「コヒマに吹き荒ぶ雨」
10分もすると、ホストがまた部屋にやってきて、運転手が到着したと言った。時計は13:30を示していた。僕はすぐに行くと伝えて、カメラや貴重品などを掴んで部屋を出た。
炊事場の方から、先ほどまではいなかった新たな人声が漏れ出してきた。笑い声が混じっていたので家族か友人でも来たのかと思った。
僕は炊事場を横切って、下の階に向かった。階段にさしかかった時、後ろから「こっちから行きましょう。車は後ろに回してあります」という声がした。
振り返ると、立派な体躯をした日本人男性が立っていた。厳密に言うと、肌の色は濃いものの、どう見ても日本人にしか見えない男性だった。
「え、あなたがトライバー?」
「はい、ケニセレです。初めまして。」
まさか運転手がホストの身内のような人間とは想像だにしなかかったので、僕は虚を突かれて閉口してしまった。
後から知ることになるのだが、この Airbnbのある地域は、ナガランド州の中でも最も人口の多い「アンガミ族」が居住する山が近くにあるため、近隣の商業は概ね彼らが行なっているため横のつながりが強いという。そして彼らは我々日本人と同じく黄モンゴロイドで、一重瞼が目立つくらいで、あとは日本のどこにでもいそうな顔立ちをしている。
僕はケニセレに連れられて裏口へ回ると、停めてあったSuzukiの1000ccくらいの小型車に乗り込んだ。Suzuki Swiftのハッチバックだ。
その向こうには、裏山と呼ぶにはあまりにも立派な山嶺が視界のほとんどを占め、左右の奥には、計り知れない規模の雄大な山脈が連なっていることは簡単に想像することができた。
冷たい雨は強さを増して、 自動車の天井を打ち付けていた。その騒音で、これから僕らの会話の音量は比例して大きくなる。
ケニセレのSwiftは見た目は比較的新しいように見えたが、走り始めると、瞬時にしてガタがきていることがわかった。マニュアル車なのだが、ニュートラルへの入りがスムーズでなく、左手はギアレバーをいつも忙しなくぐらぐらと揺らしている。
そしてなんと、ワイパーの自動機能が壊れているらしく、これだけの雨にも関わらず、ケニセレは、一回一回レバーを押し上げて、ワイパーを上げ下げしている。ウインドシールドが雨水で覆われて見えるか見えないかの段階になると、彼はシフトレバーから左手を話して、ワイパーのレバーを押し上げる。これは難儀だ。
「ジャパニーズ・カーだね。」僕は話しかけた。
「日本車が一番です。インドではみんな日本車に乗ってますよ。」
「Tataと組んだのでしたっけ。」
「Maruti(マルチ)です。Suzukiはインドのローカル企業Marutiとうまく連携できたので、根強いですね。」
「なるほど、だからか。確かにミャンマーからインド国境を越えた途端、日本車だと十中八九、Suzukiしか見ませんね。」
「ミャンマーから来たのですか。」
コヒマまでの12kmの山道の区間、僕は今回の旅について簡単に説明していた。じつは、Airbnbのホストにも同じく今回の目的は事前に伝えてあった。その中で、アンガミ族の親戚に、インパール作戦の一連の作戦行動の一つ、コヒマの戦いで日本帝国軍の第31師団を率い、隷下の第58連隊をもってしてコヒマを攻略させた佐藤幸徳中将に仕えた人間が、いまだに生きているという話を聞いていたのを、たった今思い出した。確かに佐藤中将はコヒマより15kmほど後方の山岳地帯にキャンプを敷いたという記録は残っている。
僕は車窓の右側に延々と続く深い渓谷と、曇天の下、遠方はるばる霞みゆく山脈の峰々に日本の中央アルプスや北アルプスの壮大さを重ねながら、まるで夢でも見ている心地になっていた。しかし、すぐに現代の技術をもってしても、ミャンマーのタムーからインパールを臨み、はるかコヒマに至ることの難しさを痛感していた僕は、75年前に日本人が馬やポーターを用いながも、ほぼ歩荷で全ての行軍を行なっていた事実には圧倒されるばかりだった。
前方に雨に煙る集落が見えてきた。と思ったら車は右に曲がり、それらの建物を素通りすると、奥からさらに多くの鉄筋コンクリート造の四、五階建てのビルがいくつも現れた。
ケニセレは、「コヒマ市内に入った」と言った。
峻険な斜面に立つコヒマでは、強度を担保するため、建物は、特に道に面した建物は必ずと言っていいほど、鉄筋コンクリート造だった。しかし不思議なことに、土台と柱などは出来上がっているものの、壁のない、建設途中のような建物がやたらと多い。それでいて、そうした建物はきまって使用中で、壁に当たる部分には天井からムシロが下げられていて、中から人々の営みが垣間見られた。
コヒマ中心部はかなり建物が密集しており、様々な種類のショップが確認できた。僕が選んだAirbnbの所在地のように、周囲に何もないようなエリアと比べると、よほど過ごしやすいのかもしれない。
元々この旅は、チットコーと車でコヒマまでやってくるつもりだったのだから、宿泊地がコヒマ市内とどれだけ離れているかなどは、そもそも気にしていなかった。
コヒマの中心部を尻目に、僕らはナガランド州立博物館に向かった。しかし現地に辿り着いてみると、博物館はすでにクリスマス休暇に入っていて、閉館だった。ここでナガランドの基本の歴史と文化を一通り勉強しようと考えていたので、いきなり肩透かしを食らった。
仕方なく、ケニセレは次の目的地であるコモンウェルス戦争墓地を目指してアクセルを踏んだ。
再び市内の中心地を通過して、少しコヒマの南東部側の小高い丘に向かって車は急勾配を登り切った。
「コモンウェルス戦争墓地」
ここは日英間で戦ったコヒマの戦いでも特に熾烈な攻防が繰り広げられたギャリソン・ヒルという戦場跡であったが、戦後、ここに英国軍とインド軍グルカ部隊を中心とした連合国軍の兵士たちの墓地が建立された。
車から降りると、僕は丘の上を見上げた。降りしきる雨が、墓地の上方から吹き下ろす山颪で細かい粒子になり、舞い上がって嵐となり、身体に横から叩きつけてくる。僕はフードを被って墓地を歩き、雨水を払いのけながら、カメラのシャッターを切った。
墓地をくまなく巡ったではないが、気の向くまま歩くうちに、一体どのような戦士たちがここに眠っているのかが気になってきた。僕は目に留まるものだけ、墓石を一つ一つ、じっくり見てみた。
そして、その全てに特徴があった。
所属する部隊はキングス・オウン(King’s Own)、スコッツマン(The Royal Scots)、ロイヤル・ウェルチ・ファシリアーズ(Royal Welch Fusiliers)、クイーンズ・オウン(Queen’s Own Regiment)、アーガイル・アンド・サザーランド・ハイランダーズ(Argyll and Sutherland Highlanders)、ロイヤル・バックス・ヨーマンリー(Royal Buckinghamshire Yeomanry)、グルカ・ライフル(Royal Gurkha Rifles)、カナダ王立空軍(Royal Canadian Air Force)、英印旅団(Indian Infantry Brigade)など、多様性に富んでいる。
階級で言えば、下は三等兵から上等兵、コック、エンジニア、軍曹、曹長、少尉、中尉、空尉、大尉、少佐、最高位では大佐までだった。将官は埋葬されていない。
そして墓地の奥に進むにつれて高位の軍人が眠っているわけでもなく、極めて恣意的に配置されていると考える。魂の重さは平等である。
実際、こうした西欧式の墓地には、故人が属していた宗教がシンボルで表記されるのが普通だが、その配置はランダムであるように思える。例えば、大多数はキリスト教徒の十字架が刻印されていて、次にヒンドゥー教のサンスクリット文字か仏教の輪の文様が多いだろうか。稀ではあるが、ユダヤ教のダヴィデの星も存在した。
この戦没者墓地であるが、傾斜地に建てられていることから、墓地は奥に進むにつれて高度が上がる。階段を何度も登り切って巨大な十字架がある最上部には、墓地の他に横長の長方形の記念碑がそびえ立ち、様々な魂の言葉が、失われた部隊と固有名と共に刻まれていた。
踵を返して墓地の最上段から遠くを見やると、峻険な丘の斜面にへばりつくように幾重ものレイヤーの建物の群れが、ところ狭しに山肌を覆っていた。その姿は壮健だったが、なぜそこまでしてナガの民族は、厳しい気候と地形を選んで住みついたか、という謎は深まるばかりだった。
寒さが増してきた。喉が痛む。雨に雪のようなものが混じり始めたようだったので、僕はケニセレのいる駐車場まで急ぎながらも、他の記念碑などを見逃さずに巡った。
最下段まで降りると、向こうからアーリア人風の男性がこちらに向かってきた。
「◯×▲◯△××※●△※▲◯△××▲◯※▲◯△×」
突然、彼は笑顔で何かを話しかけてきたのだが、ヒンディー語なのかもわからないほど、全く耳に入ってこなかった。
仕方なく、僕は英語でわかりませんと伝えると、彼は「OK, sorry」と苦笑いで返事をして立ち去った。
車に乗り込んでからケニセレにその件を伝えると、彼は、「きっとそれはあなたを地元のナガ族の人間だと思って道を聞いたのですよ」と言った。
僕はまさかと言って笑い飛ばした。ケニセレが笑っていたかどうかは忘れたが、あまり思い出せないことを思うと、ジョークではなかったのだろうか。
すると腹が鳴った。やっと目的地のコヒマに着いて安心したこともあってか、僕は急に腹の減りに気づいた。
僕はケニセレに次の目的地の前に昼食を食わせてくれと伝えた。次の目的地は山の上の教会だから、街の中心を通過するのでちょうど良い。
中心部はいくつかの道が集まる辻のようになっていて、それぞれが放射状に延びている。おもむろに車を沿道に停めて、僕は身震いしながら先をゆくケニセレを追った。
冷たい雨は、東京の真冬の雨模様を思い出させる。湿気のある寒さは骨身に沁みる。風邪を引いている身からすると、最悪のコンディションだ。
ケニセレは大通りの歩道をゆくと、しばらくして横の隙間に入っていき、階段を上った。見上げると階段の奥に看板が見える。食事処なのだろう。しかしケニセレはすぐに引き返してきた。
「クリスマス休みです。」
僕らはそれからもう二つの店に行ってみたが、どちらもお休みだった。
その時、僕はもうどこでも構わないと思えるほどの空腹に襲われていた。朝食の後、何も食べていない。
ケニセレはまた狭い入り口を入っていき、素泊まりのような安宿の主人を見つけて、食事できる場所はないかと訊いていたのだろう。戻ってくると、僕に上だとジェスチャーを送って、階段で上階に上がった。
そこは単純なカレーが食べられる場所だった。正直、味はモレーで食べたものと比べるとたいしたことはなかった。しかし、食べ物を摂取できたからか、体内がぽっと温かくなった気がした。
さっさと食事を終えて、僕らは墓地から反対側の山の斜面の最上部にうっすらと確認できる大規模な建築物を目指した。
急峻な坂道をSwiftは登ってゆく。
到着すると、エキセントリックな建築様式を採用した教会が現れた。クリスマスの飾り付けが目に飛び込んでくる。そして、このクリスマスの時期の教会には特有の、キリストの誕生のシーンを再現したジオラマもあった。
教会の手前の芝生は眺めの良い展望台へと続いている。近づいてみると、教会の正面側の180度近くが、広くコヒマを見渡せる贅沢なスポットになっていた。あいにくの天気だし、観光客がいるわけではないので、景色をほとんど独り占めすることができた。その時少しの間、雨が止み、雲間から光明が差し込んできた。
教会の裏側に回ると、戦後に日本人たちが残した記念板が支柱に埋め込まれていた。なんと、この教会は激戦が繰り広げられたコヒマで戦没した日本人兵士の冥福とこの地の平和を願って日本人が寄贈したものだった。ケニセレが言うには、コヒマだけでなく、ナガランドの他の地区にも、このような大戦中の慰霊碑や祈念の標が何箇所かあるという。
最後に、ケニセレはナガランドの多部族の暮らしや、部族間で異なる様式の建物を集めた、ナガ・ヘリテージ・ヴィレッジに向かってくれることになった。
だが、すでに陽は落ち始めていた。雨空は一切、夕刻の暖色を覗かせることはなかったが、周りの絶対的な光量が減少していることは、対向車のヘッドライトがいくつものカーブの向こうから見えるようになったことからも感じ取ることができた。
教会からコヒマの中心街に降りてきてから、しばらく郊外の山道を行くと、ケニセレがこう言った。
「温かいお茶はどうですか?」
僕は冷え切った身体にこの上なくありがたいと正直に喜んだ。
ケニセレはこの先に従姉妹の店があるから、そこでお茶を飲もうと言った。
車道から左側斜面に沿って少し下がった私道へ入ると、目的地に到着した。
そこでは衣類店を運営している若い女性が数人の接客をしていた。手前には家族がいた。従姉妹は笑顔で僕になかなか流暢な英語でようこそと伝えると、すぐに接客に戻った。繁盛しているようだ。
洋服や玩具まで売っているだけでなく、店の片隅には、折り畳まれた生地が積まれていた。赤と白の大胆な色の組み合わせは、太い織り糸がそうしているのだと気付いた。何かの衣装なのだろうか。
お茶を受け取ってから、やはり表面に膜を張った濃いミルクで割られたチャイのようなお茶だった。ミルク入りのお茶なのか、お茶味のミルクなのか、もはや判別できないほどだった。
はじめとても熱そうだったが、僕は待てずに啜った。喉から食道を、温かいものが下ってゆく。たった一口でも身体の芯に火が灯ったように、気持ちも上がってきた。
ケニセレは奥から何かを持ってきた。香ばしい匂いがしたので、何かの料理だというのはわかった。何かの揚げ物らしい。僕には、かき揚げの天ぷらにしか見えなかった。新聞紙の上に油が染み込んでいるのも、どこか懐かしい。
ケニセレは奥で叔母が揚げていたのでもらってきたと言い、その時に料理名も教えてくれたが、あまりにも唐突だったので、覚えられなかった。それよりどのような食べ物か分からない以上、文脈を持てないから覚えられるものでもない。
口に含むと、サクッとした食感が、まさに天ぷらで、中の野菜は一見ニラのような緑色の細いものに見えるが、味はとても淡白で食べやすかった。
「これは日本にも同じものがあるよ!」と僕は思わず天ぷらと同じだと断定してしまった。
以前、ネパールと日本は同じモンゴロイドとしてのルーツがあるから、食文化も似ているところがあると聞いたことがある。ネパールには日本の焼きそばに似たものがあったはずだ。
もちろん、ネパールとナガランドは距離的に決して近いとは言えないが、仮に山岳民族の間で永き時を超えたつながりがあったとしたら面白い。
そんなふうに想像に耽りながら、ケニセレの従姉妹や親戚やお客たちを見ていると、ますます日本人のように見えてくる。
お茶をすするのもほどほどに、いよいよナガランドとナガ族のことを知りたくなってきた。
店の奥に畳まれている生地や、壁にかかっている伝統柄のようなテキスタイルが、ついに気になってきた。僕は、店の奥へ行ったり出てきたりしている、ケニセレにそれについて聞いてみた。
「ナガの伝統衣装ですよ。」
「着るものなのですか。でも、まだ縫う前みたいですね。狭幅の生地を合わせて縫うのでしょうか。」
「いえ、これで出来上がっているものです。」
僕が不思議がっていると、こうやって着るのですと言って纏って見せてくれた。ついでにセットの帽子も被ってくれた。
僕はますます気になってきて、どういう時に使うものかとか、色にはどんな意味があるのかとか、色々と聞き始めた。するとケニセレは言った。
「時間がないので、ナガ・ヘリテージ・ヴィレッジに行って話しましょう。」
奥のほうに向かって大きめの声で何かを言うと、ケニセレはレッツゴーと言い、僕を先導して車の方向へ歩き始めた。僕は親戚の皆に礼を伝えてから、後を追った。
Swiftをスタートさせると、ケニセレは車道へ向かって急勾配を踏破するためアクセルをふかした。
ケニセレはしばらく走行を続けて、ヘリテージ・ヴィレッジの門を指差してここだと言ってから、こう言った。
「ナガランドの民族には、我々は日本人とルーツを共にしているという伝承があります。日本人のことは昔からナガの言葉で『海から来た民』と言うので、我々の先祖が海を渡ってここにやってきたのかもしれないです。」
僕にとっては全くの初耳だったので、しばらく驚きの声を発していた。
その頃、ちょうど車はヘリテージ・ヴィレッジに到着したが、駐車場には他に車が停まっていないし、外はもう陽が落ちて、暗闇がひたひたと忍び寄り、空に蓋をしようとしていた。悪天候の空模様に加えて、急峻な山間にいるからか、夕暮れの色彩は現れず、明度がどんどんと減少していった印象だ。
「さあ、急いで回りましょう。説明します。」
僕は早歩きになったケニセレの後を追って、閉じたゲートを飛び越えていった。ここももしかするとクリスマス休暇でお休み中なのだろうか。
円形の闘技場のようなところを通り過ぎる時、ケニセレは、「ここで12月はじめのお祭り『ホーンビル・フェスティバル』でナガの17の全ての部族が集まり、ダンスするのです」と言った。
「17の部族! ナガ族ではなくて、17も個別の部族が存在するのですか。」
「はい、ナガ族はナガ族ですが、コヒマ周辺の山ごとに別々の村があって、それぞれが別の部族が暮らしています。」
「ナガ族という大きな部族の中に、小さなユニットの部族が存在するという感じですか?」
「ナガという言葉は、じつは外の人間が付けたのです。イギリス帝国時代のインドの人々が、この北東地方の未開の山岳民族を総称して、ナガと呼びました。」
「ナガという言葉には、何か意味があるの?」
「諸説あって、龍を意味するヒンディー語の『ナーガ』から来ているという説や、サンスクリットで『裸』という意味もある。私たちは未開人と蔑まれているから、後者かもね。」
「インド本土からの一方的な呼称なのですね。。」
「残念ながら。」
「ケニセレ、君もどこかの部族の人間なのですか?」
「ええ、私はアンガミ族です。ナガ族の中でも人口の多い部族です。今見ている建物はアンガミ族のものですよ。」
「へぇ、アンガミ族というのですか。」
「なので、アンガミ語を話します。」
「え、ヒンディー語じゃなくて?」
「ヒンディー語も話せますよ。ヒンディー語、ナガランドの共通語であるナガミーズ、そしてアンガミ語の三つです。もちろん今話しているインドの正式な言葉の一つ、英語も話します。」
なんと、インドの共通語のみならず、ナガランドの言葉、そして自らの部族の言葉も話せるとは、とてもマルチリンガルだ。イギリス領であったこと、政治的にインドに吸収されている事実があるから、インド東北部のナガランドは完全にインドの本土とは異なることが少し見えてきた。
「ナガミーズ? 初めて聞きました。17の部族でしたっけ? いくつもの部族の言葉を合わせたもの?」
「いや、これもイギリス時代のインドが一方的に作ったものです。イギリスの宣教師がナガランドに伝道活動をした時に、ナガの民族の言葉がそれぞれ全く異なるため、共通語を作りました。」
「それぞれの部族に宣教すればいいのに?」
「昔は部族間の争いが絶えず、その平和をもたらすためにキリスト教が役立つと思われていたので、共通語を持つことは部族間のコミュニケーションに重要なことだったのでしょうね。」
「部族の言葉を合体させたもの?」
「ベースは州都のあったカルカッタ地方とバングラディシュで使われているベンガル語に、宣教師たちのガイドだったアッサム人の影響で、アッサム語の単語を混ぜたものが、ナガミーズです。」
「どちらの言葉も僕には分かりませんが、生い立ちはなんとも複雑ですね。。」
僕らはどんどん暗さの増していくヘリテージ・ヴィレッジを散策し、別の部族のユニークな建物や調度品、そして装飾などを見て回った。ここは平常時であれば、歴史民俗博物館としての役割を担っているようだ。今朝の博物館といい、この村といい、クリスマスの時期に当たってしまったことが自分の不運だった。
僕らは車へと戻るべく、歩を早めた。
「ホーンビル・フェスティバルの時に来ないといけないですね。それかクリスマス以外の別のシーズンに。」
「そうですね、もしコヒマに戻ってくる気があるのであれば、ホーンビル・フェスティバルは一番オススメです。想像できないでしょうが、この村も観光客やナガ族たちで溢れかえります。あと、夏もいいですよ。ジュコ・バレー(Dzüko Valley)のハイキングコースが最高です。」
「ジュコ・バレー?」
「ええ。バスでインパールから来る時、山岳地帯で登山口を見ませんでしたか?」
「バスの右側に座っていたから、谷側しか見てなかったです。」
「ああ、じゃあ仕方ないですね。簡単に言うと、こんな感じです。」
そう言って、僕らが車に乗り込んでから、ケニセレは自身の携帯のスクリーンをこちらに向けて、動画を見せてくれた。そこには、彼が長いセルフィスティックを使って、高い位置から自分と仲間たちが、悠久な山々に囲まれた広大な草原を歩いている様子が綺麗に撮影されていた。空は合成映像かと思うほどの澄み切った青さで、それがどこまでも続いていた。
「わぁ!冬の今とは全く印象が違いますね。花が鮮やかに咲いているし、草原の緑が青々と生い茂っている。」
「戻ってくるなら案内しますよ、もちろん。」
ケニセレは笑顔でそう言った。
僕は、ミャンマーからインパールに至り、それからコヒマに到着するまでの難儀を思い出してしまい、少し返答に躊躇し、内容もうやむやにしていたと思う。
暗闇の中、ケニセレが幾つものカーブを曲がるたびに車内で身体がシートベルトに圧迫された。やがてコヒマから12kmの山道を南に戻って、僕らは無事にAirbnbに帰投した。時計は18時半を指していた。
僕はケニセレに礼を言って、財布から1400ルピーを取り出して彼に渡してから、握手をした。半日で1400ルピーであれば相当良い商売だろう。
ケニセレはAirbnbのホストの女性と親戚なので、雑談か仕事の報告か、またはその両方を兼ねて、宿の階段を登っていった。僕は部屋に戻るべく、同じく階段を登った。
カメラやモバイルの充電器など細かい荷物を個室に置いてから、共有のダイニングエリアに行くと、親戚たちが会話を弾ませていた。僕はミルク入りのチャイティーをもらってから、彼らと同じくストーブの前の椅子で暖を取った。
しばらくすると、ホストが、僕に携帯電話を手渡して、「私の叔父が電話で話したいって」と言った。
僕はOKと言いつつ携帯を受け取って、英語で話し始めた。
(つづく)