[Oct. ’17] ICC OPEN SPACE 2017「未来の再創造」《The Latent Future—-潜在する未来》について

初台インターコミュニケーション・センターで毎年企画されているオープンスペース、2017年は徳井直生+堂園翔矢(Qosmo)の『The Latent Future』に注目してみたい。


©Tokyo Electron

 

作品フォーマットは壁一面にプロジェクションされた3D映像である。黒い背景の上には無数の白い点の集合がランダムかつ有機的に粗密を繰り返しながら、それぞれがtwitterのニュースフィードを元に、「ありえたかもしれない過去と、ありえるかもしれない未来」を無限の可能的なニュース記事として表出するというものだ。次々と現れるテキストは、今まで聞いたこと見たことのあるニュースのキャプションが組み合わさったもので、ありそうでいて、まだこの作品の空間にしか潜在していない。

展覧会のオフィシャル・サイトには紹介されていないが、アーティスト自身のHPに記載されているステートメントによれば、この作品は「ニュース記事しか知らないコンピュータが、この世界の「ありえたかもしれない過去、ありえるかもしれない未来」を夢想し続ける…という作品」である。

同HPに詳細されている技術的な説明によれば、「表示されている3D空間は、各文章が持つ高次元の特徴ベクトル(文章の特徴を数列に変換したもの)を、3次元でマッピングしたもので、空間内での距離が文章間のセマンティック(意味的)な距離に対応している」。文章の束はそれぞれが数値に置き換えられ、意味が近いものがあれば、点それぞれの近さとして可視化されていると理解される。徳井によれば、こうした数字の列は2000次元以上のベクトルがあり、ほぼ無限に近い多様な文章が生み出されるという。そして、高次元のベクトルはLatent Space(潜在的な空間)と呼ばれている。


©naotokui.net

 

このLatent Spaceであるが、Google Researchが2016年11月に発表した最新の多言語翻訳システム(GNMT)に利用されている学習式のシステムを参考にしている。簡単に説明すると、例えば翻訳システムに和英と韓英の異なるセットの二言語間で翻訳作業を一回ずつ行わせたとする。そして、二言語間の翻訳のそれぞれの結果を意味のバンドルとして蓄積させることで、実際には翻訳作業を行わせていない「和韓」の翻訳も予測させるというものだ。究極的には、翻訳を繰り返すことで意味のバンドルがエリアに分けられて集積され、複雑かつ多様な言語間の翻訳の精度が高まっていくというわけだ。徳井はこのベクトル空間を用いて、twitterのニュースフィードを元に無数の潜在的なニュースを紡ぎ出している。

作品は、あたかもプラネタリウムのごとく深淵な空間を多数の白い点がオーガニックに飛び交うヴィジュアライゼーションが美しく、アート作品としての完成度は非常に高い。アンビエントで重厚感のあるサウンドは、3D空間をストレスなく自由に動き回る言葉の束=白い点から、次々と仮想的なニュースが表示されるまでの過程とシンクロしながら作品内のアクションを引き立てている。テキストには糸を思わせるデコラティヴなオリジナルのフォントが使われていて、言葉の束である点からテキストが紡がれていくプロセスを的確に視覚的に表現しているため、コンセプトとアウトプットの統合性が高い。

観者の心理としては、いつかどこかで聞いたこと、目にしたことのあるニュースの断片から新しくも「すでにある」「しかしまだ起きていない」ニュースが次から次へと生みだされるのを目の当たりにすれば、ある種の不安と期待が入り混じった複雑な感情がこみ上げてきて、作品にしばらく没入してしまうだろう。徳井によれば、作品の狙いは「現在インターネット環境などに顕著に表れている、真実と虚構とがないまぜになってしまう現実社会の脆さを考えようとするもの」である。


©naotokui.net

 

確かに現代社会においては、ますますユーザー自身がプロデューサーとしてコンテンツや情報を生成・発信し、同時に消費するというトレンドが増長しており、ユーザーにはその内容の真偽を判断できる能力が要求されているため、このようなリベラルな言説は当然、想定範囲内である。なおかつ、この高次元ベクトル空間に遍在しているさまざまな言語の組み合わせの可能性は、「ホルヘ=ルイス・ボルヘスの小説『バベルの図書館』に登場する、表現可能な全ての組合せを収めた図書館」と見立てられているため、その計画そのものの不可能性をおのずから暗に仄めかしているようでもある。

したがって作品タイトルにある「潜在する未来」というのは、もちろんリテラルではなくアイロニカルに解釈すべきであるわけだが、アーティストが自身のHPにおいて「無限に近い多様な文章が生みだされるということに美しさを感じ」たという記述と、高次元ベクトル空間=Latent Spaceをあえて作品上でLatent Futureとし、「未来」と置き換えていることから、徳井にはGoogleのGNMTを筆頭とする将来的な可能性に楽観的なスタンス、あるいは制度的な要請が働いたと考えられないだろうか。いずれにせよ、徳井が作品タイトルを「Space=空間」から「Future=未来」に代替したとき、作品の決定的な構造が暴露されてしてしまった。

どういうことか。はじめに、作者が示唆しているように、インターネットでは真実か虚偽か関係なく、すべての情報がファイル名やアドレスを持つ。この事実はインターネットに依存する現代のユーザーのほとんどを揺さぶり困惑させながらも、かえってスムーズに消費を促すような絶対的な説得力を兼ね備えている。なぜならインターネットは、初めからノン・フィクショナルな特徴を備えているからだ。インターネット内のすべての情報は、必ずオフラインの現実に参照点が存在する。インターネットは情報のメディアである。情報は、必ず何かについての情報である。そして、この何かというものは必ずインターネットに対して外在している。外在する情報は、必ず過去のものである。情報は、生み出された瞬間に現在から過去の情報へと急激に老朽化が始まるのだ。過去のものとなった情報は、まるで遺産のような事実性の強度を増し、ユーザーを説き伏せるのだ。確かに歴史を一つのリニアなものとして捉えれば、たとえ陳腐化しても、過去のニュースがある程度将来的に召喚され、予期されうるのはわかる。しかし、システムにセマンティックならびにニューラルに学習させるということは、こうしてインターネットに外在するリアルな情報を一度吸収し、選別するという個別的かつ恣意的な操作を介さねばならない。たとえそれがAIであったとしても、こうした一連のアルゴリズムを実施するのは民間企業であり、本質を言えば、インターネットを所有しているのも民間企業である。

徳井はあらゆるニュースフィードをかき集めて無限の可能性を創出するというが、そのソースはtwitter Inc.という民間の上場企業である。民間企業は、たとえユーザーにとって重要であるとアルゴリズムが判断したものを優先的にフィードするという名目を謳っていたとしても、市場の原理に基づいてアクションを起こす。私たちはマーシャル・マクルーハンの「メディアはメッセージである」という著名なフレーズから多くを学んできた。すべての主観的なメッセージや書き込み、個別の視点、個人的な考えは、たった一度でもインターネットを通せば、初めの発信者の人格は剥奪され、匿名なサブジェクトのサーキュレーションに乗せられる。それは非人格の欲望をインターネットに蔓延させる。ニュースのアイデンティティも当然、不特定多数の匿名の記述の集合体となり、「ユーザーにとって重要」という大義名分を振りかざして、流れるように押し寄せてくる。このようにインターネットのメディアはすべての個別なメッセージをないがしろにし、転覆させ、変容させてしまうのである。

そこで、徳井はなぜニュースフィードに注目し収集したのか、という単純な疑問が脳裏をよぎった。一つは、アート制作に欠かせない大量の原材料(テキスト情報)を手あかがついていない無垢な状態で、かつ潤沢な供給が得られるからではないか、ということ。そしてもう一つは、ニュースフィードを基にした集合知をモーフィングして潜在的な情報を紡ぎだすことで、将来の私たちの生活の向上や危機管理など、この技術を人類にとって有効活用させる、いわばユートピアに似た志向性に紐づいているのではないだろうか、ということである。

前者については、図らずも前述した、「ニュースは流れ込んでくるもの」という記述を手掛かりにしたい。例えば、アートとニュースはインターネット上で同様に存在するが、アートを知るには、自らコンピュータやタブレットなどのツールを使い、AppleかMicrosoftのOSを用いてフリー検索をし、探し当てたホームページに行き、さらに作品紹介や画像をクリックしなければならない。そこまでしても、私たちが出会えるのはアートの情報でしかない。ゆえに情報が指示する本当のアート作品がインターネット上ではなく、オフラインにあるということが保証されたように思えてしまう。こうしたインターネットのノン・フィクショナルな性格によって、私たちはアートをフィクションではなく、リアルなものとして受け止めている。いささか逸れたが、アートに限らず、ユーザー側から探求・収集する必要がある情報は骨折りなのである。ニュースは反対に、向こうからフィードが流れ寄せてくるものであり、意図的な操作が介在せずフラットに見えるため、収集し分類し、再利用する素材としてふさわしい。ただしニュースフィードにしても、前述したとおり、民間企業の思惑が付着していることに変わりはないのである。

次に、潜在的なニュースを扱うことによるユートピアなスタンスについて触れる前にあらかじめ述べておきたいのだが、ユートピアとは、ou-topos=No Placeと直訳できるように、いまではない、これまでない場所を指している。20世紀における用法を乱暴に概略すると、ユートピアとは、主体が歴史的に定義されたアイデンティティから離脱すること、歴史的な分類学から逸脱することである。ユートピアは、イノベーションやテクノロジーによる暮らしの発展とともに、翻って、過去との決別や文脈の断絶ともいうべき手続きを容認する考え方でもある。ゆえに時代によっては常に革命を必要としてきた。

ところで、これまで論説してきた内容を踏まえると、『The Latent Future』は、常にアーカイヴを基にして生成されるということにおいて、端的に言ってアーカイヴ作品である。集められたニュースフィードは慣例的なやり方で分類学の支配の下にあり、その状態のまま単にオルタナティヴな可能性をひねりだしているのみである。つまり、「ありえたかもしれない過去」しか潜在していない。ニュースは生まれたその瞬間から老朽化していく。しかし反対に、アート作品は老朽化しないため、未来においても常に現在形である。アート作品は美術館やギャラリーといった制度のなかで恒久的に保存され、そして数年ごとに企画展や図録に取り上げられ、その都度、その時点の現在に鮮やかに復帰を遂げる。誤解を招かないよう説明すると、純粋なアーカイヴは、とある作者が書き綴ったテキストや制作した作品を、作者の死後にもあるがままの形でアクセス可能にするため、それ自体は外部から押し寄せる解釈や分析といった圧力を寄せ付けず、作者自身が現代を生き残って本当の自分を発揮することの希望を与えることができる。むしろ『The Latent Future』がアーカイヴであることによって、つまり本作品が未来に生き残ることによって、たとえ情報がその時点より過去のものであろうと、常に現在形として履歴更新を行うことができるのである。

『The Latent Future』は、資本主義ベースのインターネットに所与の括弧付きの「潜在」と、過去のニュースの墓場をそのまま継承した形の保守的な「未来」を暴露していると捉えるとすれば、極めてアヴァンギャルドな作品である。アヴァンギャルドの作品は基本的に、元来ノン・フィクションである。もともとアヴァンギャルド以前の伝統的な美術館への来場者は、美術館に来ていることほかあらゆる環境要因が作品から遠ざかり背景と化していくとみなして、作品に没入する必要があった。つまり、作品の物質性や素材、技術的な機制、制度的な枠組みを前提とみなし、あえて—-つまりフィクションとして—-作品の深淵に想像されうるアーティストの精神性へと意識を遡行させることで、この没入が実現していた。一方、徳井はアート作品ではなく、ノン・フィクショナルなHPにおいて、制作過程やコンセプト、インスピレーションの端緒、ニュースフィードのソース、モーフィングの手法など、作品世界のすべての枠組みを詳らかにしている。そして、それだけでは飽き足らず『The Latent Future』は自らのありかたをも宙づりにしている。表象にかぎって抽象するならば、本作品のヴィジュアルの存立の仕方は、ドキュメンテーションである。作品の本質は、絶え間ないtwitterのニュースフィードを材料とした高次ベクトル空間における数値化とモーフィングのアルゴリズムといった、潜在する「ありえたかもしれない」無限の可能性そのものであった。したがって、その都度スクリーンに表示され観者に向けられているのは、このプロセスを切り取って表示するドキュメンテーションなのである。

歴史的には、アートにおけるアヴァンギャルドの戦略はアート作品と世俗的な事物とのあいだの視覚的な差異を無くしてゆくことと理解されているが、本作品はそれ以上に踏み込んだやり方で、インターネットをめぐる現在的なアヴァンギャルドを実践している。しかし、それゆえにこの戦略は、逆説的に、まさに美術館やICCのような制度を必要とする。こうした制度の内部にあってこそ、アート作品としての『The Latent Future』と世俗的な事物としての「Latent Space」の差異が確実になるからだ。しかしながら、作品はひとたび制度の内部に展示されるやいなや、作品が暴いてきたノン・フィクション性は剥奪され、再び個別的な美的判断と美術史的ポジショニングの解釈学に晒され、もう一度フィクションへと成り下がる。こうした内在する表裏一体性を孕みながらも、『 The Latent Future』は未来において、その都度私たちの目の前で、インターネット・メディアの本質を垣間見せてくれるのではないだろうか。


徳井直生のHP: http://naotokui.net/

Trump Matrix:徳井氏のblogのリンクを参照のこと。http://naotokui.net/upload/tsne_js/test.html

Googleリサーチによる最新の翻訳エンジンについては、同じく徳井氏のblogのリンクを参照のこと。 https://research.googleblog.com/2016/11/zero-shot-translation-with-googles.html