、記号的な表情やジェスチャーでごまかしているから、アニメーションという意味では高度ではない」と述べることだ。なぜなら私たち日本人はきっとアニメは世界的にも優れたアートだと信じているため、こう聞かされるとリアクションに困ってしまう。
 
 つまり北米からすると、キャラクターがより大きく動き、多彩な表情を見せるほうがアニメーションの定義からすると正しいということになる。
 
 もう一つのダイナミズムについては、歴史的に日本のアニメと北米のアニメーションが辿ってきた映像表現の文化の違いが大きく影響しているといえる。次はこの点について考えてみたい。
 
 カギとなるのは、中国のアニメ様式の作品では、ハリウッド的なダイナミックかつ不自然なカメラワークとモンタージュの技法が多用されていることだ。
 
 
  映像の修辞学
 
 ハリウッド黎明期に映画の父と呼ばれるD.W.グリフィスという映画監督がいた。彼はクローズアップやカットバック、そしてモンタージュといった、映像表現には不可欠な技法を次々と発明した、ハリウッドで最も重要な人物の一人である。
 
 彼はこうした技法で撮った素材をショット内の時間軸をも改変しながら、映像に奥行きと言語的な意味を持たせることに成功した。
 
 特にモンタージュの技法では、グリフィスは同じショットをいくつかのアングルで撮影することで、ダイナミックな表現の境地に到達した。
 
 同時代、ソ連にはセルゲイ・エイゼンシュテインという映画監督がいた。『戦艦ポチョムキン』や『十月』は現代でも学ぶところの多い金字塔的名作である。彼が日本の映像表現に遺したものは大きい。
 
 グリフィスが発明したと言われるモンタージュ技法であるが、じつはエイゼンシュテインも独自のモンタージュ技法を駆使している。そして彼は、この技法の着想を日本の視覚的表現から得ていた。
 
 ソ連の赤軍で日本語を学んでいたエイゼンシュテインは、漢字の「へん」と「つくり」に注目し、それぞれ独立した意味を持つ部分同士がぶつかることで、つまり対話をすることで、全く別の意味が生じるという現象に、独自の映像的な表現のヒントを得ていた。
 
 さて、グリフィスのモンタージュが映像的ダイナミズムによって、そのショットの重大性を際立たせるものだとすれば、それは言語的な表現に近いものだと言える。それは何かしらのイベントを縁取りしクローズアップし、視聴者側の感情を揺さぶらせて、嫌でも情報として記憶させる効果を持つからだ。
 
 翻って、エイゼンシュテインのモンタージュは、言語、感情、心情を、物や構図に埋め込んでいる。そして前後のショットとの関係の中で、これらの物や構図は、切り離された意味がお互いに干渉することで弁証法的に、別の意味を発生させる。
 
 ここで北米のアニメーションと日本のアニメに当てはめて考えてみたい。二作品とも近年大ヒットした作品であるが、主人公の導入の手法が全く異なる。

© “Spider-Man: Into the Spider-Verse”, SONY Pictures, Columbia Pictures, MARVEL
© “Spider-Man: Into the Spider-Verse”, SONY Pictures, Columbia Pictures, MARVEL

 この作品では、キャラクターと同様の目線の高さでカメラは後ろから主人公を撮っている。主人公はわりと新しいSONYのワイヤレス・ヘッドホンでR&Bのポップスを聴きながら、ビートに合わせて身体を揺らし、手に持ったマーカーで何やらグラフィティのような絵を描いている。壁にはヒーローのポスターがあり、部屋の棚を見ると角が擦り切れている。右のほうにある黄色の棚は自分で塗ったらしく、ペンキの跡が壁に付いている。
 
 カメラは回り込み、今度はキャラクターを正面から捉える。ここで、少年は黒人男性であることがわかる。奥にはエア・ジョーダンやレコード、プラスチックのクレートに積まれたスピーカーが見える。次の作品を見てみよう。

© 「天気の子」製作委員会
© 「天気の子」製作委員会

 一方、こちらの作品では、カメラのフォーカスはキャラクターに合っているが、手すりやテーブルのようなものの手前側にカメラがある。若干でもアイレベルより下から見上げることに、見る者に圧しかかる重い空気を感じさせる。
 
 奥を見ると病床にある計測器とチューブが見え、手前には折り紙で折られた紫陽花の置物が見える。キャラクターの表情は見えないが少し項垂れた様子と、顔に落ちた影の様子から悲しみが垣間見える。
 
 窓の向こうには、雲間から薄っすらと光が差し込んできているようだ。次の瞬間、窓ガラスは閉まっているにも関わらず、どこからか風がそよぎ、カーテンとキャラクターの髪を揺らす。ここで視聴者は何か不思議な力が働いていることを知るだろう。
 
 比べてみると、前者はどのようなキャラクターであるのかを、一気に説明している。黒人の少年で、陽気で、表現することが好きで、自分の世界観があり、経済的には中産階級であるように読み取れる。全ての情報が言語的に押し寄せてくる。
 
 特筆すべきは、カメラワークが非自然的であることだ。はじめキャラクターを後ろから捉えているが、部屋にある物や壁や物理的法則を超えて、カメラは宙を飛んで、キャラクターを回り込む。つまりマルチ・アングルから描かれたショットであるため、ダイナミックかつ、伝えたい情報が記憶に刻まれてゆく。これがグリフィス的モンタージュの特徴である。
 
 反対に、後者の作品では、カメラは下からあおる位置で固定され、手前の物、中間のキャラクター、カーテンと髪を揺らす風のアニメーション、そして奥に浮かぶ光明を一気に捉えている。ここに言語は介在していないが、物と構図とアクションが、弁証法的に、鮮やかに心情を表現している。
 
 要約すれば、これは観念の具象化にほかならない。これがエイゼンシュテイン的モンタージュの特徴だ。
 
 エイゼンシュテインは著書『映画の弁証法』でこう述べている。
 
 「物語の形式をかりないで、直接、画面のなかに、あるいは画面と画面との組み合わせのなかに、われわれがあらかじめ意図する感情的反応を呼び起こす手段を、探しもとめることである。」p95
 
 こうした象徴主義はもう一つ重要な「アニメ」のキャラクターの極端な心情表現にも見て取ることができる。
 
 
  演技(アクション)と記号(モード)
 
 北米のアニメーションはキャラクター造形の段階で、人格や人種的ステレオタイプ、そして演じる声優が付与される。声優が初めから決められていることが重要だ。
 
 映画の予算規模を持つアニメーション作品では、声優がハリウッドの実写映画にキャストされるレベルの俳優であることが多い。そのため、プリプロのキャラクター構想の段階で、その役者の体格、声が連想させる性格、そして映画界ではどのような立ち位置にいるか、という要素がデザインに如実に生かされる。
 
 さらに、物語の中に占める重要性や、政治的な正しさ、現実世界でいうとどのような社会的なポジションを代表するか、ということもデザインにも影響してくる。
 
 ゆえにアニメーションであろうとも、描かれるキャラクターは、様々な現実世界の要素を代表し、発言し、そして責任を負う立場であることになる。
 
 作品の作りとしても、まさにストーリー・テリング重視で、作品の内容が「言語」で語られるレベルで評価される。アニメーションの制作手法は、先に音声を収録するプレスコ(pre-score)方式が採られるため、絵を付けていく作業は後回しになる。
 
 その時、肌の色を含むキャラクター・デザインや演技そのものが大きくデフォルメされ、いかに現実から離別するかが表現の鍵となるだろう。
 
 もちろん日本の「アニメ」であっても、キャラクターは初めから大きくデフォルメされている。頭身は現実に近いものであっても、毛髪や眼の色は様々で、人種的に不確定だ。
 
 はじめに立ち返ってみると、海外のプロデューサーやアニメーターらをして「アニメ」様式を一つ掴んだと思わせるのは、記号的な表現であった。
 
 確かに、よくアニメで描かれる喜怒哀楽の記号的表現、つまり青筋、涙、汗など、極端に単純化されたカリカチュア的な記号は、アニメ的表現に欠かせない前知識としてアーカイヴされ、海外でもある一定の理解が深まってきていると言える。一つ例を挙げてみたい。

© 『鬼滅の刃』 アニプレックス

 ここで目撃されるのは、一人のキャラクターの表情がカリカチュア化されただけでなく、その全体的な描写と動きも極端にデフォルメされ、さらにもう一人のキャラクターも同じようにデフォルメされているということだ。
 
 あたかも、このショットに表示されている視覚的情報の読解そのものに期待される象徴レベルでのコミュニケーションに、あるフィルターが差し挟まれたかのようだ。  
 それはまるで、一時代前の赤塚不二夫アニメに頻出する煙に包まれる殴り合いのシーンのようだ。それは別の言葉でいえば、「モード」とでも呼べる、読解方法の転移だ。
 
 ところで、エイゼンシュタインは、歌舞伎に日本的な表現の源流の一つを見つけている。
 
 歌舞伎では演目に応じて、同じキャラクターの状況が大きく変化する場合がある。その転移の瞬間に、日本の美学では、あたかも分析されたような構成が採用される。どういうことか。
 
 歌舞伎では、「黒衣」という背景の一部と見立てられた記号が存在する。例えば、歌舞伎はとてつもなく表現主義的な一面がありながら、演者は突如として演技を止め、黒衣が現れ、衣装、かつらを入れ替え、あるいは隈取りを書き換える瞬間がある。その一瞬を、演技のシークエンスとは区別したモードと捉えることで、演者の感情はまったく新たな地平へと開かれるのである。
 
 同様に、モードの転移は日本の「アニメ」に特有の操作だ。北米のように、映像業界に既存の俳優のペルソナを踏襲したキャラクター造形では、アニメーションでは明らかなモードの転移は難しい。同作品でモードの転移の瞬間を見てみたい。

© 『鬼滅の刃』 アニプレックス
© 『鬼滅の刃』 アニプレックス

 このショットでは、先ほどのカリカチュア化されコメディ要素を含んだキャラクターの描写が継承され、今度は人格が変わったキャラクターの強力なアクションを引き立てている。演出レベルでのモードの変化は、別々のショット間で反響しながら、エピソード全体を引き締めている。
 
 つまるところ、キャラクターの描き方という部分において、アニメーションとアニメの絶対的な差は何かと考えると、それは、アニメーションがキャラクターが言語的に演じる「コト」であるのに対し、アニメは記号的断片である「モノ」が組み合わさった総体としてのキャラクターがモードの転移によって演じてゆく過程であるということかもしれない。
 
 こうした断片をモンタージュしてゆく特徴は、日本特有の枠取りの感覚と、多重のレイヤーが作用する制作手法にも発見することができる。
 
 
  レイヤー弁証法による演出術
 
 北米の感覚では、カメラ・フレームはキャラクターと背景の関係性を言語的に補完する装置だといえる。カメラの動きやアングル、配置、空気や物との関係性によって、多くの意味が創出される。
 
 アニメーションに限っていえば、ほとんどの場合、紙芝居のような背景の手前でカートゥーンのキャラクターが演じるような、稚拙な作品にしか出会うことができない。

 
 北米では、映画の予算あるいは優れた監督でなければ、残念ながらカメラワークが表現の決定的なエッセンスの一つであることを知る機会は少なそうだ。たとえめぐり合うことができたとしては、私たちは北米作品で頻用されるクローズアップやマルチアングル、カットバックといった、物語を言語的に補佐する「ルビ」のように使われるカメラワークに囲まれてしまうことが多いだろう。

 
 反対に日本の「アニメ」では、はじめから「漫画」という、長い歴史的の中で映画の文法を採用した抽象性の高いメディアによって、こうしたカメラ・フレームの重要性はアニメーターにも刷り込まれている。漫画のコマで切り取られたショットは、非常によくプラニングされたレイヤー構造の手法が生きている。
 
 エイゼンシュテインに言わせると、「日本人は、さまざまな感覚器官に立ち向かいながら、(断片を、ひとつひとつ)加算していって、しまいに、人間の脳髄に働きかけるそれらの刺激の総計を作りあげる。」(『映画の弁証法』,p52)
 
 「アニメ」ではないが、黒澤明の作品の名場面を見てみたい。

© 『用心棒』 東宝、黒澤プロダクション

 この有名な立ち回りのシーンでは、全フレームにフォーカスの合った、スーパー・ロングショットが採用されている。ロングショットは黒澤明の特徴ではあるが、このショットは枠取りが極めて効果的である。
 
 遠方には、主人公の浪人が白い砂埃の上に真っ黒な装束で立ち尽くし、手前には吊るされたと思われる、継ぎ接ぎだらけの農民の脚が見え、その横には見張りのチンピラたちが時間を潰している。中間のレイヤーには、時刻を知らせる詰所の人間が拍子木を打ち鳴らすが、浪人が迫ってきているのを見て怯えて逃げてしまう。

© 『用心棒』 東宝、黒澤プロダクション

 その中途半端な音に気づいたチンピラたちが、立ち上がると、カメラはヤクザの集団を呼びに行った彼らの足取りを追いながら、吊り下げられた親しい農民の全貌が見えるというものだ。
 
 カメラワークは静的でありながら、絶妙な構図のセンスの上に計算された、砂埃の白さに浮かぶ黒装束と人の影のコントラストが極めて映像的に強力な効果を生み出している。

© 『用心棒』 東宝、黒澤プロダクション

 「アニメ」の背景美術を見ると、時々このような巨大な描画の上をなめるようにカメラワークが設定されていることがある。北米のアニメーターからすると無駄に思われることもある表現だが、その効果が求められることがある。
 
 反対に、とある作品の次のショットを見てみよう。スペインのアニメーション監督の作品である。彼もアニメーションにしてはロングショットを使うほうだが、構図やライティングのセンスに乏しい。アニメーションの手法は北米らしく、大きなジェスチャーとアクションで、キャラクターがよく動く作品だ。

© “KLAUS”, Netflix, Sergio Pablos Animation Studios, Atresmedia Cine

 これは右側の主人公が放蕩な生活をしていて訓練をサボっているため、教官が叱りつけに来るショットだが、まず無意味にカメラを引いていて、視覚的に余計なものが多くカメラ枠に収まってしまっている。主人公は怠惰で、パジャマ姿でおそらく紅茶でも飲んでいるのだが、顔が横向きのため表情が掴みにくいのみならず、バックライトのせいで描画のディテールが見えにくい。
 
 教官は教官で、巨大な体躯を駆使して、大きなジェスチャーで怒りを表現しているにも関わらず、顔の表情が椅子に重なって引き立たないのと、大きなアクションが見える腕から手のひらまでが暗く、なおかつ背後にあるスクリーンと明度が近いため、埋もれてしまっている。

© “KLAUS”, Netflix, Sergio Pablos Animation Studios, Atresmedia Cine

 このショットでは、キャラクター間の重要な対話のちょうど中央に、同じトーンの馬車があり、視覚的コミュニケーションが阻害されている。ここでも主人公が横向きであるのに加え、バックライトが採用されていることから表情に影が落ちていて見えづらいということだ。
 
 この流れに沿って、ここでは逆に効果的な構図を挙げてみたい。

© “FROZEN II”, Walt Disney Pictures,
Walt Disney Animation Studios

 まず前提として、見る者の注目はカメラ・フレームの中央に集まる傾向にあることに沿って、中央に演技の中心が設定されている。
 
 カメラ自体はほとんど動かない静的なショットであるが、キャラクター同士が交差するアクションが起こる場所には、同じアイレベルにあるサブキャラクターの集団的な視線が集まる場所であり、背景の建造物の構造が交差する場所でもあることから、強力な求心力が生じている。
 
 これは日本のアニメに特有の演出、「止め絵」といえるのではないだろうか。すると、構図や演出手法によっては、止め絵であっても、ダイナミックに表現することは可能なのだ。
 
 このように、北米のアニメーションだろうが日本の「アニメ」だろうが、構図、ライティング、カメラワークは非常に重要で、映像表現の基礎というものは間違いなく大きく影響する。
 
 たとえキャラクターの動き(アニメーション)やアクションが優れたものであっても、ライティングやフレーミングが悪ければ効果は半減するだろうし、逆にリミテッド感の強い表現であっても、その構図や前後のショットとの関係性における演出の手腕によっては、より効果的な結果を得ることができるだろう。
 
 「様式」としてのアニメと、本質的なアニメには大きな乖離があり、そして同様の議論が、北米のアニメーションにも当てはまると言えないだろうか。