「2020年元旦。世界三大仏教遺跡バガンにて。」
大晦日の夜の賑わいは、僕には他人事のように思われた。
豪勢にホテルからは離れの個室を用意してもらっていたから、喧騒とは無縁のはずだった。しかし、それでも僕は明け方まで地味に悩まされた。
花火の炸裂音やらカラオケの下手くそな歌声、遠方のレストランかステージのベース音が部屋の構造を伝って侵入してくる。
バガンは確かに元来バガン統一王朝の首都であり仏教の聖地ではあるが、今は品の悪い旅行者が集う観光地だ。
現在のミャンマーといえばバガンが連想されるほど、ここは極めてフォトジェニックな観光地だ。旅行者達はインスタやYouTubeなどにアップする素材を収穫するためだけに、押し寄せると言って過言でないだろう。もちろん、僕もその一人なのだ。
そのせいで遺跡が破壊され、迷惑行為が増えているのは揺るぎようのない事実だ。ほどなく政府は対策を講じ、去年から遺跡に登ることが禁止され、ご来光を拝めるスポットは激減した。
ベッドの中で外の浮かれ騒ぎを聴いていると、そんな不毛なことばかり考えてしまい、僕はあまりよく眠れなかった。
つまり僕は、年越しのイベントをエンジョイできない孤独な旅人だったのだ。
午前6時15分にiPhoneの目覚ましが鳴った。
今年の初日出はバガンで拝むことになった。前夜にチットコーに6時半待ち合わせと伝えてあって、日の出が見られる丘までは15分の距離なので時間的にちょうど良い。
顔を洗って歯を磨き、服を着てからホテルの出入り口に向かうと、チットコーが待っていた。
事前に調べておいた日の出の時刻は6:48。遺跡の間を縫うように、TOYOTAカルディナな砂埃を上げて進む。スマホのナビをトレースしている間に、前方の車も同じ目的地に向かっていることを知った。後を追えば良いので楽だった。
現地に着くと、駐車スペースには多くの観光バスやマイクロバス、そしてトゥクトゥクが停車していた。
東の空は今にも日の出を迎えそうな赤みがかった紫色を帯びていた。
僕は車を降りて、丘に向かって歩いた。下から見上げると、丘にはすでに多くの観光客がひしめいているのがわかった。大半が中国人だろうか。
僕はなるべく奥のほうの空いているスペースを見つけて、ガードレールの手すりによじ登って、背伸びをして待った。数分のうちに、丘の北側で火を灯していた二十ほどの気球がいよいよ空に上っていった。
ご来光はすぐに到来した。タイミングを測っただけあり、時間のロスは一切なかった。
日の出の太陽は毎秒姿を変えてゆく。僕はカメラの設定を変えながら、忙しなくシャッターを切っていた。時には気球もフレーム内に収めてみた。
iPhoneでパノラマを試してみたり、動画を撮ったりしてから、僕は同じく丘の上で日の出を写真に撮っていたチットコーの所へ歩み寄って、さぁ帰ろうと促した。
下り道での両脇に構えるお土産ショップの商人たちが歩み寄ってくる。アクリル絵具で描いた仏教画やマントラのようなヒッピー好みの絵を売っている絵描きが何人かいる。他には木彫りや木工芸、バガンの絵葉書などおきまりのセレクションだ。駐車場へ開けた所には、蒸したトウモロコシを売る屋台もあって、良い匂いがした。
僕らはホテルに帰投した。チットコーには、10時チェックアウトの時に再会しようと約束した。
「ポーウィン山へ」
部屋に戻る前に、朝食を済ませようと考えて、会場に向かった。時刻は7:30だった。
会場に向かってフロントを通り過ぎる時、ホテルの初老の女性マネージャーがHappy New Yearと笑顔で話しかけてきた。そのついでに彼女は、僕のチェックアウトの時間を聞き出すことに成功した。
朝食の品々を皿に盛り付けている時にも、昨日も気前が良かったウェイターの一人が笑顔で同様の新年のメッセージを伝えてきた。今度は僕が彼を使う番だと思い、ここぞとばかりに卵二つ入りのオムレツを作ってくれるように頼んだ。もちろんホットコーヒーも忘れずにと伝えてある。
広い会場ではあったが、僕はあえて中央あたりのテーブルに着いた。
そこでは、いくつかの特徴的な言語が聞こえてきた。スペイン語、フランス語、ロシア語、韓国語だった。その全員がリゾート風の衣類を身に纏っていた。
空調設備によってコントロールされた室内と、様々な素材を用いて調理されたバランス良い朝食。
この状況を理解するには、僕がミャンマーから陸路で越境を遂げたインドのナガランドから白骨街道までの旅との間には、非常に深い溝があることを察してもらうしかない。
僕自身、いくら身体と頭をフル回転させても効果はなく、しっかりと気持ちを整理できないというのが正直なところだった。
部屋に戻ろうとしていると、女性のマネージャーから再び話しかけられた。フロントから出たところの庭に、ビルマ戦線に斃れた日本兵達の遺族から贈られた木があるという。
僕はその木の前で手を合わせた。そして、マネージャーに白骨街道に行ってきたことを伝えると、無言のまま微笑み、頷いていた。その表情はまるで全てを知っているようで、僕は自分の器を見透かされたようで怖くなった。
部屋に戻って残りの荷造りをしてから、10時にチェックアウトした。フロントの待合場では、運転手のチットコーがスマホをいじっていた。いつものように、Facebookへのアップだろうか。
僕は待たせたねと言って、建物を出て車の方へ向かった。チットコーの顔には血色が戻っていた。
僕は長旅の泥や埃に汚れたスーツケースとリュックを後部トランクに入れた。トランクには無造作に置かれた鉄兜と水筒を確認できた。
10時。僕らはRuby Trueホテルを発ち、そのままバガンの市域から離れた。今日はモニワ(Monywa)に立ち寄ってから、マンダレー(Mandalay)へと至る予定だった。
ニューバガンからオールドバガンの仏塔群を横目に、ニャンウーの市場を横切った。前回来た時に歩き回ったのを思い出した。
僕らはバガンの町を後にして、エーヤワーディ川沿いの幹線道路を東進した。多くのスクーターがフルスロットルで滑走している。マンダレーまで行くのだろうか。ノンストップでも車で3時間半かかるところだが、インドやミャンマーの人々は、それくらい平気でスクーターで行ってしまう。
しばらくすると往路でも渡ったパコックー橋への標識が見えてきた。左折して橋に乗ると、景色が開けてくる。そして、冬の乾季の間に細くなり所々湾曲したエーヤワーディ川が現れた。
長さ3.5kmもあるという壮大な橋を渡るとき、ついにバガンにお別れを告げることに実感が湧いてくる。半年の間に二度も来た、思い出の場所。
橋を渡りきると、パコックーという対岸の小さな町に行き着いた。こちらではハイウェイと呼ばれるのだが、単なる幹線道路を2時間北上すると、今日最初の目的地であるポーウィン山に至る予定だ。天然の巨大な一枚岩に何百と掘られた仏塔が存在するという。
パコックーを素通りし、ミヤングまでしばらく直進してから右折する。つまり方向的にはマンダレーの方角の東に向かっている。沿道の様子はどんどん田舎の風景に変わっていく。もはやバガンのような観光地の雰囲気は一切消えていった。
30分ほど車を走らせると、今度はリンガドーの交差点でアジア・ハイウェイ1号線(AH1)にぶつかった。
Google Mapの示すところによると、ここではハイウェイを選択せず、直進の後、小ぶりな湖、いや沼と言ったほうが適切であろう水溜りを右手に眺める街道をゆくほうが近道のようだ。現に地図上では名前すら見当たらない。
日本と海外問わず、経験上のことを今更思い出しても手遅れだったが、Google Mapは時に進むには無謀とも思われるルートを行かせようとする。
僕らが選択したルートは、いつの間にか舗装路と砂利道が混在した細い農道から、いずれ完全に砂と土に満たされた、道なき道へと変貌を遂げていた。
行き着いた村は竹と木を編んで組み立てたような質素な作りの家並みが目立ち、牛と共に畑仕事に勤しむ村人達は僕らを不思議そうに眺めていた。
チットコーは、前に来たことのある道ではないと言っている。僕らは明らかにルートを外れてしまっていた。地図を見るかぎり、かなり近いところまで来ているはずだ。
僕らは村から表通りに出て、しばらく進んでは、道路脇にいる人たちにポーウィン山への道順を尋ねていた。
やっと妥当性のありそうな答えを得てから、僕らは再び表通りから砂と土にまみれた道無き道を行った。土埃が舞い上がる。僕らはサイドウインドウを閉めた。厳密に言うと、助手席のパワーウインドウは壊れているので、チットコーに運転席側から操作してもらった。
すぐにチットコーが車を急停車させた。すると助手席側のウインドウから外を指差して、ベテル・リーフの畑だと言った。毎日数十枚という単位でチットコーが口に含んでいる、噛みタバコの葉っぱである。
車から降りて見てみると、まだ芽が出て少ししか経っていない様子だったが、周りはネットに防護され、天井には柵が備え付けられており、四方八方から守られていた。
チットコーが言うには、ベテル・リーフは比較的デリケートな植物で、太陽光を一気に当てるとよくないらしい。特に生えはじめの頃は大事に育てる必要がある。しかし二束三文で売られているベテル・リーフの価格の事情を考えると、ここまで手にかけて育てて儲かるものだろうかと商売の頭が働いてしまった。
それから20分ほど土埃を巻き上げながら進むと、やっとポーウィン山に到着した。時刻は13時を過ぎていた。
チットコーは、自分は駐車場で待っているよと言って、TOYOTAカルディナの底部を下から覗き込んでいた。横から見ると、前の方のカバーが垂れ下がっていて、地面すれすれだった。きっと道無き道を進んできた時に、地面と擦ったか、木の根っこにでも引っ掛けられたのだろう。
4000チャットだったか、入場料を支払って、僕は石仏群を目指して敷地に入っていった。入るや否や、ビルマ人観光客達が売店に群がっていて、何かと思えば、何かの餌のようだ。
その場を通り過ぎて少し歩くと、歩けば棒に当たると言わんばかりに、岩場を住処とする猿たちに出くわした。人間には慣れているようで近づいても警戒はしていない。
巨大な一枚岩の山には、様々な様式の仏塔が存在した。
岩の壁面にいくつもの祠を掘り出して、内部に仏像が彫ってあるものが、おそらく最も基本的な構造だろう。
他には、一枚岩を底面から最上部まで掘り進み、中央部分に道を築いて、その左右に寺の壁面を彫り込むような、時間と労力を要する凝った場所もあった。
中でも特筆すべき一角を発見した。岩を削り出した左右の壁を持つ袋小路に歩き行ってみると、その空間の四方は完全に装飾されたものだった。装飾というのは正しくないかもしれない。というのは、「装飾」と聞くと、どうしてもアドオンさせている飾り付けと連想しがちだからだ。
この一角の寺は、柱から壁面そして祠への入り口上部を飾る美しいアラベスクの文様まで、すべてが削り出しという逸品だ。そこには遥かオリエントの向こうから西南シルクロードを通じて到来した、地中海を匂わせるモチーフが垣間見られた。この空間で、僕はしばらく佇んだ。
他には、岩の上に建造されたストゥーパ(仏塔)もいたるところに見られた。これらは白く塗られていて、ここに仏教の寺院があることが遠方からも知ることができる。荒野と山岳地帯から成るミャンマーの土地において、歴史的に捉えても寺院はオアシスであり救いの場だから、彼方から目標になることはむしろ望ましい。
それからはしばらく当てもなく敷地内を歩いた。その間、子連れの猿に威嚇されたり、一目散に逃げられたりと、様々な形で猿たちの生活圏との境界線の存在を意識しながら、頬に何か冷たいものを感じて、上空を見上げてみた。
一日曇がちだった空はさらに暗さを増していて、強風が吹きつつあった。それに雨粒が混じっている。
僕は忙しなくカメラのシャッターを切ってから、足早にその場を去った。入り口付近の土産物屋たちは相変わらず元気に勧誘してくる。さすがに冬の乾期に本降りになるとは信じられなかったが、念のため僕は先を急ぐからと潔く断って、駐車場に降り立った。
チットコーはどこかに行っていたが、メッセンジャーでテキストを送ると、すぐに待ち合わせ場所にやってきた。抜け駆けして食事でも摂ってきたのかもしれない。実際、前回の旅の際にはそういうことが二度ほどあった。
「モンユワの仏教寺院」
僕らは次の目的地、モンユワに向けて出発した。モンユワまではチンドウィン川を西から東へ渡ることになる。チンドウィン川はミャンマー北部のパトカイ山脈に源流を持ち、南に向かってカレーミョウの東側をほぼ垂直に流れ下り、いずれエーヤワーディ川に注ぎ込む大河だ。
チンドウィン川も太平洋戦争時のビルマの戦いには大きな意味を持った要衝である。エーヤワーディ川に匹敵する水量と川幅は、確かに作戦行動に対して大きな影響をもたらしたに違いない。
モンユワを目の前にして、チンドウィン川の西岸地域を走行していると、道の両側の土の色が変化していることに気づいた。明らかに赤褐色の土だ。
同時に、左右の広大な敷地にゲートが登場し、ビルマ語とローマ字のアルファベットで書かれた看板が現れ始めた。ローマ字のほうはWanbaoとかYang Tseと表されていて、なにやら中国語の音階のように思えた。
「チャイニーズ・マイン。」 そうチットコーが言った。
「マイン? 炭鉱?」
「中国企業の鉱山。」
「何の金属かわかる?」
「イエス。えーと、鉄じゃなくて、コッパー。」
「銅山か、なるほど。電気製品に必須だし、中国は天然資源が少ないから。」
「チャイニーズ・ピープル、問題多い。地元住民が困っている。」
その内実は職が奪われることや、経済圏が変わっていくこと、住人同士のトラブルなど多岐に亘ったが、まず団地を作って閉鎖的なコミュニティに暮らしている中国人とビルマ人とは、どのように接点を持つのか、あまり詳しい説明は得られなかった。
中国企業の銅山とは、とてつもない規模のマイニング施設だった。アメリカがミャンマーに制裁を下してからというもの、マンダレーに凄まじい勢いで流れ込む中国資本のことは目の当たりにしていたから、もはや日本企業に入る隙はないかもしれないと思った。日本は結局アメリカの方針に従うしかない。
モンユワ市内に到達すると、車通りや商売の活気が久しぶりに人の文明の存在を感じさせていて、不思議な感覚に陥った。
ここでは一つの修道院に立ち寄った。そこでは仏僧たちの日々の生活を目の当たりにし、質素な造りの宿坊を見て回って、ついでに水洗ではない便所で用を足させてもらった。庭では木々の落葉を集めて焼却する係りの僧がいれば、宿坊の外でスマホをいじっている僧もいたりして、修道院での修行も現代の雑音がひたひたと背後から迫ってきている気がした。
東南アジアの寺といえば、敷地内での商売が活発だ。ここでは地域的に、ミャンマーの女性や子供たちが毎日常用するペースト状の日焼け止め「タナカ」の産地のようで、寺に行くと必ず多くの露店とシートを広げたワゴンセールが活発だった。チットコーから聞いたところでは、質と値段が良いので、マンダレー界隈からもわざわざ買いに来るらしい。
次に、シュエ・グニ・パゴダを訪れた。
この寺は近隣のビルマ人たちの篤い信仰を集める場所で有名らしく、ご利益を得るために皆々がお参りに来るという。
奥の部屋まで行ってみると、幾重もの金箔に埋められてしまった仏像の醜い姿に僕は驚嘆した。巣鴨のとげぬき地蔵であれば擦られすぎて仏像が摩耗しているところを、この寺の仏様といったら、金箔を貼られすぎて、各部が肥大してしまっている。目の周りは窪みとは反対に、凸面に様変わりしていて、異様な様相だ。正直、宇宙人のような姿を見て、人の現生利益への渇望というものの恐ろしさを痛感した。
寺を後にして車道に出ると、前方を走るHONDAのSUVのリアウインドウに書かれた文字が気になった。黄色いレタリングの文字列が記されている。広告にしては地味だし、単にメッセージとしては文字が多すぎる気がする。
「あれはお寺に多額の寄付をした人の名前だよ。」チットコーはそう言った。
「寄付した人たち自身が、私は寄付しましたよ!と訴えているわけ?」
「いやいや、車自体はお寺のものだ。あそこに書かれている人たちが車を寄贈したか、それとも寄付金で車が買われたのかは分からないが。」
「あんな古いHONDAでもミャンマーでは相当高いんでしょ?」
「ああ、でも仏に対して何かをして、徳を積むことは何よりも大事。」
「そうか、仏様に金箔を貼り付けるのも似たようなものか。」
僕はねじ曲げられた現代の仏教のあり方には違和感を感じていた。冠婚葬祭になると出しゃばってくる日本の生臭坊主や、タイで膨大な資産を持つ高僧などを、このとき思い出してしまっていた。
以前見て呆れたことでいうと、チェンマイでは道端でビニール袋に入った魚を売る行商がいて、お客はそれを購入して、その直後、旧都のピン川に放流することで徳を積むという商売が日常化していた。もちろん商人はピン川で再び魚を捕まえて袋詰めして売るのだ。
モンユワは小さな街だから、ぼんやり回想している暇もなく、あっけなく僕らはまた田舎の街道に戻っていた。
ただし今回はアジア・ハイウェイ1号線(AH1)に続く道だ。どこまでオフィシャルかは知らぬが、AH1は東京の日本橋を起点とする首都高のC1から、東名、名神、中国高速、九州自動車道を経て、韓国、中国、ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマー、バングラデュ、インド、パキスタン、アフガニスタン、イラン、トルコまで続くアジアを貫通した全長20,000キロのルートらしい。
ここ数時間というもの、僕はしきりに時計を見ながら、すでに15時に迫ろうとする今という状況を踏まえて、まさか英領の避暑地メイミョウに今日到達できるとは信じていなかった。
チットコーは相変わらず時間のことに無頓着で、いくら予定があっても、その時次第で対応するスタンスだから、モンユワを発つときには、「もう一軒お寺を回ってからマンダレーに帰ろうか」という具合に、もはやメイミョウのことすら忘れているくらいだ。
あともう1日マンダレーでの滞在期間があるから、明日実行できれば良い。僕は今回のアドベンチャラスな長旅を経て、元々備わっていた行き当たりばったりの性格に拍車がかかって、根拠のない楽観主義が増強され、懐の深さと言えば、日本海溝よりも深いくらいになっていた。
チットコーがモンユワから南下してゆくと、突然、左側の遠くに巨大な立像が見えた。仏の立像のように見える。僕が驚く声を上げたのを聞いて、チットコーは「あそこに行く」と言った。巨大な仏像で知られる、レーチョン・サチャー・ムニだ。
まだ数キロも先だというのに、近づけば近づくほど、その規模に圧倒される。
仏の立像と涅槃像、そして右手の遠方には坐像も見えてきた。敷地に入ると、車のウインドシールドからは全体像が見えないほど、仏像が大きいことを知った。立像の高さは130メートルあるという。
チットコーは駐車場に車を停めて、僕に向かって、自分はここで待っていると言った。立像は1時間かければ登れるからやってみればとも。腕時計を見ると、すでに16時近い。階段を登っているような余裕がないのは明白だ。
僕は急いで敷地内を裸足で歩き回った。立像や涅槃像の周囲は東京ドームほどの敷地面積があるとは言え、仏教の寺院であるから神聖な場所である。つまり下足を脱いで裸足にならなくてはいけなかった。
展望の良い場所で写真を何枚か撮った。もう雨は止んでいたが、曇り空と強風は相変わらずだった。
巨大な涅槃像の前に出ると、その前で熱心に祈りを捧げている人々の横では、人間のことを全く気にもせずはしゃいで走り回っている犬の家族が自由奔放で、微笑ましかった。
背後では露店の商人たちが店をたたみ始めていて、もうそういう時間が来てしまったかと1日の経過の速さを実感した。
僕は車のところへ戻った。チットコーは車内でスマホをいじっていた。スクリーンの反射光が彼の顔に反射していたから、もう辺りも薄暗くなり始めている証拠だった。
チットコーが「やけに早いな」というので、僕は少し呆れて、「もう閉まっていたよ」と伝えた。彼は「そうか、それは仕方ない」と返事した。
僕らはAH1に合流して、一路、マンダレーを目指した。Google Mapを見ると、まだ120kmもある。時間にして2時間半近くかかりそうだ。ホテルへの到着は19時か20時だ。
やはりどう考えてもマンダレーから東に1時間以上行ったメイミョウを訪れるなんて不可能だった。
厚さはないものの、曇り空は夕焼けの色付きを待たずに、次第に明度を落としていった。ヘッドライトを点ける頃、僕は明日の予定をチットコーと話し始めた。何にしてもメイミョウには行かなくてはならない。インパール作戦の本部であり、兵站の起点となる基地だ。
チットコーは話の途中でよく「ピン・ウー・ルウィン」と発していたが、それはメイミョウの別名ということだった。
というより、むしろメイミョウの方が後付けの名称らしい。ビルマ語で「メイの町」を意味するメイミョウとは、1857年のインド大反乱(別名セポイの乱)の際に活躍したイギリス軍のメイ大佐に由来する。彼はベンガル連隊の司令官として1887年にピン・ウー・ルウィンに拠点を持った。
しばらくするとマンダレーの夜景が見えてきた。久しぶりの都会の喧騒はひどく懐かしかった。これがバンコクそして東京へと帰る頃にはどのように感じるだろうか。
車は宿泊先のGold Leaf Hotelの前に停まった。チットコーがスーツケースとリュックを持って、ホテルのフロントへ入っていく。途中でホテルのスタッフに荷物を手渡していた。僕はヘルメットと水筒が入ったずだ袋と身の回りの小物と貴重品が入ったポーチを肩から背負って、フロントでチェックインの手続きをした。
「明日は9時スタートでいいかな?」チットコーがそう聞いてきた。
「いいと思うよ。郵便局でEMSのレートを聞きたいのと、お土産の宝石ショップに寄りたいのは、さっき伝えた通りだ。」
ミャンマーと言えば、翡翠、ルビー、サファイアなど宝石の産地で有名だ。僕の誕生石はサファイアなので、何か見てみたいと思っていた。もちろん娘には誕生石のムーンストーン、母にはトパーズをお土産にしようと考えていた。
「わかっているよ。朝に行こう。良い店がある。」
了解したと伝えると、チットコーは帰っていった。マンダレーの丘の麓にある彼の自宅では、一週間ぶりの彼の帰宅を妻子が待っているはずだった。
それから僕はフロントの男性に中華街への行き方を聞いて、歩いて10分くらいのようなので、荷物を部屋に置いてから行ってみることにした。
ホテルの周りは街灯が少なく暗かった。外出する時、ホテルのスタッフがこの辺りは危険ですから、タクシーでの行動をお勧めしますとまで言っていた。
しかし、暗がりをよく見るとビルマ人の庶民たちは平気で歩いている。周囲にしっかり注意を払っていれば危険を感じるほどではない。
一つ、二つ角を曲がって歩いてゆくと、遠くから陽気な音楽と眩しい光が届いてきた。ちょうど通り道なので近づいてみると、新年のお祭りのようなものだろうか、多くの人々が建物の中でゲームか催しものを楽しんでいるようだ。建物の出入り口や柱、そして屋根の装飾はお寺のような黄金の豪華なレリーフが目立つが、仏塔が無いことから、もしかすると市の公共施設かもしれない。人々の笑顔と談笑の様子で、新年のイベントだろうという予想はさらに強まった。
先へ進むと、また暗闇に包まれた。数分直進すると、遠くからまた別の明かりの群れが見えてきた。芳しい料理の匂いが届いてきた。中華街のようだ。
しかし中華街と言っても1ブロックくらいの局所的な地域で、10軒ほどの中華料理店や屋台が所狭しに並んでいるくらいだった。僕は屋台かお店のどちらにしようかと迷って、そのいずれかに立ち寄ってはメニューを見て、最後には餃子と麺類の店にしてみた。
半分道に突き出たところで、プラスチック製の椅子に腰掛けると、すぐにメニューが出てきた。早速ビールを注文すると、30秒くらいで出てくる。こういうスピード感は中華街特有だ。店員らの顔つきは完全に中華系とは信じられなかったので、ビルマ人との混血なのかもしれない。
メニューではあまり実感が湧かなかったが、いざ料理が提供されると、もう一度メニューを見て確認してしまうほど、料理の質と値段のミスマッチ感は度肝を抜かれた。もちろん良い意味で、である。
四川風の野菜炒めと水餃子、そして大瓶のビールも注文して、料金はトータル500円弱だった。料理のクオリティが高い。厨房からは金属の乾いた接触音が鳴り響き、中華鍋を素早く動かす姿は本場さながらだ。速い、安い、美味いというのは世界のどこにいても嬉しいものだ。
満腹だったから少し歩きたくなり、僕は遠回りをしてからホテルに戻った。
ホテルでは全棟でWi-fiが使えないという非常事態でフロントがざわついていた。問い合わせると明日にはなんとか直る見込みだという。僕は夜の間にメイミョウのことを下調べしようと思っていたので、これは打撃だった。ミャンマーのSimはiPhoneに挿入されているが、接続が遅いこともある。
僕は諦めてシャワーを浴びて、早めに床に就くことにした。
(つづく)